割書は「 」で、傍書きは( )で、又古い字でPCにない字や不明な字は?で書いています
後崇光院御筆
熊野詣日記 縦書きへ
(沮包神)
熊野詣日記
応永卅四年十月十五日
住心院僧正實意記之 墨付四十四枚
(本文□裏)
熊野詣日記
夫熊野權現者、三國無雙之明神、日域第一之霊社也、和□之□月、浮影於四海之浪、利物之春花施匂於一天之風、然則凝怨念、連歩尊卑悉地を立所になし、致丹誠、低頭、道俗勝利を眼の前にあらはす、爰以垂跡寂初之昔より、末代澆季の今に至まて、参詣を企る輩、日をかさねて絶事なく、弊帛を捧る類、年を遂て盛なるものをや
応永卅四年八月中旬の比、北野殿より御文を給て、御熊野まうての事、来月に御治定なり、南御所様も去年のことく、内々の儀にて、御まいりあるへし、日次の事、有職に御尋のところに、来月八日御精進屋はしめありて、十四日に御たちまうけの日、十四日に御しやし屋はしめ、廿日御たちあるへきよし申入、十四日より御精進屋はしめにて、廿日御立あるへきよし仰下さる、やかて北野殿へまいりて事あくるやう、實意このたひ御先達の事違例、いまた心よからさる間、斟酌なきにあらす、弟子にて侍る大納言僧都公尊に仰付らるへきかのよし申入、ともかくもはからひ申へし、但いかやうにも養性をくわへて、かれを扶持の分にて道中にまかり立へきよし、仰下さる、此うへは存知すへきよし申入、まかり帰てひとへにそのいとなみなり、色/\申付る事、日比のことし、九月六日、北野殿、大神宮御まいり「熊野御まいりの前、いつもの儀也」十二日御下向のあひた、帰後日より御精進屋の事御治定歎のよし、うヽひ申入ところに、御精進屋に御立の日もいまたおほしめし定さるよし仰下さる、大納言僧都を夜に入まてほ候せさせて、なを尋申入に、つゐに御左右なし、大略御延引あるへきおもむき、僧都まかり出て申候へは、由断つのおもひをなす所に、次の日の御仰出されていはく、十六日に御精進屋はしめありて、五日にて、廿日御立あるへきよし、御出さる、又我に経営の思なり、十三日の昼より、十四日十五日、色/\のしな/\のいとなみ、凡生涯にかけたり、坊中のしき、市のたちたるかことし
十六日陰天
御精進屋とヽのほりて後、大納言僧都を南の御所、北野殿へまいらせて、けふはとくならしめ給へきよし申入、まことに目出たく、はや/\と御出あるへきよし、おほせ下さる、申の時に大門小門の犬ふせき、これをとつ、しほつヽに抜入てつけたり、犬くヽりてきよめる方にあつけをく、是さたまれる儀なり、しめ縄軒はことにひく、酉の時に南の御所いま御所ならしめ給
御共の御方々
御庵「 □玉 これは御道者の外なれとも、何事も申 □房 御さたのゆへに御精進屋中御□候のため也」
聖芳御房(?りやう)聖本御房( いま?りやう ) 見康御房 信駒御房
□の御比丘尼一人
御こし上下九ちやう
殿原には細田はかりをめしくせらる
其後北野殿入御御座「北の対屋」
御共
御若子 四間の上らふ あこひ御れう人 かヽ御料人
はしのつほね 衛門佐のつほね 仁和寺の局 土佐 御ち
御比丘尼
禎首座 宗蔵主 霊□御房
以上御こし十二ちやう
騎馬の衆四人「塀和次郎 長谷川 河嶋 こあみ」
かちの殿原五人
以上
いさヽか程へて後、御三さか月まいる、三献の時、めし出されて御盃下さる、又五献の時、めしありて御小袖三重拝領、大納言僧正おなしく下さる、その外御あしせい/\なり、今御所より下あつかる千秋万歳、祝着つかまつる物なり、御氷めされて後、夜に入て御拝を申すヽむ、「□ひ□の御氷御精進屋より道中まて上下おこたりなし」御先達かはりの事、一向大納言僧都に申付るよし、北野殿へ申入、刻限にのそみて、御道者ならひに御先達方、南庭にきおひのそむ、大納言僧都二重頭巾のすかたなり、御小先達「順賢僧都」なかときんなり、實意はねほうし、五帖の袈裟をかく、床子たいらかわをもちふ、次に南御所さま以下みな/\御はい屋に御出あり、□□へい御はらへの次第、日ころのことし、宝号廿一反の後、上下退散
雨くたるといへとも、御奉弊の時分おやみあり、凡御精進屋はしめの日の雨、ちか比御佳例なり、其後供御を申すらむ
十七日天晴
光照院殿御入、御さか月まいる、近習の人/\三上をはしめとして、せい/\参入
