熊 野 獨 参 記
この『熊野獨参記』は内容から元禄二(一六八九)年頃の著作で間違いないようであるが、筆者の氏名は不明とされている。熊野獨参記の別名と思える『紀南郷導紀』には児玉荘左衛門と作者名が書かれている。(紀南文化財研究会発行の「紀南郷導記」昭和42年による)
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*写本せし人の書き入れは省略したヶ所がある
*ルビ・注記は省略した
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尚、この記載は清水章博氏がワープロ化したものをHPで見えるように改変したものである。もし原文を希望するときは本人<
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熊 野 獨 參 記 巻第三
◎本宮村 南北十町余有 馬次也 高四百二十石余也 棟数百七十軒有レ之 此村
ヲをとなしの里トイヘリ
夫木集 爲 家
うきことをしはし聞へぬ時やあると いさ音なしのさとをたづねむ
又本宮・新宮・那智ヲ三熊野ト云ルト也
新古今集 神祇 大上天皇
岩にむす苔ふみならすみ熊野の 山のかひあるゆく末もかな
本宮ハ亀甲山大雲寺ト号ス 門四方ニ有 巽門・西門・東門・北門是也 東門ニ
ハ大黒ノ像・役行者像有レ之 北門ヲハ埋門ト云也
本社ハ巽ニ向ハセ給フ 崇神天皇六十一年「一説十六年」ニ初テ御建立也ト云フ
正一位本宮本社伊弉冉尊證誠殿ト号ス 阿弥陀
延喜式神名帳曰 熊野坐神社 名神大
本國神名帳曰 正一位家都御子大神
二 宮 速玉男 薬師
神名帳曰 熊野速玉男神社大 本國神名帳曰 正一位御子速玉大神
三ノ宮 結宮 千手観音
四ノ宮 聖宮 龍樹
五ノ宮 十禅師 地蔵
六 宮 若一王子 十一面
七 宮 児宮 如意輪
八 宮 子守宮 正観音
九 宮「十万宮 普賢一万宮 文殊」米持金剛 毘沙門 飛行夜叉 不動
勧請十五所 釋迦
本宮 神鏡三面
社家者曰 本宮十二社者
第 一殿 國常立尊
第 二殿 國狭槌尊
第 三殿 豊斟H尊
第 四殿 泥土喜尊
第 五殿 大戸之道尊
第 六殿 面足尊
第 七殿 伊弉諾尊
第 八殿 天照太神
第 九殿 正哉吾勝尊
第 十殿 皇御孫尊
第十一殿 彦火々出見尊
第十二殿 鵜茅葺不合尊 云々
又曰 孝明天皇草二創本宮一云々 亦曰 崇神天皇六十一年草二創本宮一
則神躰三面神鏡云々
古今皇代國崇神天皇六十五年始建二熊野本宮一云々「私曰統而草創之年譜不二
一決一後明者可レ訂レ之而己」右十二社ノ外ニ満山護法弥勒別殿一社
廻廊ハムカシハ百八十間在シトカヤ 今ハ其跡ハカリナリ 巽門ニハ大キ城釜有レ
之 往昔本宮建立ノ時ノ要用也ト云 今ハ手水入トセナリ 鐘楼モ昔ハ有シト云ヘ
リ 鐘ハ今北門ニ在リ 礼殿ハ十三間梁二十八間ノ棟桁ニシテ丸柱作也 柱数百二
本宮ノ鐘若山ノ鈴丸橋万精院ニアリ 鐘ハ慶長十九年三月三日ノ銘アリ 万精院ニ持来リシハ
寛延元年ナルベシ 寛延二年八月吉日萬精院ノ追名アリ(芝口) 詳シクハ東京考古学報第二
冊「慶長以前ノ梵鐘」ニアリ
十九本也 内ニハ釈迦・文殊・普賢像「作不明也」有レ之 北殿ハ亜槐秀長卿ノ建立
也ト云々 本國神名帳四從四位上瀧姫神在二本宮戌亥音無之下一云々
祓所王子「天児屋屋命也」地主ノ社ハ高倉下命也
於レ礼殿毎年正月六日ニ連歌有 本宮ノ社家又地下人トモ集テ興行ス 發句ハ本宮
ノ神敕ニテ常發句ナリ 脇ハイツモ尾崎氏詠スト也 其發句
この山のあるじは花の木影かな
音無川ハ此音ナシノ里ノ脊ヲナカレテ 御社ノ西ヲトヲリ南ノ方熊野川ヘ落合也
音無川ノ橋ハ元和七年前君御再興也 長十二間也 其後洪水ニテ橋落タリ 今ハ仮
橋ナリ ○金宝珠ハ今社壇ニ有レ之 此橋ヲ渡テ本社ヘ詣ル也 ○ 銅ノ擬宝珠也
音無里ノ北ノ方ニヲホ山ト云山アリ 其形チイサク見シカクシテ瀧落ル 是ヲ音無
瀧ト云ヘリ 亦此音無川ノ水ワカレテ本宮ノ町中ニ流ル也 此川ニカヽリタル橋ヲ
囁橋ト云 音ナシ川サヽヤキ橋共ニ名所也
拾遺集 恋二 讀人不知
こひわひぬねをたになかむこゑたてヽ いつこ成らむおとなしの瀧
同 元 輔
おとなしの河とそつひに流れいづる いはで物思ふ人のなみたは
名 寄
熊野なる音なし川にわたさばや さヽやき橋のしのひ/\に
巽門前ニ舞台・楽屋有 毎年四月十五日能有レ之 又本社ノ後ニ音無天神アリ
同並ニ和泉式部カ逆修ノ石塔 並如意宝珠ヲ納メタリト云同跡有 此地主者高倉
下ノ神也 此社人毎月廿八日龍宮城ヨリ乙姫詣テ来ルト云ヒ慣ハセリ
又巽門ノ外ニ菴主居住セリ 是則御供所也 側ニ不動堂有 智證大師ノ作ト云
又此堂ニ本宮ノ神輿ヲハシマス 此堂ハ立花左近將監何某ノ建立ト云ヘリ 菴主
カ向ノ方ヲ七越ノ峯ト云也
山家集 西 行 ● 原本きえて
立のほる月のあかりは雲●はれて 光かさぬる七こしのみね
此麓ニ從四位上海神社有レ之
本國神名帳曰 從四位上底海神「本宮在辰巳島或日備岩窟」社家相傳此水通二海
潮一捨レ是祓浄身
聖護院・三宝院入山ノ時 大峯ヨリ此所マデ自笛ヲ掛玉ヒテ御出山ト云 此時閼
加井ノ薬師ノ別當長床坊 白晝ニ松明ヲ燃シ御迎ニ出テ則笛ヲ爰ニシテ受取也
此マデ後鬼・前鬼モ送リ奉ルト云 同並少川上袋谷・大黒谷・飯盛山・不動堂・
文殊屋敷・吹越行者堂・立島ノ渕・立島ナド云旧跡有レ之 此立島岩ヘハ龍燈上
ルト云慣セリ 往昔弘法大師大黒谷ヨリ飯盛山ヲナカメヤリ一首ノ狂歌アリ
大黒のうしろにおへる袋堂 まへに●そなふる飯盛のやま ●うちふる?(芝)
菴主ハ什物ニ龍宮笛ト云有 ソノカミ旱魃セシニ雨乞爲ニ立島ノ渕ニ行テ囃子ヲ
興行セシニ 誤テ笛ヲ水中ニ落ス 角常使ト云者其マヽ水底ニ入尋ネミルニ 龍
宮城ト思敷ク金銀珠玉ヲ飾リタル床ノ上ニ彼笛有 則取返シテ来リシト云傳タリ
角常使ハ少時ト思ヒシカトモ三年過テ十三里川下池辺村ト云所ヘ出タリト云ヘリ
今ニ至テ雨乞ニハ此所ニテ囃子ヲスル也 又本宮ヨリ湯峯ハ南ニ當ル 行程廿八
町也道二筋有 小栗カ車道ト云ハ本宮ノ札辻ヨリ左ニ行也 又影向道「大日越共謂
レ也」ト云有 是ハ常ニ往来セズ 往昔権現此土ヘ天降玉ヒシ御時 始テ湯峯ヘ
此道ヲ臨光アリシト也云々 今社人モ此道常ニハ往還セス 湯垢離ノ時正月六日
・四月十六日此両日ハカリ往来スト云 此道ニ閼加井ノ薬師有「于證レ前記レ之」本
尊弘法ノ作 側ニアカ井ノ霊水有 峠ヨリコナタニ金佛ノ毘沙門有 峠ノ下ニ洞
アリ石佛ノ大日有但大佛也 峠ヲ越テ鼻欠地蔵 弘法ノ作トテ石佛二体有 昔藤
沢上人熊野権現ノ神社ニテ参山ノ時 此道ヲ通ラレケルニ 道ノ側ニ癩病ニ行逢
