熊 野 獨 参 記
この『熊野獨参記』は内容から元禄二(一六八九)年頃の著作で間違いないようであるが、筆者の氏名は不明とされている。熊野獨参記の別名と思える『紀南郷導紀』には児玉荘左衛門と作者名が書かれている。(紀南文化財研究会発行の「紀南郷導記」昭和42年による)
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*写本せし人の書き入れは省略したヶ所がある
*ルビは省略した
*パソコンに無い字は[ ]にひらがな又はかなで、割り書は「 」で傍書は( )で表している。
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尚、この記載は清水章博氏がワープロ化したものをHPで見えるように改変したものである。もし原文を希望するときは本人<
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熊 野 獨 參 記 巻第一
◎紀州和歌山廣瀬新豊町ハ ムカシ藤六ト云地下人川ヲ 築出シテ町トナス
今繁昌ノ地也 故ニ俗ニ藤六町トモ築屋敷トモ云 町ハヅレニ一里塚有 爰ニ無徳
庵「自一里塚少南左方」ト云テ一向宗ノ小菴有リ 是ハ若山ノ湊長覚寺「東門派ノ当国末
寺頭也」ノ隠居末寺也
此所ヨリ東ヲ見ルニ岩橋山 鳴神村 秋月村 日前宮ノ社咸目前ニ有テ 鳴神村ニハ
鳴神大明神オハシマス 南海四座ノ大社「所謂四社者日前宮國懸宮 鳴神大明神伊太祀曾大
明神也」ノ其一ニテオハシマス
何レノ世ヨリ誤リケン 妙幢菩薩ヲ社内ニ安置シ 世俗ニ夢ノ妙幢トハカリ云テ鳴
神大明神ハ何方ニ置給フヤ 覚知ル人稀ヤウニモ来テ 唯一ノ神道ハヲノズカラ廢
果テ習合トナレリ 伊太祈曾ノ神モ中比ヨリ誤テ○近昔マテ両部習合ナリシヲ國君
○ 近昔 原本近曽トアリ 芝口曰ク山日ナラン山日ハ時トヨム也
ナゲカシメ給イテ故ヲ温テ今唯一トナサシメタマフトヤ 日前宮ノ社内ニハ國懸宮
モヲハシマス 日前宮垂仁天皇十六年紀伊國名草郡秋月村ニ鎮座シタマフト云々
神職(ト)國造ト云 從五位下紀大膳太夫ト号ス 社領四十石モ寄付之 其以前ハ
○前 宮郷ハ「十二郷有之云」不残國造ノ領地ナリトゾ 然ニ天正十三乙酉年○前関白秀吉公
サキノ當國ニ御乱入有レ之時國造ノ家人太田ノ城ニ楯籠ル御処ロニヨッテ領知城モ没二収
トヨム之一セリ前君其来由ヲ被二聞召一社領御寄進有レ之 祭礼ハ恒例九月其日也 流鏑馬
ヲ射畢テ競馬有レ之國君ヨリモ例年馬ヲ被レ出サルナリ 御代参「御使番勤之也」有レ
之也
◎小宅村「手平村トモ云也」弓手ニ地蔵寺ト云小菴有レ之日夜念佛不レ怠「浄土宗也」此寺子
寧ノ地蔵有故ニ寺号トストカヤ 貴賤ノ婦人懐妊ノ時爰ニヲイテ帯ヲカケル時ハ出
産安寧ナリト云 此寺ノ前ヲ直ニ行ハ御墓トイフ三昧ニ往也 此○廣所ハ昔弘法大
師ノ草創トカイヘリ 此所ノ小菴ヲ三昧院ト号ス也
◎杭瀬村 小宅ヨリ此村ノ門ニ井溝二ヶ所有 橋ノ長三間半横一間餘也 坂田ノ橋長
○ 門 間か △ 原本 坂田橋ノ延長ヲ脱ス
此橋ヨリ二三町東ニ當テ坂田村有之 此所ハ前三浦長門守平爲春入道定環ノ知行所
ニシテ 即親父正木左近邦通法名環齋ノ菩提寺有レ之 此寺ハ旧了法寺ト号シテ天
台宗妻帯ナリシ 今ニヲイテ此村ノ土民等俗ナガラ法師ノ名ヲ付ル事此謂也ト思リ
○山日然ルニ那賀郡貴志ノ庄長山村ニ玄英寺ト号シテ 彼菩提寺ナルヲ近○山日此所ニ引テ
時ナラル日正山玄芙院了法寺ト号ス 法花宗ニシテ不受不施無本寺ナリシガ寛文年中不欠
ン不施御改易ノ時再ヒ改宗シテ天台宗トナセリ 此時ニ至テ和歌山天曜寺ノ末寺トナ
レリ千躰佛ノ堂並木像ノ涅槃堂有レ之 寺領ハ高三十石有レ之也 就中此寺北ノ方
川添テ行ニ順礼観音第三番ノ札所粉河寺ニ往道也 最彼所ハ名所也
風猛山ト云モ粉河寺ノ山ヲ云フトゾ 諸書ニハ加佐々木山ト書ク誤也ト云
玉葉集
見るたびに袖をぬらしてすくふ哉 おやの流れの粉川とおもへば 実 覚
又此所ヲ紅葉ノ洞トモイフトカヤ 紀伊守藤原重經發心ノ時康平七年六月廿八日観
音ノシメシ玉フ歌
玉葉集
花衣かさらき山に色かへて もみちの洞の月をなかめよ
◎田尻村 大日堂有リ 村外ニ板橋十五間ニテ 強盗坂上下一町半有レ之 ムカシ海賊
共此山ニカクレ居テ 熊野参詣ノ旅人ノ荷物ヲ侵奪タル故号共云フ 又安堵坂共イ
ヘリ 是ハムカシ日前宮ノ神鏡毛見ノ浦ノ内琴ノ浦ニカヽラセ玉フヲ 土民共見付
奉リ 此所マテ守護来テ安堵セル故ニ名付クトイエリ 両説共ニ不是不非ナランカ
ヲ年ハ熊ヶ崎ト改ル也 右ニ記ス小宅村ヨリ直ニ南ニ行ハ 中島村入口ニ子寧ノ地
蔵有 是ニ於テ貴賤ノ妊婦帯ヲ借テ着帯スレバ安産スト云リ 村ノ中程右手ニ観音
寺「浄土宗也」有レ之 是ヨリ西ニ小雑賀村有 中島村ヨリ此間ハ イヅレモ塩濱也
小雑賀村ノ半程船渡有レ之 此川ノ向テ字津村トイフ 此所ニ浄心寺ト云テ日蓮宗
有レ之 此上ノ南ニ續ヲ愛宕山ニテ 開基ハ不動院山伏五十六七年前 寛永年中草
創也愛宕山瑞雲寺円珠院ト号ス 寺領僅ニ有レ之 脇坊ハ利生院 吉祥院 正光院ト
テ三ヶ坊有レ之 尓此山ノ南ヘ續テ御坊山有 此間ニ少キ谷有レ之 彌勒寺谷ト云テ
古ノ葬場ナリトイフ 今ニ残テ古墳多シ 此山ヲ御坊山ト号スルコトハ 天正年中
比六條ノ本願寺顕如上人父子 摂州大坂居城ヲツクル 其濫觴ヲ粗尋問ニ 中比一
×還化向宗ノ元祖親鸞上人ヨリ第八代蓮如上人「明應八年三月二十五日八十六歳而×延化也テ世号二
廿五日一」明應五年ノ秋ノ比ヨリ 摂州東成郡生玉ノ庄内大坂村云所ニ 始テ坊舎
ヲ一宇取立給ヒ居住シ玉フ ソレヨリ実如 性如 顕如上人マテ四代相續テ此所ニ
居住シ一宇繁昌セリ 柳営信長公或時彼地ヲ見玉イ 西國押ノ爲一城ヲ此所ニ取置
カント思召テ 顕如上人ヘ此地背楯ヲ索給ヒタルニ 竟ニ意ヲ拒ミ毛利輝元 並紀
州根来雜賀ノ悪徒共ヲ皆楯トシ 三好 細川ノ者共ヲ一味ニシテ 近國近境ノ一向
宗ノ悪徒ヲ語イ 外構ニ柵 逆茂木ヲ引テ敵対ノ色ヲ顕シ給フ 信長公大ニ憤怒マ
シ/\両葉切断ニ斧柯ヲ用ルニ等カルヘシハ思召ケレ共 其比江州淺井 越前ノ朝
倉 中國ニハ毛利ノ一類 西國ニテハ宇喜多八郎直家 四國ニ長曽我部元親 薩州ノ
島津「後号二龍伯一」等未レ降 然レバ大事ノ前ノ小事ニ拘ル事上策ニアラズト了簡マ
シ/\ 先天王寺其外所レ々ニ付城囲取敷テ人衆ヲ入置守シメ給ヒケリ 元来要害
堅固ノ地タル上 寄手ノ内ニ同宗信仰ノ者多カリケレバ 大坂ニ向テ鉄砲ヲ打ニ玉
矢筈也ヲ取込 箭ヲ放ニ
筈ヲハヅシテ弓ヲ射ル 又ハ夜ニ兵粮ヲ持運寺内ニ入ケレバ 一
揆勇悦テ少モ不屈 合戦年序ヲ經タリ 此時寺中ニテ寄手ノ中ニ城ヲ射ヌ乱○幾人
有ナト云 ○○気界ヲ後ニ誤リテ一向宗ヲ○○○白犬宗トモ云シトカヤ 然ル所元亀元
○乱妨人カ ○○気界ト気留カ 白犬宗ハ城射ヌ宗也 ○○○ シロイヌ ×創 ?
