太 平 記
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「太平記、巻第五、大塔宮熊野落事」のあらすじ
父の後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企て、隠岐に流された後、大塔宮は楠木正成の赤坂城へ逃れたが落城。熊野へ向かう途中、夢枕に「吉野に向かうが良い」とのお告げにより海岸沿いから十津川、吉野を目指した。十津川で郷族戸野兵衛の信頼を得て伊勢、吉野、熊野の豪族は大塔宮護良親王の守護についた。その後離反するものが出て吉野を目出すが、玉置庄司の軍に攻撃されて危難に陥ったとき、近露の野長瀬六郎・七郎の兄弟が部下を率いてかけつけ、危機を脱する。
*参考になるサイト
http://www.j-texts.com/sheet/thkm.html
http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/e01/e01.html
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*熊野に関係のある「太平記、巻第五、大塔宮熊野落事」のみを記載しています
太 平 記
○大 塔 宮 熊 野 落 事
大塔(おうとうの)二品(にほん)親王は、笠置の城の安否(あんび)を被聞食為に、暫く南都の般若寺に忍て御座有けるが、笠置の城已(すで)に落て、主上被囚させ給ぬと聞へしかば、虎の尾を履(ふむ)恐れ御身の上に迫て、天地雖広御身を可被蔵所なし。日月雖明長夜(ちようや)に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて、露に臥鶉(うづら)の床に御涙を争ひ、夜は孤村の辻に彳て、人を尤(とが)むる里の犬に御心を被悩、何くとても御心安かるべき所無りければ、角(かく)ても暫(しばし)はと被思食ける処に、一乗院の候人(こうにん)按察法眼(あぜちのほうげん)好専(こうせん)、如何して聞たりけん、五百余騎を率して、未明)に般若寺へぞ寄たりける。折節(おりふし)宮に奉付たる人独も無りければ一防(ひとふせ)ぎ防て落させ可給様(よう)も無りける上、透間もなく兵既に寺内に打入たれば、紛れて御出あるべき方もなし。さらばよし自害せんと思食(おぼしめし)て、既に推膚脱(おしはだぬが)せ給たりけるが、事叶はざらん期に臨で、腹を切らん事は最(いと)可安。若やと隠れて見ばやと思食返(おぼしめしかへ)して、佛殿の方を御覧ずるに、人の読懸て置たる大般若の唐櫃三あり。二の櫃は未開蓋を、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮)めて臥させ給ひ、其上に御経を引かづきて、隠形(おんぎょう)の呪(じゆ)を御心の中に唱てぞ坐(おは)しける。若捜し被出ば、頓(やが)て突立んと思召て氷の如くなる刀を抜て、御腹に指当(さしあて)て、兵)、「此にこそ。」と云んずる一言を待せ給ける御心の中、推量(おしはか)るも尚可浅。去程に兵仏殿に乱入て、仏壇の下天井の上迄も無残所捜しけるが、余りに求かねて、「是体(これてい)の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開見よ。」とて、蓋したる櫃二を開て、御経を取出)し、底を翻して見けれどもをはせず。蓋開たる櫃は見るまでも無とて、兵皆寺中を出去ぬ。宮は不思議の御命を続せ給ひ、夢に道行心地して、猶(なほ)櫃の中に座しけるが、若兵又立帰り、委(くはし)く捜す事もや有んずらんと御思案有て、頓(やが)て前(さき)に兵の捜し見たりつる櫃に、入替らせ給てぞ座しける。案の如く兵共又仏殿に立帰り、「前に蓋の開たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移して見けるが、から/\と打笑て、「大般若の櫃の中を能々(よくよく)捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐(だいたう)の玄弉(げんじょう)三蔵こそ坐しけれ。」と戯(たわぶ)れければ、兵皆一同に笑て門外へぞ出にける。是偏(ひとへ)に摩利支天の冥応、又は十六(じゅうろく)善神(ぜんしん)の擁護(おうご)に依る命也。と、信心肝)に銘じ感涙(かんるい)御袖を湿(うるほ)せり。角ては南都辺の御隠家暫(しばらく)も難叶ければ、則(すなはち)般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。御供の衆には、光林房玄尊(こうりんぼうげんそん)・赤松律師則祐(そくいう)・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。宮を始奉て、御供の者迄)も皆柿(かき)の衣に笈を掛け、頭巾(とうきん)眉半(まゆなかば)に責め、其中に年長(としちょう)ぜるを先達に作立(つくりたて)、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。此君元より龍楼鳳闕(りようろうほうけつ)の内に長(ひと)とならせ給て、華軒香車(かけんこうしや)の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途(ちょうど)は定て叶はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾(はばき)・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々(やしろやしろ)の奉弊、宿々の御勤懈(おこた)らせ給はざりければ、路次(ろし)に行逢(ゆきあ)ひける道者も、勤修(ごんじゆ)を積める先達も見尤(みとがむ)る事も無りけり。