上人之ヲ痛ハリ温泉入湯サセシニ立所ニ本服スル 是俚俗ニ云小栗ナラント サ
レドモ小栗ハ相州鎌倉基氏時代ノ人也 亦藤澤清浄宮寺開山一遍上人 智信坊随
録ハ 豫州道後ノ城主河野七郎道廣カ子小字松壽丸 弘安元戌寅年始テ上人号ヲ
敕許有 是ヲ思ヘハ遙ニ星霜違ヘタリ又僞説成ヘシ 彼ノ病者ノ居ノ跡トテ児塚
ト云 于レ今有レ之 並ニ役行者ノ笛掛石・天狗休石ナド有 此道常ニ往来ナキ
故草木茂リテ道悪シ 小栗ガ車道ト云フハ左右ニ並木ノ松有 少シツヽ上リサガ
リノ道也 中程ニ車塚有 側ニ不レ蒔稲ノ田地アリ 種マカスシテ毎年稲生ト云
是ハ昔小栗入湯ノ時ニ 髪ヲ結シ藁ヲスラシニ不思議稲生ス 取レ之薬師ノ供物
ニセシト也 於レ今如レ斯湯峯入口ノ左ノ方ノ上ニ 一遍上人ノ筆ヲ以テ六字名
号 並六十万人決定往生ノ四句ノ文ヲ書テ 彫刻セラレシ大岩有レ之
◎湯峯 在所ハイツレモカケ作也 高「本ノマヽ」棟数二十軒餘板囲也 薬師堂ハ南
ヘ向五間四面也 秀吉公ノ御建立也 メテノ傍ニ薬王山東光寺ト云有レ之 真言
宗也 此薬師ハ金・木・土・石ヲハナレテ温泉ノ淡也ト云 其色ハ黒シ座像也
長臺座・御光共ニ八尺余 作不レ知也 地ヨリ涌出セリ 何レノ代ニ出現スト云
事不レ知御光ノ内ニモ佛像二体マシマス 昔ハ薬師ノ胸ノ間ヨリ温泉涌出ルト云
ヘリ 至レ于レ今胸ノ間ニ亦一ツ 御光ノ内ニモ二ヶ所孔有レ之 左右ノ脇立日光
・月光也 同厨子ノ内ニ十二神「木像彩色也」有レ之 是ハ當寺住持「号二円證一」再
興スト 同並ニ伊弉冉尊ノ新祭ノ小社有レ之 是ハ本宮垂跡ヨリ以前ノ鎮座也
故ニ此宮ヲ眞熊野ト云名所也 古歌末レ勘 同並ニ石ノ櫃ニ不動像彫付有レ之 東
光寺ノ内ニ地蔵「木佛弘法作」・観音「 木佛春日作也」・毘沙門「唐作」像レ之 同並
ニ二重ノ塔アリ 飛騨ノ工カ造立ト云 本尊釋迦・文殊・普賢何レモ木佛也 定
朝カ作ト云 堂ノ四面板ニシテ真言八祖ノ画像「筆者不明」有レ之 堂ハ三間四面
本尊ハ東向也 同並ニ石ノ宝塔二基有レ之 前君御尋有シカ共知人ナシ 俗云 若
ハ小栗カト云々 同並ニ観音像・地蔵堂ト云テ二ヶ所有レ之 何レノ代ニカ破壊シ
テ今ハ堂ナシ 其跡計也 本尊ハ今東光寺ニ安座セリ 右観音堂ノ近一町ノ山 寛
文年中ニ大風雨ニテ崩レ 人屋少々轉倒シテ男女旅人等死ス 其跡ヨリ石佛ノ地蔵
六体出ル 今薬師堂ニ有レ之「薬師開帳鳥目百二十文也」當所ニ温泉四坪在 二坪ハ彼堂
ヨリ左ノ方ニシテ 谷川ノホトリノ大岩ヨリ湧出ル 其高キコト二丈余モ吹上ルト云
是ヲ筧ニテ二坪ヘ取テ 一坪ハ在所ノ雜人男女入込也 一坪ハ男ノ湯ト云 順禮又
ハ熊野ノ参詣ノ者計入湯スト云 取分此湯口ハ陽気太強クテ 其辺深霧ノコトシ空
曇時ハ猶甚敷 近キワタリモ見ヘ兼ル也 此湯口ニテ食物ヲ湯煮シテ食レ之 或湯
口ニテ粥ヲ煮テ食スレハ ツカヘ不食スル者ニヨシト云へリ 米ヲ布ニ包テ暫ク湯
口ニ置ハ飯ト成獨活・蕨ナドヲ籠ニ入置瞬時ニ煮ト云 又二坪ハ東光寺ノ庭ノ内東
ノ方岩ノハサマヨリ湧出 是又筧ヲ以テ取ル 上ノ湯ト云ハ不断留湯ニシテ諸士並
本宮社家共ニ湯垢離ノ時ニ入ナリ 其外ノ者ハ不レ入也 其次ノ湯ハ女ノ湯ト云 女
ハカリヲ入ル也 此二坪ハ湯口ノ際ヨリ谷水流ル 是ヲ筧ニテ取テ加減スル也
○統
テ當所ノ湯ハ冷湯ニシテ●中風・脚気・筋気ニ良 頭痛其外痛所ヲ瀧ニテ打スニ 日
ヲヘスシテ本服
○ 統テ スベテトヨムカ(芝) ● 中風 動脈硬化症(芝口)
スト云 此湯ニ入ルニ日厄トテ毎月朔・七日・十日・十五日・廿日・廿八日・晦日
コノ六日子丑ノ両刻カタク入湯ヲ慎也
○ 水路九里八町トイフナリ ○○ 原本小口ヲ河口トセリ誤ナルベシ ○○○ 茶屋ハ松畠ト云處ナリ
那智山ハ本宮ヨリハ辰ノ方ニ當レリ ○陸道法九里八町有レ之 雲取越ト是ヲ云 此
道難処ナル故 大略順礼ナラデハ通ラズ 本宮ヨリ四里半ホド行テ○○小口村ト云有
此所ノ川水出ル時ハ渡船有レ之 舩賃不定也 亦曰 本宮ヨリ半里程熊野川ノ耳ヲ
行テ請川有 ソレヨリ小雲取ト云 夫ヲ一里アカリテ○○○茶屋有 是ヨリ小口村ニ至
ル此村ヨリ那智ノ間ヲ大雲取ト云 小口村ヨリ大山村ノ西ヲ通リテ舟見峠ヲ越 夫
ヨリ那智山ニ至ル也本宮ヨリ新宮ヘノ下船其程八里也舩一艘ニ水主三人乘也 登
舟ハ二日也 下船一日ニツク也 下船一艘ノ舩賃銀子十二匁也 乘合ハ銀子三匁ヅ
ヽ也 乘懸ハ二匁一駄荷ハ三匁ツヽ也 乘場ハ菴主ト尾崎ノ間ヨリ乘レ之 此所ハ
音無川・岩田川・熊野川三川ノ流一ツニ落合 故ニ巴カ渕ト云 此川惣名ハ熊野川
新古今 神祇 太上天皇
熊野川くたすはやせのみなれ棹 さすかみなれぬなみのかよひち ●網代渕ナリ
是ヨリ少シ下リテ右手ニ露島 大日ノ森少シ下リテアヂロ●ナコ乘ト云フ所レ有 少
シクタリテ弓手ニ 権現ノ折敷岩水底ニ見ユ 夫ヨリ少シ下リ請川村船次也 夫ヨ
リ左手ニ○鷹山村 夫ヨリ三里下リ小津荷村有 少シ下リテ右手ニ東敷屋村 左手ニ
○ 今ハ高山トイウ 三里ハ恐ラク一里ナラン ● 紙漉小津村也
屋村アリ舟次也 此所ニテ●紙ヲ漉諸方ヘ賣買ス 左ノ手ニ万峯坂見ユ大山ナリ 上
西敷下一里半有ト云 夫ヨリ少シ下テ美毛登村「和気村ノ内 カ猶可尋レ之」同所ニミモト
ノ明神有レ之
美無登村ハ和気ノ方也 次歌モ後ニ轉ズベキナリ
後白河院熊野御幸三十三度ニナリケル時 美モトヽイフ所ニテ告申サセ玉ヒタル歌
風雅集 神祇
うろよりもむろに入ぬる道なれば 是そほとけのみもとなるべき
◎川合村 舟次也 居石島 三山御建立ノ時ハ石ヲ切出ス所ト云 北山川ト云テ和州
ヨリ流ル川左ニ有レ之 本宮川ト落合也 是ヨリ少シ下リテ○志子村 左手ニ同並ニ
○○小口川原アリ 共ニ名所ナリ
○志古ハ下川ニハ右手ナリ ○○小口川原ハ小雲取ノ下小口村ニアリ
山家集 西 行
雲とりや志この山路さておきて こくち川原のさびしからぬか
此處ニ舟渡シ有 新宮ヘ馬ヲ率行時ハ此渡ヲ乘テ入鹿越ト云ヲ行ト也 然共一里ホ
ト道遠シ 木本村ヘ行ニモ此道順道ナリト云 志子村ヲ少下リテ●撞木山有 此處ヨ
リ本宮ノ鐘ノシュモクヲ伐出スト也 夫ヨリ楊枝村 此所ニ淨楽寺有 往昔京洛三
十三間堂ノ棟木ヲ伐出セシトカヤ 是柳ノ木ニテ有シトヤ 少シ川下ニ権現ノ●●絹巻
● 撞木山ハ志古ヨリハ上ナリ絹巻石ノ辺ナリ ●● 絹巻石ハ川合ノ上ナリ ●●● 楊枝ハ志古ノ
前ナリ 楊枝ノコト紀伊讀風土記八百七十三ニ有
△ 京三十三間堂棟木ノ由来ニツイテハ明治四十二年頃『日本及日本人』ニ詳記アリ 其ノ但馬ニ
オケル傳説ト紀州トノ真実性ヲ検討シタル也(片山隆三)
石長八間有 藪ノ中ヨリ川耳マデ出タリ 少シ下ニかいもち石有 少下右手ニ釜石