年頃午九月十四日 大坂ヨリ天満森ヘ射出ル信長公ノ勢馳右川ヲ越春日井塘ニテ合
戦スル 一番佐々内蔵助「後号二陸奥守一一」×鎗ヲ被テ引退 二番前田又右衛門尉利家
「後任二大納言一」嵬合右手ハ中野又兵衛弓ヲ射ル 弓手ハ湯淺甚助能慟 此時城中ニ
テモ 紀州海士郡木本村ノ住人木本左近太郎 下間ナトイフ者能慟クヨシ 此節大
○乗取坂ヲハ○采取ベキ所ニ叡山ノ衆徒淺井朝倉ト一味シ 両勢ハ既ニ坂本口マデ乱入ス
ルノ由注進有ケレバ 大坂表ニハ人数ヲ残サレテ 信長公ハ早々御帰洛アリ 其後
天正四年四月十四日荒木摂津守永岡兵部大輔 藤孝「後号二幽齊一」惟任日向守光秀原
田備中守此四人ニ 上方勢ヲ指加ヘ大坂ヘ押詰ル 荒木ハ尼ヶ崎ヨリ海上ヲ慟大坂
ノ北野田ノ郷ニハ附城ヲ構 並テ三ヶ所掛 川手ノ通路ヲ取切 惟任光秀
永岡藤
孝ハ大坂ノ東南守口 毛利河内守北口ヲ取付ル 原田備中守ハ天王寺ニ要害ヲ夥敷
揃ヘ 佐久間甚九郎惟任光秀トモニ天王寺ニ居城スル 此検使トシテ大津傳十郎
猪子兵助ヲ被二指副一 敵ハ楼ノ岸 木津両所カラメテ難波口ヨリ海上ノ通路ヲナ
ス爲 此ノ間ニ三寺ト云所有 寄手ヨリ是ヲ取ハ敵ノ通路一ノ廻ト評議シ 同年五
月ノ三日ノ暁ニ 先手三好笑岸斎 根来和泉勢ヲ三手ニシテ 原田備中守大和山城
ノ勢ヲ引率シ 彼三寺ヘ推寄シニ 敵モ楼ノ岸 木津両所ヨリ撃出 数百挺ノ鉄炮
ヲ以テ双方ヨリ討立ニヨッテ 闘敗軍シ原田備中守下知能スルト云共 敵多数故ニ
取篭原田備中守 塙喜三郎 蓑浦参右衛門討死ス 敵是ニ競テ夫ヨリ直ニ天王寺ニ押
寄ル 惟任光秀 佐久間甚九郎 猪子兵助 大津傳十郎其外江州勢防戦 信長公ハ京
都ニ於テ此注進ヲ聞取テ 安土ノ普請衆へト相觸 五月五日ニ後攻トシテ京都御出
馬也 御供僅ニ百騎計ニシテ若江ニ至テ着陣シ 俄ノ事ナレバ軍勢未二馳来一ト云
共 此城五三日ノ間モ難狗旨度々至テ注進ナレハ 味方一人モ攻殺テハ如何也トテ
五月七日御馬ヲ寄セラレ 敵ハ一万五千計味方ハ三千ニハ過ズ 三段ニ隊ヲ討向ノ
御魁一段ハ佐久間右衛門尉信盛 松永弾正久秀 長岡兵部大輔藤孝並若江ノ衆ナリ
二段ハ瀧川左近將監一益 羽柴筑前秀吉 蜂谷兵庫頭頼隆 惟住五郎左衛門長秀
稲葉
伊豫守「後号二一鉄一」 氏家左京亮 安東平左衛門 池田勝三郎信輝「後号二勝入軒一也」
三段ハ御旗本トモニ住吉ヨリ相対 信長公ハ魁ノ足軽ノ内ニ交リ下知シ玉フ 此
時御脚ニ鉄炮玉ヲ負タマイケレトモ コトヽモシタマハズ 敵ヨリ数千挺ノ鉄炮ヲ
放懸ト云共 大將采幣ヲ取テ嵬玉ヘハ 諸勢一同押掛突崩シ一揆ハラヲ斬捨ニシテ
直ニ天王寺ニ嵬入玉フ 然レトモ逆徒多勢ナレバ 重テ天王寺ヲ取巻ク 信長公時
分ヲ窺ヒ衡テ出 咸追散シ 大坂城ノ戸口ニテ推詰メ 敵ヲ千百人余討取リ 夫ヨ
リ又大坂ヲ四方十ヶ所ニ附城 又夫ニ被二取付一天王寺ニハ 佐久間父子 近藤山城
守 池田弥二郎 山岡孫太郎 青地千代壽丸 永野監物 松永秀久 同久通等ヲ常番ト
シテ 住吉ノ濱手ニモ足掛ヲ拵 真鍋主馬兵衛 沼野傳内等ヲ海上ノ警固トシ玉ヒ
テ 六月五日御帰陣有 同年七月十六日中國ヨリ能島 来島 児玉内蔵大夫
栗屋四
郎大夫 浦野兵部等七八百艘ノ兵船ニ取乗テ 大坂ヘ兵粮ヲ入レントスル 是ヲ見
テ真鍋主馬兵衛 沼野傳内 沼野伊賀 沼野大隅 宮崎鎌太夫 同鹿目助並尼崎ノ小畑
花隈ノ野口此等三百余艘ノ船ヲ以テ 木津川ノ川口ヘ乗出防戦ス 然所ニ大坂ノ一
揆楼ノ岸 木津穢多坂ヨリ討出テ 住吉濱手ハ城ヘ足軽ヲ掛ケ 是ヲ見テ天王寺ヨ
リ佐久間信盛 人数ヲ出シ嵬合少時戦タリ 海上ニテハ敵方ヨリ船中へ 砲禄火ヲ
数多ナゲ入攻嵬 又敵カスヲカノ城主村上八郎左衛門下知シテ 海賊トモヲ数多海
中ヲ潜ラセ 閹ノ當船ノ底ヲ切破ラレケレハ 或ハ船ヲ乗沈メ被二焼破一テ 死傷
スル者員ヲ知ラズ 真鍋主馬兵衛 沼野傳内 沼野伊賀 野口 小畑 宮崎鎌太夫
同鹿
目助此外悉ニ討死スル 敵ハ大利ヲ得テ 兵粮咸城中ニ運入テ中國ニ帰帆シケレリ
此旨信長公聞召 急ニ御發向有ヘキ所ニ 敵ハヤ引取タリト注進ヲ告レハ 住吉濱
手ノ城ニハ保田久内 碓井因幡 伊知地今太夫 宮崎次郎七等ヲ常番トシテ入ヲカレ
タリ「私曰此船戦事中國勢咸兵粮城中へ取入帰帆之時之戦也ト号ス」其後天正八年近衛左大臣
龍山ヲ以テ敕諚有 本門跡者尺寸ノ寺領ヲ爭ニアラズ 一里四方ニ足ヌ大坂ヲ惜テ
久敷籠城イタシ 天下ヲ苦シムル事謂ナシ 何方ヘモ退普佛法ヲ可レ弘ト云々 上
人敕答ニ曰ク 叡慮ノコトク諸派ニサヘ妨於レ無レ之 邊地遠國へナリ共退出可レ仕
旨言上ヲナス 依レ之信長公敕問アリ 信長公ハ敕諚ト云且ハ長袖ノ後ヲ憐ニ思マ
シ/\ 且ハ天下太平ノ功ヲ思召ニ依テ 大坂退出仕ルニ ヲイテハ 悉悪徒ノ命
ヲ可レ被レ助 其上五畿内何レノ所ナリトモ 如レ望
坊舎ヲ人々二建立一勧化シテ 聊
以不レ可レ有レ妨 然トイエトモ向後見懲ノ為ナレバ 寺中張本ノ者不レ残頭ヲ可レ
刎トノ敕答也 故ニ龍山カサネテ大坂ニ下サレ 此旨申渡サルヽニ 是ニヨッテ顕