由良湊(ゆらのみなと)を見渡せば、澳(おき)漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々(はるばる)と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上を外に見て、月に瑩(みが)ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村(こそん)の樹、夕(ゆふべ)を送る遠寺(えんじ)の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。
其夜は叢祠(そうし)の露に御袖を片敷て、通夜(よもすがら)祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法(まんさんのごほう)・十万の眷属)・八万の金剛童子、垂迹和光(すゐじやくわこう)の月明(あきら)かに分段同居(ぶんだんどうご)の闇を照さば、逆臣(げきしん)忽(たちまち)に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承(つたへうけたまは)る、両所権現は是伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)也。我君其苗裔(そのべうえい)として朝日(ちょうじつ)忽(たちまち)に浮雲(ふうん)の為に被隠て冥闇(めいあん)たり。豈(あに)不傷哉(や)。玄鑒(げんかん)今似空。神(しん)若(もし)神(しん)たらば、君盍(なんぞ)為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給)ける。丹誠(たんぜい)無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗(あん)に被計たり。終夜(よもすがら)の礼拝に御窮屈有ければ、御肱(おんひぢ)を曲て枕として暫(しばらく)御目睡(まどろみ)在ける御夢に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子一人来(きたつ)て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成(なり)難し。是より十津川の方へ御渡候(わたりそうらひ)て時の至んを御待(おんまち)候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南(みちしるべ)可仕候。」と申すと被御覧御夢(おんゆめ)は則(すなはち)覺にけり。是権現の御告也。けりと憑敷(たのもしく)被思召ければ、未明(びめい)に御悦(よろこび)の奉弊を捧げ、頓(やが)て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙(そばだて)て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇(かつ)を忍んで朽(くち)たる橋に肝を消す。山路(さんろ)本(もと)より雨無して、空翠(くうすゐ)常に衣を湿(うるほ)す。向上(かうじょう)とみあぐれば万仞(ばんじん)の青壁(せいへき)刀(つるぎ)に削り、直下とみおろせば千丈の碧潭(へきだん)藍に染めり。数日の間)斯(かか)る嶮難(けんなん)を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損(かけそん)じて草鞋皆血に染れり。御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲(うえつか)れてはか/\敷も歩(あゆみ)得ざりけれ共、御腰を推(おし)御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家(ざいけ)に行(ゆい)て、熊野参詣の(山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共)哀(あはれみ)を垂て、粟の飯(いひ)橡(とち)の粥など取出)して其飢を相助(あひたす)く。宮にも此等を進(まいら)せて二三日は過けり。角ては始終如何(いかが)可在とも覚へざりければ、光林房玄尊(げんそん)、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行(ゆい)て、童部(わらんべ)の出たるに家主(あるじ)の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿)の甥に、戸野(とのの)兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑(たの)まばやと思ければ、門の内へ入て事の様(やう)を見聞(みきく)処に、内に病者有と覺て、「哀れ貴(たつと)からん山伏の出来(いできた)れかし、祈らせ進(まゐ)らせん。」