熊 野 獨 参 記
この『熊野獨参記』は内容から元禄二(一六八九)年頃の著作で間違いないようであるが、筆者の氏名は不明とされている。熊野獨参記の別名と思える『紀南郷導紀』には児玉荘左衛門と作者名が書かれている。(紀南文化財研究会発行の「紀南郷導記」昭和42年による)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*写本せし人の書き入れは省略したヶ所がある
*ルビ・注記は省略した
*不明な字は□又は?で表しました。
*パソコンに無い字は[ ]にひらがな又はかなで、割り書は「 」で傍書は( )で表している。
*画像解像度及び文字サイズを最適にしてご覧下さい
尚、この記載は清水章博氏がワープロ化したものをHPで見えるように改変したものである。もし原文を希望するときは本人<
simiaki@axel.ocn.ne.jp>に直接mailして下さい。
熊 野 獨 參 記 巻第二
◎河瀬村 弓手ノ道耳ニ西國三十三度順礼ヲ廻國セシ河瀬六郎太夫カ石塔有 彼カ
信心具ニ先君ノ御耳ニ達ス 則依二貴命一子々孫々ニ至迄数多ノ田地ヲ被ニ下置一ケル
也 六郎太夫ハ程ナク死スニ今其子孫繁昌セリ 下賤ノ民ナレトモ信心誠アレハカ
ヽル不思議ノ御慈ミニ奉レ逢事ヒトエニ事 ヒトヘニ念佛観音カノ御誓ニ依テ 寛
仁大度ノ賢君ノ御意ニ協奉ル事 仰テモ猶餘リ有 慈眼視二衆生一福聚海無レ量ト
●成讒侍ルモ実哉 鹿脊坂上下廿二町 在田・日高両郡ノ堺也 ● 成鳬ナラン(芝)
廬 主
鹿のせ山にねたる夜 鹿の鳴をきヽて 増基法師
うかれけん妻のゆかりに勢の山の 名を聞てやしかもなくなり
◎原谷村馬次也 是高五百八十石 棟数六十軒内三十六軒本役家也 傳馬十七疋有レ
之 馬留ノ王子ノ○小禿有 右手ノ海畔ニ和田・松原見ヘタリ 此所ニハ移多シ此
浦ヨリ熊野ノ串本浦マデノ内 異國舟並ニアヤシキ舟着岸ノ時ハ 田辺ヨリ下知ヲ
スルト云々 同○○入野山見ユル也 萩原村・荊木村・上富安村ヲ過テXX明神ノ前
○ 小禿 前ニホコラトヨメリ(芝) ○○ 入野山ハ入山ナルベシ(芝) XX 明神ハ田藤次
王子一般ニ善童子又出王子ト云(芝)
ヲ弓手ニ行ハ 土生村ノ内道成寺へ往 其道十町アマリノマハリ也 道成寺ヨリ小
松原へ出ルニハ 御舟島ノ側ヲトヲリテ 八幡山・九海士之王子ノ小社ノ前ヨリ行
クナリ 道成寺山ノ下東ニ當テ●小富士ト云有 前君ノ貴命ニ依テ名付クト 小サ
キ山ノ景好シテ木モナキ芝山也 駿河富士ニ似タル山也 ● 入野大山のことか 章博
道成寺 天曜山道成寺「俗呼ニ之鐘巻寺一」ハ文武天皇ノ敕願寺也ト云 本堂造立ノ時橘道成奉
行シタルニ依テ寺号トスルトカヤ 寺領五石被レ寄附 本尊木像ニシテ丈六ノ観音
也 是ハ龍宮ヨリ九人ノ蜑出取来ルト云慣ナリ 左右ノ脇立日光・月光也 厨子ノ前
ニハ廣目ノ誤横目・増長・持國・多聞ノ四天王ノ木像レ之 此堂ムカシヨリ退轉セス
ウハフキノ瓦ハ硯ニヨシト云 イツノ比ニカ有ケン 他國ノ者此寺ニ来テ上葺ノ瓦
ヲ置替寄進セント云テ 咸取代テ徳付タリト聞由 寺内ノ右手ニ鐘楼堂並楼門ノ跡
有 共ニ礎計残レリ 當時ノ鐘ハ今武州ノ△妙國寺ニト来由ヲ聞ヌルニ 人皇百八世
△ 武州妙國寺ト云フハ京都妙満寺ノコト(芝)
後陽成帝ノ御宇 天正十六年五月中旬 或人来テ時鐘ヲ寄附セント云ヘリ 僧徒悦