如上人此度予ガ命二代者アラバ 七代決定往生ノ御礼ヲ可レ賜ト 陣中ヲ觸ラレシ
ニ吾死ニ人切ニト諍テ 是ヲ延テ出ル者凡百人ニ余リシトカヤ 故ニ鬮取ニシテ六
十六人ハ首ヲ切テ出サレケリ 其後門主ハ息教如上人並家老等ト談合有レ之 大坂
相渡不二退出レ奉 若抜テニ公事致スニヲイテハ奉レ願彌陀如来ノ背二御本願一 殊
ニハ釈迦三世ノ諸佛並天神地祇開山等ノ御罰ヲ蒙 今世ハ冥加ニ尽来世ハ阿鼻大城
ニ墜在スベキ者也ト盟約ヲ書認 光佐判 光喜判其下ニ刑部卿按察使 少進等マデ
嚴重ニ血判ヲ加 敕使ニ被レ渡和平相整処ニ 子息教如上人ハ傍若無人ノ溢者共ニ
スヽメラレ 誓盟違背ノ心出来ル 依テ父上人雖レ有二異見一曽テ用ヰス 顕如力ナ
ク右ハ後禁廷ヘ申上ラル 當宗第一尊崇シ奉ル御真影ヲハ密ニ大坂ヲ守出シ 女輿
ニ乗雜賀孫市 根来小三 ツチヤ源ノ太夫等一騎當千ノ者共 五千計前後ヲ守護シ
朝マダキニ堺口ノ門ヲ出 木津ヨリ船ニ乗順風帆揚タルハ 其日ノ暮程紀州鷺ノ森
ノ御坊ヘ入申ス 其後顕如上人ハ天正八年四月四日大坂退出有之 同月十日鷺ノ森
ニ入玉ヒケリ 教如上人ハ大坂ニ残留リ合戦セリト云トモ 鼻熊 勝曼ノ出城トモ
咸責崩サレ センカタナク再和平ヲ乞給ヒ 信長公聞召早速ユルシ出シ親子一處ニ
ナスベキ所ヲ焼打ニセル 人数ヲ取損シテ可レ安ト了簡マシ/\則肯給フ 教如ハ
忝ト同年八月二日大坂ヲ退出シテ 紀州和歌山今ノ御坊山ニ入タマフカサネテ教如
上人國々ノ一向宗ヘ觸マハシ 再叛逆ヲ企給フ由 有二其聞一信長卿旧悪ヲ憎ミ思
召折節 幸四國征伐ノ大將トシテ 三七郎信孝和泉ノ堺ノ津ニ在陣セラレシヲ マ
ヅ紀州ノ門徒ヲ可二討平一ト御下知有 天正十年六月三日信孝三千ノ人数ヲ率ヒ 泉
州濱手ト紀州山口越トニ打ムカイ給フ 然所ニ信長公明智ノ爲ニ 昨日京都本能寺
ニ於テ生害ノ由 告来ニ依テ早々紀州表ヲ引取タリ 教如ハ上方勢推寄ト聞テ先テ
御坊山ヲ出 濃州岐阜ノ内ヘ落テ 船橋ノ誓願ハ計竟トシテ 郡上ノ奥飛騨ノ堺ニ
八代八右衛門ト云テ一向宗ノ者有 此家ノ内ニ新宅ヲシツラヒ 教如ヲ入置タリ
然ルニ信長公御父子生害ノ聞有ケレバ 再紀州ヘ立帰リ 父上人ノ勘當ノ侘言有ケ
レバ 則三ヶ條ノ誓紙ヲ書出玉イテ 勘當ヲユルシ給フ ソノ後顕如上人ハ天正十
二年八月中旬 紀州ヲ出テ泉州貝塚ニ住玉フ 同十四年摂州天満ニ住ミ玉フニ 秀
吉公天下早呑ノ時ニ至テ 洛陽本願寺ニ遷住シ給フ
抑々紀州鷺ノ森御坊ト申ハ旧名草郡志水村ニアリ 此村ニ喜六太夫ト云ル土民有
或時蓮如上人熊野参詣セラレシニ此処ニヤドリ玉フ 喜六太夫ハ一向宗ノ奥義ヲ尋
問セシニ 上人渠ガ信仰ヲ奇特ニ思イ玉ヒテ 祖師親鸞ノ御影ヲ畫テ與レ之玉ヒケ
リ 喜六カ曰 トテモノ事ニ貴僧ノ御影ヲモ顕シ玉ヘカシト望ミケレバ 即一紙ニ
畫レ之與ル 其後此所ニ一宇ヲ建立ス 喜六太夫ハ臨終正念ニシテ 往生ノ素懐ヲ
遂ゲ遺言ニ依テ 彼御影ヲ御坊ノ什物トナセリ 其ノ後此御坊ヲ鷺ノ森ヘ引シト也
今ニ於テ毎歳三月二十五日彼御影ヲ二双佛ト号シテ 同二十八日マデ四日ノ間開帳
シ 諸人ニ拜見サス也「御坊敷地二町四方國君下給」然ニ顕如上人ニ三人ノ男子アリ 惣
領教如上人ハ武道ヲ專トシテ軍法ヲ鍛錬シ 乗馬ハカリ百八疋養玉ヒケル 依レ之
父上人ノ心ニ協給ハズ 次男ハ興正寺ニ入院シテ本願寺脇門跡ト敕許ヲ蒙リ 口宜
ヲ賜リ奥門跡大僧正顕学上人ト号也 三男ハ阿茶九児光照ト申 是則顕如上人ノ後
住也 顕如上人ハ文禄元年辰ノ霜月廿四日ニ遷化セラル 依レ之三男准如上人光照
ヘ本願寺八町四方ヲ譲玉フ 是ヨリ連枝ノ中不和トナル 教如上人ヲハ父上任世ノ
時ヨリ寺中東ノ方ニ小菴ヲシツラヒテ入置給ヒタリ 秀吉公熟ニ御思案有 若此宗
旨再一揆ヲ発スニ於テハ最天下ノ騒動ナルヘシ サレバトテ科無シテ宗旨ヲ潰サン
事モ三宝佛陀明鑑ニ背キ 又武勇ノ不足ニ似タリ 所詮謀ヲ以テ諍ハシメ 内ヲ今
ニ不レ如ト賢慮ヲ取廻シ 教如ヲ御取立有テ御慈愛深シ 即一宇ヲ造立シ教如ヲ開
基トシ給タリ自レ 是東西ノ本願寺ト別テルトモ聞ヘシ 教如上人辱キ事ニ思ヒ
方々ノ御陣ノ供奉一度モカクル事ナク薩州マデ努給フ 其後東照神君天下御握奉ノ
時ニ至テ秀吉公ノ廣大微妙ノ智ヲ察セシメ給ヒケレバ 弥教如ヲ御崇敬有 慶長五
年ノ夏野州小山ヘ供奉セラル 夫ヨリ関ヶ原ノ役マデ彼二召列一タルトソ聞エシ
其後教如上人ヘ寺地四町四方ノ被レ下ヘシト被二仰出一 此所奉行板倉四郎右衛門 加
藤喜右衛門松田勝右衛門等ノ所司代打渡所ニ 寺地不足ユエ西本願寺ノ地ヲ一町打
入テ教如へ遣ス 此旨及二台聞一加藤 松田御叱ヲ蒙リ 加藤ハ奥州岩城ヘ追下サ
ル 松田ハ黄金五百枚首代ニ可レ出ト御下知ニテ家財咸没却シ其後身上果シト也
夫ヨリ板倉四郎右衛門「?号二伊賀守一也」教如ハ地不足ニヨッテ四町ニ三町被レ下 上
人忝サノアマリ 某ガ末寺ト住ム者ニハ 嚴密ニ誓詞ヲ致サセ 國々ニ今置ホドナ
ラバ 御當家ニ奉レ封後ニ末代ニ至テ 國主 郡主若反逆ノ時ハ時日ヲ不レ移言上