と云声しけり。玄尊すはや究竟(くきょう)の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出(まかりいで)たる山伏共、路に蹈迷て此里に出て候。一夜の宿を借(かし)一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪(あや)しげなる下女一人出合(いであ)ひ、「是こそ可然仏神(ぶつじん)の御計ひと覺て候へ。是の主(あるじ)の女房物怪(もののけ)を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊(げんそん)、「我等は夫山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂(つじどう)に、足を休て被居て候先達こそ、効験(こうげん)第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ。」と云ければ、女大(おほき)に悦(よろこう)で、「さらば其先達の御房(ごばう)、是へ入進(いれまゐら)せさせ給へ。」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰(はしりかへつ)て此由を申ければ、宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供の人皆彼が館(たち)へ入せ給ふ。宮病者の伏たる所(もと)へ御入在(おんいりあつ)て御加持あり。千手陀羅尼(せんじゅだらに)を二三反(にさんべん)高らかに被遊て、御念珠を押揉(おしも)ませ給ければ、病者自(みづから)口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛(ばく)に被掛たる体(てい)にて、足手(あして)を縮て戦(わなな)き、五体に汗を流して、物怪(もののけ)則(すなはち)立去ぬれば、病者忽(たちまち)に平瘉(へいゆう)す。主(あるじ)の夫(をつと)不斜喜(よろこう)で、「我畜(たくわへ)たる物候はねば、別(べち)の御引出物迄は叶候まじ。枉(まげ)て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽(そこつ)に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是)を御質(ごしち)に玉らん。」とて、面々の笈共(おひども)を取合て皆内にぞ置たりける。御供の人々、上には其気色を不顕といへ共、下には皆悦思へる事無限。角(かく)て十余日)を過させ給けるに、或夜家主(あるじ)の兵衛(ひょうゑの)尉(じよう)、客殿に出て薪(たきび)などせさせ、四方山(よもやま)の物語共しける次に申けるは、「旁(かたがた)は定(さだめ)て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣)せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都(ぢやうべんそうづ)は無二の武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覺候。哀(あはれ)此里へ御入候へかし。所こそ分内(ぶんない)は狭(せば)く候へ共、四方(しほう)皆嶮岨(けんそ)にて十里二十里が中(うち)へは鳥も翔(かけ)り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫(ちゃくそん)惟盛(これもり)と申ける人も、我等が先祖を憑(たのみ)て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」と語(かたり)ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに思食(おぼしめし)たる御気色(おんきしよく)顕(あらは)れて、「若(もし)大塔宮なんどの、此所へ御憑(おんたのみ)あ(つ)て入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野(とのの)兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某(それがし)一人だに斯(かか)る事ぞと申さば、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂・湯浅・阿瀬川(あぜがは)・小原・芋瀬)・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺(てさす)者候まじきにて候。」とぞ申ける。其時宮(みや)、木寺相摸(こでらのさがみ)にきと御目合有(めくばせあり)ければ、相摸此(さがみこの)兵衛が側に居寄て、「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ。」と云ければ、此兵衛尚)も不審気にて、彼此の顔をつく/\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾(ときん)を脱で側(そば)に指置く。實(まこと)の山伏ならねば、さかやきの迹(あと)隠なし。兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座(おは)せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿(あさまし)、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外(もつてのほか)に驚て、首(こうべ)を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞(そんこ)せり。俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居(すえ)、路を切塞で、用心密(きび)しくぞ見へたりける。是も猶(なほ)大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓(やが)て戸野(との)が語(かたらひ)に随(したがつ)て、我館(わがたち)へ宮を入進(いれまい)らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召(おぼしめし)て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗(ごげんぞく)の体(てい)に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覺異他なり。さてこそ家主の入道も弥(いよいよ)志(こころ)を傾け、近辺の郷民共(ごうみんども)も次第に帰伏申たる由にて、却(かへつ)て武家をば褊(さみ)しけり。去程に熊野の別当定遍(じょうべん)此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦(たとひ)十万騎(じゅうまんぎ)の勢(せい)ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心(よくしん)を勧て、宮を他所(たしょ)へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立)けるは、「大塔宮(を奉討たらん者には、非職凡下(ひしよくぼんげ)を不云、伊勢の車間庄(くるまのしょう)を恩賞に可被充行由を、関東の御教書(みきょうしよ)有之。其上に定遍(ぢやうべん)先(まづ)三日が中(うち)に六万貫を可与。御内伺候(みうちしこう)の人・御手(おんて)の人を討たらん者には五百貫、降人(こうにん)に出たらん輩(ともがら)には三百貫、何れも其日の中(うち)に必沙汰し与(あたふ)べし。」と定て、奥に起請文の詞(ことば)を載て、厳密の法をぞ出(いだ)しける。夫移木(いぼく)の信(しん)は為堅約、献芹(けんきん)の賂(まひなひ)は為奪志なれば、欲心強盛(よくしんごうじやう)の八庄司共(しょうじども)此札を見てければ、いつしか心変(へん)じ色替(かはつ)て、奇(あや)しき振舞共にぞ聞へける。宮「角(かく)ては此所の御止住(おんすまい)、始終悪(あし)かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強(しい)て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼(きようく)の中(うち)に月日を送らせ給ける。結句(けつく)竹原入道が子共さへ、父が命(めい)を背(そむい)て、宮を討奉らんとする企(くわだて)在と聞しかば、宮潛(ひそか)に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。其路、小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津河と云敵陣の難所を経て通る路なれば、中々敵を打憑(うちたのみ)て見ばやと被思召、先芋瀬(いもがせ)の庄司が許(もと)へ入せ給ひけり。芋瀬、宮をば我館(わがたち)へ入進(いれまゐ)らせずして、側なる御堂に置奉り、使者を以て申けるは、「三山(さんざんの)別当定遍(じょうべん)武命(ぶめい)を含で、隠謀与党(おんぼうよとう)の輩(ともがら)をば、関東へ注進仕(ちゆうしんつかまつ)る事にて候へば、此道より無左右通し進(まゐ)らせん事、後(のち)の罪科陳謝(ちんじや)するに不可有拠候、乍去宮を留進(とめまゐ)らせん事は其恐(おそれ)候へば、御伴の人々の中(うち)に名字さりぬべからんずる人を一両人賜て、武家へ召渡(めしわたし)候歟(か)、不然ば御紋の旗を給(たまはり)て、合戦仕(かつせんつかまつつ)て候つる支証(ししよう)是にて候と、武家へ可申にて候。此二つの間、何れも叶じきとの御意(ぎよい)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕らんずるにて候。」と、誠に又予儀(よぎ)もなげにぞ申入たりける。宮は此事何(いづ)れも難議也。と思召て、敢(あへて)御返事も無りけるを、赤松律師則祐(そくいう)進み出て申けるは、「危)きを見て命(めい)を致すは士卒(じそつ)の守る所)に候。されば紀信(きしん)は詐(いつはつ)て敵に降り、魏豹(ぎひょう)は留て城を守る。是皆主(しゆ)の命(いのち)に代(かは)りて、名を留めし者にて候はずや。