テ右処ヲ問 被者云 一年紀州一乱ノ砌寺社民屋咸滅亡ス 故此鐘爰彼ノ手ニワタ
リ 今ハ新宮ノオク我屋敷ノ藪蔭ニ置タリ 家内ニ悪事有ムトキハ必鳴ウメク 故
ニ妻子常ニヲソレ忌嫌テ 之ヲ寺ヘ可レ送ト云 我是ヲ聞□テ ワサト上京シテ鐘ノ
ナキ寺ヲ尋ヌ 然ニ幸ニ當寺ニ未見シニ故ニ寄進シ候ト 語テ遂ニ紀州ヨリ上シ鐘
楼ヲ営 然共此鐘響瑾有テ声不レ及レ遠 爰ヲ以テ後又新ニ別鐘ヲ鑄 彼鐘ヲオロ
ス時衆徒評議シテ何故ニ鳴ウメカム イサ鑄加ヘテ大鐘ニセン シカルヘシト同心
シテ既ニ碎カントス時ニ 大霰降鐘ニ煙立ケレバ 皆是ニヲトロキ其マヽニテ捨
其此ハヒビワレテ物ノトヲルバカリアキタリシカ 今ハ癒合鑄鐘ニ同シト云々
彼鐘銘ニ曰
聞ニ鐘声一 智惠長 菩薩生
煩惱軽 難地獄 出火レ坑
願成レ佛 度ニ衆生一
天長地久 御願國満
聖明齋ニ日月一 叡算等ニ乾抻一
八方歌ニ有道一 君ニ四海一楽ニ無爲之化一
紀州日郡矢田庄
文武天皇敕願 道成寺治鑄鐘
○○観進比丘端光 △△別堂法眼定秀 ○○勧進ノ誤(芝) △△別當ノ誤(芝)
檀那源萬壽丸並吉田源頼秀
合力諸檀男女
大工山田道願 小工大夫守長
正平十四己亥三月十三日
門外ノ石段六十二段有レ之 四座ノ猿楽乱拍子トテ大事ニスルモ 彼石段ノ数ヲ踏
ムトカヤ 亦左ノ田ノ中ニ蛇塚トテ少シ芝ヲ取残ス 是レ蛇ノ入タル所也ト云傳タ
リ 當寺ノ縁起「開帳金 子一歩」「千異院 小松院」ハ画師土佐將監 詞書ハ徹書記 カ
筆ナリト云ヘリ 奥書ハ將軍霊陽院義昭公 由良興國寺来臨ノ時 照覧有テ加ヘ判
形シ玉フト云ヘリ
近年新筆ヲ以テ是ヲ写シ 往還ノ旅人ニ開帳「青銅百文」スル由 亦安珍カ所持トテ
小扇一本有レ之 由緒ハ元亨釋書「十九」ニ詳也 故ニ爰ニ略ク
◎小松原村馬次也 高六百四十六石余 棟数八十二軒内四十三軒本役家也 傳馬二十
一疋有レ之 嶋村ヲ過テ日高川「天田川共」ニ至テ 川ハバ七町半 常ハ徒渡リ 洪水
ニハ舟有レ之 旅人ノ船賃不レ定 近里ノ者ハ秋麦米ヲ以テ價レ之 此川上ニハ龍神
「温泉有之」ヨリ流レテ 此川口海ニ至ル 又小松原ヨリ六七町乾ニ當テ丸山ノ城跡有
同ニ町程隔テ二丸ナリトテ山有 城主ハ湯川家代々居城セリ 湯川カ先祖武田次郎
「甲斐源氏ト云紋割菱ナリ」ト云者蒙ニ敕勘一奥熊野ヘ被ニ流罪一 或時クマノ山賊ヲ伐鎮ム
○ 内梅 其功ニ依テ牟婁郡ノ内ヲ領シ同郡○□
梅ト云所ニ有シトカヤ 其末葉將軍尊氏卿ニ
(芳養)属シ功有ニ依テ 有田・日高・室三郡ノ内ノ内ヲ保テ當城ニ居住ス 武田次郎ヨリ十
(芝) 少輔直春 天正十三年秀吉公本國御進發ノ節 己カ居城ノ堅固ナルヲ頼リトシテ敵
対スルニ依テ 御先年藤堂與右衛門「後佐渡守又号ニ和泉守一」・
仙石権兵衛「後号ニ越前守
一」・
杉若傳三郎「後号
ニ越後守
一」
等馳向フト聞テ 敵ノ旗頭ヲ見ルマデモナク数
代ノ居城ヲ棄テ奥熊野サシテ逃去レルトゾキコヘシ
◎天田村此在所日高川ノ耳ニ有 此村ヨリ十七八町川上ニ和田村有 則道成寺川ヲ隔
○和佐村向北也ト云 此所ニ手取ケ城ト云古城ノ跡有 是ハ昔玉置大膳亮カ居城也 大膳
ノ誤ナリハ「紋スハマ也」牟婁郡市瀬ノ主 山本主膳トハ相婿ニテ共ニ舅ハ湯川也 渠カ先祖ハ
(芝) 岩城官トテ奥州岩城ノ住人也 ハサラノ説經ナトモ 山椒大夫トイヘル彼カ事ヲ作リ
タルモノ也トゾ 然ニ岩城敕勘ヲ蒙リ奥熊野ニ流サレ 十六代「異説ニ三十代ト云」居住
セリト云リ 何レノ世ニカ天ヨリ玉降テ木ノ枝ニカヽリ数年ヲ經テ後 彼玉地ニ落
