熊野関係古籍     熊野古道

 日高郡誌 大正十六年

 日高郡誌より熊野古道に関するページを抜粋して掲載しました。

  第三編 
  第二章 運輸交通
   第一節 明治維新以前に於ける運輸交通
     二、中古の交通

 、熊野御幸道

 桓武天皇平安に奠都あり、延暦年間和泉より雄ノ山の山道を踰えて紀伊に入り、牟婁御幸道の合する一線を通ず、所謂雄ノ山道也。降りて平安朝の中頃神佛習合の盛行に際し、大和の吉野連山を根據とせる修験道の一派漸次其の勢力を紀南に及ぼし、熊野三山は遂に天下の靈區として参詣の道俗相踵ぐに至り延喜七年には、宇多上皇の御幸あり、爾後鎌倉時代の初めまで歴朝の崇敬特に篤く、聖蹕を此処に止め給ふこと前後通計一百回に垂んとす。斯れば牟漏御幸道は延びて熊野に達し、其の經由地も年を經て多少の變遷を見る。初め宇多法皇の御幸には、切尾ノ湊より御船に召し、道中海に泛ぶ(扶桑略記)とあれば、切目より海路をとらせ給ひしことを知る。其の後、約八十年花山法皇の御幸には海路より津久野浦「比井崎村」に御上陸あり「里傳」小坂峠を越えて志賀に出で、「花山院の巡禮者は今も此の道筋をとる」それより順路熊野に向ひ、古屋(大鏡)千里濱(大鏡)に御製を遺させ給ふ。寛治四年白河上皇の御幸には先ず勅使を熊野に立てヽ延喜の先例を問ひ、宇多法皇の先蹤を問はせ給ふ。爾後御幸十餘度、後二條大臣の詠によって鹽屋王子著る。後鳥羽上皇に至っては御崇敬殊に篤く、御幸實に三十四度に及び、女院初め權門勢家の参詣また頻り也。就中平家一族は其の最後まで崇敬怠らず。さて上代由良坂より由良荘を通過せし牟漏御幸道は漸く廃れ、鹿瀬峠より直に高家荘「今の東内原村大字原谷」に下る新道は熊野御幸道となれり。鹿瀬は井關山の名を以て(新續古今集)にあらはれたるが、(元享釋書)には肉背山に作り、(庵主)に『しヽのせにねたる夜鹿の鳴くをきヽて、うかれけむ妻のゆかりにせの山の名を尋ねてや鹿もなくらむ』(増基法師)とあり。原谷以南は、高家荘萩原「東内原村」にて牟漏御幸道と會し、直に分かれて同荊木、富安荘上富安を經下下富安に至る。次で田藤次王子より矢田荘吉田「藤田村」八幡山の東麓を廻り、日高川を渡りて岩内荘「野口村」岩内に入り、山田荘天田「鹽屋村」より山を越えて北鹽屋王子社側に出で、それより同荘南鹽屋・上野荘野島・上野・楠井「名田村」津井・印南荘中村・宇杉光川「印南町」切目荘西ノ地・島田「切目村」を過ぎ、中山の榎峠といふを越えて岩代荘西岩代「岩代村」に到る。次で東岩代の海濱を辿りて南部荘山内に入り、千里谷を上りて南部峠に達し、南部川の右岸に下る。其の渡船場は、今の大橋より梢上なりしなるべく、左岸に於て、更に古川を渡って北道村「南部町」王子ノ芝に出で後世の熊野街道と並行して芝村を過ぎ、埴田・堺の濱づたひに牟婁郡に入れり。「芳養坂を越えしは、牟漏御幸道としての最初のことなり。」沿道の王子社としては、鹽屋・切目夙に著はれ、鹽屋に富島宿あり(人事記)西ノ地「切目」に切目宿あり(平治物語)鹽屋・切目の間に上野宿といふもありき(長秋記)