門跡より御礼のため折帋まいる、御使師法眼□忠なり、錬貫二重下さる、北野殿へも御祈帋まいらせる、御使おなし、それも二重恩縁にあつかりぬ、面目の至かしこまり申入、其後門跡を入まいらせらる、御辞退あり、かさねて申さるヽによりて御入、御加持あり、北野殿も御一所にて御対面、御帰の後、三重十帖、御香合なとまいらせらる、故御所の御時、北山にてあけくれ御祈とて申されし事なと、おほめしわすれさるよし、御ねんころに申さる、まことに襁褓の中より、祈たてまいらせて、いまに恙かなくまし/\て、かヽる御熊野詣あるを、みたてまつる事、命のしるしと目出く侍るよし、御返事申さる、北野殿よりも盆、香合まいらせらる、夜に入て、ちく前、越前におり物に練貫かさねて各一重給
十八日風ゆるく、日あたヽかなり
御宮めくり、巳の刻に御出門あり
御行烈
先御小先達、次に大納言僧都、次實意、其後南御所さまの御輿 「御共の山臥筑前、越前」二番今御所の御輿「御共の山ふしいつみ」三番北野殿の御輿「御共山臥□」その次/\、むしのかヽりたるを次第にかきつヽけたり、南御所の御共は引さかりて一つれにかヽせらる、そのあとに騎馬の衆、塀和次郎、細田以下、次第にうつむしのきぬをかけ、引縄を付たる御輿、廿余丁かきつらねたる」さま、おもしろ貴し、みる人手を合せておかみたてまつる
御まいりの所々
先五霊の社、次に今宮、次に北野、次に妙見、次に左妻牛の若宮、次に今熊野なり、おち橋あやうきによりて、五ようの辻に御まいりあり、先大納言僧都輿をはやめて、なきの木か坊の前におりて、かうしときんをあらためて、はねほうしなか頭巾を着用す、實意はねほうしに、五条の袈裟なり、其間に御こしかき過て、らい殿のまへなる鳥居のもとに、かきすゑたてまつる、其後御下輿、御先達まいる、御幣もちさきにすヽめり
御奉幣の次第
御證誠殿「のと師重衣に五条の袈裟、はねほうしを着す」次両所くなふの間のとほりにて御奉幣あり、公納の間とは十二所權現神あつまりし給て、参詣の衆生に利生をほとこし給所なり、次若一王子、此御前にて五躰皇子の御幣を一度にまいらす、次四所明神、これも四本の御幣一とにまいる、御奉幣おはりて、若一王子の御前のきりとこにて、のと師申あけ、其後御神楽御見物ありて、なきの木か坊に入御、御嘉例なれは、いつものことく御杯まいる、その間に心しつかに三上禅門と物かたりの次に、北野殿さま、むかしにかはらぬ御光にて、十あまり三度の御願、このたひとけまします事、しかしなから、御代おさまりて、御所さまいよくめてたくわたらせ給ゆへなりと、おもひつヽくるに、ふとかみ侍よし申て
なか月やつきせぬ御代のひかりかな、と申て侍しかは、かの禅門輿にて入て
君かよはひを菊の五百とせ、と付侍り、實意、五たひ御先達申たれとも、いまたかやうの
狂言申いたしたる事なし、此たひは存する子細ありてなり
御さか月五の後、御たち、すけたに□に御いてありて、それより祇園の社に参御
御先達方、南の大門の前にて下輿して前行す、南御所さまの御こし、宝前にかきすゑたてまつる、いさヽか御所作の後御下向、御先達方、西の大門にて乘輿、それより御精進屋に遷御
十九日天晴
けふは例日にて、御心しつかなり、興遊を先としましまさは、いかに御酒宴のみにて侍らん、たヽ権現をたつとひたまへる御心にて、御つとめかちなり、北野殿さまも御くたひれにて、御さか月なともたひ/\にもをよはす、ありかたきかなや、十三度の御願、このたひする/\ととけまします事に、南御所さまこそはしめて御まいりありしに、御信仰のあまりに、年をならへてことし又おほしめしたつ事、神もいかはかりうけ悦ましますらん、御行すゑも程とをき御よはひ」なれは、いまいくたひか御まいりあらん、夜に入て、大名たち人夫ともまいりあつまる、ひとへにあす御たちのいとなみなり
廿日天晴
夜のうちより、御輿かき御共の物あつまりまいる、供御の後、御三さか月まいりて、そのヽち御唱事ありて、其まヽ御いてあり、御進発の御奉幣、例のことし、そのさほうおはりて、御むしめしたる御かた/\に、御杖をまいらすれは、身つから御つきありてあゆみまします、松明二ちやう、両にともして前行す、役人「左筑前、右越前 」これは生死のの迷間を照して、菩提の門に道引儀なり、御いとまこひの御方/\、はるかの御旅の空をおもひやり、いまのあはれにたつとき事をみたまひて、みな/\涙をおとし給事、雨のことし、門をいてまし/\て、すこし御ひろいありて、御輿にめさるも、行烈の次第、御宮めくりのことし、御料、藏もちさきにすヽむ「山ふし一人、あひそふ」
御道つかひ
大炊御門を二町はかり西行、それより南行、二条にいたる、二条を京極にいたる、京極をくたりに三条に至る、三条を西行、東洞院にいたる、それより南行、竹田をうちすきて、鳥羽の船津に御着あり、侍所のさたとして、船ともを点して数十そうまうけ置きたり、其内屋形舟に御屏風をたてたるにめさる、北野殿御同船、御先達方禅院のあるに立よりて、装束をあらためて御船にまいる、大納言僧都おなしくまいる