タリ「スハマ形石ト云」夫ヨリ改テ玉置ト名乘ラルトソ聞ヘシ ○八庄司ノ其一人「所謂
八庄司者湯川・小原・芋瀬・鹿瀬・蕪坂・玉置・安阿瀬川是也」○八庄司? 七氏ノ名ヲアゲシハ
一名落筆シタルカ(芝)
トシテ當所ニ於テ其名高シ 相模守平高時入道宗鑿カ命ヲ含テ 大塔ノ宮ニ
弓ヲ引片岡八郎ヲ討取シ者也ト云リ 日高郡野口村ヨリ川上ハ福井村マデ 並有田
郡津木村等都合今検地一万六七千石程ノ主トソ也 天正十三年秀吉公ヘ内通シテ御
□ニ参ルニ依テ 知行無ニ相違一安堵セリ 則亜槐秀長卿ニ附ラルヽ 検地入テ後
○亜槐ハ大納言當ル
昔ノ高三千五百石下行シ給ヒシカハ 大膳心ウキ事ニ思ヒ剃髪シテ高野山ニ入テ
千手院ト号セシト也 事長故略ク
◎北塩屋村 王子ノ小社有レ之
千載集 神祇 後三条内大臣
おもふことくみてかなふる神なれば 志不やに跡をたる成りけり
◎南塩屋村・野島村「名所也ト云」上野村「私云上野ハ名所也野島ハ不レ審」
名 寄 覺助法親王「或ハ覺●祥法師共」 ●祥→語
いく塩路ゆうのみなとを漕出ぬ 上野のしかの声かすかなり
◎上野村ノ内道耳ノ弓手ノ籔ノ側ニ 中窪成石有レ之 真砂庄司カ娘ノ腰掛石也トイ
ヘリ 此村ハツレニ十三塚ト云有 昔山伏トモ爰ニ居テ盗賊シケルヲ 梶原何某搏
△ 梶原軍太夫→南紀徳川史十一冊六三〇頁 ○ 「ウチコロシ」ト讀ムベキカ(芝)
殺シ此所ニ埋メタリト云 此所ヲ廣芝共云 楠井村・津井村・此村ヨリ北塩屋マデ
他國ヨリ漁舟来テ網ヲ引運上ヲ出ス也 當所ノ土民ハ柴薪ヲ伐採テ諸方ヘ舟ニ積也
商賣ス 此間ハ沙濱小山有レ之
◎印南村馬次也 高七百四十四石余 棟数三百九十一軒内九十五軒ハ本役家 傳馬十
七疋有レ之 此所モ濱浦ニテ漁人多シ 村ノ中程弓手ノ方ニ印定寺「浄土宗也」有 此
庭ニ一本立ニテ大サ五尺餘廻高二間半ノ蘇鉄有 今ハ土ヘ六七尺モ植込タリト云リ
光川在所ヲ流ルヽ川幅三十間程有 左ノ方ニ小堂有 内ニ木像ノ観音弘法大師ノ作
トイヘリ 風波靜ナル時ハ是ヨリ瀬戸へ舟ニ乘テモヨシ 切目坂上十町下一町 本
村左ノ方ニ五躰王子ノ小社有 此王子ハ取分利生アラタニヲハシマストカヤ 昔大
塔ノ宮逆徒ノ爲ニ襲ハレサセ玉ヒテ 南部ヨリ熊野ノ方ヘ落サセ給テ 此社ニ於テ
御奉幣アリシニ 御夢想ノツケニ依テ是ヨリ和州十津川ニ赴セ給テ 終ニ天下ニ平
均ナラシメ給フトカヤ 誠ニ霊験殊勝ナル御事何モ是ヲ仰カサラン 神前ニ揚石「
其形石燈籠ノ笠ニ似タリ」ト云テ往来ノ族 此石ヲ擧テ力ヲ量ルトイヘリ 側ニ梅ノ水
トテ名水有レ之 是ヨリ廿五六町南小山ノ腰ニ穴有「其様如レ塚」其数多シ 内ハ石ヲタ
ヽミタル也 昔冰ノ雨降シ時 此穴ニ蟄居セシト云傳タリ 有馬ノ皇子ノ小社アリ
切目川幅五十間 常ハ徒渉 洪水ニハ渡舟ナキ故往来留ル也 切目崎風アル時ハ浪
アラシ
夫木集 讀人不知
見わたせは切目の山もかすみつヽ 秋津の里は春めきにけり
◎島田村 家数八十五軒 榎木峠上下廿六町内十一町嶮路也 中山ノ谷十五町ホト有
むつ松 此所ニ前君ノ御自結ハセ給ヒシ松有「小松林也」今ハ枯タリ
◎西岩代村 高五百五十二石九斗四升 棟数九十九軒内三十六軒本役家也 右手ノ方
ニ王子ノ小社有レ之 橋谷在家少々有レ之 ○ぬし山村 野中清水「長八尺横五六尺深五六
寸」村ノ中ニアリ ○ 名所圖繪祐止トアリ(芝)
經 兼「祐正トモ有」
いは代の野中の清水むすへとも 恋とばけたぬ物にぞ有ける