アリ 此所ノ川中ニ中島ト云有レ之大岩也 此岩ノ左右ヲ舟往来ス 少川下ニ左手
ニ當テ白糸ノ瀧アリ 少下リテ川ノ真中ニ蛇ノ和多ト云テスサマシキ大渕アリ 是
ヨリ川下ル 日足村・熊城村共ニ右手ニ有 舟次也 同方ニ布引ノ瀧アリ 夫ヨリ
川下タニ三重ノ瀧有 少川下右手ニ田長村有 此在所ヘ渡舟有レ之 少川下ニ和氣
村有 此所ニ犬戻・猿滑・左壺・△△天地帰ト云難所有 是ハ本宮ヨリ新宮ヘ行陸ノ順
△△ 天地帰 傳地返の誤りなる 往昔駅傳川丈の逓送と新宮仕立の逓送との交換引き返す処なり
と覺ゆ 三十三軒棟木の由来に「でんじかへりや楊枝村」とある之れなるへし(片山記)
道ニ有 少川下左手ニ火鉢森ト云有 少川下右手ニ當テ骨石・左ニ包丁岩・眞那箸
石 少川下ニ飛雪ノ瀧ト云有 右手ニ机石少川下左手ニ碁盤岩有レ之 左手ニ此類
島有 少下リテ右手ニ見上嶋有 夫ヨリ一里余下リテ淺利村有 舟次也 同所ノ川
耳ニ味噌豆ト云難處有 石荒上下ノ舟大事ト 次少川下ニ座禅岩アリ 弘法大師座
禅セラレシ所ト云 少下リテ左手ニ屏風岩ト云有 遠クミレバ畫カキタルカコトク
近クテハ見ヘス 夫レヨリ川下右手ヘ鳳凰岩有レ之 此處ヨリ一里余リ下リテ川耳
ニ○比丘尼倒・後子抛ト云フ「但二ヶ處共ニ淺利村 ヨリ上ニアリ猶可レ尋」難所有レ之 是又
陸ノ順道ニ有 少川下ニ御舟嶋有 ○ 比丘尼倒シハ朝里ヨリ上也
藻塩草 少將内侍
三熊野のうらはにみゆる御舟島 神のみゆきにこきめくるなり
少下リテ檜杖村有 舟次也 又左手ニ往昔西塔ノ武蔵坊弁慶ガ植タリト云●楠ノ大
木有レ之 高三十間余・太サ九抱有ト 少川下ニをとも村 舟渡有 右手ノ山ニ神倉
山ニツヾキテ嶮岨成ル岩山也 是ヨリ川下ヲ数遍メクリくテ新宮ニ着船スル也
● 弁慶ノ楠ハ鮒田村ニアリタリ ●● 水傳磯ハ海岸ニアリ
統テ此川長ニ鯉不レ生ト云 鮎ハ多シ其長尺餘有ト也 此川水ヲ●●水傳磯ト云 土俗
ハ水ツキノ磯ト云 惣ジテ熊野川ノ名所ヲ叙スルニ前後シ混乱シタル所多シ
万葉 二 舎人等
水傳の磯のうらはの岩つヽじ もえさくみちを又ふみけんかも
世俗ニ曰ク 新宮ノ浦ニテ勢州大湊ノ物語ヲセス 忽川口フサカリ舟ノ出入留ト也
必可レ慎ト云々
◎新宮ノ本社ハ巽ニ向ハセ給フ 竹林山金剛寺ト号ス 景行天皇五十八年始テ御建立
也ト云々
本社正一位 速玉男 薬師
神名帳曰 熊野速玉男神社 大日本國神名帳云 正一位御子速玉男大神
古今皇代圖曰 崇神天皇六十五年始建二熊野本宮一 景行天皇五十八年建二熊
野新宮一 此時遷二祭手有馬村ヨリ本宮一
二ノ宮 伊弉冉尊 阿弥陀
神名帳曰 熊野坐神社「名神大」本國神名帳曰 正一位家都御子大神
三ノ宮 結 宮 千手観音
四ノ宮 聖 宮 龍 樹
五ノ宮 十禅師 地 蔵
六ノ宮 若一王寺 十一面
七ノ宮 児 宮 如意輪
八ノ宮 子 守 正観音
十万宮 普 賢
九ノ宮 文 殊 米持金剛 毘沙門 飛行夜叉
一万宮 不 動
勧請十五所 釈 迦
社家者曰 新宮十二社者天神七代地神五代神云シ 此等之諸説雖二区々也一
莫二敢信一之偶依二其社十二坐数一而爲二附会一决焉今按大四社者伊弉冊・速玉
・事解・天照太神也
小二社者者 八局者宝殿也 故今猶御衣劍矛等在焉 以上南紀神社録説
拜殿有之弁才天小社有
巽門前ニ大成釜有レ之 往昔新宮造立ノ時ノ要門也ト云 今ハ手水入トナセリ 此
門ニ後世車ト云有 参詣ノ輩施ス也 由緒ハ不二分明一ト也 宝冠阿弥陀本像也
春日ノ作ト也 半身並腰ヨリ下朽タリ 本社ノ後ニ四方正面ノ堂有レ之 内陣ニハ
六角堂有 是ハ一切經蔵也 經数七千部奉納有ト云 参詣ノ貴賤・僧俗・男女此堂
ヲ旋ル 世俗ニ是ヲ旋ラハ一切經轉讀ノ功徳有ト云リ
巽門前ニ菴主居住ス 是即御供所也 宝物如レ左
役行者所持ノ鈴 同錫杖 画像ノ釈迦・文殊・普賢是ハ洛陽東福寺ノ兆殿司カ
筆也ト云 木像ノ阿弥陀惠心カ作ト云 木像ノ大黒弘法ノ作ト云 法華經一部弘
法ノ筆也 中將姫ノ曼陀羅ノ寫 駒ノ角 天狗ノ爪 牛ノ玉
右霊佛等虫干ノ時諸人之ヲ見ル 常ハ見ル事成カタシト云
新宮城ハ其古ハ堀内安房守氏吉「元名新次郎」居ス 夫ヨリ五里下有馬ト云所ニ 堀
内相同キ有馬和泉守ト云侍有シ 氏吉初其養子ト成テ 後ハ有馬新宮ニ家督ヲ合セ
○原本 保チタリ領所ハ牟婁郡○下田原ト云フ所ヨリ勢州堺錦浦マテ有タル 今検地六万石
太田原 計知行セシ也 然ル所ニ天正三年正月伊勢國司具房 志摩國ヲ征シテ長島城ヲ加藤
甚五郎ト云家人ニ遣ス 志州英虞郡脇島諸島ハ伊勢國司代々知行タリ 二鬼島ノ相
州ヲ限リトス 然ニ永禄十二年以後氏吉武運逞シテ 既ニ熊野ヨリ脇島ヲ押領セン
トス 志州ノ住民ニ赤羽新之丞ト云者富者也 國司ニ申テ大將ヲ請テ新宮ヲ討タン
トス 是ニ依テ國司ヨリ志州長島ヲ 加藤甚五郎ニ與テ新宮ヲ推ル也 彼甚五郎ハ
元来國司具房カ同朋仙阿弥トテ 加藤治郎左衛門ト云者ノ子也 甚五郎則長島ノ城
ニ移リケレバ 如レ旧三鬼ノ城ニ至ルマテ是ニ從フ 其後氏吉兵ヲ發シテ先三鬼城
ヲ攻取テ 尾鷲七郷ヲ平グ 尾鷲ノ一族庄司・世古・中・北村等氏吉ニ從フ 其外
九鬼・鬼元等マデ從テ又氏吉長島城ヲ攻ル 伊勢アマタ爰ニ加勢ス 新宮ノ勢大軍
ニシテ山海両方ヨリ攻寄ル 是ニ依テ赤羽心替シテ同年四月志州長島城没落ス 数
月雖二防戦一寄手強威ニシテ終ニ落城セリ 氏吉錦浦ニ至マテ攻取 同廿七日氏吉
錦奥助・同十四郎ヲ討ト云ヘリ 是ヨリ錦浦ヨリ西ヲ以熊野領ト成ト云々 氏吉ハ
後ニ瀧川左近將監一益ヲシテ信長公ヘ降スト也 其後天正十三年秀吉公當國御進發
ノ際 御味方ニ参ニ依テ所領相違ナカリシニ 後関ヶ原悖乱ノ刻石田三成ニ與党セ
シ 御咎ニ依テ御改易ナリシ 後當國ヲハ関ヶ原軍攻ノ賞トシテ 浅野左京太夫幸長
ニ下賜「此時紀州一國高廿七万石也慶長年中幸長于レ私検地而爲二三十七万石一也 外二万石高野山寺
領有之也」
依レ之改テ紀伊守ト号ス 幸長入国ノ始 長臣浅野右近太夫ニ當城ヲ遣セリ
元和年中長晟ノ代ニ 勢州ヲ拜領シテ 長晟ハ廣島ニ移城セラル 當國ハ前君御相受
有レ之 彼城ヲハ水野出雲守重央「法名日山常春」ニ被二願下一卆去ノ後息淡路守重吉家
督 今土佐守重上相續テ居城也 郭ノ内外ニ與力「十二騎知行ハ高下有之」・諸士ノ屋敷
有町屋ハ東西五六町・南北十一二町有 旅人ハ馬町ト云ニ宿セリ 船ヨリ驤テ一二
町行ハ名物ノ氣イ・紙子・天狗燧並矢根等ヲ常拵商賣スル也
熊野新宮ニテ
玉葉集 神祇
あまくだる神やねかひをみつ塩の みなとにちかき千本のかたそぎ
新宮城ヨリ坤ニ當テ飛鳥ノ社有 本地ハ大威徳明王也 速玉男地主神社高倉下ノ命
也「社家祖神」泉道守神社「在宮戸」同並ニ孝霊天皇六年ニ 大唐来朝セシ徐福ト云ル
