巻之四  巻之三  古書関係  巻之一 

 熊 野 巡 覧 記              

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熊野巡覧記 巻之二

                    泉溟 武内玄龍惇[こう] 著
下 馬 是ヨリ段々毎
標石町数ヲ記セリ 二王門マデ八町皆石階ナリ
那智山 舊名難地ト云 那智古書ニ見エタリ 那智大權現ハ相傳曰 人皇十七代
  仁
徳天皇ノ御宇始建 其後六十五代花山院當山ニ入玉ヒテ 山籠リ有シヨ
  リ漸
佛場ト成 又此時ニ裸形ト云僧當山ヲ始テ開創ス 是乃那智山ノ開山ナ
  リ 或
ハ裸形ヲ仁徳帝ノ時ノ人トスルノハ非ナリ 仁徳ノ時ハ本朝イマダ佛ア
  ラズ 寺
號ヲ青岸渡寺ト称ス 樓門ハ是乃二王門ナリ 表ニ金剛力士ヲ安置ス
  裏ニ随身
左右ニ有額二行ニ書シテ曰 日本第一大霊驗所 熊野三所大權現ト
  東方ヲ光峯ト
云 權現影向ノ時神光ヲ現スト旧記ニ見ヱタリ 其後五部大乘經
  ヲ其峯ニ納ム
トゾ ニ王門ヨリ右ノ方ヱ少シ下テ入ル 是瀧本ヱ行道也 瀧本
  ヱマテ八町有
此間坂道 左右皆痺m大木也 麓ヨリ本社ノ後峠マデ又瘻蝟リ生
  繁リシ深山ナリ

清明橋 二王門ヲ入テ右之方瀧本ヱ赴道 石ノ懸橋ヲ渡リ此橋清明橋ト名ク 其
  故
ハ花山帝那智ニ三年ガ間苦行ノ時 阿部ノ清明ヲ召サレテ山中ノ怪異ヲ祈祓
  シ
メ玉フ 因テ清明此所ニ住ス 其跡清明堂ト称ス 今ハ絶タリ 此橋其近所
  成ルニヨッテ清明橋ト申トカや

觀音寺 清明橋ノ次ニ襌寺有 法燈國師ノ開基 觀音寺ト称ス 國師ノ像有 一山ノ
  菩提所 襌僧代々此院ニ住ス 此山ノ社僧ハ天台真言ヲ兼脩シ 天長地久ノ祈願
  ヲ表トシテ滅罪修善ヲ行ハズ 一年法燈國師登山有テ一山ヲ教化シテ此寺ヲタツ
  故ニ那智山ノ奥院ト称ス 一山ノ菩提所ナリ 社僧ハ實方院ハ天台宗ニテ妻帯
  也 尊勝院ハ清僧也 夫ヨリ瀧本ト本社トノ別レ道有 夫ヨリ瀧本観音堂ノ庭ニ

  至ル 左ノ方ニ木碑有 書ニ曰太上天皇恒仁「弘安弐年二月晦日」初度ト有 恒仁ハ亀
  山帝ノ御イミナナリ 昔ハ天子當山御幸ノ時必ズ宸筆ニ遊ハサルヽトゾ 今ハ其
  儀ナシ 庭ヨリ右ニ付テ下ル 少シサガリテ拜殿有 川向ナル一宇ノ堂ヲ遙ニ拜
  ス 此堂ヲ小別所ト云 本尊愛染明王ナリ 是聖護院門主御参詣ノ節毎度入御有
  テ御行法有リ 昔年慈覺大師一夏九旬安居ノ庵宝也 聖護院道晃法親王三年苦行
  ノ砌不動ノ像ヲ作リ愛染ニ並テ安置ス 此拜殿ヨリ手水所ヱ戻リテ瀧行者ノ籠所
  トテ僅ナル假舎有 元是ハ瀧僧ノ行所ニテ瀧本第一ノ秘所 五間ニ六間ノ護摩堂
  ナリシガ 享保十二年極月朔日ノ火災ニ焼失ス 此所當山ノ衆徒支配スル事叶ハ
  ズ瀧僧ノミ支配ス 夫那智山瀧衆ト申スハ 元祖七先徳ノ流レヲクミ顕密ニ教ヲ
  兼學シ其行法今ニタヱズ 所謂七先徳トハ役行者傳教大師弘法大師裸形上人智證
  大師叡豪範俊ナリ 是ヲ瀧行者ノ元祖トス