めしの御船の御人数
南御所さま、いま御所さま 御りやう 聖連御房 信助御房
北野殿の御方の人数
北野殿」
御若子 四間の上らふ 加ヽ上らふ 禎首座 霊賢御房 御ち
河のおもて浪しつかに、風おいてなり、御舟の道すからみ所おほし、八幡山あさ/\として、いとたつとくみえたり、手に秘印を結ひ、口に眞言を唱て、南無帰命頂札、八幡大菩薩、本地阿弥陀如来にてわたらせ給へは、熊野の證誠殿とひとしくまします、此度御参詣の上下安穏にまほりとヽけ給へと、心をこらして祈念いたす、あるひはしつかふせ屋もあり、或はやさしくすみなせる所もあり、社々寺々あり、御舟のくたるにしたかひて、かはり行けしきいとおもしろし、御舟みちの半ほとにて、破子のせたる舟をまねきよせて、御さか月をまいらす、漸にこき行ほとに、夜はなか月の此なれとも、日はみしかくて、入あひのかねのおはりに」、わたなへの岸に御着あり、いまたあかヽりせは、かのおほへのきしもみまほしく、伊駒山も雲井のいつくなるらんとおもふへきに、あやなく暮はてぬるそ、うたてしく侍る、舟津に守護の物とも、松明ほしのことくともしまうけて、まちうけたてまつる、御輿御舟によすれは、みな/\めされて、王子の御前にまいらせたまふ、御先達前行、御小先達の舟はるかにさかりて、時うつる程なり、やヽしはらくありて御奉幣あり、此王子よりは、はしめたる御方/\、御なれ子舞あるへけれとも、申沙汰におよはす、むかし御幸の時は、卿上雲客より上下の北面にいたるまて、みな袖をひるかへしけるとなん、御宿には律院を点して、守護より御まうけを申す、宿より四五町引入たる所なり、守護代奈良入道まかり下りて、奉行をいたす、南御所、北野殿より御小袖たふ、一族奈良の彌五郎ならひにはす池にも下さる、かた」しけなくかしこまり入よし申入
廿一日天晴
御ひるなし
先天王寺に御まいりあり、当寺の執行、西の大門にまいりむかふ、まちにたてまつりて前行す、まつ御舎利御頂戴、次に亀井の水に御まいりありて、御手水めさる、其後御下向、すみよしの社に御まいりあり、實意御さきにまいる、さかひにてこやしなひす、御所さま住吉の浦にて、例のことく片箱御賞翫、予さかひの道場の前にて入御をまちて供奉、国符より二里はかり此方にて、和泉の守護代官なにかしとかや申物まいりて、御とまり国符に先々のことく用意申よし申入、御宿国符「禅院御所になる、こたか斎藤両人に御ふく下さる、北野殿おなし」
廿二日陰天
供御のヽちやかて御立、さのヽあたりより雨くたる」、樫井の王子の御神楽、御奉幣、例のことし、たくせんにちはや下さる「北野殿よりの、御馳なり」 行基の池雨によりて御立よりなし
御ひる山中
川なへ河にてはしめて御まいりの方/\御氷あり、守護より御舟をまうけ御氷場をとヽのふ、
和佐たう下にて一献あり「塀和二郎、申さた」 御宿山東「御やと当国の又守護代ふちしろと申者とヽのへまうく、門□あり」
廿三日小雨
藤代たうけにて片箱進上、守護方より御たる折済々まいる、此所の眺望いまさらならねとも、誠に金岡か筆もおよはさりけんことはりなり、和歌、吹上、玉津嶋御めのまへにみえたり、清水の浦はこの山つヽきのふもとなり、こまやかなる風情、絵にもかきとヽめかたし、御めかれせぬうら/\嶋/\のけしきなり、あまりに時ふれは御立あり
御ひるなし
いとか坂にて御輿たつ、地下の童部あつまりまいりて、たてらん/\と申て、さかさまふりをたて侍る、此儀さかさま川の王子の御前にてあるへきなり
御宿ひろ「御まうけ玉木くたるおり済々まいる」
廿四日天晴
しヽのせのたふ下にて御こしやなひ
御ひる内の畑
槌の王子、此王子にては、槌をつくりて木の枝につけて、徳あり/\とはやしてまいらするなり、しほ屋の浜にて片箱進上、此嶋は権現のとひまします嶋なり、飛嶋と申
御宿上野、御まうけはしの湯川
廿五日天晴
ついの浜にて御こやしなひ
切目の(五たい王子)王子の御奉幣、御神楽例のことし、ちはやたくせんにたふ、北野殿の御むしかさのうへなる、四手とりて、御小先達にわたす、これをとりて宝前の木の枝につく、次々の御むしの四手たてまつる、山ふしのおの/\とる
補堕落のふしおかみにて御はらへあり