仕候様ニ可二申付一ト 潜ニ言上ヲハ申ザレケリ 依レ之益御崇敬アリシトカヤ 今
ニ於テ御代替ノ節国々ヨリ東門派ノ末寺ヲ本願寺ニ召集ル事ハ 彼誓紙ヲ書サン爲
ナリトゾ亦淨心寺ノ門前ヲ北ヘ行ハ諸士ノ下屋敷有 夫ヨリ伊原町 此所ハムカシ
伊原某此時ヲ取立ト云ニ 故ニ神ニ祝テ伊原大明神ト号ス 此町ノ西ニ小社有レ之
◎塩道村 新堀 吹上諸士ノ屋敷ニ行也 塩屋村ノ北往還ノ道筋ニ菊本橋「石橋也裏ニ有レ
銘李梅溪筆」此橋ノ西ニ見ユル在所ヲ葛輪里ト云テ共ニ旧跡也 小雜賀村ニテハ素
麺ヲ家業トス然ニ此村ノ中ニ朝夕ノ用水ナシ ムカシ弘法大師ニ水ヲ惜ミタルユエ
ナリトモイヒ傳 向ノ宇須村ヨリ用水ヲ汲也 サレトモ近年ハ井ヲ掘テ今ハ一ツ有
レ之ト云 此所ヨリ三葛村ニ行ニ 強盗ノ鼻ノ渡船ニ乗也 中島村ヨリ三葛村エ行
クニモ此渡ヲ乗ナリ 但シ此渡ハ中島 三葛両村ヨリノ渡ニテ 日ノウチハカリ有
レ之干潮ニハ歩タリナリ
◎三葛村 是ハ順道ヨリ西ノ山陰ニシテ 雁頭坂辺ヨリハ見エズ 此村ノ中左手ノ方
ニ装束ノ場ト云テ少ノ空地有レ之 ムカシ日前宮ノ神鏡秋月村ヘ遷座ノ時 此ニテ
葛ヲ以テ装束シ奉ル由緒ニ依テ 三葛村トナツケシト土俗ノ説ナリ 然レトモ文字
ニ付テ聊カ不審アリ 若此節決定ナラズ 神葛ト可レ書也ナホ尋ベシ ウエノ方ニ
妙見菩薩ノ社アリ 是當所ノ氏宮在所ノ中ホト 左ノ方ノ山ノ麓ニ正行寺「浄土宗
也」ト云フ有レ之 同少シ脇ニ福壽院「真言宗也」ト云有 同大日堂有レ之 右寺ノ
本尊ハ観音ノ像作有之スベテ此辺入海ニシテ塩濱也
紀三井寺山ヲ左ニ見テ二王門前ヲ南ニ行 是熊野順道也 右手ハ遠淺小川有 紀三
井寺山ハ順礼第二ノ札所也 本尊ハ十一面観音 脇立千手観音也 亦左右ニ天照大
神春日ヲハシマスト云 秘佛ナルガ故ニ開帳スルコトナシ 然レドモ住持ハ「号二本
願一也代々不レ日勿レ天平宝字 名也」密ニ拜ストカヤ 當寺ノ開基ハ天平宝寺コロ報恩
法師ト云 願主ハ宝亀元年ニ爲光上人「後号二円弥一」建立也 大檀那ハ嵯峨天皇也
其後大同元年三再興有ト云 本坊ハ紀三井寺山金剛宝寺護國院ト号ス 寺領二十一
石五斗三升也 脇坊ハ普門院瀧坊 誓海院 豊藏院 海龍院 海東院 法性院 宝積院
正住坊以上九ヶ坊也 外ニ観音ノ御供所ト云比丘尼有 イツレモ真言宗也 當山ノ
中程西ノ方ニ大塔木「或ハ横道木ト云」ト云奇木有レ之 四季共々落葉セズ大木也 或
説ニ竜宮城ヨリ寄附ノ木也ト云リ 亦大塔宮熊野へ落サセ給フ時 手自植サセ給フ
木也ト云リ 然レハ大塔ノ木ト云ベキヲ
皇方物産恵ニ應同ノ樹ト畫ス たぶのき也(芝) ● 是(芝) XX 濃墨ナルベシ(芝)
俗ニ誤テおほどの木ト云リ 二王門此前ニ殺生禁断ノ石有「碑銘李梅溪書□也」●○ヨ
リ本道ヘ上ル道筋近頃石段トナレリ 先年ノ道ハ西ノ谷ヲ北エ向テアカリシ也 于
レ今古道有レ之 當山ノ内ニ楊柳水 吉祥水 清浄水ト云 三ッノ井有故ニ山号トス
ト云リ 右三井共ニ上葺「瓦也」有之 天井ニXX農墨絵龍狩野興南書レ之 本當ハ南
ニ向フ 霊佛霊宝多シ 中ニ錫杖、鐘、法螺貝アリ 是等ハ龍宮ヨリ寄附スト云傳
タリ 最霊器也 然共貝ヲ何ノ時カ盗賊ノ爲ニ失シト云リ 本堂ノ前左右ニハ石燈
籠並ベリ 同右ニ經堂有 又本堂ヨリ巽ノ方ニ山上ニ二重ノ塔アリ 本尊ハ大日
西ニ向フ艮ノ方ニ鳬谷トイフ旧跡有 此上ヲバ名草山 名草浦 名草濱ト云名所也
後撰 恋二 讀人不知
跡みれば心なぐさの濱千鳥 いまは声こそ聞まほしけれ
拾遺愚草 定 家
友千鳥名草の濱の浪風に 空さへまさるあり明の月
夫木抄 前大納言
白雲のちヽの衣手立わかれ けふや名草の山路こゆらん
日前宮ノ祭礼ノ時ハ此山ヨリ榊ヲ切出スト也 今沙汰ナシ
風雅集 紀 俊文
名草山とるや榊のつきもせす 神わさしけき日のくまの宮
山上ニ伊勢 熊野 住吉 豊國ノ社有レ之 當山ノ西ノ方ハ入海ニシテ尤塩濱也 此
辺ニテ焼塩ヲ雜賀塩ト云テ名物也 其色極テ白シ
本堂ヨリ西ヲミルニ阿波 土佐見ユ 諺曰 此所ハ大唐ノ八景ニモオトラス 恨ハ
洞庭月一ツ缺トカヤ 誠ニ絶景ノ地云ヘシ 目前ニワ和歌浦 妹脊山 玉津島
養珠
寺ナト直下也 此所ヘ渡ルニ満汐ニハ船渡有 潮干ニハ歩ヨリ行ト 路十八町也
沼ニハ蠣多シ 並苔生ルイモセノリト謂レ之 亦少シ北ノ方リ宗祇ヵ瀬ト名ヅク
同側ニ松有宗祇松ト云 往昔連歌師宗祇「当国有田郡藤浪産人云也」此處ヲ渡テ玉津
島百日マフデヲセシ所也 依レ之名トスト云リ 彼玉津島明神ノ御事ハ○○景行天
皇ノ后衣通姫ノ廟所トカヤ 此所ニ鎮座ノ濫觸 今明ニ知人ナシ
○○ 原本ニ景行ハ允恭ニ改ムベシト書入アリ
後撰 恋三
玉つしまとふき入江をこく船の うきたる恋もつきはつるかな
本地ハ聖観音也 神楽有レ之 神職ハ高松采女ト云 亦此並ニ牛ヵ窟ト云名所アリ
俗ニカタミノ岩屋共云へリ 慶安年中此所ヨリ唐ノ鏡ヲ堀出セシヨリ号スト云 洞
ノ内ニ小社有レ之 昔高野明神ノ御輿此窟ヘ毎年渡御アリシトカヤ 子細ハ高野大
明神玉津島姫ヲ思召テ 馬ニテ忍ビ通ヒ玉ヒケルヲ 丹生明神易カラヌ事ニ思召テ
