巻之四   巻之三   巻之二   古籍関係  

 熊 野 巡 覧 記              

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   熊野巡覽記序
室中縮乾坤眼下空窮海圖書之作其可己哉 生百世後知百世初観於古人跡識古人心亦棄書而何取是故不可無文字鬼神無遁情古者 蒼頡制文字天雨粟鬼神夜泣宣哉讀一字有一字益況汗牛充棟乎讀書之樂難易王候國史既闕秘牒不全莫知本州焉余間應木本君之需 新選斯書棄虚攝実抒巻燦然讀之有格致之一端乎將或爲政観民之使乎儻以爲消間慰寂之具則使管城公爲[]陵旧將軍者不足惜哉也 抑瓢精亀手何補之有哉
      寛政甲寅仲冬
                            [
こう]齋武玄龍題
                              男 圖 南 書
熊野巡覧記 巻之一
                        泉溟 武内玄龍惇[
こう] 著

 熊野トハ紀伊國牟婁一郡ノ都名也 此地南方ノ際ニシテ海荒ク山嶮シ 荷坂嶺ヲ初トシテ八鬼山曾根太良曾根次郎 馬越大雲取・小雲取・夫婦坂・潮観嶺・無果・冨田坂・佛坂・長井坂見取 唐ハイザシラズ日本ニハ雙ナキ嶮山也 信野國木曾ノ桟道ハ我國ノ蜀山道ト申ヤ傳フレド 熊野ニ比スレバ平地ノ如シ 伊豆ノ國箱根山ハ東関ノ國ニシテ岩壁天ニ連リ 路羊腸トイヱドモ 此嶮岨ニ較レバ馬場トモ謂フベシ往來ノ旅客峻坂ヲ登ル時ハ息喘キ牛馬モ踟[
ちう]シテ進マズ カカル南裔ノ邊土ナレドモ權現ノ神廟マシマスヲ以テ 上ハ天子ヲ初奉リ摂関大臣公卿殿上人 下ハ草菜ノ黎民ニ至ルマデ踵ヲ接テ参詣シ 靈廟ノ神徳ヲ仰事斜ナラズ 抑熊野權現ノ事跡ヲ考ルニ古書ニ混雜ノ誤リ有テ惑易シ 俗説ニ天竺ヨリ飛来ル神也ト云ハ信用スルニ不足 日本記神代巻及神武本記ヲ以テ考見ルニ本宮ハ伊弉冊尊ヲ祭ルトスルニ决セリ古今皇代圖ニ 崇神天皇六十五年始テ建二熊野本宮ヲ一ト有 新宮十二宮ノ草創ハ神武天皇戊午ノ六月ナリ 那智ハ事解男ヲ祭ル 仁徳天皇ノ御宇ニ建ルト申傳ヘタリ「愚按那智観音ハ人皇八十九代亀山院文永年中ニ草建ス」是ヲ熊野三所権現トイフ 或書ニ熊野権現ハ天竺摩訶陀国王ナドヽ云フハ信ズルニタラズ 熊野三所トモニ天神七代地神五代ヲ合セ祭リテ十二社権現トス 但シ本宮伊弉冊尊ヲ本社トシ・新宮ハ早玉男・那智ハ事解男ヲ本社トス 是ノミ異ナリ 日本記神代ノ巻ヲ證トスベシ 歴代天子熊野行幸マシ/\崇奉浅カラズ 人皇三十八代齊明天皇・五十一代平城天皇・六十五代花山法皇ヲ初メトシテ 熊野参詣國史ニ見ユ 花山法皇ハ那智山ニ三年籠ラセラル 諸處ニテ御製ノ御歌今ニ至マテ人ノ口耳ニ有ル者多シ 歴代ノ撰集ニモ徃々見ユ 其外白河法皇三山御幸五ヶ度・堀河院ハ行幸一箇度・鳥羽法皇ハ三山八度・後白河帝ハ三十三度是ヲ最多シトス 後鳥羽ノ帝モ又屡々御熊野御幸有リ 後白河帝熊野御幸三十三度満願ノ時御製
    忘るなよほどハ雲井ニ隔とも なれて久しき見熊野の月
神託
    志は/\もいかに忘れん君を守る 心くもらぬ見くまのゝ月
新宮大權現
 日本記 神武帝本紀曰

 紫東征四十九年戊午年春二月皇師遂東舮舳相接到難波欲踰膽吹山入中洲時長ノ髄彦聞之微孔舎衙坂一与之會戰流失一中五瀬命皇師不進戦一天皇憂之及運神策於冲襟一曰今我是日神子孫而向日征虜此逆天道若退還弱礼祭神祇一背負日神之威一隋影経躡如此會不血刃虜必自敗僉曰然於是令軍中曰且得勿復進乃引軍還六月乙未朔丁巳軍至紀伊ノ (日前宮ノ相殿ニ祭ル名草彦是ナリ)名草邑誅戸畔越テ挾野熊野神村旦登天盤盾
 此本文に熊野の神村に玉リ神祇を礼祭とあるハ是乃天神地祇を祭るの事にして 天神七代地神五代を祭り玉ふ 参願ハ即ち神邑十二宮ノ草創此時也神村ハ神宮村ノ本名にて地ノ名ナリ 新宮ハ宮号なり 天盤盾と云ハ神代高倉下命の天降りし古跡 今の神の倉の社也 千丈ノ岩頭に建リ 天の盤盾の語妙也 挾野村ハ去新宮を南方一里有餘    
 第一    速玉男命ヲ鎮坐セリ 神前ニ金ノ御弊アリ辰巳向
 御本社   ○神代巻曰伊弉諾尊伊弉冊尊盟之乃所唾之所神ノ号曰速玉男延喜式曰速玉神社
       ○本社ヲ證誠殿ト称ス 
 第二    神代元祖ノ神
 西ノ御前  國常立尊ヲ鎮坐ス
 第三    伊弉諾ノ尊 
 中ノ御前  伊弉冊ノ尊      以上本社三殿
 第四
 若一王子  天照大神
 第五
 襌師宮   天忍穂耳命
 第六
 聖 宮   瓊々杵ノ尊
 第七
 兒 宮   彦火々出見尊
 第八     
 子守宮   鵜鵜草葺不合尊
 第九    國挾槌尊
 一萬宮   豊斟渟尊
 第十    泥土煮尊
 十萬宮   沙土煮尊 
 第十一   大戸道ノ尊
 勧進十五所 大戸辺尊   
 飛行夜刃  面是尊
       惺根尊
    合十二社

禮殿 樓門 中門 地主神祠高倉下命 鐘樓 大日堂 經藏 宝塔後白河帝建
弁財天女祠
[在拝殿ト]巽門ウニ大釜清淨水ヲ 御供所[庵主云此寺宝物多品有]    
                     後鳥羽院
   三熊野ニ山路に名乘る杜鵑 神も初音や嬉かるらん
                      後京極攝政
   まれになる跡をたずねて三熊野の 見し昔より頼そめてし
                      中原師光
   天降る神や願を見ち潮の 湊に近き千穂の片籬
                      中納言定家
   千早振枩の村立神さびしげに 名に逢へる新宮居か那
                      七条大納言隆房
   三熊野の浦端の枩の手向草 幾代かけ来ぬ浪の志ら弊
     拾遺愚草
       御熊野詣の御供に来りて歌つかふまつりし中に
       新宮海邊残月
   わたつみもひとつに見ゆる天の戸の 明るもわかずすめる月影
       同庭上冬月
   露おかぬ南の海の濱久し 久しく残る秋の志ら菊