仙人ノ小社有レ之 社内ニ鷄多シ 城ヨリ爰マテ藪ノ側ヲ通テ町續也 毎年九月十
五日祭礼也 其時内陣ヨリ口結ヒタル錦ノ袋ヲ取出シ 其侭馬ニ乘テ神事ヲ勤ム
年ニ依リ彼袋大ニナル事モ有 小クナル事モ有 或重成輕成事有ト云リ 新宮権現
ノ祭礼モ九月十五六両日也 十五日ハ右ニ記ス御舟島ヘ神輿ヲ舟ニノセ奉リ 島ヲ
三遍旋ル也 其間ハ飛鳥ノ宮ヨリ出シ奉リシ錦ノ袋ヲ 権現ノ宮殿ニ安座シ奉ルト
也 新宮ノ川口塞テ舟ノ出入ナラザル事タビく有 此時ハあすかノ神前ニテ御湯ヲ
アケ御供ナト備レハ 忽白狐現レ食レ之 其時舩ノ出入自在也 大切ノ病人有レ之時
モ 此神前ニ供物ヲ備ルニ 本復スヘキヲハ白狐是ヲ食 本復ナキハ不レ食云々 飛
鳥ヨリ神倉山ヘ道筋左手ノ田中ニ徐福カ塚有 同傍ニハスヱノ橋有 是旧蹟也ト云
○大木ハ世俗徐福塚 ヲタマノ木ト云リ大木アリ 少シ行テ道耳左手ニ 横五六間長十間程ノ
楠也 芝原有レ之 爰ニテ七八両月山伏トモ集テ 柴燈・護摩ナト執行スルト アスカヨリ
神倉山ノ麓マテ道法十二町程有 尤モ田畠ノ際ヲ順道トス
◎神倉山 高倉下命天劔ヲ得ル所也云々 麓ノ仮橋長十間也 是ヲ渡リテ唐カ子ノ華
表ニ至ル 額有レ之 文曰 日本第一熊野三山大権現トアリ 左手ノ側ニ聖トテ山
伏・比丘尼ノ居住スル寺有 峠マデ三町也 其道咸石段也 右ノ華表ヨリ一町程上
リテ 右手ニ千体地蔵アリ 中尊ハ弘法作ト云 イツレモ木佛也 此堂ニテ△牛王矢
避火臥等ノ守 並大黒ノ像・順礼歌ナト比丘尼ノ商賣也 同左手ニ深谷ノ中ニ生大
△ 原本牛王ノ下矢避欠 臥トアリ
黒ト世ニ云慣セル堂有レ之 本尊ノ開帳終ニナシ 御供ヲ備フルニ内陣ニ手ヲ入ル
程ノ孔有レ之 夫ヨリ手ヲ入大黒ヲ捜スニ 常人ノ肌ノ如ク暖ナリト云リ作不レ知也
右千躰佛堂ヨリ又一町程上リテ道耳ニ 餓鬼ノ水ト云ル清水有 此所ノ谷ヲ地獄谷
ト云 少シ上リテ閼伽井有 筧ヲ以テ取レ之 本堂ハ五間ニ七間也 往昔飛騨ノ工
ガ造立トイヘリ 本尊ハ愛染明王・不動明王・十一面観音也 但不動ハ磐石ニシテ
二佛ノ中ニ有 三躰ナカラ作不レ知也 此堂ハ掛作ニシテ東向也 本堂ノ上方ニ池
有 不断注連ヲ引也 此池ハ入鹿村ノ池ト一ツ也ト云ナラハセリ 由緒不レ知 入
鹿村「往昔有鍛冶屋」ヘ行程九里余也 神倉山ハ魔所也ト云リ 故ニ常ニ○○申刻ヨリ以
○○ 申刻ハ大方今ノ四時頃ナリ 昔ハ日ノ長短ニヨッテ時モ伸縮セルナリ年中暮ハ六ツ也申ハ七ツ也
後人カヨハズ 毎年正月六日ノ夜暮時ヨリ参詣ノ貴賤 精進潔齋シテ手ニ松明ヲト
モシ詣也其夜此堂ニシテ行有 下向ニ彼松明ヲ堂ノ内ニ●残ラスナケ入テ下ル也 早
● 松明ハ堂ニ投入ルニアラズ 點火シテ一旦堂内ニ入リ 扉開ケレバ持チ乍ラ山ヲ下リ前後ヲ爭フ也
ククダリタル人其年ノ吉兆也トテ人爭テ赱下ル也 此夜ハ男子ハカリ詣ル也 祭礼
ハ恒例五月十八日・六月十八日両度也 神倉山名所也
續古今 神祇 入道前太政大臣
みくまのヽ神倉山の石たヽみ のほりはてヽも猶いのるかな
又新宮ヨリ有馬村へハ順道ヨリ右手ニ行也 小キ山ヲ通ルニ左手ニ谷三昧也 有馬
村ニモ神社ヲハシマス 産田宮トモ世俗ニ大般若トモ云ヘリ
◎有馬村「今日池辺」産田大明神 産田神社者レ葬二伊弉冊一所也
日本紀曰 伊弉冉尊生二火神一時被レ灼而神退去故葬二於紀伊國熊野之有馬村一
焉 土俗祭二此神之魂一者花時以レ華祭亦用二鼓吹幡旗一歌舞而祭矣
旧事記曰 伊弉冉尊者葬下出雲國與二伯耆國一堺比婆之山上也
日本紀曰 問古事記曰 伊弉邪美尊者葬出雲國與伯岐國堺比婆之山也 而今
此云レ葬二之紀伊國一何某背乎 答曰 神道不レ測未レ知二其関一所レ聞各異所レ注
亦異是猶二茶帝之塚所々不一レ定云々
花窟亦此所ニ有レ之 是則伊弉冉尊葬奉リシ所ナリ云々 大ナル岩山ニシテ産田宮
ヨリハ其北也
夫木集 讀人不知
春風に梢さき行紀の國や 有馬の村に神祭りせよ
盧 主
花の窟にて天人のをりて供養し奉るを思ひて 増基法師
あまつ人いはほをなつる袂にや 法のちりをはうち拂ふらん
◎三輪崎村・佐野村「佐野ハ順道ヨリ右脇」両村高千六百六十三石五斗八升也 棟数三百
廿軒三輪崎村ノ中ニ王子ノ小社有
萬葉 七
三輪かさきあら磯も見へす浪たちぬ いつこより行かんよき道ハなし
建仁ノ比 後鳥羽院熊野御幸ノトキ道ノホトリノ歌ノ中
拾遺愚草 覊中霰 前中納言定家卿 原本題ノミアリテ哥ヲ欠今補レ之
冬の日を霰ふりはへ朝たては 波に波こす佐野の松原
當村ニ大明神二座 八幡宮・岡明神・妙見二坐・惠比壽・稲荷ノ社有レ之 弓手ノ
方海辺ニシテ島々ミユル 少シ先ニ往テ大ナル岩穴ヲ順道ニシテ往還ス 世俗ニ是
ヲ胎内潜ト云 浪アラキ所ナガラナルガ故ニ浪間ヲ考ヘテ往来ス 此濱ヲ御手水濱
ト云 小キ山ヲアガリ中ニ谷川流テ淵有 ムカシ此所ニシテ律僧身ヲ投タリト云
則葬リシ所也ト云フ 右脇ニ石塔アリ海上ニ孔子島・鈴島ト云二島相対セリ 此所
ニモ王子ノ小社有旧跡ト云 順道ハ濱辺ナリ松原有 此間ニ王子ノ小社アリテ濱ノ
方ノ岩山ニ便松 同山上ニ△大夫松ト云テ名木アリ 此濱ヲハ秋津野ト云ヘリ
△ 大夫松ハ宇久井・秋津野ハ佐野也 混ス
名 寄 惠重法師
藻苅舟秋津ノはまにさほさして おもふつまとちこきつヽぞ行
此濱ニ黒石多シ 此間ニ少ツヽ上リサカリノ小坂有
◎宇久井村 高八十六石余也 在所ノ内ニモ王子ノ小社 氏神明神有レ之 此濱ニモ
碁石多シ 側ニ目覺山ト云テ権現ノ旧跡有 ○赤色ノ濱ト云也 大津坂上下四町・小
○ 赤色ノ濱ハ狗子ノ川也 小串坂ヲ過ルノ濱也
串坂上下二町有 此辺ノ濱ヲ白菊ノ濱ト云 岸根ニ野菊多シ 新宮ヨリ宇久井マデ
ノ濱惣名ヲ七里御濱ト云 何レモ砂濱道ニ小坂有レ之 此アタリヲ鳴那濱ト云也
錦濱共云 ○○ 七里濱ハ木ノ本三輪崎間也 宇久井ニアラズ △ 鳴那濱ハ濱ノ宮アタリ也
懐中抄 讀人不知
なくさまぬ名をたつ人はよとヽもに 音をそなくやのはまのまにく
◎濱宮村 馬次也 高二百五十石余 棟数五十軒有 右手ノ森ノ中ニ補陀洛寺有真言
宗也 此寺ハ南方無垢世界ニ相対ト云リ 住持末期ニ及時海上ニ見ヘ渡ル 綱切島
へ舟ニ乘行テ息絶ルト即海底ヘ沈葬スト云 此寺ニ観音堂有ワラフキ也 同並ニ若
一王子ノ小社有 村民云 錦浦大明神ハ伊豆箱根権現也 濱ノ宮ノ一名錦浦トイフ
寺ノ前ニ白河院法皇ノ御陵ト云テ小キ社有 同側ニ玉石ト号シ力様ノ石二ツ有レ之
此寺ノ向ニ當テ山也 島ト云有 昔内大臣平重盛「号小松殿法名淨蓮」嫡男正二位右
近衛中將兼伊豫守平維盛卿此處ニ於テ入水セラレシ云 同墓所有レ之 卆去ノ後神
ニ祀テ維盛宮ト云 今ニ至テ大野村ニモ社有レ之 元暦元年三月下旬濱ノ宮ノ中ニ