    裸形上人ハ亀山院ノ時ノ人ナリ 是當山ノ開山ナリ 裸形ヨリ以前役行者等
    當山修行有シカド 正シク裸形ノ開山トス 此上人ヲ仁徳帝ノ時ノ人トスル
    ハ非ナリ今モ猶瀧僧初テ行ニ入時ハ七百十日ノ假行ヲ成就シ二七日ノ断食ニ
    テ 昼夜冷水ニテ身ヲウタシ難行苦行満足シテ瀧衆ノ坐ニ列ストアリ 其行
    法ノ次第ハ是ヲ畧ス
瀧本観音堂 五間四面辰巳向千手院ト号ス 本尊千手観音閻浮檀金ノ尊像御丈一寸八
  分 釋ノ教光ト云人第二ノ瀧ヨリ祈リ出シ奉リタリト云 是飛瀧権現ノ本地ト云
  慶安四年二月七日出火シテ殿宇霊宝等餘多焼失ノ砌リ 本尊ハ岩窟ニ入其後霊夢
  有テ堀出ストテ鏨ニ當テ小疵付ク 瀧本第一ノ宝物ハ天降リシ宝劔ナリ 是ハ 
  一ノ瀧ノ水上ヱ天ヨリ降下リシ神劔ナリ 今其所ヲ劔ガ淵ト云 此宝劔ノ装束ヲ
  ハ當國ノ大主南龍院殿亜相頼宣公御寄進有テ 鞆ハ金銀ノ細工鞘ハ赤銅ニ金ノ龍
  ヲ雕埋メ其體一入厳也
  華山法皇御籠リノ中ニ龍神ノ献上シタル如意宝珠ハ岩屋ニ納メ 水晶ノ念珠ハ此
  千手院ニ籠メ 九穴ノ海貝ハ瀧壺ニ入レサセ玉フ 其後白河院御幸ノ時海人ヲ入
  レテ是ヲ探ラシ玉フ 海貝ハ今ニ有 徑リ三尺計リモ侍ラント奏シ申ケリ 此院
  ノ右ノ方ニ不動堂又瀧見ノ殿有 其所ヨリ瀧ヲ見ル

瀑 布 三國無雙ノ名瀧 扶桑ニ於テ独立絶對 長三百尺ニ餘リ徑リ七間餘 天漢ヲ
  注下ス如シ 世俗称ス神体ハ大己貴命トノ飛瀧権現ト称ス 三重ニ流レヲツル
  一ノ瀧最モ大ナリ 高サ数十丈瀧壺マテ約スルニ一丁程ト覺ユ 壁ノ如ク立タル
  山二ツノ際ヨリ落ル 以前ハ瀧ノ中程ニ出張タル石有テ 水ノ激スル躰云バカリ
  ナキ見物ニテ有シトゾ 去ル亥ノ年大地震ニ落タル由ニテ 今其石ハナシトイヘ
  ドモ サナガラ筧ノ如キ谷ノ際ヨリ流レ落テ 白ク潔ク綿ヲツミ出スガ如ク  
  吹雪ノ如シ 瀧ノ口ハ二筋ニ成テ落ル水多キ時ハ一筋ナリ シタヽリ岩ヲ折テ散
  ル体霧霞ノ如クニテ衣ノ襟自ラ濕ル絶景言語ニ断タリ 其響數里ニキコエ其辺 
  ニテハ人語キコヱズ 暑熱ノ時ニテモ瀧ノ邊ハ寒シ 實ニ天下ノ壯觀ナリ
                      式乾門院御匣

    那智の山はるかに落る瀧津せに すヽぐ心のちりも残らじ
       此うた此瀧を拝し奉れは身も心もすヽがるヽ心地し侍るとの意味ニ是あるゆへ那智の
          哥にて第壱ト称す