柳井「長八尺横五尺深二尺五寸也」同村中ニ丘有 △△△ふし山ト云 此ハ昔白河院此處ニ
一夜皇居ノ由云傳タリ 亦在所ノ南面ニ岸有 長四町高三十間有レ之 此岸ニ浪ノヨ
ルヲミレバ 浪カシラ八ツアリト云ヘリ 土民ノ説ナリ 三十三所ノ観音順礼歌ニイ
ヘルモ 此岸ノ事也トカヤ △△△ ふし山ハ伏山ナラン 今光照寺アリ(芝口)
結松 同南面ニ有レ之 順道ヨリ右手ノ側ニ ●志とヽ塚小歌ノ社ト云 旧跡有レ之
● 今志とヾノ藪ト云ヒ 神武天皇ノ矢竹ヲトリ給ヒシ処ナリトモ云ヘリ(芝)
島ノ名ニ「しとヾ」アリ「カビン」之ナリ(芝口)
拾遺 雜下 曽根好忠
我ことは元もいはしろのむすひ松 千とせをふともたれかとくへき
拾遺 雜下恋二 讀人不知
いかのせん結ひそめたる岩代の 松はひさしき物としらるヽ
此村ト東岩代ノ間ニ小川二ヶ所 小坂一ツ上下五町有 此海濱ヨリ末ノ松山ト名物
ノ盆山出タリトカヤ云傳 村ノ中ニ土井ノ城トテ平城ノ跡有 是ハ百七八十年モ以
前ニ岩代兵庫頭ト云者 東西ノ西岩代ヲ領セシ渠ガ出城也ト云ヘリ 退轉時代知人
ナシ 此村ヨリ廿六七町北ニ當テ 市井谷ノ城ト云山城ノ跡有 是兵庫カ居城也ト
此海辺ニ一葉和布トテ多シ 風味他邦ニ勝レタリト
◎東岩代村 高三百九十三石五斗三合 棟数八十九軒内廿六軒役家也 村ノ中ニ田中
ノ森有レ之 八幡宮ノ社有レ之 森二十六間ニ二十間有ト云
片倉坂「岩代坂トモ」南部峠地蔵堂有 同所ニ茶屋有 片倉坂南部崎共ニ上下十五町
「異説廿町」有レ之
◎山内村 高五百二石六斗五升四合 棟数百八軒 此村ヨリ十五町海辺申酉ノ方ニ當
テ 長十一町四十九間横二十間ハカリノ濱ヲサシテ千里濱ト云 此所ニ千手観音ノ
堂有レ之 又ウツクシキ小石多シ
題林愚抄 定 家
雲きゆる千さとの濱の月かけは 空にしられてふらぬ白雪
此磯ヨリ三町ホト沖ニ 長二十間ハカリ横十九間ホトノ嶋有 中ノ島ト云 同所ヨ
リ四町半餘ホト隔テ 長廿八間横十四間ホトノ島有 一ノ島ト云也 同所ヨリ一町
半程沖ニ 長廿四五間横十四間程ノ島有レ之 三ツ島ト云 又同所ヨリ四町半程沖
ニ 霰島ト号シテ相並四ツ島有「一ツハ長一町半横四間 一ツハ長一町横十二間 一ツハ長三十
間横三間 一ツハ長一町十間横四間也」ムカシ千里濱ニテ唐船破損セシト云 于レ今於風波
荒キ時ハ此浦ニ唐墨流寄ト云テ 童共是ヲ拾ヒテ往来ノ旅人ニ沾レ之 突目ナトニ磨
入立所ニ善ト云ヘリ 南部川幅二町
◎南部北道村・南道村馬次也 高三百十六石 棟数九十二軒内十五軒ハ本役家 傳馬
十八疋有レ之 南部新町家数廿二軒 外ノ左右ニ松原有レ之 左ヲバナヒキノ松原ト
俗ニ云ヘリ 熊野権現ヘナヒキテ有ト也 右手ハ田辺ニ継タリ 南部名所ナリ
大僧正 玄信 ○ 續クノ語(芝)
浦人やなみまを別てきの海の みなべのかたにいそなつむらん
◎埴田村 二百五十六石七斗六升二合ノ高也 棟数四十六軒内三十五軒役家也 此浦
ヨリ海上十七八町半沖未ノ方ニ 其廻十町程諸木生茂レル離島有 鹿島ト号ス
萬葉集 九
三名部の浦汐なみちそね鹿島なる 釣するあまをみて帰りこむ
此島ニハ椎子多シ 他所ヨリ大ナリト云ヘリ 此島ニ明神ノ小社有也 又此辺ノ浦
ニ海馬ト云物多シ 妊婦此魚ヲ掌ニ拳テ産ニ臨メハ安産スト云リ 又一町半程沖ニ
鵜島 長二十八間程横十二間計リアリ 又三町ホト沖ニ長十二町横八間程ノ島有
和布島ト云ナリ
高野坂 上下四町