兎(と)ても角(かう)ても彼が所存解(とけ)て、御所を通し可進にてだに候はゞ、則祐(そくいう)御大事に代て罷出(まかりいで)候はん事は、子細)有)まじきにて候。」と申せば、平賀(ひらがの)三郎是を聞て、「末坐(ばつざ)の意見卒尓(そつじ)の議にて候へ共、此艱苦(このかんく)の中に付纏(つきまとひ)奉りたる人は、雖一人上の御為には、股肱耳目(ここうじぼく)よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬庄司(しやうじ)が申所、げにも難被黙止候へば、其安きに就(つけ)て御旗許(おんはたばかり)を被下候はんに、何の煩(わづらひ)か候べき。戦場に馬・物具(もののぐ)を捨、太刀・刀を落して敵に被取事(こと)、さまでの恥ならず。只彼が申請(もうしうく)る旨に任て、御旗を被下候へかし。」と申ければ、宮げにもと思召て、月日を金銀にて打て着(つけ)たる錦の御旗を、芋瀬庄司にぞ被下ける。角(かく)て宮は遥(はるか)に行過させ給ぬ。暫有(しばらくあつ)て村上彦四郎義光(よしてる)、遥)の迹(あと)にさがり、宮に追着進(おっつきまゐら)せんと急けるに、芋瀬庄司無端道にて行合(ゆきあひ)ぬ。芋瀬が下人に持せたる旗を見れば、宮の御旗也。村上怪(あやしみ)て事の様を問)に、尓々(しかじか)の由を語る。村上、「こはそも何事ぞや。忝(かたじけなく)も四海(しかい)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す天子の御子(みこ)の、朝敵御追罰(ごつゐばつ)の為に、御門(おんかど)出ある路次(ろし)に参り合て、汝等程(なんぢらほど)の大凡下(だいぼんげ)の奴原(やつばら)が、左様の事可仕様(やう)やある。」と云て、則(すなはち)御旗を引奪て取)、剰(あまつさへ)旗持(もち)たる芋瀬(いもがせ)が下人の大の男(おとこ)を掴(つかん)で、四五丈許ぞ抛(なげ)たりける。其怪力無比類にや怖(おぢ)たりけん。芋瀬庄司一言(いちごん)の返事もせざりければ、村上自(みづから)御旗を肩に懸て、無程宮に〔奉〕追着。義光(よしてる)御前に跪(ひざまづい)て此様を申ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに打笑はせ給て、「則祐(そくいう)が忠は孟施舎(まうししや)が義を守り、平賀)が智は陳丞相(ちんしようじょう)が謀(はかりごと)を得、義光が勇(ゆう)は北宮黝(ほくきゆういう)が勢を凌(しの)げり。此三傑を以て、我盍治天下哉(や)。」と被仰けるぞ忝(かたじけな)き。其夜は椎柴垣(しひしばがき)の隙(ひま)あらはなる山がつの庵に、御枕を傾)けさせ給て、明れば小原へと志て、薪(たきぎ)負たる山人(やまうど)の行逢(ゆきあひ)たるに、道の様(やう)を御尋有けるに、心なき樵夫迄(きこりまで)も、さすが見知進(みしりまゐら)せてや在けん、薪を下し地に跪て、「是より小原へ御通り候はん道には、玉木(たまぎの)庄司殿(しやうじどの)とて、無弐(むに)の武家方の人をはしまし候。此人を御語(かたら)ひ候はでは、いくらの大勢にても其前をば御通り候ぬと不覚候。恐ある申事にて候へ共、先づ人を一二人(いちににん)御使(おんつかひ)に被遣候(さふらひ)て、彼(かの)人の所存(しよぞん)をも被聞召候へかし。」とぞ申ける。宮つく/\と聞召(きこしめし)て、「芻蕘(すうぜう)の詞迄(ことばまで)も不捨」と云は是也。げにも樵夫が申処さもと覚るぞ。」とて、片岡八郎・矢田彦七二人(ににん)を、玉置庄司が許へ被遣て、「此道を御通り有べし、道の警固に、木戸を開き、逆茂木を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置庄司御使に出合て、事の由を聞て、無返事(ぶへんじ)にて内へ入けるが、軈(やが)て若党・中間共に物具(もののぐ)させ、馬に鞍置(くらおき)、事の体(てい)躁(さわが)しげに見へければ、二人(ににん)の御使、「いや/\此事叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰て、此由を申さん。」とて、足早に帰れば、玉置が若党共五六十人、取太刀許(とりだちばかり)にて追懸(おつかけ)たり。二人(ににん)の者立留(たちとどま)り、小松の二三本ありける陰より跳出(おどりい)で、真前(まつさき)に進だる武者の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で刎落(はねおと)させ、返す太刀にて頚打落して、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)してぞ立たりける。迹(あと)に続て追ける者共も、是を見て敢(あへ)て近付者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋(ふたすぢ)被射付て、今は助り難と思ければ、「や殿(との)、矢田殿(やだどの)、我はとても手負たれば、此にて打死せんずるぞ。御辺(ごへん)は急ぎ宮の御方へ走参(はしりまゐり)て、此由を申て、一(ひと)まども落し進(まゐら)せよ。」と、再往(さいわう)強(しひ)て云ければ、矢田も一所にて打死せんと思けれども、げにも宮に告申さゞらんは、却(かへつ)て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩(はうばい)を見捨て帰りける心の中(うち)、被推量て哀也)。