於テ入海テ時廿七歳也 村民カ云維盛卿熊野参詣ノ後 海ニ入ルト号シテ色川ト云
所ニ隠ル 村民是ヲ憐ミテ二奉仕一ト 于レ今其社不レ廢 或曰 祭レ之ト云 此所
二至二テ今一維盛ノ苗裔有レ之云々 一説曰 維盛卿熊野参詣ノ後 在田郡上湯川
ニ蟄居セラル 今小松弥助ト号スルハ彼末葉ナリトモ云リ 右濱宮ヲ哭澤森共渚森
共云ト一説有或書曰 むろの郡那智ノホトリ濱宮ト云 此宮ヲ哭沢森トモ可レ謂歟
井蛙抄ニ哭津森ト共ニ紀伊國也 若同一所カト云々 故ニ共ニ出ス哭津ト有テナギ
サノ杜ト 仮名ノ誤歟一決シガタシ 但藻塩草ノ説ニヨリ渚ノ森ハ那智ノ濱ナルヘ
シ 哭津ノ杜覺書ナシ此事知人ナシト 若亦濱ノ宮ハXなきさハめナラハサモ有ナシ
此事知人ナシト云々 X 泣澤女命
万葉 二 人 丸
哭沢の森に身はすはいかれども 我大君はたかひしられす
繽古今 五
村しくれいく入そめてわたつみの 渚の森のいろに●いつらむ ● 出?(芝)
◎井関村・市野村 両村共ニ王子ノ小社有 坂二ヶ所上下三町宛有レ之 市野村ノ入
口ニ千代ノ井ト云名水有レ之
◎二瀬村 在所ノ中程右手ニ若一王子ノ小禿有 此辺ニ木魂ノ宮ト云小社有 神前ニ
小キ流川有レ之
◎那智山麓ノ下馬橋長サ十間 此川上ハ瀧也 是ヨリ二町程上リテ右手ノ奥山ニ 那
智ノ瀧見エル 是ヨリ四五町直ニ上リテ二王門ニ至ル 瀧本ヘハ右手ノ方ニ道有
順道ヨリハ弓手ニ三昧有 石塔ナト多シ 亦大木ノ杉多シ 深山ノ中トホリ順道也
同並ニ●亀山院ノ御陵有 一率都婆ニ曰 經仁尊霊ト云々 那智権現並礼所家上一番
● 亀山院御陵ハナシ率都婆ナリ 經仁ハ恒仁ナリ ●● 教化ノ字ハ他書ヨリ補フ
観音堂ヘハ二王門ヨリ直ニアカリテヨシ 下馬ヨリ神前マテ石段ナリ 順礼一番ノ
観音ハ閻浮檀金ノ尊容ニシテ如意輪也ト云リ 昔●●教化ト云人なちの二ノ瀧壺ヨリ
祈上奉ルトカヤ 則如意輪ノ瀧ト云ト 又此瀧ノ形少傾キテ観音ノ尊像ニ似タリ
故ニ号共云 出現ノ時ヲ不レ知也
那智にて菴のはしらに書付ける 大僧正 行尊
おもひきや草のいほりの露けさを つゐのすみかとたのむへしとは
菴主ノ寺ニテ観音ノ影像ヲ沽也 札所ノ観音堂ヨリ瀧見堂マデ道法五町二十間有ト
イフ 本尊ハ千手観音也 札所ノ観音堂ヨリ瀧ハ右手ニミユル 此瀧ノ落口ニほ
らかひ石・鐘石ト云有レ之 此瀧本一町ハカリ下ニ護摩堂有 此背ニ往昔文覺上人
籠タリトテ則文覺瀧ト云リ 前所籠堂ハ是ヨリ向ニ當ル 瀧山上リヲスレバ 如意
輪ノ瀧ヨリ登リ最勝カ嶺ト云 世俗ニ此所ハ最勝王經ヲ納メシ所也トイヘリ 是ヨ
リ三ノ瀧ヘ道有レ之 三ノ瀧ハ天児屋根命飛瀧権現也ト云リ 水ハ巽ニ向テ落ルナ
リ 此瀧ヨリ上ヲハ人カヨハストイフ 花山院ノ御菴室ノ跡有 石ノ櫃ニ御天目二
ツ・水瓶二ヶ有之 同傍ニ枯木 ムカシ名木ノ高根ト云桜ノ所有レ之也ト云ヘリ
此ワタリハ深山ニシテ老木茂リ有 菴室ヨリ東ヘ上リテ布引瀧有水少シ流ル 此道
ヲ横ニ行ハ山上ニ細道有レ之 爰ニ小キ堂有 此堂ニ聖護院道興法親王ノ 手自彫
付玉エル不動ノ像有 此所ヨリハ那智ノ勝浦・濱ノ宮ノ海上並南海咸ミユル 尤モ
景スクレテ面白シ 二ノ瀧ヨリ一ノ瀧ノ上ヘ出ル也 瀧ノ落口五十間計ナリ 剣ヶ
淵トイフ有 此アタリ一枚岩ナリ 一ノ瀧ヨリ二町ホト上リテ右手ニ大岩有 猿岩
ト云ナリ 瀧壽院ヨリ東方ニ光ヵ嶺鐘楼堂有 此背ヨリ妙法山ヘ道アリ 此辻ヨリ
二町程上リテ弓手ノ方順道也 那智山ノ麓下馬ヨリ妙法山マテハ一里半余 其道大
木茂リテ深山也 那智山ノ御社ハ巽ニ向ハセ給フ也
本宮旧記曰 仁徳天皇草二創那智宮一云々 其龍集ハ不レ知
本 社 從二位結社 千手観音
二 宮 伊弉冉尊 阿弥陀
三 宮 速玉男 薬師
四 宮 聖 宮 龍樹
五 宮 中禅宮 地蔵
六 宮 若一王子 十一面
七 宮 児 宮 如意輪
八 宮 子 守 正観音
九 宮 十 万 普 賢
一 万 文 殊
米持金剛 毘沙門
飛行夜叉 不 動
勧請十五社 釈迦
拝殿有レ之 大黒堂有レ之 弥勒堂有レ之 統テ三山ノ末社其数二百十末社ト云
本宮・新宮・那智三山ノ社領都合千石也ト云リ 妙法山阿弥陀寺上生院ハ世俗ニ女
人ノ高野山ト云リ 開基ハ弘法大師 本尊ハ即大師四十二歳ノ像形ヲ 自カラ彫刻
シ給フ所ノ木佛也 同並ニ四方淨土ト云ヒナラハセルト有 此本尊ハ大唐ニテ弘法
ノ師範惠果和尚ノ木像 是又弘法ノ作也 此門前ニ地ヨリモ六七尺モ高キ岩有 此
穴隠水トテ名水アリ 四季共ニ増減ナシ 毎日潮ノ干満有トイヘリ 是ハ昔弘法ノ
ふうしヲカルト云 妙法山ヲ直ニ下レハ 平野山ト号シテ銅ノ出ル山ニ行也
抑熊野三山ノ御事ハ 往昔代々ノ聖主特ニ尊敬ヲハシマシテ 御参籠モタビく
有シトカヤ 且其年譜ヲ管見シ奉ルニ
人皇十代崇神天皇「南紀神社録曰 相傳此時始建二熊野本宮一云々」・同十二代景行天皇
「南紀神社録云 此時始建二熊野新宮一云々」・
同十七代仁徳天皇「本宮旧記曰 仁徳天皇草
二創那智宮一云々」・同四十二代文武天皇・同五十一代平城天皇・同五十六清和天
皇・同五十九代宇多天皇・同六十五代花山院法皇・同七十二代白河院法皇御製
左伎尓保布波那能気志記乎美婁加羅尼
軻弥乃許々慮曽贈羅仁之羅留々
同七十三代堀川院・同七十四代鳥羽院法皇・同七十七代後白河法皇 此帝ハ別
而御信仰モ深カリケルニヤ三十三度ノ御幸御願成就ヲハシマシケルトゾ・同八
十二代後鳥羽院・同八十九代亀山院也 遙々ト南山ノ峻嶺ヲシノギオハシマシ
雲ヲ分ケ川ヲ渡リ斯嶮難ノ幽谷ニ分入リ給フ事 是皆天下安全ノ御奉幣 後生
善所ノ御祈願有ノ故トソ聞ヘシ 仰ヘシ/\難レ有カリシ御事也
那智山ノ西口色川村ノ東ニ鳴瀧アリ
おもふ事身にあまるまでなる瀧の しばしよとむをなになげくらむ
此歌ハ身ノシヅメルコトヲナゲキテ アヅマノ方ヘマカリ下ラント思ヒ
ケル人 熊野ノ山ニツウヤシテ侍リケル夢ニ見ヘケルトソ
◎天満村 高三百八十五石 棟数百六十軒有 村ノ入口ニ川有 十八間 土橋有 此
辺銅ノ気強ニ依テ此川ニ魚ナシト云リ 在所ノ中程ニ天満ノ社八幡宮有レ之 同側
ニ王子ノ小社有レ之 濱宮ヨリ此所ニ往ニ直路ハ砂濱ヲ通ル也 那智山ニマウテヽ
此在所ヘ出ルニハ廻リ道也 天満村ニテ那智紙「似二唐紙一也」根本ハ徐福仙人漉キソ
メシト云リ
するだ坂五町 那智勝浦在家有 是ハ順道ヨリ東ニテ往還ス非二順道一
八幡宮・惠
比須宮有レ之 此浦ハ當國第一ニ勝レタル善湊也 室ノ湊ト号スルハ此所也ト云リ
海中ニ不奥島・小金島・本太島・雀島有旧跡ト云リ 在所ノ中程一町ハカリ山上ニ
横二十間長三十間ノ平地有レ之 往昔白河法皇ノ敕願松青寺ノ旧跡也ト云リ 退轉
シテ今礎ハカリ残レリ
◎湯河村 高百六十二石余 家数十七軒有レ之 在所ノ中程ニ湯河寺「禅宗也」有 本