                       西行法師
    風になびく天の志ら糸見だれてハ 千尋の岸に落る瀧津せ
                       前大僧正慈鎮
    かさねても流れぞたへぬ三熊野の 濱ニかくきぬ那智の瀧津せ
                       源ノ仲正
    雲かヽ留那智の高根ニ風吹けバ 花吹おろす瀧の志らいと
                       頓阿法師
    山ふかし雲よ里落る瀧津せの あた里に雨のはるヽ日ハなし

      
文覚瀧  「瀧壺ヨリ下ニ有 此上人滝壺ヨリナガレ出テ
        此所ニテ浮上レリト云 今此所ヲ蛇ノ淵ト云フ

  元亨釋書曰 釋文覚姓藤原氏親衛校尉持遠之子也 俗名盛遠以家業ハル
   二
掖衛兵曹年十八誤斬因テ薙髪脩歴霊区後回上都至城北高
  雄山寺
云 嘗那智山七日立瀧下時維臘月頭髪皆凍瀧水觸之
  其
タリ三四日膚體通沍気已絶而身不少傾一童來
  手摩
覚自頂放其手甚暖覚 蘓問曰何人對テ曰不動尊令我保
  師
言已上天覚益力行以爲明王護我我豈慮命乎從テ今盈三七日其後瀧水
  煙而如
湯更無寒苦遂竟三七日     
  本朝神社考曰 山王院大師山王院在叡山本尊千手観音傳教大師之所安也 智證大師後
   レ
此所謂山王院之大師智證ナリ
詣熊野雲霧隔
  峯荊棘埋路送而不能行留瀧下祈七日有八尺霊鳥飛来示路遂得
  所
八尺長頭巾此也
  此後ノ山ヲ最勝之峯ト云 昔此所ニ最勝王經ヲ埋メル故ニ号スト 一日逗留スレ
  ハ坊ノ手引ヲ以テ瀧ノ禅定ヲスル事ナリ 先瀧之流レノ川下ヲ渡リテ川向ニ愛染
  堂有 彼所ヨリ壁ヲ登ルガ如キ難所ヲ攀登ルニ草樹生繁リテ曽テ道ナシ 一里余
  モ來ヌラント覚ヱシニ先達ニトヱハ六町余ト云ヱリ 爰ニ峯ニ護摩ヲ修スル所ア
  リ 其側ニ聖護院道晃之籠ラセ玉ヒケル所トテ方丈堂有 其所ヨリ又上リ下リテ
  行 奥ニ花山之法皇之御庵室之跡トテ山少シ平ナル所ニ礎之跡有 大木茂盛シ中
  ニ木之本ヲ栖トスレバトヨマセ玉タル櫻木モ今ハ纔ニ株バカリ朽残リタル有  
  亦御茶碗二ツ小壺一ツ石ノ櫃ニ納メ今ニノコレリ 是二ノ瀧之畔ナリ

花山法皇山籠之舊跡 一ノ瀧之絶頂ニ有 花山法皇一千日籠ラセ玉フ御庵室ノ旧蹟也
  圓成寺ト申ス 櫻ヲ植サセ玉ヒテ御製ニ
    木乃本を住家と志きバおのづから 花見る人トな里にけるかな
  年フリサクラモ朽テ其根之形今ニノコレリ 御水瓶御茶碗アリ 前之國主亜相源
  頼宣公石櫃ヲ寄附シテ是ヲ納メ玉フ