◎堺村 高七十六石四斗七升五合 棟数三十九軒内廿三軒役家也 在所ヨリ巽ニ當六
町半過テ 東手ニ黒キ島石アリ 袖摺石トモ云 日高・室郡堺目石ト云 此濱ニ先
君ノ御殿有レ之 今ハ被レ廢 此濱ヨリ下芳養マデヲお不やの濱ト云也
◎下芳養村 切目村ヨリ此所マテノ土民ハ 柴薪ヲ伐テ諸方へ商賣ス はやノ濱ヨリ
十二町午ノ方ニ當テ 東西へ三町北ヘ二町程ノ島見ヘタリ 本島ト云 同未ノ方ニ
なひきの島有 海上廿四町程阻ツト云リ 東西二町南北五十間程也 同所ヨリ申酉
ニ當テ相島有 海路一町ホト阻ツ也 長十間横四十間程アリ 同所ヨリいつめ島マ
デ舟路四町程申酉ニ當レリ 南北ヘ四十間程東西十間 在所ヨリ三町西ニ當リ泊城
トテ山城ノ跡有 城主ハ昔湯川式部大輔教春ガ居城也 秀吉公天正十三年當國御乱
入ノ時 小松原丸山ノ城ト一同ニ落城セリ 則杉若越後守入場テ在城ス 翌年七月
○一書知明晦日湯川・山本両家ノ浪人共 不意ニ此城ニ推寄終日・終夜責戦 其節根来ノ智
院トアリ明院原右京ト云牢人根来ヲ落テ此城ニ来在シ 故数両人ナカラ衝テ出 晴成討
(芝口)死ヲシケリ 其後此城ヲ西谷村上野山ニ引タリトソ聞へシ サイサカ橋 是ハ往還
ノ道筋ニ小キ土橋有レ之ヲ云 但西谷村ヨリ七町西也 古歌有トカヤ云傳
蘇生山 土人誤テよろつ山ト云 西ノ谷ヨリ五町程西ニシテ往還ノ坂也 是又歌ア
リトカヤ云傳ヘタリ 是ヨリ西 ハヤ村トノ間ニ牛ノ鼻トテ岩穴アリ 其形牛ノ鼻
如シ 此浦ニ角貝多シ 西谷ヨリ二町ホト子丑ノ方ニ上野山「八王子山トモ云」ト云古
城ノ跡アリ 天正年中ニ杉若越後守 芳養村泊城ヲ引テ此山ニ築ト云ヘリ 此山ニ
八王子ノ小社有レ之
◎西ノ谷村 高五百四十一石七升九合 棟数百廿七軒内廿五軒役家也 在所ヨリ南へ
三町程行テ洲崎ト云城跡有 慶長七壬寅年淺野左衛門佐氏定「弾正長政甥也幸長及長晟ト
ハ従弟也」上野山ノ城ヲ引テ此所ニ築ト也 同十年大浪アリテ破壊セリ 故ニ又此城
ヲ湊村ニ築ク於レ今繁栄ノ地也 同所ヨリ二町程北ニ當テ城ヶ峯・御所ノ谷トテ有
レ之 今ハ畑也 何レノ御所ト云事ヲ知者ナシ 又在所ノ前ノ濱ヲサシテ塩垢離ノ
濱ト云 崇神天皇熊野御幸ノ時 此所ニテ潮ヲ以テ浴セラルヽト云傳 又此ニ腰掛
岩ト云有 御腰ヲ掛ラレシ所ト也 二間廻リ高二尺ノ岩也 熊野参詣ノ人又鷄合権
現ノ役人此濱ニテ垢離スルト也
◎江川村 棟数百廿三軒「カラ在家共」
在レ之 江川ノ橋四十八間幅二間有レ之 同孫
橋小共二間 横七尺有 此川ニテハ冬ヨリ春ニ至テ青苔・□「実者非二白色一 白如レ□也」
小共トアルハ小橋トモ云」意カ(芝) 非白色トセル卓見也 ● 勧修寺ハ今ノ高山寺ナリ
又彼橋ヨリ右手ヲ見レハ丑方ニ糸田村有 此在所ノ半南ヘ御影ガ淵ト云有 昔弘法
大師此淵ニテ御影ヲウツシ白影像ヲ彫刻シ給フ 其木像今勧修寺ニ在 勧修寺ハ此
村ノ上ノ山ニ有 又彼寺ノ並ノ山ニ稲荷大明神ノ社有 城州伏見藤森ノ稲荷ハ當社
ノ勧請シタリト聞由于レ今田辺氏子ト云テ有レ之 又此村ツヽキ江川ノ少上ニ伊佐田
村 是ヨリ一里ホト子丑ニ當テ 平岩トテ高四尺廻リ五間ノ岩有レ之 此上ニテ弘
法大師求聞持ノ法ヲ行ヒ給フト傳タリ
◎田邊城下 馬次也 郭外ニ侍屋敷軒ヲ賑レリ 傳馬二十疋有レ之 此所ハ元ハ湊村
ト云シ 今湊村ハ権現ノ道ニ移シ湊村ト云 當村ニ於テ榧ノ曲物・指物・塗師細工
ヲ事トス 其色世ニ秀逸ニシテ最他邦ニ無類也 又弁慶松ト云テ太サ三抱ハカリノ