彼玉津島ノ神ヲ奉レシ時ハ 丹生明神ノ御前ニテハ輿ヲナラサヌ事ニテ侍リト云
但神輿ヲ奉ルコトハ今ハ断絶也 高野ノ大師第七巻ニ見エタリトカヤ
家集 牛ノ窟ノ事 公任卿
あま人ののりわたしけむしるしにや いはやに跡をとじめおきけん
同並ニ妹背山有 是ハ前大君頼宣卿ノ御母堂養珠院殿ノ正保年中ノ御草創也 朝日
屋 芦辺屋トテ茶屋二軒有 其前小橋三カヽレリ 是ヲ渡リテ妹背山ニ詣ル也 經
堂ハ一石ニ一字ヅヽ法華經ヲ書写シ奉納セラレシトカヤ 經堂ノ前ニハ水中ニ石柱
ヲタテヽ 其上ニ槻ヲ以テ作レル舞台アリ 山ニハ二重ノ塔有 尤殺生禁断ノ地也
御堂守ハ暁雲ト云二人扶持被レ下 同並ニ菩提寺有妹背山ノ養珠寺ト号ス 法花宗
也 此山ニ妙見菩薩堂有 先君ノ草創也寺領二百五十石宛寄二付之一 亦此寺ニ京都
原本菩薩ヲササト書ス 佛者ノ畧字トテササボサツト云也ニ依テ考フルニ著者ハ佛弟ナランカ
芝口曰ク 必ズシモ然ラザルベシ 宝塔トスベキヲ二重塔ト書スルナド佛弟トシテ疑ハシ
ノ地下人ハイ屋三郎右衛門ト云者ノ妻ノ書ル法華經一部有 是ハ寛永年中吉野ト云
テ名高キ遊女 京都ノ者ナリシカ彼灰屋ニ嫁シテ後 現世後世ノ祈ノ爲ニ書写シケ
ルトソ 筆勢美ト云リ 若州長源寺ノ住持日演ハ 吉野ノ帰僧ナレバ附ノ興シケル
トヤ 日演ハ後年養珠寺住持セリ 故ニ彼法華經ヲ此寺ノ什物トセリ 彼寺ノ艮愛
宕山ノ西ノ山際ニ 鶴立島ト云舊跡有「碑銘李梅溪書」昔此ワタリニ芦辺寺ト云テ 青
面不動ノ堂アリシト云傳 中比源義經讃州八島ノ内裏ヲ攻タマヒケル時 臣佐藤嗣
信教經ノ箭先ニカヽリテ馬ヨリ落 其折洲崎ノ堂ヨリ遣戸ヲ取寄 是ニ乘テ義經ノ
御前ニ出シト云事有洲崎ノ堂「飛騨 工造レ之云」ヲ當所ニ引テ芦邊寺ト号ストカヤ
由緒ヲ聞クニ天文年中コノ讃洲八島洲崎ノ堂守ハ紀州ノ者ナリシカ 其比乱國ニテ
兵火ノ爲ニ此堂ノ焼ナキ事ヲ悲ミ 彼堂塚 筏ニ組テ舟ニヒカセ 本尊青面不動ヲ
モ守テ 紀州海士郡ニ帰テ 當所ニ彼堂ヲ取立 改テ芦辺寺ト号ス ソノ後天正ノ
比オホヒニ當國モ乱國ト成テ 爰彼ニ兵火多シ 故ニ再此堂ヲ名草郡山東庄黒岩村
ニ於テ再興セリ 然ニ慶長初ノ比 當國ノ主淺野但馬守長晟ノ内室「会津御前ト申奉
ル是也」蒲生飛騨守秀行後室也 當國ヘ御入輿ノ後聞召テ 又彼堂ヲ同國岡ノ谷ニ合
レ引タマヒ 且ハ御祈願所且ト岡大明神ノ別當職ヲ勤テ 松生院芦邊寺ト号セリ
然レドモ近年岡大明神ヲハ唯一ニ改サセタマフニヨッテ 芦邊寺ハ今ハ神職ヲハ不
レ勤ト也
妹背山ヲ西ニ行和歌ノ市町ニ出ル 此町ノ中ニ大相院有 是ハ六坊ノ内ニテハ滅罪
○下馬寺也 夫ヨリ下馬橋へ行也 欄干共ニミカゲ石也 傍ニ七尺余ノ長石ニ○二字札ヲ彫
ノ字カテ是 ヨリ左ニ中道有 是ヲ行ハ御旅所並出島ヘ出ル也 下馬橋ヲワタリ右手ニ宝
蔵院 正法院 玉泉院 和合院「以上六ヶ坊ノ内也」相並ヘリ山ニハ 東照大神宮ヲ奉崇シ
玉フ也麓ニ石ノ鳥井有 碑銘左ノ柱ニ 維明堅萬世垂レ跡 右ノ柱ニ東照掲日華表劉
レ石云々 是ヨリ御神前万テ石段也 御宮ノ右手ニ御供所有 此ノ並右ノ手水鉢有
此際ニ大木ノ櫻有レ之 御手水鉢ノ櫻ト云 色香透逸ナレバ花ノ比ハ貴賎群ヲナセリ
是ハ野州日光山ノ御手水鉢ノ株ヲ接セラルヽト云ヘリ
X 原本ニ山トセリ ●● 後(次頁)ニ円威院トアリ
御神前ヨリ麓マデ石燈籠左右ニ並べリ 麓ニ御橋有テ辨財天有 別當ハ和歌X浦天曜
寺雲蓋院「権僧正也」ト号ス 外ニ六ヶ坊有所レ謂 六ヶ坊ハ和合院 正法院 ●●円成院
玉泉院宝蔵院 大相院是也 社領千石被ニ寄二附之一 此内ニ二十石宛六坊ヘ配分ス
ル也 和合院ハ前抑営大猷院殿ノ御霊廟有レ之 是ハ先君頼宣卿承應四乙未年四月
廿日御造立也 大奉行渋谷角右衛門重信 御造工奉行松下秀十郎信綱 栗生利右衛門
重正大工ハ中村藤吉 藤原宗久等也 同最有院殿ノ御霊屋アリ 故ニ御供領別ニテ現
米百石余被二寄附一テ 又天神山モ此御山ニ續也 大権現ノ御山ハ元来天神山ナリシ
ヲ御勧請以後モ其代地トシテ天神田畠御寄進有レ之 慶長十年浅野紀伊守幸長再興
シテ豊國大明神ヲ勧請シ 天神ト号セラレケルトソ
此並ニ観音堂有 慶長四己亥年二月 桑山治部卿法印宗栄建立セラル 奉行ハ時ノ
代官三谷太郎兵衛 大工ハ和歌山ノ中屋與左衛門ナリシト云ヘリ 山門ニ額有高陽
門ト云シ 拜殿ノ歌仙共ニ三貌院ノ筆也ト云 近年順礼楽書ヲ爲ニヨッテ 歌仙ハ
今納蔵ニ納タリ 麓ニ神主有 安田兵部少輔「元号二左馬一」ト云 從五位下 初任トカ
ヤ大権現ノ神職ヲモ兼勤ト也 此隣ニ六坊ノ内円威院アリ 華表麓ノ葭原ニ有 是
ヨリ出島村へ行 則和歌ノ浦ナリ 風景他國ニナラヒナシ 陸奥チカノ塩釜浦ニハ
遙ニ勝レリトカヤ 世俗誤テ此海ヲX片帆浪ト云リ カタヲ波トハタヾ浪ノウハサニ
シテ浦ノ名ニアラズト也 右手ノ山ノ腰ヲ海辺ニツタウテ 田ノ浦 雜賀崎ニ行也
此浦ハ何レモ漁師也 右手ニ行ハ毛見浦 琴ノ浦ニツヽケリ
X 片男波 女波ナキ故片男波ト称ストナス
續古今 雜 山辺赤人