 第五編  神祇誌    
  第一章 通説
   五、熊野王子

王子の起源につきて文學博士宮地直一氏の説に曰く、「佛語に鳩摩羅駄、叉は究磨羅浮多というあり、翻譯名義集にその義を解きて、是彼の八歳己上乃至未娶之者総名也といひ、法華科註に釋論を引きて此云童子と見ゆ。我国に用ゐられて王子と云ふ、その起源はこゝにあるか。早くより大峰山なる蔵王権現には十八王子あり、高野山なる天野明神即丹生都比賣神も百二十伴と共に十二王子を従ふ。是等は何れも随従若くは眷属の神意にして、やがて薬師如来か十二神将を率ゐ、又不動明王が八大童子、辨財天女が十六童子を伴うに等しかるべし。さて之を我が神祇の上に用ゐたるは延喜式の記事を初とす。そは内蔵式中、大神祭の幣帛を記す条に日向王子幣料盛筥一合、王列王子幣料盛筥一合とあり、之を神名帳に照すに、大和城上郡に神坐日向(ニワニマスヒムカノ)神社「大、日次新嘗」玉列(タマツラノ)神社とあり、二社はその祭神を詳にせざるも早くより本宮大神神社の官下にありて本来の関係を有したりしものゝ如し。されば之を古來の慣例によりて表す時は枝属・苗裔もしくは御子神といふに相當すべく、即ちこゝに云ふ王子の義にも一致するなり。次いで起れるは、則熊野の王子社にして、こは己に和歌の海鶴にもいわれし如く、本宮境内若一王子に始まれるものならむ。若一叉は若王子といふは、古くより天照大神と傳へたれど、そはいかにもあれ、本宮三所、即夫須見・速玉・気津美御子の三神に次きて創められ、三山ともに本社に次きて崇敬する社なれば、御子神の意を以て之を王子と稱へしにもなるべし。其の関係例へば春日に若宮を設け、大神に日向、玉列の二社あるが如し、その若宮といひ、新宮と稱し、将今宮といひ、王子と呼ばむ、畢竟ずるに、同一の事物を指して、ただ其の名稱を異にするに過ぎざるもただ、熊野は人も知る如く、佛教の侵入甚しきが上に弘く世間の信仰を萃めたる神社なれば佛教に縁あり、且通俗の稱呼として應はしき王子の號を採用したるのみ、この若一王子に次ぎて表れたるが、即ち沿道の諸王子社にして、是亦佛教の行事に模倣せしものなるべし。奈良朝初期より鎌倉時代にかけ、熊野に於ける神佛習合の完成「修験道の勢力及べる事既記の如し」と、京師上流社會に於ける名山靈區遍歴の風習と相俟つて都人士を熊野に吸引し、是に京都熊野間に王子社の發生を見たり。即ち京を發して本宮を経、新宮、那智に詣づる往來の途次、所々にて本宮の影祀を設立するものあり、之れを稱して王子社といふ、即世俗にいふ「即ち所謂熊野九十九王子これなり」。俗説にその義を説きて云ふ、熊野権現の坐す音無川の水上を一百の數に象り、沿道に九十九ヶ所を充てたるにて、やかて浄土往生の義を示すなりと。蓋し一理なきにあらざるも、その最初の時代には、數も具らず、叉必しも之を経由したるにあらざれば、始めよりして、斯程の深遠なる意味ありしや否や大に疑はしとすべし。惟ふにもとは往來の要所々々に當り、小祠を設立して巡歴の便に供し、併せて遙拝の為めにせんとせしものならんか。されば、中には古くより鎮座せし社にして地利の便により後に王子社とせしもあるべく、又新に設立せしは固より少なからぬことゝす。斯くの如く沿道に起りし其の影祀をも王子社といふは、既説如く新宮又は今宮と稱すると同義にして、やがて若一王子などといふ王子の意を一層廣義に推廣めしものなるべし。