岩代の王子の御前にて、海士二人海に入らる、御かたひらそめ物下さる、此王子にて御拝の時は、御先達ならひに御導師以下供奉の人々の名字を書て、拝殿の板に打付らるヽ事あり、この後御まいりの時、一度申さたすへし、貝の王子の御まへにて、御下輿ありて、まさこの中にましれる貝御ひろいありて、王子にまいらせらる、御ひる三鍋「御まうけおく、こほりの又守護代中村、黒木の御所をたてたり、御氷場あり」山本御むかへにまいる、かも山の関の事、中村にかたく仰付らるへきよし申す、
其次第おほせらるヽによりて、わさと人をこして申つかはす、はねたのほらにて、いつもの御佳例あるによりて、やまふしとも御さきにまいりて、海きわなれは水をたよりに、前栽なとつくりて、松をひきうへ、草花をうへしなとしたれは、目出くおほへて、いはひたてまつらんかために
とき葉なる松をためしと神やしる
わか君/\の千とせ万代
かやうに短冊に書て松に付侍る、されとも雨によりて御立よりなけれは、その興なし
けふの御意にはつふてうつ事、権現の御はしの事、うしのはなぬく事、かやうの事あれとも、狂事ににたれは申いたすにおよはす
御宿田部「浜に御氷場を御やとよりたてたり、御しほ氷のためなり、夕方より大雨」
御宿ぬし竹のせと申物なり、此所熊野の神領地也
廿六日天晴 「七瀬川こよひの雨に水まさりてわたる事たやすからす」
いなはね(五躰王子)の王子の御神楽、御奉幣つねのことし、ちはやたくせんに下さる
御ひる一の瀬「御まうけ山本、宿所御所になる」
川のうへに御氷場をつくりかけたり、其風情こそいとやさしく侍れ、まつ御所に御入、供御の後、御氷場に御出ありて、御氷めさる、いわた川の御氷これなり、昔は御幸なとには三の瀬にてめされけるやらん、まこつくしの松とていまにあり、大かたは此一の瀬より二の瀬三の瀬、ちきに御わたりあるへきなり、されともいまは川の瀬も
昔にかはりて、わたる事なけれ(かなはねは)は其儀なし、御わたりありて、悪業煩悩の垢をすヽきましますいはれなり、女院なとの御まいりにも、ちきに此川をはわたりましましけるとかや、御手を引事斟酌なれば、しろき布を二たんむすひあはせて、ゆいめにとりつかせたてまつる、布の左右を、しかるへき殿上人、あまたいひかへてわたしたてまつる、、上らふ女房御そはにそひて、布にとり付て御とも申されけるとなり、御氷場にて御さか月三献の後、御立、此所より山中の御兵士済々なり、まいらする方々、山本、はしの湯川、あたき、すさみなりよろひたるものそのかすをしらす
瀧尻の(五たい皇子)王子御奉幣、御神楽つねのことし、しやうそくたくせんに下さる
北野殿さま、此たひ御としのつもりに御くたひれなれは、いさヽか御のほりありて、やかて御こしにめされん事は、いかヽあるへきよし、たつね下さる、これ子細あるへからす、昔ある人、陸奥国より」七度まいるへきよし願をたてヽ、六度はまいりたれとも、いまはとし老て、くるしかりけれは、いま一度まいらん事もかなひかたし、此事をなけくに、ある夜の夢に権現のしめしたまふ
道とをしほともはるかにへたヽりぬ
おもひおこせよ我もわすれし
此哥は新古今に入られたり、それには三度の願とみゆ
なけく事なかれと、あらたに示現を蒙りしかは、貴くおほえて、いよ/\信仰のおもひをましけるとなん、心さしあるをは、権現もあはれみまします事しかのことし、十三度きて、御まいり神もなをさりにやおほしめさん、されは、御ゆるされなくてしもやは侍るへき、たヽ御輿にめさるへきよし、申によりてめさるヽ物なり、御輿かき五六人、あせ水になりてかきさヽけたてまつる、南御所、いま御所さまその外、こと/\く御ひろひあり、かたしけなきかなや、天下の御あるしの御連枝として、輿車の外はこわた山なれとも、かちにてはいかてあゆみましますへき、抑権現の紀伊国むろのこほりに、はる/\とあとをたれ給事は、川をへたて、山をかさねて、参詣の衆生に難行苦行の功をつませて、此度すみやかに、出離得脱せさせんとの御ちかひなり、これによりて、一天の君、万乘のあるしも、此道におもむき給ては、身命をおしみ給はぬものなり、たう下に御あかりありて、地蔵堂にて御こやしない、此所より九品の鳥井たちはしむ、則下品下生の鳥居あり、すてに安養の浄土に往詣して、不退の宝土をふめり、日くれし候は、それより松明をともせり
御宿高原
御宿石王兵衛か家なり、畳あたらしくさし、天井しろくはりたり、かれか分際にはいかめしき用意なるものをや
廿七日天晴
御ひる近露「御川こりあり氷を御やとにめさる」
御宿みもと左衛門か家なり、檜の木さく、いたにてひろくしつらひたり、おくの湯川か子御むかへにまいる、御兵士済々めしくす、雨かきくれたり、露をしのきて湯川に御つきあり、御宿いつものことし
