熊野古道関係の古書等の資料
熊野古道(紀伊道、中辺路、大辺路)をより楽しんで頂くために参考資料として使って頂ければ幸いです。縦書きは、割り書や傍書がうまく入れられないので「 」や( )で表しています。
中世から近世の資料一覧 | ||||
いほぬし | 熊野御幸記 | 熊野御幸記(読下し) | 太平記 | 熊野獨参記1 2 3 |
為房卿記 | 吉 記 | 北野殿熊野参詣日記 | 平家物語 | 熊野詣紀行 上 下 |
中右記 | 道成寺縁起絵巻 | 大日本国法華経験記 | 今昔物語 | 熊野道中記 |
梁塵秘抄 | 一遍上人絵伝 | 宴曲抄「熊野参詣」 | 保元物語 | 熊野紀行 |
古事記 | 牟漏温泉行幸 | 源平盛衰記 | 熊野巡覧記1 2 3 4 | |
熊野懐紙 | 玉津嶋行幸 | 雨月物語 | 熊野中辺路採薬巡覧記 | |
近代の資料 | ||||
熊野懐紙 | 熊野御幸の記録 | 熊野古道に王子址を尋 | 日高郡誌 | 熊野詣に関する一考察 |
熊野王子考 | 熊野信仰について | 紀伊各郡聚落地名一覧 |
尚 この他、友人の清水章博氏が日高地方の郷土史関係資料にもPDFでアップしています.
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いほぬし 950年頃 縦書きへ
熊野に関する紀行文としては最古のもの。「いほぬし」(庵主)は増基法師(ぞうきほうし)の作と考えられている。平安中期の歌僧、中古三十六歌仙のひとりで、熊野参詣や遠江下向の折の旅日記を残している。同書には天暦十年(956)十月一日庚申の詠とみとめられる歌があるので天暦(947-957)の頃との説もある。
参考になるサイト http://www.mikumano.net/ryokouki/ionusi.htm
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/1556.html
為房卿記 1081年 縦書きへ
永保元年(1081)9月21日京都を発ち10月13日帰洛するまでの藤原為房31歳の熊野参詣日記、熊野御幸が盛んになる以前の熊野詣での様子がわかる。別名「為房卿熊野参詣日記」
中右記(ちゅうゆうき)1109年 縦書きへ
中御門右大臣藤原宗忠の称号2文字から「中右記」と名付けられた。寛治元年(1087)から保延四年(1138)まで約50年間書き続けた日記。熊野詣は47歳の時、はじめの部分が失われ天仁2年(1109)10月18日有田川を渡る所から熊野三山に詣で京都に帰るまでを記している。
昭和20年に発表されるまで世に顕れてなかったので、紀伊名所図会、続風土記、和歌山縣聖蹟に参考になれていない。
参考になるサイト http://homepage3.nifty.com/daikichibunko/chuyuki.htm
長秋記(ちょうしゅうき)1134年
権中納言源師時(みなもとのもろとき)の日記。師時が皇后宮権大夫を勤めたことから、皇后宮の唐名である「長秋宮」にもとづいた名。 寛治元年(1087)から保延二年(1136)までが現存しているが、欠けている部分も多い。長承3年(1134)正月から2月にかけて鳥羽院・待賢門院の熊野参詣に同行、本宮から帰京の様子が残っている。他の熊野参詣記が途中の風景、神事、儀式を中心に書かれているのに対し、山伏の峰入りの様子、僧への供養米配分、院・女院の参詣日程の調整などの記述が多い。
後白河上皇撰による歌謡集(1169頃)。「熊野へまいるは紀路と伊勢路のどれ近しどれ遠し 広大慈悲の道なれば紀路も伊勢路も遠からず」」の言葉が有名。平安末期の遊女や傀儡子などの女芸人によって歌い広められた流行歌(「今様」と呼ばれた)の集大成。”梁塵”とは中国に故事から、音楽や歌声の美しいのを賞賛する例として用いられたことから付けられたようだ。
参考になるサイト http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo.html