矢田遥(はるか)に行延(ゆきのび)て跡を顧れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て持たる人あり。矢田急ぎ走帰て此由を宮に申ければ、「さては遁(のが)れぬ道に行迫(ゆきせま)りぬ。運の窮達(きゆうたつ)歎(なげ)くに無詞。」とて、御伴の人々に至まで中々騒ぐ気色ぞ無りける。さればとて此に可留に非)ず、行れんずる所まで行やとて、上下三十余人の兵共、宮を前(さき)に立進(たてまゐら)せて問々(とひとひ)山路(やまぢ)をぞ越行(こえゆき)ける。既(すで)に中津河の峠を越んとし給ける所に、向の山の両の峯に玉置が勢と覺)て、五六百人が程混冑(ひたかぶと)に鎧て、楯を前に進め射手(いて)を左右へ分て、時の声をぞ揚たりける。宮是を御覧)じて、玉顔(ぎよくがん)殊に儼(おごそか)に打笑(うちゑ)ませ給て、御手の者共に向て、「矢種(やだね)の在んずる程は防矢(ふせぎや)を射よ、心静に自害して名を万代(ばんだい)に可貽。但各相構(あひかまへ)て、吾(われ)より先に腹切事不可有。吾已(すで)に自害せば、面(おもて)の皮を剥(はぎ)耳鼻を切て、誰が首)とも見へぬ様にし成(なし)て捨べし。其故は我首を若)獄門に懸て被曝なば、天下に御方(みかた)の志を存(そん)ぜん者は力を失ひ、武家は弥(いよいよ)所恐なかるべし。「死せる孔明生る仲達を走らしむ」と云事あり。されば死して後(のち)までも、威を天下に残すを以て良将(りやうしやう)とせり。今はとても遁(のが)れぬ所ぞ、相構(あひかまへ)て人々きたなびれて、敵に笑はるな。」と被仰ければ、御供の兵共、「何故か、きたなびれ候べき。」と申て、御前に立て、敵の大勢にて責上(せめのぼ)りける坂中(さかなか)の辺まで下(おり)向ふ。其勢僅(わづか)三十二人、是皆一騎当千(いつきとうせん)の兵とはいへ共、敵五百余騎に打合て、可戦様(やう)は無りけり。寄手(よせて)は楯を雌羽(めんどりば)につきしとうてかづき襄(あが)り、防ぐ兵は打物(うちもの)の鞘をはづして相懸(あひかか)りに近付所に、北の峯より赤旗(あかはた)三流(みながれ)、松の嵐に翻(ひるがへ)して、其勢六七百騎が程懸出(かけいで)たり。其勢次第に近付侭(ちかづくままに)、三手に分て時の声を揚て、玉置(たまぎの)庄司に相向ふ。真前(まつさき)に進だる武者大音声(だいおんじやう)を揚て、「紀伊国の住人野長瀬(のながせの)六郎・同(おなじき)七郎、其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る所に、忝(かたじけなく)も此君に対(むか)ひ進(まゐら)せて、弓を控(ひき)楯を列(つら)ぬる人は誰ぞや。玉置庄司殿(しやうじどの)と見るは僻目(ひがめ)か、只今可滅武家の逆命(ぎやくめい)に随て、即時(そくじ)に運を開かせ可給親王に敵対申(てきたいもうし)ては、一天下(いちてんが)の間何(いづれ)の処にか身を置んと思ふ。天罰不遠から、是を鎮ん事我等が一戦の内にあり。余すな漏すな。」と、をめき叫でぞ懸りける。是を見て玉置が勢五百余騎、叶はじとや思けん、楯を捨旗を巻て、忽(たちまち)に四角八方へ逃散(にげさん)ず。其後野長瀬兄弟、甲(かぶと)を脱ぎ弓を脇に挟(さしはさみ)て遥に畏(かしこま)る。宮の御前近く被召て、「山中の為体(ていたらく)、大儀の計略難叶かるべき間、大和・河内の方へ打出て勢(せい)を付ん為(ために)、令進発之処に、玉置庄司只今の挙動(ふるまひ)、当手(たうて)の兵万死(ばんし)の内に一生をも得難(えがた)しと覚つるに、不慮の扶(たすけ)に逢事天運尚(なほ)憑(たのみ)あるに似たり。抑(そもそも)此事何として存知たりければ、此戦場に馳合(はせあつ)て、逆徒(げきと)の大軍をば靡(なびかし)ぬるぞ。」と御尋(おんたづね)有ければ、野長瀬畏(かしこまつ)て申けるは、「昨日の昼程(ひるほど)に、年十四五許(ばかり)に候し童の、名をば老松(おいまつ)といへり〔と〕名乗て、「大塔宮明日(みやうじつ)十津河を御出(おんいで)有て、小原へ御通りあらんずるが、一定(いちじやう)道にて難に逢はせ給ぬと覚るぞ、志を存ぜん人は急ぎ御迎に参れ」と触廻り候つる間、御使ぞと心得て参て候。」とぞ申ける。宮此事を御思案あるに、直事(ただこと)に非ずと思食合(おぼしめしあは)せて、年来(としごろ)御身を放されざりし膚の御守を御覧ずるに、其口少し開)たりける間、弥(いよいよ)怪しく思食(おぼしめし)て、則(すなはち)開被御覧ければ、北野天神の御神体を金銅にて被鋳進たる其御眷属)、老松の明神の御神体、遍身(へんしん)より汗かいて、御足に土の付たるぞ不思議なる。「さては佳運神慮(に叶へり、逆徒(げきと)の退治何の疑か可有。」とて、其より宮は、槙野(まきのの)上野房(かうづけばう)聖賢(しやうげん)が拵(こしらへ)たる、槙野(まきの)の城へ御入ありけるが、此も尚分内(ぶんない)狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語はせ給て、安善宝塔(あいぜんほうとう)を城郭)に構へ、岩切通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給けるとぞ聞へし。
熊野関係古籍 熊野古道