飛鳥神祠 新宮巽方下馬十六町側ニ有 飛鳥一作明日香土俗御飛鳥ト称ス
  祭神 天香語山命一名高倉下命饒速日尊第一子 神代ニ熊野ノ神ノ邑ニ天降
   リ玉フ神武帝東征ノ時熊野ヱ入玉フ時ニ高倉下命熊野ニ有テ靈劒ヲ献シテ
   開國功有シ事日本記ニ委シ ユヱニ三山倶ニ此神ノ袱祭シテ熊野ノ地主神
   トスル事誣ベカラズ 神ノ倉ハ此命ノ天降リ栖玉フ古跡也 
   社家者説曰 天孫瓊々杵尊天降日向ノ國高千穂峯之時饒速日
尊一子天香
   語山命奉供焉鎮
坐木斎熊野神邑天磐國盾而國多摩媛而天神籬尚
   弥高
而鎮飛鳥宮神事此時嚴哉「至今毎七月七日自り金山彦神所 
    進年魚ノ苞苴

                           永井法師
     飛鳥の跡よ里はやく移ゆく 世をいとハぬぞはかなかりける
      按ルニ此哥此社ヲヨメルト見ヱズ 只飛鳥の語ニ付テ爰ニ出スモノナリ
玉井橋 飛鳥の地に有 古歌とて云傳ふ

  埋れてもわたり兼たる浮世かな みがきても見よ玉の井の橋
秦徐福墓 玉井橋ノ側ニ在 又廟モ有相傳フ秦人徐君房ガ墓也トカヤ 又新宮東南飛
   鳥ノ社ヨリ南三町本社下馬ヨリ十六町東ニ當テ蓬莱山ト云小山アリ 山上ニ福ガ
   祠アリ 相傳フ秦
始皇方士徐福ヲ遣シテ童男女数千人ヲ將テ海ニ入蓬莱神仙不
   死ノ藥ヲ求メシム 徐福日本ニ来リ南紀熊野ニ止マル 死シテ爰ニ葬ル 其子孫
   秦氏ヲ賜
事アリ 此時徐福孔子ノ全經ヲ齋来テ朝廷ニ奉ル 是我朝人皇七代孝
   霊天皇七十二年ニ當レリトカヤ 徐福ガ事ハ中華ノ史籍ニ是ヲ載テ明白也    
   史記始皇本紀後漢書東夷傳倭國部并呉志義楚六帖歐陽文忠公集瑯椰代酔編聴高紀
   談等ノ書ニ見ヱタリ 應安元年日本ノ僧絶海大明ニ使セシ時 明ノ太祖徐福カ事
   ヲ尋玉ヒシニ絶海詩ヲ以テ答テ曰
     熊野峯前徐福
祠 満山藥艸雨餘肥
     只今海上波濤穏  萬里好風須
早帰      
   太祖感賞シテ和韻ヲ賜フ
     熊野峯高血食祠  松根琥珀世應肥
     當年徐福求仙藥  直到如今更不帰

神 倉  新宮町ノ右ノ方ニ在石磴三町半登ル 麓ニ比丘尼寺有午王ノ符ヲ出ス 生 大
   黒ト云有秘佛也 地蔵ノ堂有 夫ヨリ上ニ地獄谷 餓鬼ノ水其上ニ閼伽水ト云フ
   有 其間ニ自然石ノ磐石不動アリ 又袈裟石トテ淡紫ニシテ竪横二筋有
石アリ
   本堂ハ山上二有テカケ作りニシテ巽向キ 堂ノ廣サ五間長サ六間 本尊十一面観
   音愛染明王ヲ安置ス 龍藏權現ト称ス 傳イフ天狗ノ住所也ト 椽ヨリ見下セバ

   趺モコソバユキ程也 城下ノ町々一瞬ニ見ユ 山ヨリ下リテ町ノ浚田中ノ近道ヨ
   リ本道ヱ出ベシ 五六町行テ道二筋有 右ノ方ヱ行ハ廣津野ヱ出ルナリ 毎年正
   月六日神
倉ノ御燈ノ神事有 抑熊野ニヲイテ名所舊蹟少カラズトイヱドモ 神
   倉ハ神代ノ名所ナレバ無双ノ事ナリ 神代ノ昔饒速日ノ命ノ御子高倉下命父ニ随
   テ熊野ノ神邑ニ降坐シタル所也 乃此ノ神
倉也 日本記神武天皇東征軍進到
   紀伊
遂進ヘテ狹野熊野神邑磐盾仍引
    ク
海中カニ暴風舟漂蕩稲飯命三毛入野命皆入海死シ玉フ之時神
   吐
毒氣人物咸瘁由是皇軍不能復進時彼處有人号曰熊野高倉下
   忽
夜夢天照大神謂武甕雷神曰夫葦原洲猶喧擾之響焉汝更
   而征之而武甕雷神對
クニ予不行而下クバクニ国之劔則國將自平
    ラシ
矣天照大神曰諾時武甕雷神スナハチ登謂高倉下曰劔号ケテ[ふつ]
                              
*[音遍に師のつくり]
   霊今當置汝
而献天孫高倉下曰唯々トシテ而寤サメテ之明旦依夢中
   教
庫視レバ之果シマ於庫底板即取以進ツル之尋
   而中アタル毒士卒悉復醒起天皇曰シ玉フ威稜高倉下褒爲玉フ待臣
   是日本紀の本文を明證とすべし 天皇日神の威を負テ大和に向玉はん爲に道を曲
   て熊野ヘ入遂に狹野を越て熊野の神の邑ニ至り玉ふ 神の邑ハ新宮邑の古名にし
   て 天の磐盾ハ神の倉の本名なり 熊野よりして大和ニむかふハ東南を後ロニし
   て日野神の威を負奉也 天皇高倉下の命ニ命して 天神七世地神五世の神霊を神
   の村ニ祭し玉ふ 新宮十二宮の草創此時也 是より御舟にて大和へ向玉はん 砌
   神邑の沖ニして稲飯命三毛入野命入水し玉ふ 倶ニ神武帝の兄宮也 今新宮末社
   濱ノ王子ノ社相殿此両命を祭る也 武甕雷神ハ大和の國春日明神を祭る
  
   [ふつ]霊の霊劔ハ乃チ大和ノ國石ノ上布留の大明神と祭る也 庫の底板ニさかしま
   ニ立りし 是則高倉下の命の宮殿神倉の社なり 天照大神より高倉下命をして神
   宝を神武帝へ授玉ふ事是おぼ路げならぬ一大事也とぞ 依て高倉下を褒て侍臣と
   なし給ふ かくて神劔を授かり玉ひ 御心すが/\しく朝敵退治所レ疑なきを決
   し玉ふ也    