大木有 本来ハ枯タリシヲ中比植テ 其ノシルシトスト云ヘリ 同側ニ弁慶ガ産湯
ノ行シ井也トテ 籔ノ内ニ清水アル也 田邊ヲ過テ三町計巽ニ當テ蓬莱ト云山有
此山ニハ八幡宮並庚申堂・愛宕薬師堂有 堂守ハ願行寺ト云山伏也 此山ニ松蕈多
シ
◎下萬呂村 高六百廿五石三斗八升一合 家数四十九軒内廿軒役家也 此所ニ初山ト
云城跡有 是ハ昔扁不ト云侍住居セシト也 其時代知者ナシ 此村ヨリ十四五町北
ニ下秋津村見ユル スヘノ秋津野村ト名所也
萬葉集 七 無 名
岩くらのをのより秋津に立わたる 雲にしもあれや時雨をしまたん
名 寄 定 円
六月のころとも見へぬ草葉かな 秋津の里の道のつゆけさ
續千載 哀傷 法皇御製 ○さだめナラン(芝口)
人の世のならひをしれど秋津野に 朝ゐる雲のさヽめなきかな
又秋津ヨリ三町程申ノ方ニ當テ城跡有 城ノ平ト云 城主不レ知 同所ヨリ一町子
丑ノ方ニ雲森有 此杜ノ中ニ大明神ノ社有 此明神ハ昔天ヨリ降玉フ 故ニ雲杜ト
云也 土俗ノ説也 尤モ名所也 サレトモ松葉集其外諸書ニ 國不勘ニ入タリ
夫木集 知 家
村雨の今朝もゆきヽの雲の森 いくたひ秋の梢そむらむ
◎中万呂村 高三百七十四石五升六合 棟数廿九軒内十三軒役家也
◎上万呂村 高三百八十二石一斗九升一合 棟数四十軒内十四軒役家也 此處ニ矢田
カ口ノ地蔵岩ト云テ高七尺横一丈五尺ノ岩有 是ニ長二尺ノ地蔵ノ像ヲ彫付タリ
昔弘法大師爪形ノ作也ト云傳へタリ 此在處ヨリ一里計北ニ上秋津村 彼処ヨリ十
町程西ニ入國山有 ● 入國山? X 人國山?
万葉 七
見れとあかぬ人國山の木の葉をも おのか心のなつかしきおもう
同村ヨリ二十町程申酉ニ當リ 高地ノ古城トテ山城ノ跡有 城主不レ知 同村ヨリ
七町程寅ノ方ニ當岡畠ノ古城ノ跡有 城主ハ昔上下両秋津ノ地頭塩崎三郎行久カ
居城也 時代末レ勘 同村ヨリ三十町モ艮ニアタリ鷹尾山ト云有レ之 此山ノ中程ニ
千光山ト云シ伽藍昔有レ之トカヤ 諺ニ往昔百合若大臣 見ドリ丸ト云鷹ヲトブロ
フガ爲建立也トカヤ 天正年中ニ杉若越後守是ヲ破却セシニ依テ 慶長初ノ比彼寺
ノ麓ニ引 古木ヲ以テ小寺一宇取立 于レ今千光寺ト号ストカヤ 二十町子丑ニ當リ
鷹巣ト云城跡有 是ハ愛須三郎長俊ト云地士 上下秋津ノ地頭トシテ居城セシト云
此城ヨリ六七町川端筋ニテ 天正ノ比湯川カ勢ト一戦有シト云ル 三栖川幅十八間
也 ○ 近山日ニ非ズヤ(芝)山日ハ時ト讀
◎下三栖 高七百四十四石一斗五升四合 家数四十七軒内廿一軒役家也 海道ヨリ十
間計南ニ五郎地蔵ト云石佛ノ堂有レ之 近曽五郎ト云土民薪柴ヲ伐ムトテ山ニ行ニ
常ニ此道ヲ往還スル度毎 時ノ草花ヲ手折テ彼地蔵ニ奉ル事懈怠ナシ 或時五郎戯
ニ此地蔵ニハ堂モナク雨露ニヲカサレ玉ヒ サソ本意ナクヲハシマス覧ントテ 仮
初ニ柴ヲ以テ佛ノ頭ヲヲホイテ行スキヌ 彼五郎程ナク罪ヲ犯シテ牢舎シ 暁ニ斬
ルベキニ極ル所ニ 地蔵枕上ニ立玉ヒ 汝カ命ヲ扶ヘシ 心安思フヘシト示シ玉フ
事度々ニ及ブ 五郎ハ夢現トモナク返答スルコト繁シト 番人アヤシミテ故ヲ問フ
爾々ト答フ 此事主人聞
レ之不思議ノ思ヲナシ則命助シトカヤ 其後人々奇異ノ事
ニ思ヒ一宇建立セシト云ヘリ 此村ヨリ六町己ノ方ニ當テ山城ノ跡有 是ヲ瀧口ト
モ云 是ハ百七十二三年モ以前ニ山本ト云地侍有レ之 其子孫ニ岡村ノ地頭楠本六
郎カ居城ナリトモ云リ 然ニ六郎ハ三好ノ勢ト相戦時ニ 城内ニ攻入敵ノ雑兵七十