和歌の浦に汐みちくればかたおなみ あし辺をさしてたつなきわたる
又紀三井寺ノ前入海ヲ少シヘタテヽ 向ノ砂濱ニ布引松有 往昔日前宮ノ神鏡此處
ニアラセタマヒシニ 餘光陸ニ移ル 故ニ往還ノ人民是ヲ奉レ恐ニヨッテ 此松ニ
布ヲ引テ光華ヲ蓋奉 夫ヨリ此松ノ名トスト云リ 此所ニ先君ノ命ニヨッテ新田並
民家十六軒ヲ三葛村ノ土民ニ被二建下レ之 三郷村ト名附サセラレシ也 今家数多ナ
レリ 眞桑瓜 防風ナド多作レ之 此所ヨリ毛見浦マデヲ琴ノ浦ト云名所ナリ ムカ
シ日隈ノ神鏡此浦ニ始テアラセタマヒタリト云ヲ 今旧部三社ヲハシマス 毎年九
月廿三日國造爰ニ来テ行有シト也 今ハ断絶ナリ
倭姫命世紀曰 五十一年四月八日遷二木乃國奈久佐濱宮一積三年之間奉レ齋 于レ時紀伊國造進
二 舎人紀麻呂良地口御田一云々
然レバ大神宮伊勢國度會郡五十鈴ノ河上ニ鎮座シ給ハサリシ 以前ノ旧跡モ此所ニ
ヤ猶尋ヘシ
夫木集 仲 正
春風に浪のしらふる琴の浦は かもめの遊ぶところなりけり
右ノ所ハ順道ヨリハ妻手ノ方濱辺也 ● 右手ハ馬手 左手ハ弓手也
◎内原村馬次也 村ノ入口ニ●右手ニ小社有 是ヨリ少先ニ松ノ中洞ニモ小禿有 此所
ニ藻久津川橋ノ長十四間ハバ一間半有 旧跡ト云 村ハツレニテ少ツヽ上リ下リノ
道ナリ
◎黒江村 此所ヨリ渋地椀ヲ塗出シテ諸國ニ商買スル也 干潟村ニテモ営レ之 総テ
黒江椀ト云 黒江村 干潟村ハ家ツヾキ也 堺橋長十間有レ之 少シ坂有 此浦ヲ
黒牛海ト云名所也トソ 十一代集ニハ國不レ知ノ内也ト云々 ○ 云ノ字ヲ脱セルカ(芝)
◎干潟村「浦トモ云」ノ内右側ニ永正寺「浄土宗也」ト○ 寺領拾餌アリ 此浦ニハ馬刀 小恰
郭公貝 桜貝 紅粉貝多シ 此浦ノ眺望尤勝レリ 先君ニモ潮干比月ノ比ニハ度々
御遊覧アリシ所也 頃年和歌山ノ地下人 海ヲ築出シテ塩濱トナセリ 其大ナル
コト云ハカリナシ 故ニ此浦ノ風景イニシヘニハハルカ劣レリ 此所ト名高浦ト
ノ間ニハ小川二ツ有「板橋幅四尺計長四十間一ツハ長五間幅四尺也」
◎名高村「浦トモ」是ヲ俗ニ誤テ中田ト云リ 在所ノ外濱邊順道也 此浦ハ名所也 遠
州ニ同名アリ
萬葉集 十一 人 丸
紀の海の名高の浦による浪の おとたかくしてあはぬこゆへに
毛見ノ浦 船尾浦ハ此浦ツヅキニテ申酉ニ當レリ 尤濱辺遠淺也 大野村ハ是モ順
道ヨリ右手ニアタレリ 本道ヨリハ見ヘ兼タリ 此所ニハ四季共ニ穂蓼有レ之 亦
鼠尾草多シ
◎藤白村 鳥居村馬次也 両村ノ高六百十二石余 家数百五十二軒 内三軒本役家也
傳馬十二疋有レ之 在所家内ハ往来ヲス 右手濱辺ヲ順道
藤白坂ノ上口ニ名ニヲウ白藤右手ニ有 往昔此所ニテ有馬皇子自害シ給フト云傳タ
リ 齋明天皇四年十一月二日ニ謀叛ニ依被害トカヤ 弓手ノ山際ニ鈴木ノ屋敷有
昔源義經ノ臣鈴木三郎 亀井六郎當所ヨリ出タリト云 今ニ三郎六郎ト号シ 彼後
胤此所ニ居住ス 坂ノ麓ニ茶屋有 此向ニ若一王子ノ社有レ之 本地ハ千手観音阿
弥陀不動也ト云 社領六石社僧ト真乗院「真言宗也」ト号ス 拜殿ノ前ニ楠大木有
其下ニ昔ノ鈴木 亀井ノ石塔有 社前左右ニハ塩竃ノ桜有 峠ヨリ少此方ニ忘水ト
云名水有 左ノ峯ニ巨勢ノ金岡ガ筆捨松ト云テ大木有 金岡ハ宇多天皇ノ御宇ノ
画師 秀逸ナルカユヘニ官位昇進シテ 正二位大納言ニ叙任セラレシトカヤ 其
譽類ナキ人也トゾ聞疊シ 峠ニ石佛ノ大地蔵有「堂一宇也」地蔵ノ背銘曰 勧進聖揚
柳沙門心靜元亨三
癸亥十月廿四日大工薩摩権頭行經ト雕刻セリ「右ニ行記之異説ニハ龍宮城ヨリ上リタル地
蔵ナルカ故ニ今カキナガラ有之ト云」側地蔵寺「真言宗也」有 寺領八石被レ寄二附之一同所
ニ茶屋有 此地子ヲハ依二テ先君之貴命一而永代是ヲ被二免許一 同側ニ山奈陸奥
守カ○○石塔有レ之 地蔵ノ後少シ上ニ當テ 白川法皇熊野御幸ノ時仮ノ●皇居ノ
○○ 石塔トアルハ宝筐印塔ナリ 紀伊名所圖絵ニ山名氏清ノ墓ト云ヘド確証ナシトアリ(芝)
● 藤白峠地蔵蔵ノ西十五間地蔵峯寺ノ境内ニアリ 花山法皇熊野御幸ノ時頓宮ノ御址也 御
所ノ芝ト申 今モ聖 護院入奉ノ時此所ニテ休息ス 眺望雄大
跡有レ之 御所ノ芝ト云処ヨリ西ヲ臨メバ 播州 摂州泉州並四國等咸直下セリ
風景餘類ナシ 万鏡一瞬ノ地也 彼金岡モ此所ヲ眺望シテ筆ニモ不レ乃ト云ヲ
筆ヲ棄テシ里ト云傳 峠ヨリ二三町モアナタヘ 下テ右手ノ方ニ冷水村 椒村ノ
浦辺 御殿地等悉ク見ユル 塩津村同シ並ニ有 和歌浦ヘ行クニ日和宜時ハ 此
塩津ヨリ渡海シテ善也 往還ノ旅人有田 日高ノ土民トモ 賀茂谷坂 藤代坂ヲ除
キテ大形塩津浦ヨリ舟ニテ和歌ノ出島村ヘ上ル也 藤代坂ハ上下二十五町名草
海部両郡ノ境也 南ヘノ下坂ニハ温石多シ
續後撰 旅 僧正 行意
藤代の御坂をこゑて見渡せば かすみもやらぬ吹上のはま
◎賀茂谷 橘本村 市坪村何レモ馬次也 両村ノ高八百六石餘也 同棟数百七十軒内五
十九軒本役 同傳馬十七疋有レ之 ムカシ此所ニ賀茂何某トカヤ云侍居住シテ 賀
茂ノ庄十ヶ村ノ余高ハ今ノ検地二千石余知行セリ 去天正十三乙酉年秀吉公當國御