http://www.furugosho.com/inseiki/goshirakawa/imayo1.htm
長寛勘文 1165年
公家と学者が長寛(ちょうかん)元年(1163)から2年かけて作成し、朝廷に提出した熊野の神について書かれた書類を『長寛勘文』と呼ぶ。その中の「熊野権現垂迹縁起」は、現存する熊野縁起最古のものと云われている。
参考になるサイト http://www.mikumano.net/setsuwa/suijaku.html
吉記(きつき) 1174年 縦書きへ
権大納言が藤原経房の日記。経房は承安四年(1174)9月、熊野詣でをしている。題名は経房の別邸が京吉田にあったことから、後に付けられたもの。現存するのは承安3年〜文治4年(1173〜1188)の部分のみである。
「きっき」「きつき」と読む。別名『吉戸記』『吉大記』とも。鎌倉初期の権大納言・吉田経房の日記。故に「吉」記なのである。
現存するのは承安3−文治4(1173-1188)部分のみであるが、内容は詳細であり、『玉葉』とともに源平内乱期の好史料といえる。「増補史料大成」所収。
ある日本史の教授にお聞きしたところでは、『玉葉』の作者九条兼実は、平家全盛期には不遇を囲っており、記録自体がすねている(笑)ので、『吉記』のほうが良質かもしれないそうだ。いずれにせよ、内乱期の京都の記録として、重要な古記録であることには間違いない。
熊野御幸記 1201年 縦書きへ テキスト文へ 読み下し文 PDFファイル
元京極中納言藤原定家の日記「明月記」の抄、後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉した建仁元年(1201)39歳の時の日記、「後鳥羽院熊野御幸記」 「熊野道之間愚記」 「熊野幸庫記」
「熊野御幸道之間記」「熊野詣記」などの別名がある。
縦30.1cm長さ6.87mの巻紙に書かれている。道中記のためか走り書き風で癖字、随所に加筆訂正が見られ、新古今の選者定家のものとは思えない筆跡。三井杵美術館蔵、国宝
藤原定家の家系「冷泉家」参考サイト
http://peach-tea.hp.infoseek.co.jp/photo14.html
http://asuka-yamano.hp.infoseek.co.jp/reizeike/
頼資卿記 1210〜29年
藤原頼資(よりすけ)は熊野信仰に篤く20数回参詣。承元四年(1210)、建保四年三月(1216)、建保五年十月(1217)、寛喜元年十一月(1229)の熊野御幸随行記。承元4年の御幸随行は「修明門院熊野御幸記」、建保五年は「後鳥羽院・修明門院熊野御幸記」とよばれている。修明門院・鳥羽院の参詣が紀伊国司をはじめとする受領の奉仕でなされたのに対し、頼資個人の参詣は自己の経済力によって行なわれ、中級貴族の間に熊野信仰が広がっていたことがうかがわれる。
愚管抄(ぐかんしょう) 1220年
歴史物語。天台座主慈円(じえん)の作。承久2年(1220)成立。歌人でもあった。6巻に付録1巻という構成で、巻1・2は神武天皇より順徳天皇までの天皇・摂政・天台座主の記事。3巻より6巻まではその間の盛衰の歴史。付録では世の変遷する道理を説いている。文章は口語的俗語表現が多用されている。
民経記(みんけいき) 1229年
鎌倉中期の藤原経光の日記(1226〜1272)、経光が晩年民部卿に任じられた事から「民部卿経光日記」を略して民経記と呼ぶようになった。
寛喜元年(1229)には、「路次の王子皆もって破壊倒壊し実なし・・・」と荒廃を嘆く文書が記されてる。
保元物語 1240年
「平家物語」、「平治物語」と同時代、少なくとも1240年以前に書かれたと云われる。作者は平家物語と同じ等諸説はあるが分からず。内容は1156年の「保元の乱」の顛末記で史実を説話化したもの。
参考になるサイト http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog_pro.html