       続古今集神祇の歌
                        常磐井入道前太政大臣
     三熊野の神倉山の石たヽ見 登りはてヽも猶いのるらん
                    中納言公永
     千早ふる神倉山の御宝 玉の乃價ハあらじとぞおもふ

頭八咫烏祠 新宮城ノ要害ノ藪ノ中ニ有
  日本記
曰 神武天皇師軍進至熊野中洲而山中嶮絶無復可行之路
  皇師棲遑不
知其跋渉夜夢天照大神訓于天皇曰朕今遣ハス頭八咫烏
  ∴ネ爲嚮導者
頭八咫烏自空翔降天皇曰此之來リテヘリ祥夢
  大
ナル哉赫哉我皇祖天照太神欲ント基業乎 是時大伴氏之祖日之臣命師
  大来目督將元戎蹈
山啓行乃尋鳥所向仰視而追之遂達于菟田下縣天皇
  嘉其功日ノ命
五フ玉道臣
    東南を後に神の威を負ひ奉り 大和の國ニ向ひ玉はんニ 未タ道筋さゞかならず
    神祇の祈り給ふニ 又御霊夢ありて頭八咫烏の神を案内者ニ下し玉ふ 如此熊野
    の地ニして種々太神の御加護まし/\けるを尊ミ給ひ 代々の帝王嶮岨を凌玉ひ
    熊野へ行幸御幸ハ絶さるなるべし 神武帝より世々の帝熊野御幸の御道筋ハ 御
    舟にて勝浦の渡りニ至り神の邑の天津社國津社の十二宮ニ禮拝あり 夫より有馬
    村花之窟に伊弉冊の陵ヲ拝し給ひ 板屋越といふ所を音無郷に出テ大和の國ニ帰
    らせ玉ふなり
有馬村花の窟ハ伊冊命の陵今に至て新宮の末社なり其後人皇十代崇神天皇
    六十五年有馬村冊尊の神霊を音無に移し玉ひける也
本宮御鎭坐傳記ニも崇神天皇六十
      五年伊弉冊の神霊ヲ音無ニうつすとあり
」仍て古記に崇仁天皇六十五年始めて本宮ヲ建と
    有テ始ての名あり 崇神天皇五十八年熊野新宮を建と有て始ての名なし 是則ち
    神武帝四十九年の草創にて十二代五十八年ニ古きを改新宮となし玉ふなるべし南
    紀古士傳ニ八咫烏の神社ハ加茂ノ建祇の命を祭れる祠也といふハ 八咫烏ハ建祇
    命の化する所なれハ志かいふ也 今に至て熊野にて烏を権現の使鳥と申といわれ
    なきに阿らず 熊野午王文字の點畫烏の形を模 或は又此事より據するか 此い
    われもって見る時は烏ハ最も吉瑞の鳥なり

    新宮鎮座傳記ニ曰 頭八咫烏の飛下る形勢のいさましきヲ 高倉下の命写し留め
    て熊野ノ神印ヲ定め玉ふ 天皇の曰此鳥の来る事協祥夢 我皇祖天照太神天
    降日
孫ヲたすけなさんとおほせるかと勅ありしヲ以て 神印ヲ護王と名付ける
    也 依て高倉下命の神傳秘説今猶傳へ来れり 其の高倉下命の血脉連綿して三家
    に別る 夫より諸家に別れて神代の儘の神事ヲ司り来れり 齋火 の常齋大宮并ニ
    飛鳥宮ニ参里昇殿内殿の神事有 齋火の神官權禰宜ハ世上ハ勿論家内とも一生同
    火せざるなり 神官十人權禰宜二十八人以上三十八人内陣執行す 神民十人右四
    十人ハ齋火也 夫 外ハ非齋火者ハ昇殿せず 上古以来今猶厳重也

牛鼻神祠 新宮川向ヒニ有 本社ヨリ八町
  傳曰祭千翁命熊野人の氏神三苗の祖神也 千翁命穂積ノ臣ノ祖也 昔南方ノ賊虜
  王命に随ハズ穂積ノ臣奉
勅熊野ニ入賊徒ヲ平グ 穂積ノ臣者三苗の遠祖ナリ 
  乃權現ニ仕ヱテ社司ト成
 三苗宇井・鈴木・亀甲也「一説ニ除亀甲加榎本三苗
  諸國ニ是ヲ氏トスル者熊野ヲ以テ本トス 今牛の鼻の祠ハ此神を祭レリ 毎年二月
  十日
祭禮有
  南紀古士傳曰 神武帝征南方賊虜シ玉フ荒坂山又陣秋津野日久糧
  絶熊野邑有
人名千翁命稲一千束帝賞之賜姓穂積臣生三子鈴木宇
  井榎本也謂
之熊野三苗後爲權現社司 矣千翁命者加茂臣祖建祇命之兄
  而熊野邑之神司也 今牛鼻明神
ニテ而熊野人之氏神三苗之祖神也 建祇命者加茂氏之
  祖也

熊野村 新宮村一名也 又熊野ヲ以テ牟婁闔郡ノ都名トス 是ヲ三熊野トイフハ三山有ヲ
  以テ也 又眞熊野トモイフ或ハ御熊野トモ云 今新宮領別ニ熊野路ト云所有 日本記
  
曰 神武帝越狹野熊野云云 神邑ハ新宮本名也 元亨釈書拾遺傳
  曰
 紀州牟婁郡熊野村永興法師云者智行兼備一比丘從興其所持
  之具法華一部銅瓶一
縄牀一長物居歳餘以床施興自持瓶及麻縄別去
   
年熊野邑人入山伐木聞誦経声累日不止尋ルニ之不見徃語興々入山尋有
  骸骨
麻縄二脚埀巖傍有瓶興見悲泣後三歳有誦経興復徃骨其
  舌赤鮮也
御濱 熊野浦 新宮海邊ニ有

      建仁元年十月熊野御幸ニ
                   内大臣通親
      千代を経て月ぞさえます三熊野の 浦の濱ゆふ御幸かさねん
                        大宰大貳有原範光
      月影のさえゆくまヽにいとヾしく 積る雪かと見熊野の濱
                        康 光
      忘らるヽ身こそハあらん三熊野の浦の かひある名をばとヾめよ
                        家 隆
      かけまくも清き心ヲ見くまのヽ 浦の玉藻の光りをぞまつ
                        僧 行意
      昔見し玉かとのとぞ 御熊野の浦とてとほす袖の泪ぞ
                        忠 定
      幾度か磯の潮のさし那がら 津らき心を見熊野の浦

濱 弊 濱ゆふハ海邊ニ生ずる熊野の名草なり 古歌ニ多くよ免リ 葉万年青に似
  て長し 春萌芽を出し夏花さき色白し 百合花
似ていさぎよし 秋実を生ず
  巫女の持てる鈴の如し 花は白弊に似たり 土俗是を御弊草と申傳ふ

        新拾遺集            正三位公知朝臣
      忘るなよ忘ると聞かば見熊野の 浦の濱ゆふ恨かさねん
        同               舒明法師
      見くまのヽ浦の濱ゆふ幾かゑり 香をかさねてかすみきぬらん
        拾遺集             人 麿
      見熊野の浦の濱ゆふもヽへなる 心おもへど只にあわぬかも
                        西行法師
      熊野なる浦の濱ゆふいかにして 人ニゆめをやかよひそめけん
    其外歌書ニモ濱ユフノ哥多シ 是ヲ畧ス