之も俗説にては若一王子を遷したれば、もとの名に因りてしか名付けたりといふ、固より諸王子の中には、同社の分祀も少なからざるべべけれど、其の悉くが同神にもあらざれば、決してそれとも定め難し。名月記に、王子社を熊野の末社といへることあり。又壬生家文書の中にも熊野山末社藤代王子と記されたるが、即ちこゝにいふ王子とは末社の義に外ならずして祭神間に於ける本来の関係を表ずるものにあらざる也「即之を傍例に考ふれば、石清水に別宮といふなど大小の差はあれど、之に相当するものならむか」今これを典籍の上に微して其の最初に表れしものを求むるに、藤代・鹽屋・切目・磐代・滝尻・近露・發心門の七社あり、次いで建仁元年の御幸記に至り其の數漸く具はり、實に六十一社の多きに達す。されど思ふに實は王朝の末に於て略々其の形を整へたりしものなるべく、ただ記録の具備せざるが為めに之を微ずることの難きならんか、今御幸記を基として、その道程並に分布の状況を見るに、王子の社は先ず難波の地に起る。初め京都を發するや陸路鳥羽に至り、こゝより船に乗じて淀川を下り、川尻なる窪津といふに着す、即窪津王子「また久保津につくる」こゝにありて之を熊野第一王子とす。その地後の八軒屋に當り、王子の舊跡は座摩神社の御旅所となる。之より今の大阪の地を横断して、天王寺西門の前に出で、阿倍野街道を南行し、住吉を経、和泉の海岸に出づ、かくて大體今の鐵道線路と併行くし、和泉と紀伊との國境なる山脈を越え、紀の川の下流に着す。この後今の和歌山市の東郊を進み和歌浦の入江を南へ廻りて藤代坂に着す。麓に五體王子社あり、藤代王子といふ。社の西藤代坂を登り、山續き峯を傳ひて在田川の沿岸に下り、湯浅附近の平野を横切って山麓に達す。尋いで鹿脊山を越えて東内原村原谷・萩原・荊木・湯川村富安を經、藤田村吉田に至つて日高川を渡り、野口村岩内より山越に鹽屋村北鹽屋に出で、それより日高沿岸を田邊に向かって進む。其の間鹽屋村南鹽屋・名田村野島・上野・楠井・印南町津井・印南・切目村西ノ地・島田・岩代村西岩代・東岩代・南部町山内・気佐藤・北道・芝・東吉田・を通過し上南部村熊岡より芳養坂を越えて芳養谷を下り田邊に出づるなり。京都より田邊までは多少の山脈を越ゆと雖も、多く沿海の平野にして道はさして難嶮にあらず、されどこれより先は全く海を絶縁して山岳重畳の裡に別け入り暫しの苦痛を忍ばざるべからず、斯く此行三栖川を越えて岩田川に沿ひ進むこと里餘、両川の相會する所、山の鼻に當りて滝尻王子あり「切目王子を五躰王子の第二とし、當王子を其の三とす」滝尻より暫くして道は漸く急に、栗栖川よりは全く山彙の中に入る、此のあたりに鳥居あり、之を下品下生の鳥居とす。この後山を越え、谷を渡ること幾何なるかを知るべからず。其の末山勢の漸く平らならんとする所に臨み、発心門王子あり、これ五躰王子の第四にして、上品上生の鳥居こゝにあり。ここに至りて限界漸く開くるも猶本宮の地は山背に隠れて之を窺ふべからず、ただ僅に北方に當りて展望の開くるのみ。されど嶮阪難路は己に尽き果てゝ目的の地は将に二里の間に迫り来れるなり、これよりは眞の峯つたひ次第に道を下りて伏拝に至る。こゝは全く山と離るる境、将に神域に入らんとする地、所謂本宮を直下に見下して遙拝の誠意を表すべき所にして誠に其の一角に立ちて眼を南方に放てば東西に相抱擁せる山脈の中を縫ひて一條の清流あり、其の末の将に山の端と触れむとする所に當り、左に一群の叢林を見る。