三人射倒シテ勝利ヲ得 此戦終テ後ハ山本カ抱分也ト聞ヘ 又其後熊野ノ衆徒此城
ヲ守シニ 天正十三年「元禄二マデ百五年カ」ニ藤堂與右衛門・青木勘兵衛由定「後号二
紀伊守一」 ・宇野若狭守等當城ヲ攻シニ終ニ落城ス 夫ヨリ後此城廢セシト云リ 同
村ヨリ七町余リ乾ニ當リテ衣笠山ト云テ城跡有 城主不レ知 同村ヨリ八町東ニ當テ
城跡有テ高地山ト云是又城主不レ知トナリ
◎上三栖村馬次也 高二百九十七石九升五合余 棟数三十三軒 傳馬八疋有レ之 此
在所ヨリ十四町余寅ノ方ニ當テ 峯城土山ト云城跡有 城主不レ知 天正十三年ニ
藤堂・宇野・青木等此所ニ陣城ヲ構ヘシトカヤ 三栖山ハ名所也 ●八王子ノ小社有
レ之 山家集ニ ● 岡村ニ八上王子ノ小社有之トスベキ也
くま乃ヘまいり侍るに 八上王子の花おもしろかりけれは社に書付ける
まちきつる八上の桜咲にけり あらくおろすな三栖の山風 西 行
長尾坂上リ十六町 此峠ニ水口峠ノ茶屋トテ一軒有 塩見峠茶屋二軒有 此峠ヨリ
海上ヲ望ミルニ 万境一望ノ内ニ有 此茶屋ヨリ下テ廣野坂ト云 廿二町有テねぢ
き坂 是ハ廣野坂ノ内ニ有 此坂ハ馬我野村ノ内也 在所ハ此坂ヨリ十三町南也
天正十三年藤堂・青木・宇野長尾坂ヨリ攻登 湯川直春カ勢ヲ追拂シ古戦場ナリト
イヘリ
◎芝村「三番組内」馬次也 高二百四十一石余 棟数三十九軒 傳馬十三疋有レ之 在所
ノ入口ニ鍛冶屋川有 此橋ヲのぞきの橋ト云 ハヾ一間長六間有レ之 橋ノ下ニ大
ナル岩有 是風情面白クシテ他ニ異也 天正十三年山本主膳此橋ヲ引テ上方勢ヲ防
シトカヤ 在所ヨリ十町半南ニ當テ剣山ト云フ有 長廿町余也 此山ノ麓ニ瀧尻五
躰王子権現ノ社有レ之 是ハ奥州ノ藤原秀衡カ建立ノ由 其社今ハ大破シテ小社有
同山ノ中ニ長三間横二間ノ岩穴有 秀衡夫妻熊野参山ノ時 此窟ニテ出産ノ由云傳
タリ今ニ秀衡ガ岩穴ト呼ナリ 二季ノ彼岸ニハ所ノ者 彼穴ニ詣トカ 昔ハ剣山熊
野道ナリシトイヘリ
又石不利川「一本石伏川ト書誤也 里ノ名ニハ石船ト書テ石ズリトヨメリ」ト云名所モ瀧尻王子
ノホトリニ流ル川也 此瀧尻本川出合迄五十町有ト云 石舟村ノ知毛谷ト云ヨリ流
テ 真砂村・朝来組・富田組ヲ經テ海ニ入ト云リ
みくまのヽ石ふり川のはやくより 願かひをみつの社なりけ里 忠 盛
又鍛冶屋川ノ上 三番組ノ内小野辻ト云所ニ古戦場有テ 小野村ヨリハ十四町余坤
ニ當ナリ 是ハ湯川直春天正十三年ニ四番組ノ内 近露村ヘ逃籠シ時 同年六月朔
日杉若越後守小野辻迄押寄セシニ 鍛冶屋川村ノ内小野・沢村ノ土民共出合 一戦
シテ上方勢ヲ追退セシ所ナリト云ヘリ
芝川在所前ニ有 幅十二間歩渡也 是ハ岩田川ノ水上也
亀石坂廿二町 但上六町ハ嶮岨也
◎高原村 馬次也 高二百七十六石余 棟数四十九軒廿四軒ハ本役也 傳馬十二疋有
此所ハ名所ナリ
後鳥羽院熊野御幸瀧尻ノ王子ニテ和歌御会ニ峯月照松トイフ題ニテ
因幡守通方
たか原や峯より出づる月影は 千とせの松をてらすなりけしり
十丈坂 拾條坂王子ノ社有 之峠ニ民家有 是ヨリ一里餘ノ所ハ大木シゲリ「十丈坂
峠カハシカ峠」王子ノ社有 イツレモ深山ナリ 小川有 土橋長三間也
◎近露村 馬次也 高六百二石餘 棟数九十九軒内三十五軒本役家也 傳馬十二疋有
村ノ中ニ川有幅四十八間也 是ハ大辺路海道ノ安宅川ノ水上也 徒渡也 此村ニ横
矢六郎ト云地下人有「今大庄屋」渠カ先祖ハ天正十三年湯川没落ノ時直春ニ頼マレ 己