進發ノ時 本知ヲ没収セラレ 賀茂ハ其後當所ヲ逐電セシト聞ユ 其被官共土民ノ
日ノ字間ニ多シ 此村ノ山手道端右手ニ明神有 即賀茂大明神ト申奉ル 諺田洛陽○賀茂
ヲ加フ大明神ハ當所ヨリ勧誘セシト云リ 村ノ中程ヨリ山ニ上レバ 三穂窟 恨瀧有レ之
万葉集 雜四
紀の國三穂の窟をよめる 博通法師
ときはなる窟はいまも有けれと 住けん人はつねなかり里
麓ヨリ行ニ大竹ノ藪左右ニ茂レリ 瀧本ニ堂有本尊観音也 先君御一代ノ御守本尊
虚空蔵「木佛ナリ」ノ像ヲ納奉ルナリ 江戸御發駕ノ節ハ羈旅ノ御祈祷トシテ御發駕
朝ヨリ御着府ノ夕マデ開帳シ奉ル事ニ 今断絶ナシ同「芝口氏写本に「」間誤写有り抹消
セリ清水」御寄進ノ毘沙門天ノ木像 亦恵心僧都ノ筆ニテ 金泥ノ二十五菩薩ヲ顕ハ
シ玉フ畫像有レ之 是ヨリ少シ下リ別當坊有 岩屋山福勝寺金剛壽院ト号ス 真言
宗ナリ寺領少有レ之
蕪坂上下三十二町海部 有田両郡ノ堺也 此峠ヨリ二三町下テ右手ノ谷ニ 慶徳山
長保寺陽照院ノ門前並長屋等見ユル 此寺ハ昔日長保年中ノ敕願寺ニシテ 七堂伽
藍也シトカヤ 今礎ナドノ殘レル有レ之 有増什物ヲ記セバ
法華經 四七品
序 品 後深草院
譬喩品 坊門局
方便品 九條光明峯寺関白道家公
信解品 二條慶融法眼
薬草諭品 二條亜相爲氏
受記品 九條亜相教家
化城諭品 大僧正慈鎮
五百弟子授記品 泉涌寺俊[ジャウ]國師 泉涌寺長老第一代俊[ジョウ]
人記品 日國師
法師品 後京極摂政良經公
見宝塔品 二条大納言爲氏
堤婆品 同 爲氏
勧持品 後白河法皇
安楽品 後京極良經公
從地涌出品 同 良經公
如来壽量品 同 良經公
今別功徳品 後深草院
随喜功徳品 二条爲久卿
法師功徳品 良經公
常不軽品 爲氏卿
如来神カ品 後鳥羽院
嘱累品ナリ(芝) 嘱影品 俊[ジャウ]國師
本事品 仁和寺守覺法親王
妙音菩薩品 坊門局
普門品 從二位家隆卿
陀羅尼品 四条局安嘉門院
妙莊嚴王品 月輪関白兼胤公
勧發品 守覺法親王
等ノ御筆ナリト云リ 又般若心經並阿弥陀經合巻 是ハ世尊寺三位行能卿ノ筆也
右何レモ古筆菴丁仲改極ル所也 此外霊佛 霊 宝員ヲシラス 不レ遑レ記 近年先君
ノ兼テ御遺諚ニテ 御尊体ヲ此山ニ奉納也 天台宗寺領五百石被二寄附一也 彼山林
等咸此辺ヨリ見ユル也 此峠ヨリ宮原荘畑村ノ内也 又峠ヨリ左ノ方ニ大磐石有レ
之 世俗ニ天狗休ノ岩ト云 此所ハ魔所ニテ土民等柴草モ刈ラズト云リ 亦峠ヨリ
二町下ニ大岩ニ地蔵ヲ彫刻セリ 往昔弘法大師爪ヲ以テ彫給フト云傳タリ 岩ノ四
面ヨリ蔦葛生ストイヘトモ 佛顔ニカヽリヌレハ則枯ト云リ 瘧病ノ者洗米ヲ供シ
立願スレバ忽ニ癒トナリ 此外ニモ奇特多シトカヤ
◎宮原道村南村 瀧川原村馬次ナリ 高千四百八十七石余ナリ 棟数二百六十六軒
内百二十七軒本役也 傳馬四十二疋 本役何レモ三ヶ村分也 此辺ヨリ在田蜜柑ト
云名物出ル 風味類無シト也 村ノ出ハツレニ大河有レ之 在田川トモ宮原川トモ
謂レ之 川上ニ伊都郡高野山ノ西大門ヨリ流落テ 此川下箕島村ニ流海ニ入ナリ
川ハヾ六町二十間 常ハ歩渉ナリ 洪水ニハ渡舟有 旅人ノ船チン不レ定 郷民ハ
秋ニ至テ麦米ヲ以テ價レ之 然ニ此川ノ鮠極メテ大ニシテ風味他所ニ異也 高野一
山ノ悪水此川ニ流ル依レ之尓ト世ニ云 ?セイ川ハタヨリ 弓手ニ行ハ馬道「藤浪村ヘ 行ケリ」ナレトモ湯淺村行ニハ五六町モ遠シ 川甘ヨリ右ヘ行ハ近道ナレトモ道悪シ
◎糸鹿村いとが坂上下十四町有 白河法皇熊野御幸ノ時 平忠盛供奉ニ候ヒケル「イ
モガ子ハハウホドニコソナリニケン」ト申上ケレハ「タヾモリトリテヤシナヒニセ
ヨ」ト仰セラレケルモ 此坂ニテノコトナリトカヤ
山家集 西 行
いとか山しくれに色をそめさせて か津/\おれるにしきなりけり
自是吉川村ヲスキ不ラベ峠ト云坂ヲ經ル 五町三十六間有レ之 此麓ニ逆川ト云名
所アリ ● 不ラベ峠→ホウズ峠→方寸峠(紀伊國名所圖繪)章博
夫木集 爲 家
きヽわたる名さへうらめし熊野路や さかさま川の瀬をいかにせん
逆川ノ王子ノ小社有 糸我庄ノ内別所村ト云所ニ 往昔中將姫ノ旧跡有レ之 則得
生寺ト云寺ニ委細ニ記レ之セリ 其調ニ曰
紀州有田郡糸我庄中之番雲雀山得生寺 人皇四十七代大炊天皇「私云廃帝天皇ノ御事カ」
御宇天平寶字年中ノ草創也 抑由来ヲ尋ヌルニ 往昔横佩右大臣豊成公ノ息女中將
ノ内侍十三ノ御時 継母ノ讒言ニテ當所[ヒバリ]
山別所谷ニ籠居ナサレヲリ 随身申
奉ル刑部春時ト申者 此地ニトマリ奉育セリ 春時剃髪シテ得生ト改名セリ 同年
冬十月十三日ニ往生素懐ヲ遂ゲタリ 其菴ノ名ヲ得生寺ト号ス 相續 空也 海運
源信 文覺西行等此山ニ跡ヲ残給ヘリ 霊宝数多有レ之 縁起ニ委細書載シ 當寺
鎮守ハ蛭子 八幡 春日三社ヲハシマス
當山旧跡ノ事
清 水 是ハ中將姫三年此水ヲムスヒ給ヒケリ
下ノ堂 空也上人一宇建立ノ所也
阿弥陀井 同上人手ツカラ掘玉フ井ナリ
西 堂 西行別院建立ノ所ナリ
