十一日 雨降
 申の後卿かやむ、夜に入りて月朧々、遅明に宿所を出ず、御幸を知らず、山を越して塩屋王子に参る、此辺り又勝地祓あり、次に昼屋に入りて小食す、次にうへ野王子野径也、次にツイの王子、此辺りより歩指す、つぎにイカルカ王子にまいる、つぎに切部王子にまいり、宿所に入る、最もキョウ少なり、海人の平屋なり、御所の前なり、但し国召し宛つると云々、小時御幸入御歩、晩景又題あり、即ちこれを書して持参す、戌時許り例の如く召し入られ、読上げ了りて退出す、

 二首は無極の品なり
裸羇中聞波 野径月明
うちもねすととまやになみのよるのこえ
  たれをと松の風ならねとも

 此の宿所に於いて、塩コリカク、海を眺望す、甚雨にあらずば、興あるべき所なり、病気不快、寒風は枕を吹く

十二日、 天晴
 遅明に御所に参る、出御以前に先陣して又山を越して切部中山王子に参り、次に浜に出でて磐代王子に参る、此所御少養御所たり、入御なし、此拝殿の板ニ毎度御幸の人数を注せらる、先例と云々右中弁番匠を召して、板を放ちてカンナヲカク、人数を書きて元の如く打ち付けしむ、
    建仁元年十月十二日
     陰陽博士晴光いまだ参らず、上北面此
     人数の中、其署は術なきの由、左中弁
     を以って申入る、即上北面を聴(ゆる)
     さるべきの由仰せ下され了んぬ、 
 御幸四度
 御先達権大僧都法印和尚位覚実、
 御童師………………………公胤
 内大臣正二位兼行右近衛大将皇太子伝源朝臣通親
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                   覚快己下三人
次々此の如く殿上人・上北面・僧下北面皆これを書く
  此の最末にカイ五房隆俊これあり、
これより又先陣して千里浜 此所一町ばかり、を過ぎて、千里王子に参り、次に三鍋王子に参る、是れより昼養所に入り食了りて御所に参るの間、御幸すでに出御す、此宿所より御布施忠弘を以て送り遣わす、絹六疋、綿百五十両、馬三疋、
肝衣便を送るの事
 次にハヤ王子に参る、御幸入御の間、先陣して出立王子に参る、此浜にて御塩コリ御所に御祓いありと云々、又先陣して田辺御宿を見て、私の宿所に入る、宿所は権別当上よりこれを儲くと云々甚だ広く、切部には似ず、御所は美麗にして、河に望み、深渕あり、田辺河と云々、去夜寒風枕を吹き咳き病忽ちに発し、心神甚だ悩む、此宿所又以って荒やし、又塩コリ昨今の間一度これあるべきの由先達これを命ず、但し今日猶此事を遂ぐ、