  東鑑曰 花山法皇去鳳凰城熊野山又爲皇祖菩提ヲ籠那智
   千日皆表知恩報恩
理故云云
元亨釋曰 寛和皇帝者安和之長子也 永観二年十月十日即位寛和二年六月廿日夜排

  真観殿
玉闥自躍下地潜出宮扈從二人沙門厳久侍中藤通兼云 帝如花山
  寺薙髪法諱入覚睿算一十九云 又入
紀那智山出三年一日神龍降献
  如意珠一顆水晶
念珠一串海貝一枚帝置宝珠ヲ於ー屋納念珠於千手院
  以爲
地鎮苦行上首傳之秘授今其海貝九穴沈瀧下俗云食九穴貝
   一
者長不老盖欲人令飲瀧水延齢也 承保帝聞 召
  弄潮者
之潮人出奏曰貝猶在径三尺計自帝修練此地苦行者 六十人今
  至不
絶回花山寺闢密学受潅項者多 寛弘五年二月八日崩 聖壽四十一
  是ヨリ瀧路ニカヽル 三重ノ瀧ニ至リケルニ是又目さましき瀧也 是ヲ布引の瀧
  とも云な里 爰を下里て二の瀧へ至る 是を如意輪の瀧といふ 高サ一の瀧にも
  さのミ劣ルましき程也 其流れ岩に當りて零厳けしき尤見物也 瀧壺漫々として
  其深さはかりかたし 此流れ三百余間をすぎて一の瀧の頭ニ至る 一の瀧よ里半
  町斗り水上に劔ヶ渕と云有 細長き渕な里徃昔天よ里神劔降りし所なり 此劔今
  瀧本千手院の寶物たり 瀧頭の行状は言語に演がたし 一の瀧を飛瀧権現といふ
  辰巳ニ向て落る水散乱して只時雨の如し 下を杳に見下すニ其さま并へかたし 
  是よ里帰る また山人の通ひ路あるなり

      那智山 高根ノ瀧 三重ノ瀧 
                      後鳥羽院御製
    またたぐひ那智の御山に澄月の 清き光に松風ぞふく
                      花山院御製
    石ばしる瀧にまかひて那智の山 高根を見れバ花の志ら雲
      續千載集雑中 那智にて庵の柱に書付ける
                      前ノ大僧正正行尊
    おもひきや草の庵の露けさを 終ゐの栖とたのむべしとは
  山家集云那智ニ籠りて瀧ニ入堂し侍リけるニ 此上に一二の瀧おわします 夫へ
  参るなりともふス住僧の侍り來るにぐして参りけ里 花や咲ぬらんと尋まほしか
  里ける折節にて便有心ちして分け参りた里 二の瀧の本へ参り着たり 如意輪の
  瀧となん申と聞て拜ミけれバ誠に少し打かたぶきたるやウニ流レ下リてたふとく
  覚ヱけ里
  花山の院御庵室の跡侍りける 前ニ年降りたる櫻の木侍リけるを見て 栖とす 
  れバとよませ玉ひけん事思ひ出られて
  木の本に住けん跡を見つるかな那智の高根の花を尋ねて 三重の瀧拜見けるに誠
  ニとうとく覚へて三業の罪もすヽがるヽ心地しけれバ 身に津もる云ばの罪とあ
  らハれて心すミぬる三重の瀧津せ
      世を遁れて那智ニ詣でヽ侍りけるに 
        そのかミ千日の山籠し侍りけるをおもひ瀧の下ニ書付侍る
                      法眼慶祐
    三年経し瀧の白糸ハかなきハ おもふすじなく袖ぬらすらん
  瀧本よ里戻りて金經門を過て 本社ト瀧本との路分より上を指て伏拜ミへ出る 
  此所ハ棟高く板敷かたく構へなし壁ハなし 是を伏拜ミと申す 毎年六月神事ノ
  時神輿の扇と申すを此処よ里渡す事今も志るなり 瀧本より三町 是より本社へ
  も三町有 是より本社へ参るニ仙瀧院の大師を拜し 段々僧坊を見渡し本社ニ参
  る

御本社大権現
  第一瀧ノ宮        地主権現則
               高倉下ノ命也
  第二西ノ御前        國常立尊
  第三中ノ御前       伊弉諾尊
                伊弉冊尊
  第四本 社  事解男命  是御本社也 号
巽向神殿曰
                證誠殿神殿金御幣有

  第五若一王     天照大神               以上五社
  第六襌師宮  天忍穂耳命
  第七聖 宮  瓊々杵尊
  第八兒 宮  彦火々出見尊
  第九子守宮         鷓?草茴日不合尊
  第十一萬宮        國狹槌尊
               豊斟渟尊
  第十一十萬宮       泥土煮尊
               沙土煮尊
  第十二勧請十五所     大戸道尊
               太戸辺尊
  第十三飛行夜叉       面足尊
               惶根尊