川は音無川、森は本宮の鎮座地にして、這般の光栄は将に一望の裏に萃る、伏拝より坂を下ること殆ど一里、川を渡りて始めて本宮に着するなり、此間の道程大凡八十里、京都より十餘日の日子を要すべく名月記に過山川千里遂奉拝寶前感涙難禁と云へるも徒爾ならざるを覚ゆ。御幸記の外、道路井に小路次の有様を記せるものは、古く為房卿記に永保元年の記行文あり。同書によるに、その道程日次は九月十六日「権陰陽博士有行より熊野詣勘文を送来る。その日次十七日精進始、二十一日出京十月五日奉幣御燈とあり」同十七日「南隣の小屋に精進を始む」同廿一日「鶏鳴の頃出京、桂河の邊に至り解除、山崎より乗船、石清水八幡宮に参詣の後、摂津國三島郡三嶋江に留る」同廿二日「天王寺に参詣、住吉に奉幣和泉堺泊す」同廿三日「和泉の國府に着す」同廿四日「日根野王子の傍に着し王子に奉幣す」同廿五日「紀伊國名草群雄山口に着す」同廿六日「日前國懸宮に奉幣の後、藤代に至る」同廿七日「在田郡勧學院に着す」同廿八日「在田と日高の郡界鹿背山中に着す」同廿九日「日高郡鹽屋に着す」同三十日「同郡岩代に着す」十月一日「乗船、太万浦に着し牟婁郡三栖に留る」同二日「同郡滝尻宿に至る」同四日「内湯川に留る」同五日「本宮に着、先づ音無川に解除の後修理別當請深房に着し、申刻三所の御前に奉幣、了つて禮前に於て御明を供し、又経供養を行ふ」同六日「帰途に就く」同十三日「京着、稲荷社の奉幣を了へたる後歸宿」此の間日を閲すること二十有八日、これ前後の時代を通して普通に行はれし日次なるべし。又御幸記の後には宴曲抄に収めたる熊野参詣の曲、よく其の實況を描出せり、此の書正安三年八月の項之を録すとあれば、之によりて鎌倉時代の有様を窺ふに足るべし「其文を段を分つ四、京より本宮を経、那智に至る間の道行きを叙したるが、文章流麗にして雅趣に富み、文學的にも相當の価値あるのみならず、中古地理の好参考とすべきものなり」叉梁塵秘抄の中に「熊野へ参らむと思へとも、かちより参れば道遠し、すぐれて山きびし、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ羽たべ王子」とあるが如き、この頃の信仰を窺ふに足るのみならず。路次の難嶮を想見せしむるものと謂ふべし。斯る間、歴代の行幸啓相踵ぎ、宇多天皇一度、花山天皇二度、白河天皇七度、鳥羽天皇十六度、崇徳天皇一度、後白河天皇三十四度、後鳥羽天皇二十三度、後嵯峨天皇三度、亀山天一度「以上正史に現はれしもの」併せて八十八度の多數に上れり。而も鎌倉の中期、早くも沿道王子の衰黴の兆し萠し來り、幕府の命を以て各社を修造せしめしことあり。御幸は弘安四年の亀山天皇を女院の行啓は嘉元元年の玄輝門院を限として復行はれず。此の後應永・永享の頃に至り、再び縉神家女房達の参詣復興せられしと雖も、王子社の修栄等は如何にありけむ、知るに由なし。近世の初期に及んでは、荒廃甚だしかりしが、徳川頼宣の就封以來、舊を攷へ絶を尋ねて復興せるものも少なからず。其後また續風土記纂修の事もありて、廃址に就き考證究明せるもの多し。「されど、摂津和泉方面にては曾て斯種の計書なく、所在の湮滅に歸せしものすら少なからず。」左に本郡沿道に於ける王子社を表示し「詳細は次章にあり」御幸記及び宴曲熊野参詣を抄出すべし。