中ノ堂 中將姫主從三人ノ菴ノアトナリ
机 岩 中將姫此岩ヲ机トシテ称讃浄土經ヲ寫給フトコロナリ
上ノ堂 惠心僧都千躰佛刻給フ所也
伊藤ヶ嶽 此所ニテ姫君ノ命助ケ奉リシ也
經ノ窟 浄土經書写成就シテ籠玉フ所也
白山権現 春時カ霊廟也
右ノ外自然水トモシト云所 中將姫ノ坪ト云字ノ田地ナト有
糸我峠ニ春時ノ妻ノ石塔有レ之
會式ノ事
三月十四日 中將姫遷化シ給フ日也
六月廿三日 曼荼羅織給フ日也
十月十三日 得生入道命日也
中將姫當山ニ入玉ヒテヨリ元禄二己巳マデ凡九百三十二年ナル
元禄二(一六八九)年ハ本書著作ノ年ナルベシ
中將姫山居語
此筆者飯尾氏宗祇也 連歌師匠
無男女堺界 無愛欲之思
無妻子眷族 無養育之望
貧窮無福身 無盗賊之恐
不断行念佛 旡聖慶之望
木食草衣身 不受諸人煩
長夜闇無燈 己身自爲灯
独居住小菴 無造作之望
我看心佛則 旡給木仏求
深山人不通 無勤行懈怠
雖西方遠程 行者有眼前
中々ニ山の奥こそ住にけれ 草木は人のとかをいはねば
いとかとは我わけそめしかた糸の 法の力でおり立てヽみむ
くれはとりあやしと思ふ極楽や 織あらはして誠をやみむ
右白山権現ノ利生多シト云リ 分テ蝕歯ノ痛ヲハ諸人立願ストイヘリ 亦糸我村ニ
腹帯地蔵有レ之 懐妊ノ貴賎此本尊ニ立願スレバ平産ナリト云
湯浅町ノ入口ニ顕國大明神ノ社森ノ内ニ有レ之
◎湯淺村馬次也 高九百十五石余ハ里方也 外ニ七百六十五石浦方也 棟数六百五十
一軒「里方浦方共ニ」 但此内五十九軒ハ里方本役家也 百八十三軒ハ浦方本役家
也 傳馬廿五疋有 往昔此所ハ湯淺権頭宗義ト云者 湯淺ノ庄七ヶ村今検地五千石
ハカリノ領主也 中比子孫断絶セシニ 尊氏將軍ヨリ同國貴志ト云者ニ家督ヲ賜ハ
ル 故ニ湯淺ト貴志ト同家ナリト称ス 其後白樫ノ何某 湯淺ノ庄ノ領主ト成テ
代々此所ニ住セリ 太閤秀吉天正十三年當國御動座ノ時 白樫父子御味方シ度々軍
功ヲホドコセリ 其後左衛門ガ子白樫主馬助 同三郎兵衛兄弟知行三千石余 於二濃
州大柿一下行セラレシニ 元和元年ノ夏五月七日大坂落城ノ後 和州へ浪人セラレ
シトソ聞ヘシ 此村ノ老弱ノ女共ハ網ヲ拵ル事ヲ業トセリ 房州ニツカハシテ鰯網
ニ商賣スルトカヤ 在所ノ外廣村トノ間ニ湯淺川有 ハバ四十八間有トイヘリ 常
ニ歩渡リ冬ハ板橋掛ルナリ 此川下ニテハ冬ノ比□ヲ取ル也 廣村ハ行ニテ五六
町モ川上ニ行 此間ニ中村 殿村ヲ通テ井関村ニ至ル也 湯淺村ヨリ本道ヲ井関村
ヘ行ニハ右ノ三村ハ不レ通 又廣村ニモ民家千餘軒モ有レ之 廣村 湯淺村トモニ繁
昌ノ地ナリ 廣村ニハ八幡宮有レ之 社領十五石毎年八月十五日ニ祭礼ヲ執行ス
從二國君一モ御代参有「御供番勤之也」
同シ並ニ御殿アリ 近年被レ廃レ之 今ハ其跡ハ
カリナリ附タリ 廣村ヨリ由良ノ庄ニ行ニハ 西廣村ヘカヽリ行ナリ 海中ニ鷹
島アリ
× 御殿跡ハ今ハ養源寺トナル
玉葉集 高弁上人
我さりて後に忍はん人なくは とひてかへりねたか島の石
夫ヨリ由良坂ヲ越ル 上下廿町有レ之 此麓ニ畑村ト云有 是ヨリ門前村「興國寺門
前ニアリ故ニ呼」
へ出ル也 由良庄ハ入海ヲ西ニ受テ 横濱浦 網代浦 糸屋浦 阿戸村何レモ在家多
シ 尤此浦ノ風景言語ノ乃フ所ニアラズ
新古今 戀 曽根好忠 ××是所ノ由良 淡路ノ由良?
××ゆらのとをわたる舩人かちをたえ 行衛もしらぬこひのみちかな
網代浦ハ先君ノ御殿海濱ニ有ヨシ 今ハ廃セラレタリ 右門前村ニ興國寺ト号シテ
臨済宗有レ之 此開基ハ法燈國師也 尺八ヲ業トスル虚無僧ヲ 大唐ヨリ召シ帰朝
シ玉フ也 故ニ虚無僧ノ本寺トスル也 寺領十三石有レ之
◎井関村馬次也 高二百九十二石余 棟数四十八軒也 内二十二軒本役 傳馬十六疋
有レ之 村ノ入口ニ井関川幅十六間也 此村ヲ十四五町モ行テ又川アリ 幅十二間
有レ之 常ハ板橋ニテ 此在所ハ川二ツニツツミタレハ 洪水ニハ馬疋ノ通ヒナシ
故ニ歩立ノ旅人ハ是ヨリ左ヘ行キ 尾山越トイフヲ行ナリ モットモ此道悪シ
熊野獨参記 巻第一終
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熊野獨参記巻第一の活字化を終わって
父の手写本は昭和廿五年八月に、芝口先生から借り写しているが、昭和七年に中
根七郎氏が県立図書館本を写し、中根氏の写本を宇井龍水氏が写し、それをさら
に芝口氏が写している。コピー機のない時代に、こうして手写本した苦労が忍ば
れる。
この『熊野獨参記』は内容から元禄二(一六八九)年頃の著作で間違いないよう
であるが、筆者の氏名が不明とされている。ところが『紀南郷導紀』(熊野獨参
記の別名か)には児玉荘左衛門と作者名が出ているようである。
写本にも柏木家本・田所家本・藤畑家本・県立図書館本等四系統があるという。
私の今回の活字化に使用したのは、県立図書館本系統の物であり、各写本により
多少の違いがあることと思う。
平成十七(二〇〇五)年六月十日
清 水 章 博
熊野獨参記 巻第二へ 熊野獨参記 巻第三 熊野古道