(一行アキ)
以上
(一行アキ)
廿八日天晴
発心門(五躰王子)の御ほうへい、御神楽つねのことし、ちはやたくせんにたふ、この所にて御小やしなひありて、午時に祓殿に御つき、御師まいりむかふ、鳥井の辻にて御下輿、つくりみちひろいまします、すくにまつ御はしり入堂あり「これをぬれわら、沓の入たうと申」 かつ/\御社の躰たくをおかみたてまつるに、いまさら心もこと葉もおよはす、この土はこれ花蔵の世界なり、證誠大菩薩の御本にいたりぬるは、すみやかに九品のうてなにむまれたり、十万億土をほかに求へからす、十二所の御本地、各/\の誓願をおもふに、いつれもたのもしからすといふ事なし、御まへ次第に御巡礼ありて、そののち御師の坊に御つき、御いわゐのヽち、ゆのみねに御のほり、くれて後遷御、夜に入て御奉幣あり、つくり道又あゆみまします、山ふし数十人前行、御幣もち一番にすヽむ、白妙の御幣神風になひけり、證誠殿の御まへの上中門にて、御手水ありて、それより入まします、この證誠殿の御まへの門をは妙覺門と申、西向の門をは慶賀門と申、東の門をは所願成就門と申、いつれも/\子細厳重の事ともなり、床子たいら座の役人、すヽみまいる、その次第常のことし
まつ證誠殿、次両所、次若一王子 「五躰王子の御幣、一とにまいる」次四所明神なり、御奉幣おはりて、證誠殿の御まへのきりとこにて、申あけあり、若殿の御まへの切床にて、初夜の御つとめはしまるによりて、この所にてあり、そのヽちかくら屋に入御、みかくらいと貴し、かんなき一面に立ならひて、袖をふる事やヽ久し、かくて、はやしたてたる笛鼓のをと、身の毛もいよたつはかりなり、すヽのお帯本結、せい/\なけられたり、たくせんたまはる、装束を着して舞かなつ、御神楽おはりて、御宿坊に遷御、あす御川くたり関/\の事、衆徒に仰らる、河うちへ使節を三人さしつかはして申しやる
廿九日雨くたる
河うちより関の事、御左右いまた申さねとも、まつ御いてありて、御舟にめされて御下ある処に、雨にあしつよく、風も吹いてたり、およそ違乱なり、こヽに舟さし、をのかちいかりをなす事ありて、刀をぬきあわせり、人/\なたむるによりてしつまりぬ、ふてき第一の奴原おもてをふる事なし、みもとにて御舟をとヽむ、御こやしなひのためなり、この所は後白川の法皇の御まいりの時、川の汀にあかき袴きたる女房たちたり、法皇この所の名をはいかヽ申すそと、おたつねあれは
有漏よりも無漏に入ぬる道なれは
これそ仏のみもとなりけり
かやうに申てかきけつやうに失たり、それよりみもとヽは申とかや、これは法皇しやうしんの権現を拝し給へきよし、御祈念の時、御夢想の告ありて、女躰にあらはれまし/\て、此所にて御拝見ありけるとなん、御船よりあけまいらせて、御こやしないあるへかりしを、雨風もすさましけれは、たヽ御舟をはやめて、新宮に御つきあるへきよし申て、御船をくたしたり、しかるにいく程なくて、難風たちまちにきたる、大方生涯のきはまりなり、御御船をとヽめてあけたてまつらんとすれは、いはほそひにてよるに所なし、ゆくすゑの山さきをみれは、風木をしほりてもみあへり、さらぬたにあやうきすき舟の、わつかなるうへに、屋形をうちてその上にあまかわをかけたれは、風のあつる事、たとへをとるに物なし、たとひいつくに御舟をよせてあけたてまつるとも、巖の上にては御事をそんせられぬへけれは、たヽ権現をふかくたのみたてまつりて、御舟をくたすにまかせたり、されとも程なく新宮の地につきぬ、いつも御あかりある所よりは、十八町こなたに、おとヽのわたりと申所よりあけた てまつる、」そのしきこと葉もおよひかたし、めしの御船つきて後、ふしきの風ありて、御舟のあかりつるわたりにて、よその道者の舟、うちかへして人あまた失侍り、しかるに御共の人、すゑ/\まていく千万か侍るらんに、はいの日とりにてもつヽかなき事、希代のふしきなり、浪もたヽす、風もふかさりせは、かほとに神慮のいちしるき事をは、よもしり侍らし、まことに木こり水くみて、雲をしのき、雨にうたれてつかへ侍し大峯、かつらきの金剛童子かヽるおりふしをは、いかてかみすてさせ給へきに、難なくまほり給事のありかたさよ、御師のかたより、御むかひにまいりたれは、御三所めされて御宿坊につきまします、たヽゆめの如し、こその五月よりこのかたは、違例によりて、あらき風にたにもあたり侍らさりつるに、けふ一日、雨風にもまれて」、御船よりあかりて、十余町水をわたりて、からうして師のもとにつきぬ、されとも冥助のいたす所なれは、気力いよ/\なをりて、心ます/\あさやかなり、何よりも北野殿、こんと御願しやうしゆの御まいり、かヽる大善根やは侍るへき、すんの善にさへ尺の魔は侍るとかや、いかにも御慎あるへき事なりしに、御肝はつふれたれとも、上下いさヽかの事もなかりしは、これに過たる奇特あるへからす、その夜は雨風なをはけしけれは、御ほうへいなし