      郡内熊野王子社   (○印現存せるもの)

  社   號   所在地     備   考
 馬留ノ王子社   原 谷  近時駒留王子と稱せり。今皇太神社へ(
               原谷)へ合祀
 沓掛ノ王子社
   原 谷  續風土記に鍵掛王子とあり。今皇太神宮
               に合祀
 内ノ畑ノ王子社  萩 原  續風土記に槌王子とあり、今、王子神社
               高家王子へ合祀
○高家ノ王子社   萩 原  東光寺王子ともいへり、續風土記に若一
               王子とあり今王子社といふ
 田藤次王子社   富 安  續風土記に善童子王子とあり今湯川神社
               へ合祀
 愛徳山王子社   吉 田  今、八幡神社(吉田)へ合祀

 九海士王子社   吉 田  御幸記にクハマ王子とあり、今八幡社(
               吉田)へ合祀
 岩内王子社    岩 内  續風土記に也久志波王子とあり。今、熊
               野神社へ合祀
○鹽屋王子社    北鹽屋  叉、美人王子の稱あり。

 上野王子社    上 野  今、八幡神社(山口)へ合祀。

 津井王子社    印 南  續風土記に叶王子とあり。今、八幡神社
               (山口)へ合祀。
 斑鳩王子社    印 南  續風土記に富王子とあり。今、八幡神社
               (印南)へ合祀
○切目王子社    西ノ地  五體王子ともいへり。今、切目神社と稱す。

○中山王子社    島 田  今、王子神社と稱す。

 磐代王子社    西岩代  今、八幡神社(西岩代)へ合祀

 千里王子社    山 内  今、須賀神社(西本庄)へ合祀

 三鍋王子社    北 道  今、鹿島神社(埴田)へ合祀

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    〔建仁元年後鳥羽院熊野御幸記〕
十月(中略)十日自夜雨降遅明休朝陽漸晴晝天尚陰拂暁凌雨赴道無程王子御座云々但依路遠向路頭樹拜云々
「クメザキ云々」次參井関王子於此所雨漸休夜又明次參ツノセ王子次叉攀昇シヽノセ山崔嵬嶮岨巖石不異昨日超此山參沓カケ王子過シヽノセ椎原樹陰滋路甚狹於此邊晝養御所云々又私同儲之暫休息山中小食於此所上下伐木枝随分造槌付榊枝持參内ノハタ王子「ツチ金剛童子云々」各結付之云々次出此木原又過野萩薄遙靡眺望甚幽此邊高家云々聖護院宮並民部卿領云々此所共有便事m末得尋次又參王子「田藤次云々」次愛徳山王子次クハマ王子次寄小松原御宿御所邊四宿之處己無之國沙汰人成敗献之假屋乏少之間無縁者不入其員占小宅立簡之處内府家人押入宿了不可出之由怨怒云々國沙汰之人又非我進止云由後于云々只依人涯分偏頗歟不?相論又非可入身此御所有水練便@ユ深淵構御所即打過遙尋宿所渡河イハウチ王子入此邊小家重輔庄云々宮戸部両人便書如形到來覺了房周梨自御山下向今日於此宿相待更可伴參云々以代官可足之由雖相示尚丁寧之由也秉燭以後甚雨今夜甚熱不異三伏着帷南國之氣歟蠅多又如夏 
十一日雨降申後聊休入夜月朧々也遲明出宿所
「不知御幸」超山參鹽屋王子「此邊又勝地有祓」次入晝宿小食、次ウヘ野王子「野径也」次ツイノ王子自此邊歩指次參イカルカ王子次參切部王子入宿所「最狹小海人平屋也」御所前也但國召宛云々小時御幸御歩晩景又有題即書之持參戌時許如例被召入讀上了退出「會無極品」羇中聞波野径月明
  うちも寐ぬとまやに浪のよるの聲        
      たれをと松の風ならねとも
於此宿所鹽垢離ヲカク眺望海非甚雨者可有興所也病氣不快寒風吹枕
十二日天晴遲明參御所出御前先陣又超山參切部中山王子次出濱參磐代王子此所爲御小養御所無入御此拜殿板毎度被注御幸人数先例云々右中辨召番匠板カンナヲカク書人數令打付之建仁元年十月十二日
「陰陽博士晴光未參上北面此人數之中書着無術之由以左中辨申入即可被聽上北面之由被仰下了」
御幸四度
  御先達權大僧都法印和尚位覺實
  御導師權大僧都法印和尚位公胤
  内大臣正二位兼行右近衛大將皇太弟傳源朝臣通親
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 次々如此殿上人北面僧
「寛快以下三人下北面皆書之此最未カク五房隆俊在之」自是又先陣過千里濱「此所一町許」參千里王子次參三鍋王子自是入晝養所食了參御所之間御幸巳出御「自此宿所御布施以忠弘送遣之絹六疋綿百五十両人コトニ三疋」次參ハヤ王子御幸入御之間先陣參出立王子
(下向)
廿二日天晴
拂暁出近露下瀧尻マナコ小家晝養了末一點許着田邊宿日入了之後出此宿所過切部入イハ明日可超三宿遠路無術之間今夜如此迷惑鷄鳴之程入此宿所一寝 
廿三日天晴日出之後渡川過小松原超シヽノセ山午始許入湯淺(京極中納言定家群書類従巻三百二十九)