御舟嶋 新宮川中ニ有 新宮ヱ近シ
  九月十五日ノ祭禮ノ時神輿ヲ舟ニノセ奉リテ御舟嶋ヲ廻リ玉フ事有 又右ノ方ニ
  三穂山と云有 九月十五日ヨリ霜月十五日マデ神輿鎮坐マシマス山トゾ 碇嶋川
  中ニ有巖也 此下ヨリ右之方ヱ舟ヲ着レバ新宮ナリ
      藻塩集             少將内侍
   三熊野の浦端に見ゆル御舟じま 神の御幸に漕めぐる也
  按するに此哥殊ノ外名哥のよし 少將の内侍此哥よりほまれヲ得テ 浦端の内侍といはれし也 其外
   二条院讃岐ハ沖の石の哥よミテ澳の石の讃岐とよまれし也 或ハ待宵の小侍従 物の河の蔵人臥柴ノ
   加賀 事浦の丹後下萌の少將 の類少なからず 皆名哥の詞をとりて作者の號とするなり

                        庵 主
    底の瀬に誰さほさして御舟嶋 神の泊ニ事よさせけん
  新宮御祭禮九月十五日 飛鳥明神ノ祭モ同日ニシテ飛鳥ノ御神体ヲ錦ノ嚢ニ入レ
  テ權現ノ神輿ト一時ニ御舟嶋ノ御旅所ヱ御幸ヲナス 此時十津川ノ五十本鎗ト云
  フ者鉄炮ヲ持神輿ヲ供奉スル事先例也

産屋 新宮ニアリ 世傳ニ武蔵坊弁慶爰ニ生ズ其古跡成ルヨシ 一説田邊ノ江川
  ノ橋ヲ渡リテ右之方片町ノ内ニ弁慶ガ産湯ノ井トテ清水有 弁慶ハ此所ノ産也ト
  云ヒ傳フ 新宮ノ人トイヒ田邊ノ人ト云フ二説定カナラズ 義經勲功記云 弁慶
  ハ者紀州人岩田入道寂昌之子也 仁平元年四月八日生 小字真佛丸叡山西塔有
  櫻本弁長僧都
ト云一時詣熊野寂昌舊好宿其宅寂昌
  呼
真佛丸弁長曰此我児也 嘗佛誕日而生故欲 今以
  托足下
以出家弁長許之携テ帰叡山時年九修之暇好軽捷牲豪放不
  覊罵批僧
人呼爲鬼穉丸長聰惠博郡書又達兵法兼膂力絶
  人西塔
北谷定泉坊派下空坊名武蔵坊真佛自居之剃髪改名武蔵坊弁慶
  
云云
  舊説弁慶者熊野別當弁正之子也非也此時別當則湛増而無弁正
新宮付城 三輪崎一里十八町
  昔日新宮城者新宮十郎義盛之所居義盛者六條判官爲義之季子也 治承四年四月
  蔵人改名行家齊高倉宮令旨入東国時平家祈願師大江法眼聞之欲撃那智新宮
  大衆等与義盛者率兵二千乘舩于新宮渚一晝夜法眼戦敗引退和泉国佐野法橋者法眼
  之姪也 飛書告之福原於是高倉宮隠謀発覚義盛後爲姪頼朝遭害云云 新宮城主安
  房守堀内氏善者紀юl新宮十郎義盛之後裔也 刑部大輔氏綱刑部大輔氏教壹岐守
  氏家主水正氏忠隠岐守氏定宮内少輔氏光安房守氏虎宮内少輔氏高安房守氏善十世
  相續住新宮氏善不應羽柴秀吉擧族據新宮ノ城後和睦仕秀吉慶長寅子之乱黨石田三
  成除封氏善子若狭守行朝慶長十九年冬属淺野氏翌年有故率兵五千入大阪城属秀頼
  其弟新宮左馬助堀内大和守堀内主水正久氏亦入城五月七日城陥久氏自里廓逃出有
  婦人数十人呼曰救我輩則他日有厚賞是乃秀頼夫人天壽院江戸将軍之女也 氏久乃
  奉之遁于茶臼山陣乱平賞功賜食禄五百石赦堀内一族罪

  新宮鵜殿村の人鵜殿藤助ハ堀内主水正が一族也主水と同時ニ秀頼公御廉中を奉守
  護茶臼山御陣へ立退し神妙ニ思召鵜殿村千五十石秀忠公より永代御朱印頂戴す 
  此御朱印新宮社家鈴木真学坊所持す 真学ハ鵜殿一族にて元禄年中迄鵜殿地の代
  官也 新宮矢倉明神の山を砦と唱ふ 是ハ鵜殿孫三郎が砦也とぞ 鵜殿石見守名
  跡 元禄廿三年ニ断絶領地千五百石當国御領と成

 ○長田正政所ハ新宮權現一の大宮司にして世々神職たる事隠なし 堀内家ニ從て所
  々にて軍功を顕す 中にも正政所二男永田次兵衛正次父兄を離れ新宮城主淺野右
  近太夫「淺野紀伊守幸長の長臣領新宮に属し大坂一乱ノ節に高名あり 泉ъ井に
  て大坂方の侍大將塙團右衛門直元が首をとる 後ニ紀方の先陣亀田大隅塙と馬
  上の鎗也 大隅も塙も小早川隆景ノ侍にて舊友なれバ互ニ一笑して馬ヲ乘そらし
  たる 永田正次亀田ニ詞をかけ大隅殿高名は如何と申ける時 亀田又馬残立直し
  團右衛門を鎗付ける 治兵衛下重り遂ニ塙が首をとる 此團右衛門ハ古今ニ無双
  の勇士にて容易被討べき士ニあらず 然とも此度の合戦討死と覚悟極めたる事な
  れバ終ニ治兵衛ニ首をとられける 是鎗脇の高名也 三男長田五郎七も北山一揆
  の時北山の大沼にて一揆の張本鬼喜助を討 楠嘉兵衛良清は楠正成の後裔正李四
  世の嫡流也熊野奥山中ニ生立堀内家に從ひ所々にて軍功を顕す 累代の家風残る
  軍術の妙有て大敵を欺し事数度ニおよぶ 屋敷ハ新宮權現の宮前也 堀内牢々の
  後本宮ニ居住し社司竹ノ坊ノ縁ニ同じく暫く此処に居住す 夫より江府ニ趣由井
  正雪軍法の師と成 楠不傳と号せり 一子有楠嘉兵衛といふ 土居大炊頭家中に
  て五百石の身の上と成不幸ニ而死す 今本宮并ニ大泊村にて楠一族といふ者有 
  正胤庶流ノ訳未詳
  當城ハ天正年中堀内氏の居城也 慶長五年より浅野左京太夫幸長紀伊守ニ任し紀
  伊一國三十七万四千石にて和歌山ニ在城 家臣浅野左衛門田辺の城ニ居し 同浅
  野左近ノ太夫新宮ニ在城す 元和五年紀伊候封土當國ニ授玉ひしより 家臣水野
  氏爰に居す 子孫襲封す 丹鶴城と称す 町家居賑しき所也 町の中程より末に
  旅店多し 是より少し隔て右へ入路分の石有 是神の倉路也