十月一日天晴
辰の半時に御奉幣次第、例のことし、此御やしろたち□ありさま、いとけたかく侍る、垂跡を本として大神宮□躰也、千木櫨木あり、根本垂跡の御社なり、神官」□司、伊勢にひとしくまします、申あけの後かくら屋に□御、々神楽又常のことし、たくせんちはやを給て、こ□をきつヽ無事てをつくせり、むかしは新宮神楽、那智法とておもしろく貴き事に申侍しに、いまは無下にい□れもおとろへたり、されともたくせんのこと葉をきく□ひには、なみたをなかし侍り
たとひ今生はかりにて、来世の望なくとも、垂跡の方ふかけれは、又後世菩提をもたすくへしとあり、まことに参詣の貴賎、今生の栄耀をのみこそいのれ、かつて□来の事をは申人なし、されとも後生をはうけとり給そ□かたしけなき、今生は又いのるにまかせて、寿福増長なるこそ目出けれ、御神楽おはりて御師の坊に遷御、供御のヽち、御たち、實意風をいたむによりて、うへある輿に乘す、あすかの社の御神楽つねのことし、御小袖たくせんに」下さる大夫の松のもとにて、御こやしないあり、申の半時に、はまの宮に御つき、御奉幣、御神楽常のことし、しやうそくたくせんにたふ、帯本結、おほくなけられたれは、神子女共、人めをもはヽからす、力をつくしてはいあひたる風情、その興なり、ひとへに欲心をさきとす
此所に那智の御師の坊あり、これにていつも御まうけあり、入御の後、やかて御たち、橋本にてはしめたる御方/\川氷さめる、こヽに橋勧進の尼の心さしふかきあり、権現より夢の告とかやありて、給たる阿弥陀の名号をもちたり、人信心をおこしておかみたてまつれは、名号の六字の中より、御舎利の涌いてましますよし、この年月申あへり、このたひこれをおかみたてまつるに、けふもあわつふのことく、しろきものヽ怱然としてあまた出現せり、いかさまにもふしきの事、あるやうある物をや」、夜に入て後、那智の御山に着まします、こよひは御奉幣なし
二日天晴
辰のはしめに御奉幣あり、次第いつものことし、この御神も十二所権現三山おなしけれとも、飛瀧権現をくはへて十三所の御社なり、飛瀧は当山の地主として、本地千手観音にてわたらせ給、観音は、これ慈悲の躰にてましませは、所願相応の地にあらはれて、三の御山の利生を当山にて成就せしめ給物なり、御奉幣おはりて申あけのヽち、如意輪堂に御まいりありて、それより瀧もとに□御、南御所さま自筆にあそはされたる御経舎経門にこ□らる、この砌は、むかし権現の先徳秘経を安置し給し□なり、口伝ある物をや、那智こもりの僧御らんせられて御あし下さる、からすときんにうち衣のすかた、おもひ入たる風情なり、」三の御山はとり/\なれとも、ことに神さひたるはこの御山なり、三重にみなきり落たる瀧の水は、天竺 の無然池よりおちたるとかや、三国一の瀧なり、この三重をわかつに、一の瀧は千手観音の御形にて、わきの巌には廿八部衆あらはれたまふ、二の瀧は如意輪にて、おかむ人は涙をおとして、道心堅固のおもひあり、三の瀧は馬頭にて、瀧のかたちもけはしきなり、下たり一二三と申なり、いつれも/\慈悲深重の御ちかひあり、文學かうたれたる瀧つほはみるもすさましく、花山の法皇の御庵室のあとは、むかしゆかしくおほえたり、妙法山寂勝の峯、光か峯なとヽてあり、妙法山は空攝和尚法花経をかき、供養して塔婆に安置せられたる、先仏涌出しまし/\けるとかや、寂勝の峯は智證大師、寂勝王経を購読」し給て、御神に奉り給しかは、霊瑞あらたなり、光か峯は同大師大乗経をおさめ給けるに、瑞光をはなし給ゆへに、光か峯と申とかや、かれをきヽ、これをきこしめすも貴くて、この地をふみまします機縁宿習のほとをそ、おほしめれける、瀧本御心しつかに御入堂ありて、御師の坊に御、供御の後、御師ほうゐんをまいらす、まつ南御所御かた、次に北野殿の御方なり、御小袖両御所より御にたふ、北野殿よりもおなしく、御小袖染物下さる、そ□ヽち御たち、午の刻に浜の宮に御つき「御まうけ御まい□時のことし」 新宮の御師、佐野の松原に黒木の御所をたてヽ、御□けいつものことし、この浜にて、むかし御幸なとには、いさこを御衣の袖につヽませ給て、なちの社檀の御もと、瀧もとの千手堂の瑠璃たんとに、御まきある□り、きの国師のさたとして、いさこをあらひまうけておき侍りけるとかや、かやうの事はふるさまの儀なれはいまはなし