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    〔宴曲抄  熊野参詣〕
山は峨々として雲そひけ 海は漫々として浪を漬す 麓を過てよぢ登 御坂をこえてやすらへは 手向けの王子の御注連縄 なほくりかえし願 渚につゝく和歌の浦の 干潟に並立る廬邊の鶴(タツ)も鳴わたる 汀にくたくる空貝(ウツセカヒ) 浪に沈める玉柏 玉津島の明神 玉藻の廬にましはりて 吹上の濱の濱風も 神冷まさる音涼し 夏山のしけき軒端に薫橘 本の家主や袖ふれし さもなつかしき夕風 梓弓入狭の山の鏑坂 分くる山路はしけゝれと 流はかはらす在田河 河より遠や名草の濱 濱路はるかに遠けれは ほのみの崎をやへたつらん 青柳の糸我の山のいとはやも はこふ歩の日を經ては 道もさすかにしられつゝ 湯浅の王子かうのせ 由良のみなとも程ちかく 紀路の遠山行廻 鹿の脊の山名にし負 鹿のしからん萩原 寶富安(タカラトミヤス)千年ふる 様(タメシ)にひかるゝ小松原 愛徳山をはよそに見て 氷高(ヒタカ)の河の川岸の 岩打(いはうち)越浪よする 浦路にかゝれは愍を 垂る鹽屋の神なれや 此いなみ斑鳩切目の山 惠もしげき椰の葉 王子々々の馴子舞(ナレコマヒ)法施の聲そ尊 南無日本第一大霊験熊野参詣
秋の夜の暁深立こむる 切目の中山中々に 月にこぼれはほの/\と天の戸しらむ方見えて 横雲かるゝ梢は そも岩代の松やらん 千里の濱をかえりみて 皆へたてこし道遠み 万山
(ヨロツヤマユケ)は萬の罪きえて 今はや出立田(デタチダ)の部(ヘ)の浦 砂地白く見ゆるは白良の濱の月影 陰(クモラ)ぬ御代は秋津島のもさこそは照らすらめ 萬呂の王子の神館 見すくし難き稲葉峠 穂並もゆらとうちなひく、田頬(タツラ)を過て是や此 岩田の河の一の瀬 きゝのみわたりし流ならん 倩(ツラツラ)其水上の 深誓をおもへばは 浮きたる此身のさすらひて 幾瀬に袖をぬらすらん 山河の打漲(タギリ)て落る瀧の尻 渡せる橋も頼母敷 彼岸につく心ちすれは 誰かはたのみをかけさらん 王子々々の馴子舞 法施の聲そ尊 南無日本第一大霊験熊野参詣     (僧明空)

熊野関係古籍