http://www.j-texts.com/chusei/gun/hogenall.html
経俊卿記 1257年
吉田経俊の日記。もともとは嘉禎 3年(1237)から40年分のものがあったと考えられるが、現存しているのは一部で、自筆原本15巻と抄出記事ぐらいである。自身の熊野詣の様子が分かり、途中の紀州の宿泊地や接待の人々のこと、新宮と那智山のことがくわしく記されている。嘉正元年(1257)の本宮参拝は9度、新宮・那智は7度目であった。
一遍上人絵伝 1299年 縦書きへ
本宮大社で阿弥陀如来の化身熊野権現から神託を得た一遍上人(1239〜1289)の生涯を弟子聖戒により絵巻物として十年忌の正安元年(1299)に全12巻を完成させた。絵は奉眼円伊で宋元画の描法を取り入れ風俗風景や情趣を美しく描かれている。
道成寺縁起絵巻 1400年頃 縦書きへ
絵巻は、大日本国法華経験記(長久年間(1040〜44))の「紀伊国牟婁郡ノ悪女」や今昔物語(元和3年(1120))「紀伊国道成寺ノ僧法華ヲ写シテ蛇ヲ救ウノ話」からの説話が上下2巻の絵巻物となった安珍清姫物語(応永時代(1394〜1427))。寺伝によると後小松天皇が勅筆、絵は土佐光重が描いたといわれる。
この絵巻には安珍清姫の名前が無い、「安珍」の名は元亨2年(1322)虎関師錬(こかんしれん)の仏教史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に”釈安珍居鞍馬寺・・・・”とある。「清姫」の名が芸能で現れるのは寛保2年(1742年)初演の浄瑠璃「道成寺現在蛇鱗」からと云われている。
参考になるサイト http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok1.html
北野殿熊野参詣日記1427年 縦書きへ
「後崇光院御筆熊野詣日記」とも呼ばれ、応永三四年 (1427)10月、 室町幕府三代将軍足利義満側室の先達をつとめた住心院僧正實意が記した日記。この時の北野殿の参詣は応永三年(1396)以来13回目。 室町時代の熊野参詣を記した唯一の記録ものといってもよく、平安・鎌倉からの熊野参詣の変化を考える上で参考になる。夫の将軍義満は熊野より伊勢詣に熱心であった。
熊野年代記 江戸時代
徳川時代に成立したといわれる古文書で、神武天皇の時代から江戸・文政年間までの出来事を記述した熊野の古文書。原本は本願庵主蔵だといわれている。
参考になるサイト http://www.mikumano.net/nendaiki/index.html
近世の道中記等の地誌 江戸時代
江戸時代になりゆとりの出てきた庶民の寺社巡りの旅は伊勢参宮、富士登山、四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所巡りなどと同じ熊野三山も観光旅行として見られるようになった。初期の頃は写本で利用される程度であったが1750年頃より数多くの案内書が刊行されている。
17世紀中頃 『紀陽道法記』
和歌山ー長島、新宮ー田辺間の伝馬所や一里塚、道筋の距離、」駄賃、村の石高、棟数が記されている
17世紀後期 『従紀州和歌山同国熊野道之記』
和歌山から中辺路を通り大辺路で田辺までの地理や名所旧跡の説明
貞享二年(1685) 『熊野参山独案内記』
元禄二年(1689)児玉荘左衛門『熊野獨参記』全3巻(「紀南郷導記」と同じ))
和歌山から中辺路、大辺路を通り田辺までの地理、名所旧跡をかなり詳しく記録されている
元禄三年(1690)谷養流軒『西国三十三所道しるべ』
桑名、伊勢、熊野三山、中辺路、高野山、西国三十三所、谷汲山に至る里程、宿を記し旅の情報を簡素に記した懐中本。
元禄四年(1691)三好宗月の『熊野紀行』
元禄十四年(1701)風狂子『南紀歩行記』
享保七年(1722年)鳥居源之丞『熊野道中記』