    以上八社同殿也 十二社ハ大畧同新宮本宮
  拜殿側
大黒天役行者之木像一社ニ是ヲ祭ル
  次ニ弥勒堂 辰巳門 前ニ御供所「是ヲ御前ノ庵主ト云」表ニ長キ廻廊有テ鰐磬ヲ鉤レ
  リ順拜
ス 本社ハ人皇十七代仁徳天皇ノ御宇始て建と云 皇祖ノ大廟として護
  國利民の霊社なり 老たるも若きも此三ツの山へ志して深く嶮阻を攀ぢ 雲を踏
  ミ嵐を別て歩をはこび 浦の濱ゆふ幾重の浪路を凌ひで此廟庭に跪ん事を願ふ 
  昔より今ニ至るまで午王を以テ天下の起請を正し誠を立て僞を糺す事神威乃及ぶ
  処あざむきがたき所也 何人か神慮を仰がざらん 木立ものふ里て神さびたる山
  の氣しきいとたうとし 次に本社の左脇ニならひて如意輪堂有
観音堂 五間四面辰巳向 本尊如意輪観音

  西国三十三番所観音霊場順礼第一ばんの札所是なり 此本尊観音の濫觴は花山帝
  の御代とかや 裸形上人とて生なから自然と道徳たうとき異人有 此山に入て苦
  行の折から瀧よ里閻浮檀金の如意輪の尊像出現し玉フを上人草庵に安置し霊應奇
  特ニ在けるが上人遷化の後亀山院の御時其庵室の跡に堂を建て御長一丈の木像を
  造り 御胸の内にかの出現の金像を納奉る 那智山如意輪観音是なりとぞ

    按ルニ裸形上人傳記詳ならず一名佛眼上人共いふよし 按ルニ伽藍開基記養老二年長谷寺ノ徳
    道上人始勧人巡視観音霊場三十三處而信從者夥 後二百年余歳シテ廃不石川寺
     僧佛眼念巡礼功徳特奏花山法皇適々書写山性空上人亦奏之 法皇感ニ僧
     佛眼性空中山寺僧辯光良重祐快等霊迹 其後後白河法皇亦行巡礼之事是國人
     効之迄今不絶云云 此石川寺ノ僧佛眼之事ハ諸書ニモ見ヱタリ 佛眼寺ハ河内國石河郡葉室村 
     ニ有テ佛眼上人ノ開基ナリ 此僧眼ニ光有ければ佛眼ト云よし 崋山法皇是ヲ師として受戒シ玉フ
     法皇三十三處ニ観音ヲ巡礼シ玉フ時モ相從へりとぞ 後ハ行方ヲ志らずとぞ 是裸形ナルベキカト

  御幸記云 十九日天晴遅明出二宿所又赴道山海眺望非其興此道又王子
  御坐未明参
着那智云 深更参御所和歌訖退 
  如意輪堂より後の山 本路筋を一町斗行て鎮守ノ祠有

鎮守神祠 是那智山の惣鎮守なり 潮の御埼の神社并ニ加太粟嶋明神京都五條の天
  神
祠皆此神と同く少彦名命也 病を除く事を司り給ふ故本朝醫道ノ祖神にて大
  病難疾祈るニ利益的然たり 是よ里妙法山へ行程二十四丁有 鎮守の庭を下里て

尊勝寺 本尊尊勝佛頂如来を安置す 那智山乃秘説を戴たる三巻書と云者此寺ニ有深
  く秘して輙見ル事をゆるさず 裸形上人の像此寺ニ在 那智山ノ名木ハ梛の樹な
  るゆへ

            鳥羽ノ院ノ御製
    見熊野ノ南の山の梛の葉を かわらぬ千代の例にぞ折る
  と遊しけるによ里て 参詣の諸人多クハ此寺にて梛の葉を乞請護身とす 石階右
  ニまはれバ寂光ノ橋有
「一名井 上橋」是よ里大門をくだりて下馬ニ出る
實方院 是先祖藤原實方中將よ里出るといへ里 米良を氏とす 中古三山別當職を領
  す 今ハ其職なし 元和年中新宮堀内家よ里此院を嗣く 今此院より分れたる者
                    