廣津野 新宮を去る事半里 廣津野といふ里有 名所也
                        平 清盛
    山越て廣津野濱の岩津ヽじ 又こんまでハ莟でそ有レ
  是より濱邊通る 小き山の尾崎ヲ登り下る也 其山崎ニ御手洗といふ所有 盥 
  の如き石三ツ有 昔の順路にて胎内潜といふ岩穴なと通りしと有リ 今ハ其上の
  山を通るなり

水手濯 白磯間浦 水手濯旧名ハ御手濯の磯なり 神武天皇荒坂ノ津ニ至て御手津か
  ら丹敷戸畔を誅し玉ふ 依て其所の磯に出て御手の血を洗ひ玉ふ 故に其地を御
  手洗の磯と名づく   
        夫木集
    御手洗の磯間のつヽじ咲にけり 蜑の居去火寄とやハ見る
  磯間ハ御手洗に有 神代の昔伊弉諾尊陀女に硯を投懸玉ひし所とて 濱の真砂悉
  く墨の色と成たるよし 此浦の邊に砂の白きところを白石の濱といふ 
  左の方に孔子嶋とて阿里 又鈴嶋といふ阿里 此二嶋は其景いとよし 次に小坂
  有 佐野の岡といふ名所なり                                                             山邊
赤人
    秋風の寒き朝気を佐野の岡 こゆらん君に衣かさまし
                        光明峯寺 摂政左大臣
    佐野ノ岡越行人の衣手に 寒き朝気の雪ハ降りつヽ
                        花山院
    佐野の岡獨りやこへむ秋風の 篠の葉さやき寒き朝明
  右の方佐野村 佐野ノ王子權現まし万素 順路ハ村よ里左の松原也 此松原も又
  哥の名所なり
                        後鳥羽院
    忘るなよ松の葉こしに浪かけて 夜深く出さのヽ月影
                        隆祐郷
    駒な津む佐野ノ朝気を見わたせば 松原とをくふれる白雪
  佐野ハ三輪崎にとなる 野岡松原皆名所な里
   日本記に曰神武天皇師テレ師ヲ越二狹野一是也
  建仁の後鳥羽院熊野御幸の時路のほとりの哥の中ニ
      拾遺愚草  羇中霰          定 家
    冬の日をあられふりはへ朝たてハ 濱に浪こす佐のヽ月影
                        平 忠度
    くるしくも落来る雨の三輪崎の 佐のヽわたりに家もあらなくに

太夫松 佐野の松原に阿里 老松一株枝を埀し龍髭四時蒼翠にして愛すへし 白河法
  皇熊野御幸の時雨やとりし玉ひて 從五位ノ爵ヲ給わ里てよ里此松を太夫松とい
  ふよし 熊野歩行記に 太夫の名を此松にすめる猿の名とするは非也とぞ 同所
  に袖す里岩なと阿り

佐野王子權現 佐野村に有 熊野九十九所王子の一ツなり 中古天子熊野詣の時
  休息し玉ふ所 ことに權現を遙拝し玉ふ所な李
二位尼石塔 佐野に有二位の尼ハ鎌倉將軍頼朝の夫人北条時政の女なり 二位に叙し
  尼将軍と云 建保六年熊野参詣有 是時是を立て標を残すもの也 一説に紀伊 
  國の庄ハ鳥居禅尼の所領也といふこと東鑑に見へたり此人の塔か

  秋津浦 佐野村の前那る濱也 那智黒と云碁石此濱よ里も出る也
        名 哥             惠重法師 
     藻かり舩秋津の浦に棹さして おもふ妻とちヾ漕ぎつヽぞ行く
                
(一本野)
      紀路哥枕に此哥諸本に秋津村と云所ニ出せり
      秋津のには浦邊なし 此所なるべし 秋津の今田辺領なり
        又柿本人麿秋津のヽ哥
     時は今稲葉もそよと吹風に 色つきそむる秋津のしば

三輪崎「茶屋あり泊り吉」宇久井へ二里
  秋津野濱の東北に続たる濱辺なり 民家賑し佐野ノ里も勿論此見渡ニ有 又前に
  嶋有 目覺山といふ高根の枩とて銘木有リ
1
目覺山 高根ノ枩 
                         西行法師
    目覺山おろす嵐のはけしくて 高根の松ハねゐらざりけり
  三輪崎ハ哥の名所ナリ   
                         權大納言實家

    三輪ガ崎夕汐させばむら千鳥 佐のヽわたりに声うつる也
        此名所諸書に紀伊國ニ出さず 然れども哥を考ふるに大和は海なき國なれバ 夕汐させばと有
        ニ相違せり また近江方にしても湖水の邊なれバ 夕汐さすとハ有ましきなり あ津ま路の佐 
        野ノ舟橋ハ勿論のこと也 されバ此哥にとりてハ紀伊國ノ佐野ノ三輪崎尤も叶たるにや 依之 
        愚意をもって爰に出し侍る

      万葉 七
    三輪の崎あら磯も見へず浪立ぬ いづこよ里行んよき道ハなし
  此哥またあら磯とあれバ 外の三輪崎ニハいかヾ 大和近江和泉上野同
      名あり 混ずべからず

  是よ里左記に小川有 順道ニは土橋有 汐干の時にて前なる砂濱を通りてよし
  近道なり 河を渡テ左の州崎赤色の濱又ハ千尋の濱ともいふ

千尋濱 日本記云 神武天皇師軍進熊野荒坂目誅丹敷戸畔云 今三輪
    崎荒坂山有 然
レバ三輪崎本名荒坂の津疑なし 丹敷一ニ丹色ニ作る 濱の宮錦
    浦の古名残れり 今赤色の濱の本名千尋濱なり 神武帝丹敷戸畔と戦玉ひし古跡
    にして海邊血ニ浸しければ血浸の濱と名つく
        拾遺雜賀            清原元輔
      万代をかぞへんものは紀の國の 千尋の濱の真砂也け里
        夫 木
      永き日の海のたぐ縄打はへて 千尋の海に霞たな引

     
宇久井「茶屋有泊り吉」 濱宮へ一里
  一鵜飼に作る 村の中に王子權現ノ祠まし/\ぬ 小鬮坂大鬮坂と云小坂を越て
  白菊の濱へ出る也
鳴耶濱 是又濱の宮の一名也
       懐中抄
    なくさます名を立つ人は 夜とともに音をなくやのはまのまにく