尊薬師弘法ノ作也 爰ニ温泉有レ之 岩ノ狹間ヨリ湧出ル但ヌルシ 寒気ノ時ハ在家
ニ汲取テ水風呂ニシテ入湯スル也 中風・筋気・手足ノシビレ・男女腰ヨリ下ノ疾
ニヨシ 殊ニ婦人ノ萬冷病ト勝テ善シ ヨク温ル故ニ頭痛・上気ニハ不レ宣ト云リ
順道ヨリ十町許南ニ當テ 夏山ト云ル旧跡有 此峠ニ弁才天ノ社有 道ノ傍ニ六字
○寅?濱?名号石碑有レ之 弘法大師ノ筆也 同演ノ方ニ仙阿弥上人ノ菴ノ跡有 時代不レ知
也同側ニ光明坊ノ窟有レ之 此穴那智山ヘ徹タリト云 昔此穴ノ内ニ三本竹ト云テ
有レ之ヨシ 今ハナシ 順道ニ少シツヽノ小坂有
◎川関村 在所ノ中程ニ王子ノ小社有レ之
◎二河村 高三百三石余家数三十三軒有 自レ是市屋村ノ間ニ上下五町ノ坂・同五町
半ノ坂有レ之
◎市屋村 馬次也 高百六十七石余 軒数廿七軒有 村ノ○○半外トニ王子ノ小社有 小
坂有 太田川幅一町カチ渡リ也 洪水ニハ渡ニクシ ○○ 「半外トニ」ト訓カ
◎和田村 馬次也 高二百六十四石余 棟数三十一軒 此所ニ大泰寺ト云ル山ニ 城
跡有 城主モ時代モ不レ知 同側ニ王子ノ小社有
二川村・市屋村・和田村ヲ都テ太田ト云也
◎庄村 馬次也 高二百五十石余 棟数三十軒有 村ノ中程順道ヨリ少シ右手ニ 弘
法手自堀玉ヒタリト云傳ル井有 當村用水ト云リ 同並ニ藪ノ辺ニ弘法作ノ薬師有
藪ノ下順道也 此在所ニ菖蒲ノ森ト云古城ノ跡有 城主ノ時代知人ナシ 小坂有上
下六町也
◎浦上浦 在家有レ之 高九十二石余 棟数五十軒有レ之 濱辺順道也 上下三町ツヽ
ノ小坂二ヶ所有 此海ニ離小島・玉浦ト云ル名所アリ 但粉白浦ノ内也云々
万葉 十五 無 名
玉の浦沖つ白玉ひらへれと ましたもおきつる見る人もなみ
爲 家
玉の浦の何にたつものは秋の夜 月にみかける光なりけ里
◎大床浦 鍋島ト云旧跡有 同辺ニ岩井ノ松ト云名木有 此所ニテ漁舟多シ 王子ノ
小社有レ之 少ツヽ坂有レ之
◎下田原浦 馬次也 高四百七十四石余 棟数五十三軒有 此所ニハ四季共ニ石決明
多シ 故ニ海人多シ 王子ノ小社有レ之 浦神ヨリ此マテ濱辺順道也
◎古座村 馬次也 高八石 棟数百五十九軒有 村ノ入口ニ墓所有レ之 此ノ上方ニ
○小山式部カ城跡有 此所ニ漁舟多シ 南ノ方ノ山奥ニ○○温泉有レ之 是ハ近キ比ヨリ
出来タリ 其上順道ニアラザル故ニ是ヲ知人ナシ 何ノ疾ニ善ト云事ヲシラス 在
○ 小山ノ城ハ西向浦ナリ混入ス ○○ 温泉ハオノ谷ナラン
所ノ半程 札ノ辻ヨリ神川浦ヘ舩渡シ有 但入川湊也 此川大ナル鰻多シ 他国ニ
類ナシト云 在所ノ内ニ古城ノ跡有 ムカシ高川原帯刀ノ居城ナリト云リ 此順道
ノ側ニ屋敷カマヘ有 是ハ和歌山ヨリ不断百日代ニテ 口熊野御目附一人ツヽ爰ニ
来勤番スル所也 同辺ニ郡奉行御代官ノ屋敷有レ之 是ノ前交代勤有レ之由 同並王
子ノ小社有 古座川ハヽ弐町有 舟渡常ニ有レ之 旅人ハ舩賃定ラス 近里ノ者ハ
秋米ヲ出シテ價レ之 此舩中ヨリ橋杭浦ノ在家ミユル 海端ニ其高サ二丈四五尺ハ
カリツヽ有レ之 橋杭ニ似タル大岩十七八相並ヘリ 昔弘法大師橋杭浦ヨリ向ノ大
島浦ヘ一夜ニ橋ヲ掛ケタリト 其橋杭今ニ残リ故ニ村ノ名トスルト 土俗ノ説ナリ
◎西向浦 高百四十一石余 棟数七十軒内四十一軒里方 廿九軒ハ浦方也
◎伊串浦 高七十一石余 棟数廿六軒有レ之
◎姫 浦 高七十九石余 棟数十軒有レ之 村外ニ姫ノ松原有 此中ニ王子ノ小禿有
濱辺ニ黒キ碁石多シ 小坂少々有 シリデノ坂上リ三十間・下リ三十間
◎鬮川村 馬次也 高三百七十二石余 棟数五十二軒
◎二色浦 高百十石余 棟数廿軒 小坂有 ハバ十二間ノ小川有
◎二部浦 高二百十四石余 棟数廿七軒有レ之 上下四町ノ坂有 又上下二町余「三町
トモ云」ノ坂有 此山ニ後子抛ト云難所有
◎有田浦 馬次也 高三百四十九石餘 棟数七十九軒 坂二ヶ所 一ツハ上下三町
一ツハ上下六町 小川アリ
◎田並浦 高五百七十六石余 棟数百三十一軒内三十四軒ハ里方 九十七軒ハ浦方也
上下一町ノ小坂有
◎江多浦 高百五十七石余 棟数三十一軒有 此浦ニ漁舟多シ 村ノ半程ニ王子ノ小
社・夷ノ社有
『●此向ノ海中ニ須江浦・樫野浦トテ西浦共々在家在 此所ヨリ出雲浦マデノ内ヲ塩
ノ崎浦ト云ル名所ナリトソ 又塩ノ御崎共云也 此所ハ潮極テ早シ 上リ汐下汐ト
テ或ハ年ヲ經テ上リ塩ハカリノ事モアリ 或ハ下リ汐ハカリノ事モ有 世間ノ汐ノ
干満ニカヽハラス 片塩ハカリニ行也 其程ハカリ難シ 奇異ノ事也 故ニ往来ノ
廻船乃二難儀一ト云リ
山家集 西 行
小鯛ひくあみのうけなはよりめぐり うきしわざあるしほさきの浦
此浦ニ御崎ノ観音有』
● 此向ノ海中云々ヨリ観音堂アリマデハ鬮ノ川村ノ処ノ事也 故ニ上ニ轉シテアルベシ 混入セ
シモノト見ユ
江田浦ノ順道ニ上下十町同二町三町ノ坂有レ之
◎田子浦 高百三十三石「浦方里方」家数五十七軒 内廿七軒里方三十軒浦方也「二色ヨ
リ此浦マデ濱辺順道ナリ」自レ是和深マデノ内ニ片坂八ヶ所 上下合十町有レ之ト云也
◎和深浦 馬次也 高四百四十八石余「浦方山方」家数百三十六軒有レ之 入海有 此間
ニ片坂九ヶ所 其道法合七町半有ト云 此左手海辺ノ谷嶮岨ニシテ大キナル岩崎タ
リ 右手ニモ峻岩有レ之峯ナリ 尤道狭シ 此外ニ坂少々有レ之 鬮川村ヨリ和深浦
ノ間ニ統テ小坂四十八ヶ所有ト云傳フ 但大山ハ此外也
里野浦◎里浦 高百一石 棟数六十五軒有 此所ニハ四季共ニ柴薪伐木等多シ 近辺ノ山ヨ
リ伐出テ船ニテ諸方ヘ商賣ス 自是江住ノ間ニ片坂六ヶ所 合テ上下六所有ト云
◎江住浦 高百十四石余 棟数六十六軒有 是ヨリ見老津マテノ内ニ片坂八ヶ所上下
合テ五町有レ之 ○ 原本未老津浦トアリ ○○ 長柄坂(芝口)
◎○見老津浦 高二十五石余 家数六十八軒 ○○長井坂四十八町 此間ニモケハシキ所
ハ上下十二町下六町有ト云
◎和深川村 馬次也 高九十四石 家数四十九軒有 村ノ入口ニ小キ川有 和深山上
下二町 俗ニかさ折山トモ高山トモイヘリ
身のうさを思ふ涙ハ和深やま なげきにかヽる時雨なりけり
◎口和深村 ●馬倒坂 上下九町 ● 馬轉坂ナリ △ 周参見浦
◎周参△美浦 馬次也 高九百十七石余「浦方里方」家数六十一軒村ノ中ニ城跡有 往昔
周参美 主馬助ガ居城也ト云リ 村ノ中ニ川有 是ヲ當麻江ト云 此浦尤諸廻船ノ
湊也 此所ニ御城米改南三十郎ト云者五人扶持被レ下常ニ住スル也 川三所有 佛坂
ヨリコナタノ小川ハヾ十二間有 佛坂ケハシキ所十四町 坂ノ上下三十町 かつら
松ノ坂十五六町有 此坂ハすさみトあごトノ堺也「右坂ヲ除ニハ周参見ヨリ日置浦へ舩ニノ
リテヨシ」
◎安居村 馬次也 高二百七十三石余 家数四十八軒有 村ノ入口ニ川二ツ有レ之