御さか月たひ/\まいりて後、御たち、神の藏に」御まいりあり、北野殿すくに御下向、夜に入てのち、あさりの関の事に物いひあり、みやさきにかたく仰付たり、子細なきよし暁御さたを申す
三日天晴
供御の後、御師ほういんをまいらす、したゐ那智のことし、御小袖たふ事又さきのことし、御師か子、下くまの、その子なにかしとかやにも、北野殿より御小袖たふ、みやさきならひに御師か家人にも下さる、そのヽち御たち、御河のほり、けふは日もよく風ものとかなり、たなこにて本宮の堂下衆徒の折帋を以て申子細あり、関/\の事なり、そのあいた河原にて御小養あり、御こせんたちをもて、衆徒の中に事のよし申おくる所に、やかてしさゐなきよし御返事申入、御こやしないはてヽ御船にめさる、あなくちといふ所より上の河原に長床御さかむかへいつものことし、数献の用意なりしかとも、日くれ侍るほとに、三献にてやかて御たち、一里はかりは夜船なり、六の半時に御まへの津に御着ありて、」すくに御社に参御、両所の御まへにて御湯立あり、西の御前の右のわきのしら石に、たヽみ南北行にしきまうく、これにて御聴聞あり、御ゆたての中間に、しめなわに御小袖かけらる、事はてヽの後御下かう、つくり道より地主に御まいりありて、御神楽まいらせらる、託宣の殊勝なるよし、みなくかん涙をなかします、これより御宿坊に遷御、長床の衆四人に、御小袖おのく一かさね下さる、北野殿よりは御あしいつものことし、屋かた船三そうの船さし、みなく染物たふ、めしの御舟さし鬼太郎には、一きわ下さる
四日天晴
供御の後、御師ほうゐんを進上、次第那智神宮のことし、御小袖たふ事又さきのことしそのヽち御三さか月まいりて、御たち、つくり道御まいりのことく御ひろいありて、鳥居の辻にて御輿にめさる、御師これまてまいりて、いとま申てとヽまる
発心門(五躰王子)にて御輿たてらる、みなく金剛杖をとりてつく、御昼湯の川「御まうけさきのことし」御宿高原「御やとさきのことし」
五日天晴
御昼一の瀬「御もうけさきのことし山もとに御小袖たふ、北野殿よりも下さる」
はねたの洞にて御かれいあり、御まいりの時、山臥とも心はせしたりし前栽も、しほみちくれはあとかたなし、たヽいまにはかにもくつかきのけたれは、み所侍らす、貝ともちらしたるを御ひろいありて、御なくさみあり
御宿三鍋「御やとさきのことし、御小袖中村に下さる、北野殿よりもおなし」
六日陰天
ついの浜にて御こやしなひあり、ついの御やとぬし御たるまいらす、これいつもの御嘉例なり
切目(五躰王子)の王子の御まゑにて、御けしやうの具まいる 「まめのこなり」御ひたい御はなのさき、左右の御ほうさき、御おとかひ等にぬりまし/\て、まさに王子の御まへをとほらせ給時は、いなりの氏子こう/\とおほせらるへきよし、申入
七日陰天
御ひる橘もと「御やとかさはた」
藤代たうけにて、又片箱進上、守護より瑶折とヽのへをく事、御まいりのことし、北野殿風を御つヽしみありて、ひやうふのかけにて御さか月にむかひまします、幕の外にて藤代をめして、さか月をあたふ
御宿山東「御やとさきのことし、北野殿の御領きれの、御代官供御をしたらむ、塀和二郎申さた」
御たちの時分、藤代をめして御服下さる、北野殿よりもたふ、よし野ならひに粉川より御よこ道あるへきかのよし、たつね申入、うかヽい申所に、このたひはまつすく道にて御下向あるへきよし、仰いたさるヽあひた、そのふん申おくる、御代官としてよし野へ山伏をまいらせらる、御なて物いたさる
八日天晴
御昼山中「御やと先のことし」
行基の池て片箱進上、春御まいりのおりは、岸のつヽしさきみたれて、水にうつれけるけしき、にしきをおれるににたり、今の御まいりには、おか辺の紅葉浪にうかひて、立田川にことならす
御宿国符
御やと二かい屋なり、せはき事御舟の中のことし、次の御方/\はたヽひさをたてあはせたる風せいなり
九日天晴
又すみよしの浜に御いてありて、御こやしないあり
御昼天王寺「御やと大こく屋」
供お御のヽち北野殿、亀井の水めしよせられてきこしめさる、水なを筒に入て京にもたせらる、御夢想の告あるによりてなり
しきのヽわたり御船なり、たヽ一艘にて上下をわたしたてまつる程に、はるかに時うつれり
御宿森口「導嶋御所になる、山したに御殿下さる、北野殿よりもたふ、しゆこかたより門やくあり」