濱ノ宮「茶屋有泊り吉」 那智瀧本へ五十町
  一名渚の宮とも云 此所は那智山の一の鳥居ときこゆ 木の本よ里是迄を七里御
  濱と云
棋 石 那智黒と名つく 此濱に出づ 光瑩滑美に志て黒き事漆の如く 製造によら
  ずして自然と法度ニ叶ひぬ 太平御覧ニ日本の王子入唐して此石を冷暖玉として
  唐朝へ進上せらると載たり 王子は本國の東に集真島有 島の上に凝霞臺とて臺
  上に手譚池あ里池中に玉子を出す 製度ニよらされども自然に黒白明分 冬ハ暖
  く夏は冷也 故に冷暖玉とぞにいふ 其時唐帝の詔にて待詔顔師音と云臣下ニ命
  して王子と御前にて囲碁事を載ス 後世画にも出留めして顔師音三十三下鎮心頭
  の圖と云 是唐の宣宗帝年号大中年中乃事也 其外書言故事・韵符群玉・月令廣
  義・事文類聚等ノ書にも此事を載て詳かなり 宣宗大中年中に入唐せし王子とあ
  るハ真如親王の事成べし 碁ハ言ずして手にて譚する同前なれバ手譚と名く
  此手譚池といふハ熊野をさしていふとぞ 那智の秘書に三巻書といふ 其書に那
  智を難地と舊名セリ 難地ハ嶮難の地と云事にて難地譚池と音近きニ阿らずや
  今難地の濱出す所の棋石中華の書にいふ所に叶へり 其唐朝を称せらるヽ事久し
那智濱 是又濱の宮南の海邊をさす

                      増基法師
    はるぐと那智の濱路を過てこそ 雲と海との果ハしらるれ 
  げにかように打ひらきたる海原を見渡せば 雲と海との果を見へ渡るやうにこそ
  侍れ
宮權現 一名渚の宮共云
  此所ハ那智山一の鳥居と云 本社三所權現若一王子大山祇命彦火々出見尊ニテ
  各本地を習合セリ
      名 哥             西行法師
    よもすがら澳の鈴鴨羽振して 渚の宮に置禰鼓うて
丹敷戸畔祠 渚の宮の北の方ニ小記叢祠有 丹敷戸畔の社と云 則錦浦明神とよぶ
  南に立石すへたるハ故有三宝殿とかや 林中に一ツの祠有若宮ト名ク 日本記
  曰 神武天皇越狹野熊野神邑仍引
軍漸進海中暴風皇舟漂蕩天皇
  獨与皇子手研耳命一師
軍而進至熊野ノ荒坂津一因丹敷戸畔者
錦 浦 一名錦濱 日本記丹敷ニ作ル  濱ノ宮濱邊ノ本名ナリ
  渚之宮ノ南海邊都テ錦浦ト名ク 那智ノ濱熊野ト云モ專ラ此所ヲ云フナリ 但シ
  熊野浦ハ一所ニ限ラズ本郡海邊ノ総名也 凡テ本郡錦浦ト名ヅケ云フ所三箇所有
  先一ツハ濱ノ宮 二ハ二色浦 此二所ハ口熊野ニ有 三ニ錦嶋奥熊野ニ有リ
  此内哥名所錦ノ濱ハ此濱ノ宮也
                      西行法師
    年歴たる浦の蜑人事問ん 浪をかついて幾世過すや
                      又
    名に高記錦の濱を来て見れバ かづかぬあまたはすくなかり
渚 森    本名哭澤森
  紀路歌枕ニ云 室郡那智ノ邊ニ濱ノ宮ト云アリ
  此宮ヲ鳴澤ノ森トモイヱルカ 井蛙抄ニハ哭澤森・渚ノ森トモニ紀伊國ナリしは
  同所カト云云
  此説ニ依テ共ニ爰ニ出ス ナキ澤ト有ヲナキサノ森ト語ノ轉シタルナランカ 難
  一事 但シ藻鹽草ノ説ニヨラバ 渚ノ森ハ那智ノ濱ノ宮ナルベシ 哭澤ノ森覺束
  ナシ 若又濱ノ宮ナキ澤女ノ命ナレバ 左モ有ナン

  日本記神代巻曰 伊弉冊尊爲軻遇突智見焦而化去于時 伊弉諾尊匍
  匐頭
邊匍匐脚邊而泣哭流涕焉其涙墜而爲神是即畝丘樹下所居之神号啼澤
  女命

  
況ヤ熊野有馬村ハ伊弉冊尊ヲ葬レル地ナリ 今ニ至テ神代ノ古跡多シ 啼澤女命
  ヲ此地ニ祭レル事モ有ベシ

      萬葉集 第二
    哭澤ノ神社爾三輪須惠雖祷我主者高日所知奴
      類聚歌林
云此哥檜隈女王怨哭澤神社哥也
      続古今集 第五         衣笠内大臣
    むら時雨幾しほ染てわたつみの 渚の森の色に出らん
補陀洛寺 渚ノ森ニ有山号白華山 本山ト近シ 正堂一宇
  本尊千手観音左ニ護摩堂不動 右ニ地蔵菩薩一千体ヲ安置ス 昔ハ護摩堂地蔵堂
  各別ニ有シヲ今ハ堂内ニ一所ニ安置ス 昔鎌倉將軍ノ時下河邊六郎行秀出家シテ
  智定坊ト云 此濱ヨリ舟ニテ乘出シ補陀洛世界ヱ渡リトシテ云事東鑑ニ見ユ 但
  シ此寺ノ住職ニテモ有ケン 今モ古来之儀式トテ此寺ノ住持僧死期ニ臨ンデ舟ニ
  乘セ海中へ水葬シ補陀楽渡リト云由 中此金光坊ト云僧住職ノ時 例ノ如ク生キ
  ナガラ入水セシムルニ 此僧甚ダ死ヲイトイ命ヲ惜ミケルヲ 役人是非ナク海中
  ヱ押入ケル 是ヨリ存命ノ内ニ入水スル事ハ止リヌ 又今ニ金光嶋トテ綱切嶋ノ

  邊ニ有リ 今
ハ住職入寂ノ後ニソノ儀式ノ有トカ傳フ
                    
  東鑑 天福元年五月廿七日武州「北条泰時」御所給帯一封状
  覧御前
申給曰 去三月七日熊野那智浦有渡于補陀洛山者智定
  坊下河邊六郎行秀法師也 故右大將下野
國那須御狩之時大鹿一頭掛下勢子ノ
  内幕下殊撰
射手召出行秀射之由仍雖嚴命シト矢不鹿
  走出勢子
之外小山左エ門尉朝政射取竟 又仍狩場出家遂電
  不
行方近年在熊野山日夜讀スル法華経之由傳聞之処結局及此企
  可憐事也云 今所
披覧之状云智定託于同法可進武州之旨申
  置
紀伊國糸我庄執進之今日到来自在俗之時出家遁世己後事悉
   