是ハ中辺路越ノ近露川ノ下也 村ハツレニ水ナキ川三四ヶ所通ル也 是順道ナリ
少シ行テ安居坂上下三町半也 富田坂一里六町有レ之
◎富田高瀬村 棟数五十軒有 馬次也 此郷ノ内ニ統テ十四ヶ村有ト也 其税三千五
百十九石「浦方里方」 棟数四百廿軒内二百七十軒ハ里方 百五十軒ハ浦方也 在所ノ
外ニ富田川有 ハヾ一町瀬多シト 洪水ニハ越ニクシ 此川下ハ富田ノ内袋ノ湊ニ
落ル也 此辺ヨリ萱中砥ト云テ荒砥出ル也 神子濱砥ニ同シ 運上ヲ出シテ諸國ニ
商賣ス 名物也
高瀬村ヨリ六町巽ニ當テ 要害ノ古城ト云フテ山城ノ跡有 城主不レ知 高瀬ヨリ
半里ハカリ西ニ堅田村有 此所ニモ要害山ト云テ古城ノ跡有レ之 是ハ山本主膳カ
○○家来堅田式部ト云者當在所ヲ知行シ 百廿余年以前永禄年中マテ居城セシ地也ト
云リ ○○ 原本家頼トアリ ● 家来
芝村 家数六十軒有レ之 伊勢谷村是ハ十九渕ノ内也 平村・内野川村・保呂村
是ヨリ巽ニ當テ鴻巣ト云山城ノ跡有 是ハムカシ山本主膳カ家●頼内野川平兵衛ト
云者 内野川・保呂村両村ヲ知行シテ百五年以前マテ居城セシト也
◎朝来村 馬次也 統テ七ヶ村也 其税五千六百石 棟数五百廿軒内二百七十六軒本
役家也 村ノ中ニ王子ノ小社有レ之 當所ヨリ半町ハカリ隔テ岩田村有 同川有
續拾遺 神祇 花山院
岩田川わたる心のふかけれぞ 神もあはれとおもはざらめや
同岩田村ヨリ四町程南ニ當テ山城ノ跡見ユ 是ハ山本カ家臣山本兵部ト云者百五年
以前マテ居城セシト也 兵部カ知行ハ岩田村並市野瀬村ノ内・岡村ノ内ヲ領セシト
也 又岩田ヨリ十町餘川上ニ市野瀬村アリ 市野瀬ヨリ五町程川向ニ 北ニ當テ龍
松山トテ古城ノ跡有 是山本主膳天正十三年ノ比マデ居城セシト云 知行所ハ朝来
郷七ヶ村・富田ノ郷十四ヶ村並三番・四番ノ内 田辺組ノ内湊村神子濱・万呂村・
△荊木村 日高郡ノ内ニテ塩屋村・△いはき村・萩原村等也 主膳事ハ天正十三年三月 秀吉公
ナラン 當國御進發ノ時敵對仕ニ依テ御魁 杉若越後守ト相戦勝負区々成リシカトモ 山本
(芝口) 方ニハ味方スル者ナク 剰舅湯川モ没落セシカハ 始終不レ協ト思ヒ潜ニ城ヲ出テ
熊野ノ方ヘ落行所ニ寄手亦追蒐ル 終ニのそきの橋ヲ引テ防戦スモ 後藤堂高虎武
略ヲ以テ山本ヲ降参サセ 翌天正十四年那賀郡粉河ノ館ヘ獄牢 浴室ニ於テ殺害セ
シト云ヘリ 事長カ故ニ畧レ之 此村ノ西ノ方ニ大芝ト云古戦場有レ之 今ハ田地
ト成也山本主膳ヲ追討トシテ 仙石権兵衛「後号二越前守一」・尾藤甚右衛門・杉若越
後守等於二此處一合戦セント謂傳ヘタリ
又朝来村ニ相對テ岩崎村有 是ヨリ十町坤ニ當テ山城ノ跡有 城主不レ知也
新庄峠小坂也 新庄村坂ノ下着ニ小社有 同村中ニモ小社有 橋ヶ谷小橋有 ツブ
リ山小坂也
権現松原此中ニ二十二社権現ヲハシマス 是ハ鷄合権現ト云 于レ世新熊野ト申是
也 役行者大黒像モ有レ之 本社ハ北向也 平家調伏ノ宮ト云ナラハセリ 昔源平
ノ合戦ノ時 当社ノ別當湛増法師赤白ノ鷄ヲ合戦 勝タル方ニ鬩セント祈誓セシ
●者→ハ ニ 白鷄戦勝故ニ源氏ニ味方シ 其功アリトカヤ 此宮●者田辺中ノ産宮也 祭礼ハ
例年六月廿四日廿五日両日也 両日共ニ猿楽能ヲ九番ツヽ奉ス 廿四日巳刻潮垢離
ノ濱ノ出御有レ之 其後田辺中ヲ渡シ奉ル 晩景ニ及ヒ又潮垢離濱ノ御旅ニ還御也
然ニ寛永十九年笠鉾ニ替ル 今ハ町中渡シ事モヤミ 又慶長十年ニ浅野左衛門佐氏
定 始而米五石ヲ御供領ニ寄附ス 今ニ退轉セス 此社ノ南方ノ山ヲ仮庵山ト云
湊村ノ内也 右松原ノ濱辺ニ至テ夙村ト云有 此在所ヨリ一町ハカリ沖坤ニ當テ
旗島ト云有 是ハ往昔熊野権現旗ヲ立給フ所也ト云リ 同村ヨリ海上十五町程ニ當
テ神楽島有 其廻一町許有レ之「但此島江川浦内也」同村十八町程沖未ノ方ニ鐘鑄ノ島
有レ之 其廻リ二町ハカリ也 同海濱ニ神子濱村ト云有レ之 此所ヨリ荒砥出ル 神
子濱砥ト云テ世々重宝セリ 磯間濱アリ 此在所ヨリハ二町程未ノ方ニ當ル也 最
神子ノ濱ノ内也
新拾遺 恋二 定 家
梓弓いそまの浦にひくあみの めにかけなからあはぬ君かな
同沖ニゑひ島有 海上五町程隔也
神島ハ新庄村「于レ前記レ之」ノ内也 島ノ廻九町此内ニ鹿島大明神ノ社有レ之 鳥
ノ巣枝浦ヨリ戌ノ方ニ有 船路四五町也
建保百首 順徳院
鹿島やいそまの浦にあまのかるもに 住虫の身をうらみつヽ
又形見浦ト云所モ此在所ノ内也 但跡ノ浦ト云枝郷ノ江也 古歌アルヨシナシ共
不レ覚ト土人ハ云リ「私云 古歌ニ形見浦トヨミシハ海部郡加太村ノ海濱也トカヤ 加太村ニテ問
ニ又勒島ト云リ」
新敕撰 冬 鎌倉右大臣
風寒み夜のふけゆく妹カ島 かたみの浦に千鳥なくなり
トヨミツヽケタレハ當所ノ名所トイフ事不審シ 所詮此浦ハ同名ニシテ名所ニハア
ルベカラス 猶可レ尋 同沖ニ鳥島有 長一町横廿間ハカリニ見ヘタリ 舟路六町
モアランカ 同鳥巣浦モ家数少ハカリ有 尤「山方浦方」新庄ニ組スト云ヘリ
又前ニ記ス周参美浦ヨリ海濱ヲ通テ富田ノ高瀬村ヘ出ルニ すさみヨリ日置村「此所
ニテハ冬ノウチ青苔多ク出ル也 此間三十町程何男女取レ之商賣トスル也 レモ在家有レ之」志ハラ
●隔(芝)・かさんホ・市江 ・朝来帰浦 是ヨリ五六町●阻テ出崎ニ常燈有 是ハ遠候ノ常番
所也 田辺ヨリ勤レ之 朝来帰ノ内ニ小椿ト云所ニ狼煙有 大椿・いさひ谷・箕輪・
横浦 是ハ市江浦トテ朝来帰トノ堺也
◎見草浦 棟数十七軒有レ之 見草ノ湊ハ濱ヨリ二町程ノ入江也 深サ七尋ホト也
是ヨリ長崎ト云所マテ見草ノ内也 見草ヨリ袋ノ湊マデ海上廿七町・陸路十九町有
◎袋 湊 家数六軒有レ之 此湊ノ口深サ五尋ホト 指渡一町ホト有レ之 湊ノ内長六
町計横百間程舩繋ノ深サ二尋或ハ三尋 沖ヨリ二町ホト入テ右手ノ方半遠浅也 湊
口己午ニ向テ奥ハ亥子ニ當レリ 此所ニ當所有レ之 湊口一町半程沖弓手ニ三ツ石ト
云岩有レ之 満汐ニハ見ヘス 此岩ヨリ磯ヘ二町ホト有レ之 袋ノ口ヨリ二町ホト西
ニ大島ト云アリ 長七十間程横五十間程ナリ 右袋浦ヨリ富田ノ高瀬村ヘ出ル也
又高瀬村ヨリ瀬戸ノ鉛山村ヘ二里半程有 高瀬村ヨリ吉田村・小山村「溝端村ノ内也」
・才野村・悪川「才野村ノ内也」鴨居谷家数六七軒 此間ニ平岩ト云有レ之 是ハ富田
ト瀬戸トノ堺目岩也
◎鉛山村 此所ニモ温泉四坪アリ 此内まぶの湯ト云ハ在所ヨリ東ニ在 筋気・脚気
・冷病ニ善ト云 屋形ノ湯ト云ハ小瘡ヲ治事奇妙也 此山上ニ薬師堂有レ之 作不レ
明 開帳鳥目八文也 薬師守ハ三太夫ト云土人也 元ノ湯ハ下疳・諸瘡毒ニ良 往
昔親鸞上人此湯ニ入ラレシト云傳タリ 然ハ門徒ノ湯ト云ヘキカ 嵜ノ湯ト云ハ万