こよひは御ゐのこなり、御まいりきりいたヽく、御旅こよひはかりなれはとて、南御所の御かたへ、北野殿の御方の人/\めされて、御さか月下されて、御小袖みな/\たふ、まことに旅人の一むら雨の」時、おなし木かけにやとりあひて、行わかれ侍るさへ名残はおもふならひそかし、いはんや御精進屋中より、廿日の御道すから御らんしなれたる御事を、おほしめし入たる御心の程こそ、かたしけなく侍れ、又北野殿の御方へほそ田めされて、御ふくたふ、大納言僧都卿房おなしく拝領す、實意には夜のふすまのためにとて、織物の小おんそ下さる、過分のいたりなり
十日天晴
御昼八幡「御もうけ塀和の右京亮」
鳥羽のあたりまて一色左京大夫歓迎に参せらる、酉の剋に稲荷に御着、御奉幣ならひに護法おくりいつものことし、其後御宿坊に入御
中の神主か坊御所になる「御もうけ一色殿申さる、」御さか月たひ/\なり、夜に入て雨くたる、たヽしやかて晴に属す、戌の半時にいなりを御たち、まつ法性寺に御いてありて、柳原を卅三間の御堂のうしろに御いて、建仁寺の門前を」四条河原にいてまし/\て、四条の道場の東を北へ錦の小路まて、御あかりありて、それより西へ京極に御いて、京極をのほりに御所に遷御、公卿座の御妻戸のわきに、御留守の人/\まちえ申されて、悦の眉をひらけり、北野殿様も此御所まてともなひ申されたり、實意公尊共にめしにしたかひて、御前にまいる、御氷めされて、やかて出御、ほうゐんすヽきて進上、これをきこしめされて後、凡夫になりましますものなり、ほうゐん出されつる程は、権現ののりうつらせ給へは、凡身にてはましまさヽりつるなり、御さか月めしいたされて、三献下さる、よろつおほしめすまヽの御めてたさ、御こと葉にもつくされかたきよし、仰下さる、そのヽち退出、北野殿へまいりておなしくほうゐんすヽきて進上、御三さか月めしあけられて下さる、いく万代もといはゐたてまつりて、まかりいつ
十一日、夕かた、南御所さまより御ぬき物せい/\下さる
十二日、例日
十三日、北野殿よりの御ぬき物いたさる
十四日、南御所よりめしあり、大納言僧都、若狭、筑前、越後、和泉、御意にしたかひてめしくす、色/\の御もてなし身のをき所をしらす、大かたは御歸路にかヽる事さへかたかるへきに、剰御前に候して御尊敬にあつかる事、修験の名望この道の規模也
十五日、御折帋御服せい/\拝領す、大納言僧都ならひにすゑ/\の山伏にいたるまて、みな/\御ふく下されたり、いま御所よりもおなしく下さる、をよそ色/\品/\の事、筆をかりてもかきつくしかたきによりて、しるしおはりぬ、たヽおもひいたすにしたかひて、あとすゑもなし、かきつらねたれは、後見のあさけりのかれかたし
つらくかへりみれは、實意おろかなる身として、是等の御先達をいたす事、この冥迦一
にあらす、まつ応永廿八年に御台さま御参詣「天下かくれなかりし、御まいりなり」
おなしき時、光照院殿 「これは御所さまの御連枝」二位殿の御つほね「稱光院、光範門院、禁裏、御ふくろにてまします」 応永卅三年に南御所さま御まいり、これも当御所さまの御連枝にて南御所と申、崇賢院の御あとにてわたらせ給、同き卅四年にかさねて御参詣、いま御所さま「南御所御一腹の御兄弟」 御同道あり、かヽる御先達にそなわる事、内証をおもへは権現の神慮よりおこれり、外には又北野殿の御恩ならすといふ事なし、そのゆへをおもふに、先師僧正、応永三年にはしめて彼御参詣を引導したてまつりて、八ヶ度におよへり實意師跡をつたへてよりこのかた、御共仕る事、このたひまては五箇度にいたりぬ、此御まいりをおもてとして、御しのひあるよしにて、御参詣あれは、たやすきによりて、みな/\おほしめしたつものをや、されはなかれを汲てみなもとをたつぬるよし、恩徳のふかき事をしる物也
応永卅四年十月十五日、南御所依御所望書進之
御先達法印大僧都實意記之
此両巻住心院僧正實意令見之間写了
文安三年三月六日
後崇光院御筆『熊野詣日記』写本を終わって
本書『熊野詣日記』は室町時代、応永卅四(一四二七)年足利義満の側室北野殿が熊野詣りの時、先達をつとめた住心院僧正實意が記した日記である。『熊野御幸記』からは、約二百二十年後の熊野参詣記で、京都発着前後のこともが記されている。
又足利義満の側室北野殿の熊野詣でに、はしの湯川・おくの湯川・山本・安宅・すさみ等紀南の武士団が出迎えるなど記されていて、紀伊国武士団の足利幕府への忠誠と、足利家の権力ののほどがわかる。
平成十七(二〇〇五)年三月十五日
清水 章博