  多くハ堀内を名氏とす 天台宗にて妻帯「但シ肉ヲ食ハズ」 那智山の一揩ネり 南紀古
  士傳 ニ曰 那智山執行実方院實方中将ノ遺孫なり 熊野三所権現の別當職を努む
  中 此教眞別當六條判官源爲義ノ女龍田腹ノ女房を娶てよ里代々貴族ニして那智山
  の執行なり 亀山院の御時永補任を頂戴して僧正衣を着す 院に綸旨公宣数十章有
  又聖護院三寶院真蹟の令旨有 又足利將軍家の御教書東照宮之御教書御判并ニ酒井
  雅楽頭土井大炊頭漆筒有 清水紋善坊は實方院之家臣に志て無双の勇者也

  慶長の北山一揆の時手勢五十人を引卒し尾呂志風傳野ニ陣を敷く 北山十津川の御
  賊を追拂高名す 此時ノ御教書有 紋善坊井関之要害今に残れ里

龍壽院 是又那智山の社僧なり 本姓平小松三位中將維盛の後胤系色河家よ里出ヅ
 
 清水揩フ坊と称ス 一山一揩フ家に志て代々那智山に於て高名し 濱の宮に要害
  を構へ近郷を領す 実方院と互に威を爭ひ累年合戦止ず 揩フ坊遂に打負ケて威
  勢衰へ方々浪々となる 世静て社僧元の如し 是色川の正嫡のよし 此坊にも
  古書数通有 大方元亀永禄の年号あり 龍壽院ハ一山にて一摎々なるに因て當
  國主よ里御扶持方頂戴ス
  本社の脇よ里後ノ道に出る 此所に茶店あ里 是ヨリ雲鳥山へ登る 都て大雲鳥
  山の路ハ大概石にてたヽみた里 少し登りて道二すじ有 則道分の印の木有 右
  ハ順道 登り立の茶屋那智山より二拾五丁 左は妙法山路なり下馬まで一里ニ近
  し  

妙法山上生院阿弥陀寺 弘法大師開基 
  本尊阿弥陀立像 御長四尺弘法作

  大師此山を女人の高野と定免給ふとなり 念佛三昧之山なり 此門前に隠水又  
  は秘密水といふ有 高サ三尺の岩の穴有 是よりわき出る也 大師封じ玉ヒし水 
  なりと四時ともに曽て増減なしと云 是より奥の院へ壱里餘有 大師四十二歳の 
  御影有り自作 四方淨土といふ峯に堂跡有 今ハ道を絶シテ只草のミ生繁り行人 
  なし 是よ里右之方へ行て舩見峠へ出るな里

     予嚮ニ熊野総覧を著ハす 妙法山の事粗委しきを以テ爰に出す 此書と参考すべし
      妙法山ハ那智山の南二十四町ニ有 其高き事那智峯と比スべし 元亨釋書ニ曰覚心登
熊野妙法
     青天忽星晴祥雲下覆云云 覚心ハ是則チ由良の法燈國師なり 此時那智山を教化して禅寺を 
      たツ 今の那智山奥の院観音寺是也 阿弥陀寺ハ徃古ハ蓮寂上人法華三昧を修せられし霊地なるニ 
      よって妙法山之号す 中興は弘法大師 大法秘法を修せられし舊地なるニよりて上生院と名ク 大 
      師自作の像あり 毎年三月廿一日開帳有 四方淨土寺に慧果和尚之像有 寺号阿ミざ寺と云う 本 
      堂のまへに髪骨を納る所をかまへ 此近辺より亡者之髪并ニ志の遺物等を納るゆへ 俗に女の高  
      野共名付たり 又ハ舊高野共称ス 荒神堂一宇有 寺門の脇に五尺四方ニ高サ三尺の岩石有 此内 
      に深サ五寸にして口六寸斗の潦水有 大旱モ不
渇 淫雨にも不増 海瀬と随て進退するも  
      又一奇也 是大師隠し水とて名水なり 夫より上の方三丁半登りて嶺を四方淨土と名け釈迦佛を本 
      尊とす 元亨釈書ニ載る所 釋ノ應照が火定ニ入たる旧跡有 又札拜石といふも有となん 実に  
      寂寞たる古梵刹なり