周防前司信實讀申之折節祇候 之男女聞之降感涙武州昔爲
  馬
之友由被云 彼乘舩者入屋形之後自外以皆打付
  一扉
能見日月只可三十日之程食物并油等用意
  今按
ルニ中華ニモ是有事佛祖統紀載補陀山大海華嚴所謂南海岸孤
  絶
在山名補陀洛迦山観音宮殿是爲釈迦佛大非心印
  夫
補陀洛山ハ観音之浄土ト梵書ニ云ヱルハ是皆理ヲ以テ論シタル者ニシテ 人
  間世界現在其所有ニアラズ 莊子ガ宣徳ノ國ヲ説ルト同ジ 然ルヲ昌國縣ノ補陀
  山ヲ以テ梵書ニ称スル所ノ補陀山トスルハ非ナリ 只佛説ノ補陀洛山ニ擬タルヲ
  誤テ眞ニ觀音ノ浄土トス 笑ベシ 今那智ノ補陀洛寺モ維盛行秀ガ此所ヨリ入水
  セシト云ヨリ始リテ住僧代々生ナガラ水葬セラレシ観音ノ浄土ヱ趣ント思フハ惑
  ルノ甚シキニアラズヤ
  柳水鏡ニ曰補陀洛寺ノ僧入寂ノ時ハ寺内ニテ一向遷化ノ沙汰ヲセズ 其所以ハ東
  西四十八間南北二十四間ヲ限テ殺生ヲ禁シ境内清浄ノ傍示ノ内ナルニヨッテ徃持
  渡海ノ望ミ有ト披露シ先例ノ如ク認メ百八ノ白石ニ經文ヲ頓写シ袋ニ納レ身ニ結
  固メ板輿ニノセ観音ト権現エ参詣ノヤウヲナシ権現ノ御前ヨリ此道筋直ニ海端ヱ
  出ル時アレナル一ノ鳥井マデハ介錯人互ニ問ツ答ツシテ存生ノヤウニモテナシ補
  陀洛山渡海ト称シ古来ヨリ作法ニテ那智ノ瀧衆送リ届ケ鳥井ヨリ直ニ出レバ禪家
  ノ導師是ヲ受トリ葬礼ノ儀式ニシ濱ノ汀ニ輿兒スヱサセエ引導済諷經終テ渡舩ニ
  乘セ二十余町漕出シテ辰巳ノ方綱切嶋ト云所ノ海中ヱ死骸ヲ水葬セシム 則是補
  陀洛世界ノ發心門ニ準ズト云云 此説ハ中世入寂ノ後入水スルヲ見テ設タル説ナ
  リ 水葬火葬野葬林葬ノ四ツハ皆形体ヲ破リ棄ツ 不孝不仁ノ仕業ニシテ君子ノ
  心ニ叶ハズ 古今理ニ叶テ弊ナキハ只土葬ナリ 補陀洛寺ノ住僧生ナガラ水葬ス
  ルハ邊鄙ノ悪風俗ト謂フベシ 太平ノ御代ニ有ベキ事ニ非ズ 有ニモアラヌ観音
  ノ浄土ヱ生ルト一概ニ心得違ヒタルヨリ如此事有 癡人面前夢ヲ説不レ可トハ誠
  ナルカナ 古人ノ詞ニ蓬来身裡十二楼トモ又
ハ唯身浄土忌ノ弥陀ト云ヱルヲヤ
  昆陵ノ唐氏ガ求
観音補陀補陀不必ト云ヱルハ至
  論ナラズヤ
  
濱ノ宮壘址 清水揀m坊ノ要害ニシテ實方院ト戰フタル所ナリト云リ
綱切嶋 一名金嶋ト云 渚森ノ前ノ辰巳ノ方海中ニ有 綱切嶋ハ宝嶋ニ近シ 綱切
  嶋ハ帆立嶋ト並ンテ大勝浦ノ沖ナリ 山形嶋ハ小勝浦ノ沖ナカナリ 小松ノ三位
  中將維盛入水ノ所ナリト 此事盛衰記平家物語ニ委シ 然レトモ維盛公入水有シ
  ハ實ハ金嶋ナリ 今ニ維盛公ノ石塔有 文法ニハ人ノヨクシル所ヲモツテノ書ナ
  レバ金嶋ト近所成 故平家物語本ニハ維盛山形嶋ニテ入水ト書ケリ 維盛金嶋ニ
  テ入水ノ時辞世有

    生れてハ遂に死すてふ事のみぞ 定めな記世にさゞ免有けり
  元暦元年三月廿八日生年廿七歳ト松樹ヲ削テ書付玉ヒ 遂ニ入水シ玉ヱリ
  盛衰記和註曰 一説ニ維盛入水ノ事ハ偽リニシテ 實ハ那智ノ客僧等是ヲ憐ミテ
  鳴瀧ノ奥ノ山中ニ隠シ置タリ 其所ハ今廣キ畑ト成テ彼子孫ハ繁昌シ毎年香ヲ一
  荷那智ヱ備フルヨリ外別ニ公役ナシ 故ニ此所ヲ香ノ畑村ト号スト云云

  香畑村ハ小雲取坂ヨリ見ユ 又有田郡ノ山中山ノ保田「舊名阿瀬川ノ庄」笠松村
  ニ居住シ玉ヒシトテ屋敷跡有 勿論其子孫今ニ是有
 代々小松彌助ト云 
  今按
スルニ維盛入水トハ偽リナリ實ハ父重盛ノ遺言ニテ熊野山成嶋ニテ入水ノ体ニ
  モテナシ那智山中ニ隠給ヘリ 今ニ至ッテ維盛ノ旧跡熊野ニ数多有 其子孫方々
  ニ残リ今ニ有 山成ノ嶋ト云フハ小勝浦ニ有テ此綱切嶋ニ近シ 又御手濯ニ太刀
  落シト云所アリ 維盛佩刀ヲ爰ニ落シ玉フト云 又身濯浦ト云所太地ニ有 土人
  水ガ浦ト云 維盛海ヨリ上リ身ヲ濯キ玉フト云 又色川庄大野村ノ東北ニ藤綱ノ
  要害トテ有 維盛居地ノ跡ナリトソ 中古色川左兵衛ノ佐盛重ト云フハ 太閤秀
  吉公ニ仕ヱテ熊野七人侍ノ内ナリ 是維盛ノ末孫ナリ 又大野村楞嚴院ニ維盛ノ
  旗幕等今ニ有 此寺内維盛ノ墓有 同村ニ維盛ヲ祭レル祠有 又坂足村ニ東氏ト
  云人有 維盛ノ孫裔ナリト云 維盛ハ七十餘歳ニシテ薨シ玉ヱリト云
  濱ノ宮ヨリ那智山マデハ平地ナレドモ那智ヨリ本宮ヱ趣クニ小口村マデ六里ガ間
  ハ都テ大雲鳥ト云 次第ニ山中ヱ入テ海ヲ見ル事ナシ 井関村市野々村此所ヨリ
  那智山三重ノ瀧見ユル 宛モ匹怖ノ如シ 古歌ニ
    浦山し市野の里に栖人ハ お里ながら見る布引ノ瀧
  此里ノ入口右之方ニ大キ成樫木見ユ 此ノ通リニ千代井ト云フ有 左ノ方ニ銀山
  見ユル也 銅ヲ産ス 古ハ牟婁郡ヨリ銀ヲ出シテ貢ニ充ル事国史ニ見エタリ