病ニ良トヤ 第一ニ手負・打身・打傷ニ入湯スレバ忽ニ平癒スト云也 此湯壺ハ自
然石ニシテ薬師ノ形也ト云 其長サ三間余 湯口ハ御頭ノ形ナリ 此湯ニハ前君モ
度々浴アリハサレシ也 右四坪ナカラ上屋有レ之 尤濱辺ナル故ニ在所ヨリ行ニ足
場悪シ ● 迄?(芝)
鉛山村ト瀬戸村トノ間ニ小坂少々アリ 坂ノ下口ヨリ瀬戸浦● 是ヲ白良濱ト云 此
濱ノ砂極テ白シ 外へ持行ハ色変ストイヒ傳タリ
山家集 西 行
浪よする白良の濱のからす貝 ひろひやすくもおもほゆるかな
此村烏貝ノ名所也ト云
家 集 兼 盛
君か代のかすともとらむ紀の國の 白良のはまにつめるまさこを
又此浦ヲ走湯濱トモ云リ 浪打際ヲ堀スレハ其儘温泉湧出ト也
堀川百首 仲 実
ましらヽの濱のはしり湯浦さひて いまは御幸のかけもうつらす
又此所白貝ノ名所ニシテ有ニヤ 源順ノ和名抄ニハ白貝ト書テおふかひト訓セリ
齋宮歌合 讀人不知
月影の白良の濱の白貝は 浪もひとつに見へ渡るかな
然レハ此歌モヲフガヒトヨムヘキニヤ 知人ニ可レ尋 在所ノ中ニ小キ小川有 橋
カヽレリ
◎瀬戸浦 在家アリ 前ハ砂濱也 瀬戸ノ出埼ニ常番所有 田邊ヨリ與力一人ツヽ三
十日代ニシテ勤番不レ怠 番所ノ東南ニ権現崎小社有
瀬戸浦山ニとくろの宮ト云フ社有 華表ヨリ内ニシテ木葉一ツニテモ取ヌレバ 忽
ニ煩ト云 此宮ヲ俗誤テ藤九郎ノ宮ト云ヘリ 昔頼朝卿ノ長臣盛長此所ニ流罪セラ
レ卒ス 則神ニ祀シトカヤ 謬説也 瀬戸ノ在家ヨリ西ニ先君ノ御殿有シ 今ハ廢
セラルヽ也 此間ニむすめ谷ト云所有レ之 海辺也 波打際ニ色々ウツクシキ小石
多シ 拾ヒテ盆山ニ敷ト云リ
此浦ニテハ春秋鰡ヲ捕 塩ニ漬テ賣買ス故ニからすみ多シ 又鉛山ノ上ニモ先君ノ
御殿有シ 今ハ其跡ハカリ残レル也 統テ此辺ノ山ニ桔梗多シ 此山ハ右ノ薬師山
ニ續ケリ 鉛山村・瀬戸浦ノ海中ニハ桜苔・あまのり・つるも・一葉和布多シ
○○小
鮑等又多シ ○○ 小鮑→とこぶしヲ云地方俗ニながれこト云フ也
瀬戸浦ヨリ田辺マデノ海上二里ハカリ 陸路ハ五里 瀬戸浦ヨリ北ノ浦續東ヘツタ
ヒ田志リ・綱不知ナト在家有 風莫濱俗ツナシラズト云名所也ト 此海底ニ立貝ト
云物多シ ゑぼし貝トモ云ト也 其形●□ニ似タリ ●魚片ニ夜?(章博)
万葉集 九 長忌寸意吉麿
かさなきの濱のしらなみいたつらに こヽによりくるみる人なきに
瀬戸浦ヨリ田辺ヘ行ニハ才野村ニ出テ 夫ヨリ小山村・高井村・血深村・平村・野
田村・岩崎村・朝来村・新庄村・田辺也
右所々浦方・山方・里方・山海共々諸色二分口也 イツレモ金銀ニシテ上納ス 但
鯨ハカリハ十分ノ一運上也 田辺・新宮共々同レ之也
和歌山ヨリ熊野道積
和歌山ヨリ一里半 内原ヨリ二里
○橋本ヨリ一里廿八町 ○橘本 宮原ヨリ一里廿町
湯淺ヨリ三十二町 井関ヨリ二里一町
原谷ヨリ一里廿三町 小松□
ヨリ三里 □
原(芝口)
印南ヨリ三里 南部ヨリ二里
田辺ヨリ一里卅二町 三栖ヨリ二里半
芝ヨリ廿二町 高原ヨリ二里十一町
近露ヨリ廿九町 野中ヨリ四里
伏拜ヨリ一里 本宮ヨリ廿五町
湯峰
本宮ヨリ下舟八里 新宮ヨリ一里半
宇久井ヨリ一里 濱ノ宮ヨリ五十町
那智山
濱ノ宮ヨリ十一町 天満ヨリ十一町
勝浦ヨリ二里半 浦神ヨリ一里半
田原ヨリ一里 古座ヨリ一里
姫ヨリ一里半 鬮川ヨリ
二部ヨリ 有田浦ヨリ半里
田●辨ヨリ半里 ●(並) 江多ヨリ半里
田子ヨリ半里 ○アタシ一里 ○ 安指?
里浦ヨリ一里 江住ヨリ一里
見老津ヨリ一里半 口和深川一里半
周参見ヨリ三里 安居ヨリ二里
高瀬ヨリ二里 朝来ヨリ一里半
田邊
熊野獨参記 巻第三終(大尾)
本書ハ和歌山縣圖書館蔵ノ寫本ヲ複写シタル也
原本ハ誤字少カラス 思フニ初行草体・平仮名交リノ本ヲ寫シテ 楷字片仮名ニ改
メタルモ 筆者其文意ヲ解セス 文字モ亦讀ミ難キモアリテ 誤字ノ多キヲ致シタ
ルナラム
本書筆写ノ際誤字ノ明ナルモノハ 訂正シ・不明ナル所ハ圏点ヲ施シ・脱字ノ疑ア
ルモノハ字間ニ圏点ヲ附シ置キタリ 末尾里程ノ處二三書振ヲ改メタリ 見易カラ
ンカ爲ナリ
昭和七年九月十二日夜 中 根 七 郎
原著ハ元禄二年ノ筆ト見ユ 和歌山辺ノ僧侶ニ非スヤト想像ス 其故ハ若山辺
ノコト精シササノ字ヲ用ヒタル杯也
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昭和十四年十二月前記中根氏ノ寫本ヲ借リテ寫セリ 多少誤字ヤ和歌ノ間違ヲ改メ
オキタリ 宇 井 龍 水
(欄外ノ記入ハ中根氏ノ書入モアレバ余ノ書入セルモアリ)
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昭和十五年三月 宇井氏ヨリ借リテ寫ス 誤字 ト雖モ讀ミ得ル処ハ敢テ改メ
ズ 誤リ箇所等余ノ記入セルモノニハ(芝口)ト記シオキタリ
中根氏ハ之ヲ僧侶ノ著ト考フルモ
左ニアラザルベシト思ハル 芝 口 常 楠
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昭和二十五年八月十四日 芝口常楠氏ヨリ借リテ寫ス 此ノ筆寫ハ七月半ニ始メ八
月半ニ及ブ 清 水 長 一 郎
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『熊野獨参記』のワープロ化を完了して
今日やっと『熊野獨参記』の活字化を終了した。これからプリントし校正に入る。
第一巻の後書きに述べた通り、この本は最初は『熊野獨参記』と云う書名で、作者
不明と思っていたが、『紀南郷導記』の写本で何時の頃からか『熊野獨参記』と書
名が変ったらしい。
前記四人の先輩は『紀南郷導記』の存在を知っていたのか否か定かでない。
昭和四十二年紀南文化財研究会刊行『校訂紀南郷導記』のあとがきに、著者児玉荘
左衛門のこと等詳しく記されている。
この本の活字化を終了したことにより、『いほぬし』(九五〇年頃)・『中右記』
(一一〇九年)・『熊野御幸記』(一二〇一年)・『北野殿熊野参詣日記』(一四二
七年)・『熊野巡覧記』(一七九四年)・『熊野詣紀行』(一七九八年)等平安中
期から室町・元禄・江戸後期の熊野詣での紀行文の整理が出来た。父の熊野紀行の
写本で未活字化は、寛政十(一七八九)年川井立齊の『熊野紀行』が残っている。
しかし此本は『熊野詣紀行』の著者林信章と同行した時の紀行文である。
平成十七(二〇〇五)年六月二十一日
清 水 章 博
使用ワープロソフトJUSTSYSTEM『一太郎2005』For Windows Me & 98
熊野獨参記 巻第一 熊野獨参記 巻第二 熊野古道関係の古籍
'5.6.27