カ在所ヘ引入シ者ノ末孫也ト云リ 村外ニ楠山坂上下廿九町内十一町難所也 十八
町ノ間ハ山ノ腰ヲ行也 王子社有レ之
◎野中村 馬次也 高四百十二石余 棟数五十五軒内二十六軒ハ本役家也 傳馬廿一
疋有 在所ハヅレニ王子ノ小禿有 此社ノ前ニ名木ノ接櫻有 古木ハ枯テナカリシ
ヲ 前君ノ厳命ニテ換ニ山桜ヲ植タリ 今大木トナレリ 接櫻ハ昔秀衡夫婦参山ノ
時 剣ノ山ノ窟ニテ出産ヲシ 其子ヲソコニ捨置参山ス 此所ニ至テ仮初ニ櫻ヲ手
折テ戯ニ曰 産所ノ子可レレ死ハ此櫻モ可レレ枯 神明佛陀ノ擁護有レ之 若命アラハ
櫻モ枯マジト云フ 側ノ異木ニサシテ往還ス 下向道成ヲ此所ニ来リシニ 色香盛
ノ如シ 彼窟ニ行テ見ルニ 幼児ハ狐狼ノ爲ニモ侵サレス 還テ服仕セラレテ肥太
レリ 夫婦喜テ奥州ニ倶シテ下リシト云傳ヘタリ 又少シ右手ハ谷ニ松四五本生ル
其側ニ野中ノ清水有 在所ノ用水トスル也 同並ニ□ノ瀧有
□ 原文上ニ註シテ曰ク □ヲゼイ倭俗ヲモミヂトヨム 然ラバモミジノ瀧ナリトアリ
◎熊瀬川村 くませ坂上下十町 妻男坂相対シテ二有之 此方ノ坂ハ上下十町フモト
ニ幅二三間ノ谷川ナガル 夫ヨリ直ニ向フノ山ニ登ル 上下十八町也 峠ニ王子ノ
小社アリ スベテ此辺深山ニシテ大木生茂日ノ影ミヘズ 空ヨリ蛭降ルト云慣ハセ
リ 近年ハ老木伐拂テ道ヲ作ルニ依テ 今ハコレナシト云
岩上峠名所也 王子ノ小社有レ之
◎道湯川村 王子ノ小禿有レ之 三越峠名所也 茶屋有 口熊野・奥熊野ノ堺也
家 集
中宮亮仲実くまのヘ参リけるにつかはしける 俊 頼
雲のゐるみこし岩上こえむ日は そふる心にかヽれとそおもふ
此峠ヨリ右手ニユケハ赤木越ト云 左右深谷ニシテ山ノ頂ヲ 一里半程行テ本宮・
湯峯ニ至ル也 是モ一騎ウチノ道ニシテ 馬足ノカヨヒシナシ 水一滴モナシ 本
道ヨリハ此道一里程チカク 見越村在家ハ弓手ノ腰ニ有 此在所ノ下ヲ往還スル也
是ヨリ發心門マテノ道筋ハ 左右ニ大木茂谷間ヲ往来スル也 カリ瀧水不レ流シテ
其体瀧ニ似タリ故ニ云 余カ此道ニ谷川多シ 長三間ノ板橋六ツ有レ之 音無ノ瀧
ハ是ヨリ弓手ニ當ル也 此順道ヨリハ見ヘズ
発心門 是ハムカシノ門ノ跡也ト云ヘリ 杉ノ大木其外諸木茂レ「和州ニモ 同名アリ
ト云フ」
千載集 神祇 権中納言經房
うれしくも神にちかひをしるへにて 心をおとす門にいりぬる
此峠に茶屋有
◎伏拜村 馬次也 高百五十四石余 棟数四十一軒内廿六軒本役家也 傳馬九疋有之
前ニ記スル 野中村ヨリ當村ノ間三里三十四町也 内くませ坂・妻夫坂「両所」・見
越峠・発心門右五ヶ所ノ間 一里廿二町ハ上下共ニ難所也 二里十二町ハ山ノ腰ヲ
行ク也 伏拜村ヨリ本宮マデハ左右ニ松有テ 往昔和泉式部熊野ニマウデントテ
此所マデ詣リテ来リシニ 月水ノ恐アルカ故ニ 此所ヨリ権現ヲ伏拜セシニ依テ
名ヅクト云ヘリ 是ヨリ本宮ノ間一里一町山ノ腰ヲ往 下リ坂廿余町ハ石垣ニテ道
ヨシ先年水野雲州下知セラレシ故也ト云ヘリ 此道ヨリ権現山咸見ユル也
熊野獨参記 巻第二終
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平成十七(二〇〇五)年六月十三日『熊野獨参記』巻第二写本終了
『熊野獨参記』全体の1/2弱なり 巻三は本宮から田辺まで記されている
清 水 章 博
平成十七(二〇〇五)年六月十三日
熊野獨参記 巻第一 熊野獨参記 巻第三