  續日本記曰 大寶三年五月巳亥令紀伊國奈我名草二郡停調シム
  阿提飯高牟漏三郡
二ノ瀬村「茶屋アリ 是ヨリ」瀧本ヱ十八町 若一王子兒宮アリ
    鈴木由緒書  
  本國紀伊生國紀伊 本姓穂積鈴木氏人皇第一神武天皇南方熊野賊虜征伐シ給フ時
  三輪崎ノ荒坂山ニ軍立シ給フ 天皇御陣ヲ秋津野ニ召ルヽ事日久
「荒坂山ハ三輪崎濱
   ト廣津野トノ間ニ在今ノ荒谷山ト云 秋津野ハ佐野村ニアリ」
既ニ御粒尽テ危ニ臨ミ玉フ 爰
  ニ天櫛饒速日命ト申奉ルハ天照大神ノ太子天ノ忍穂耳尊ノ御子也 天照大神ノ勅命
  ヲ玉ヒ十種ノ瑞宝ヲ持テ天磐船ニリ天降リ玉フ 此饒速日尊ニ二子御坐
兄ヲ天
  香語山名高下
下レ命ト申 弟ヲ可美真手ノ命ト云 香語山命父ト共ニ紀伊國
  熊野邑
「今新宮ノ本名ナリ」ニ降ツテ庫藏ヲ建テ十種ノ瑞寶ヲ安置シ玉フ 今「新宮神倉是
   也」
香語山ノ命神武帝ノ御味方ニ参シ稲千束ヲ供奉ノ軍兵ヲ救ヒ奉リ玉フ 因茲宦
  軍堅固ナリ 今ニ稲千束ヲ奉レル地名ヲ千束ト呼テ新宮ノ入口
地名ニ残レリ 是
  ヨリ賊虜トモ悉皇命ニ從ヒ奉リテ南方無爲ニ治ルナリ
 從夫神武帝ハ大和國ノ大敵
  長随彦ヲ伐テ天下ヲ平均シ 大和國橿原ノ宮ニテ天下ヲ治メシ 人皇ノ始我朝ノ太
  祖也 天皇御威ノ餘リ天香語山ノ命ニ千翁ノ命ト名ヲ改メ賜り姓ヲ穂積ト賜フ 此
  時天神七代地神五代合テ十二社ノ神廟ヲ熊野邑ニ立テ千翁ノ命ヲシテ是ヲ祭ラシム
  是今新宮ノ神社是也 千翁命ニ王子有宇井鈴木龜甲三苗ト分
「 一説ニ亀甲ヲ除キ 榎本ヲ
   加ヘ三苗トス」
皆穂積姓ヨリ出タリ 千翁命ハ熊野地ノ正三苗ノ祖神タリ 則十二社ノ
  神司ト成今新宮川向ヒニ牛ガ鼻大明神ト祭レリ
「今新 宮本社ヨリ八町川向ヒナリ毎年二月十
   日祭礼アリ」
又新宮巽之方ニ飛鳥ノ社有 是亦天香語山命ヲ祭ル所ナレバ牛鼻同神也 
  千翁命ハ一説ニ建祇命ノ兄ニテ古代ヨリ熊野邑ノ神司ナリ今牛鼻明神ト崇テ熊野人
  ノ氏神ナリ 建祇命ハ加茂氏ノ祖神ナリ 千翁命御事ハ熊野地主神ナレバ 新宮本
  宮那智皆此社ヲ置モ宣ナル哉 殊更千翁命ノ弟可美真手命ハ 神武帝ノ御時執政ノ
  大臣トゾ 物部氏ノ祖ナレバ今更附言ニ及バズ旧史ニ載テ分明ナリ 人皇十二代景
  行天皇ノ御子日本武尊重テ勅命ヲ受南方賊徒ヲ征伐シ玉フ 熊野邑ニ御陣ヲ召レシ
  時穂積ノ臣御迎ニ参リ 大ナル榎木ノ下ニ假殿ヲ築テ奉迎カフニ 鈴ヲ以テ奉傳ト
  云傳フ是ヨリ鈴木宇井榎本ヲ以テ家号トス 千翁ノ命稲千束ヲ積テ奉リシヨリ以来
   鈴木氏ノ子孫稲ノ丸ヲ以テ紋トス 鈴木氏屋舗ハ熊野大勝浦ニ在リ 家舗内一町
  四方今猶鈴木氏家地トシ累代居住ス
「 寛永十九年十二月御書付今ニ所持ス」宅地ノ内ニ八
  幡宮ノ社鈴木氏ヨリ勧請スル所ナリ
「正徳元年公儀ヨリ御改ニ付書付指上候ナリ」勝浦鈴木
  家ハ鈴木庄司重政ト称シ 穂積氏ノ嫡流八庄司ノ旗頭トシテ熊野ニ於テ並ナシ 代
  々繁榮シテ紀藤白庄鈴木氏此家ヨリ分ル 治承四年五月熊野別當湛増素ヨリ平家
  ノ恩顧ヲ厚ク蒙リタレバ新宮十郎義盛高倉宮ノ令旨ヲ持テ熊野人ヲ催促スト聞テ急
  ギ千余騎ヲ引率シテ新宮ヱ押寄ト聞テ庄司重政ヲ始トシテ新宮ノ人ニ宇井水谷亀甲
  鳥井法眼高坊法眼那智執行法眼以下一千五百余騎湛増ト新宮三輪崎トノ間ニテ三日
  ノ間合戰シ湛増打負手ヲ負本宮ヘ逃帰ルト古書ニ見ユ 重政ヨリ十餘代系圖焼失ニ
  付時代追テ可考

  鈴木庄司重政ヨリ十六代
     鈴木高景▼慶長十五年庚戌九年閏二月廿一日家督 承應二癸已七月七日卒 号奥坊
     鈴木重次▼弥金左衛門高景之嫡子也 正保四年丁亥二月十八日家督 延宝二申
          寅七月五日ニ卒
     鈴木範重▼称宮内重次子 延宝六戊午五月家督 享保七年壬寅七月廿二日卒
    鈴木重徳▼称猪太夫範重ノ子 享保十乙卯五月家督 元文三戊午正月十一日卒
    鈴木重信▼称甚太夫重徳ノ子 延享二乙丑三月家督 安永七已亥八月十日卒
    鈴木重政▼称甚太夫重信ノ子 享和元辛酉八月家督

紀州熊野巡覧記巻之一終 
   武内玄龍 姓は武内 武内宿弥の裔なしといふ 始め玄龍と名づけ晩年養浩と改む 
   字は惇[こう] 依って[こう]齋と号し又泉溟と号す
   和泉堺の人 幼より学を好み郷人高志氏に師事し 安永二年四十才に至り 紀伊東牟
   婁古座の人となり 姓を玉川と改め医を以て業とす傍ら 帷を下して徒に教授す   
   寛政の初め南京舩古座浦に漂着するあり 玄龍譯官に補せられ清客と筆談し 同二年
   紀伊藩主より譯官に擢用せられ月俸を給せらる 以てその学殖を知るべし
   著書に 本朝資治通鑑 二百余巻
       清客筆談録  寛政二年?
       紀伊国志略  四巻 寛政四年著  書名紀伊志略ナリ
       紀伊名勝志  一巻 安永未年刊
       連壁文随
       明史断
       熊野巡覧記四巻 寛政年中著
       熊野総覧
   等あり文化十年五月十一日卒七十
   古座町大字中湊字右東谷八番地墓地に墓石あり   

    昭和丗五年五月一日写本了
                               清 水 長一郎
熊野巡覧記・巻    
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(清水長一郎氏の写本は巻之一・巻二・巻三・巻四と別々に製本している)