紀州藩主の熊野参詣の為の記述らしく内容は簡素、九十九王子の所在地や社殿の有無に注意している
享保十三年(1728)伊勢山田、笠屋五郎兵衛『巡礼案内記』
明和二年(1765)茶所庵教順 『増刷道しるべ』
天明二年(1782)『巡礼道中指南車』
天明六年(1786)無名の関東農民の旅記録『西国道中記』
寛政三年(1791)下河辺捨水画『西国順禮細見記』
寛政六年(1794)玉川玄竜の『熊野巡覧記』 全4巻
泉州堺の人、古座に移り住み熊野の現地で編まれた歴史、地理、名所等の案内書である。「南紀歩行記」より引用あり。
寛政十年(1798)林信章の『熊野詣紀行』(別名:うらのはまゆう)全2巻
旅籠の宿賃や町並みの様子など庶民感覚の記載であるので面白い
寛政十年(1798)川井立齋『熊野紀行』
文化?年(1800)頃小原桃洞の『熊野中邊路採薬巡覧記』
嘉永六年(1853)暁鐘成『西国三十三所名所図絵』
参考になるサイト http://www.mason-kitani.co.jp/ohaka/no06.htm
紀伊続風土記 文化初年〜天保十年(1839)
牟婁郡の部は井田好古、仁井田長群、加納諸平、畔田翠山が編集し、熊野の調査にさいし山間部、海岸部とも丹念に調査している。天保十年(1839)完成の紀伊国地誌。1806年より編纂は始まる、195巻。藩領地誌97巻、付録(古文書集)17巻、高野山関係81巻からなる。紀伊国名所図絵同様、江戸時代の熊野信仰、郷土史、文学史の研究に欠かせない資料である。
紀伊国名所圖會 寛政十二年(1800)〜昭和十八年
北畠獲恪齋が「熊野遊記」を出版、それを元に高市志友が文化八年(1811)第一遍三巻、翌年第二編三巻、続いて加納諸平が第三編六巻、後編六巻(日高まで)を編纂。牟婁郡は粗稿の段階で発刊されていなかったが、昭和十二年から高市志友の子孫の高市志直により熊野編第一巻から第四巻までを昭和十八年に完成させている。熊野編は元の稿本の部分と昭和に補充した部分の区別が分からず史料としての価値は若干低いと言われている。
紀伊各郡聚落地名一覧 明治末期?
編者は不明、明治時代に作られたらしい。昭和の合併以前 の村名・大字名を知ることが出来る
参考になるサイト http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm#30
日高郡誌 1926年
和歌山県日高郡に昭和元年刊行された郡誌。熊野古道関係は第三・第二章・第一節に記されている。明治以前の運輸交通「熊野御幸道」に日高郡内における平安時代から鎌倉時代にかけての熊野街道が書かれ、又奈良時代の牟漏御幸道からの変遷が分かる
熊野王子考 1937年
著者は近代日本神祗史学の草分け的存在の宮地直一文学博士、
和歌山県聖蹟 1942年
上下巻。昭和12年より4カ年をかけて和歌山県下の聖蹟調査を実施。紀元二千六百年奉祝j事業の一環として発行した。本文は1000ページを越える。また和歌山県地方史研究に供する総合誌料となっています。姉妹編として「和歌山県聖蹟調査資料」があり本編の他に熊野御幸、牟婁温泉行幸・御幸、玉津嶋行幸、高野山御幸など四編の史料を収録。
熊野古道に王子趾を尋ねて 1961年
芝口常楠氏が、地元紀州新聞に連載された。地元の日高地方の九十九王子跡を広範囲な資料から詳しく調べられ、これほど詳しく考察しているのは外に見あたらない。 著書「葵羊園叢考」の中に掲載されている。
熊野古道の中世の日記等、参考になるサイト
http://onryo.syuriken.jp/kumano.html
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/siryou/hei/kiroku/hei-kiroku.htm
http://www.geocities.jp/ojiri8/simizukosekiitirann.html
http://www.kitohan.com/kumano-kodou/naka-oo-neji-michi-nendai.htm