       那智山ヨリ脇道之名所
藤綱故壘 那智山より壱里南色川庄大野村西北三十五町ニ有 是はむかし小松三位平
  の維盛朝臣壽永年中源平一の谷の戦の時 平家打負讃州八嶋に渡り内裏を建て暫
  く安堵の思ひをなしけるが 維盛朝臣ハ世のはかなきを観し竊に家人与三兵衛 
  重景と石童丸舎人武里をぐし玉ひ八嶋のぢんを志のび出 高野山に登里瀧口入道
  に對めん有て 熊野へ参詣し法然上人ニ粉河にて逢ひ玉ひ 後世の事共聞玉ひ出
  家の思召有といへども 人口を憚里上人ニわかれ湯浅まで御出有 此時湯浅権ノ
  守宗重維盛ト見テ下馬して通し奉る 程経て岩田川ニ成けれバ 先年父小松殿と
  熊野詣の事思ひ出されて
    岩田川誓の舟に棹指して 志津む我身もうかひぬるかな
  御詠し玉ひ 夫より本宮へ参詣し其夜寂靜坊へ入玉フ 夫より新宮神倉などへ詣
  り玉ひ 濱の宮に至り給ひ入水の用意志き里なり 三山の衆徒あわれミて名残を
  惜ミ奉る 山形金嶋にて入水と披露し 舎人武里を八嶋へ返し密に御手洗の太刀
  落しよ里太地身濯の浦に至り 太田ノ庄を通り此藤綱の要害ニかくれ 一生無 
  事源氏の害をまぬがれ玉う 色川庄大野村ニ維盛ノ墓有 維盛ノ祠ハ大野村十丁
  西ニ有 郷内の氏神也 同村楞嚴院に維盛の赤旗三十餘流陣幕太刀綸旨等有 又
  維盛自作の假面九
  維盛朝臣より八代之後胤色川左兵衛佐盛重代々藤綱要害に居住す 近郷を從へ太
  田色川之内所々に座敷有 元亨建武の間官軍ニ属して南朝の忠臣なり 妙法院の
  御令旨并ニ新田左中將義貞より給りたる高名之感状楞嚴院今ニ有
  家の紋平蝶累代盛字を通名トす 熊野七人武士の一人なり 盛重の子盛定より四
  代色川兵太夫盛秋高麗陣之時 新宮堀内家に從ひ所々ニて戦功有 其子三九郎関
  ヶ原合戦之時西方ニ与し領地ニ放れ其家没却ス
相 野 色川之庄大野村是ナリ

                      僧 行忠
    わかれにし君にあふ野と思ひせバ 志げき露をもいとハさらまし
      脇みちをはり

船見茶屋 登り立の茶屋より十六町
  是より弐三丁登りて絶頂なり 潮見峠と同事にて海を見る事是限りなり 峯又峯
  の上より遠く海上を臨免ば嶋々のかこち刻ムごとし 又ハ風帆扇を飛ス絶景筆に
  もおよバず
  按るに那智山より本宮ニ越る坂路小口ニ至て四里斗 此間を大雲鳥坂といふ 登
  り三里の嶮山なり 峠に舩見の茶屋阿り 是より南蒼海を見るに雲浪天と一色に
  して麓にハ那智妙法の諸山を直下ニ見る 宛も児孫のごとし 実に雲鳥ハ當國無
  双の大山な里 孔子泰山ニ登って天下を小也ト志玉へるもかやうの處ニての事な
  るべし 坂路寂閧ニして一鳥も鳴かず 尤物すごき深山陰谷の間ニハ春暖の此ま
  で積雪堅く氷を見るなり 雲鳥峠を紫金峰と云 御幸記ニ云雲鳥金峯如

  云 今訛て志古と云
    一説に雲鳥ハ雲取也 一説に蜘取也 俗傳ニ昔し一ツだヽらとて眼一ツ足1ツノ者那智山に住り  
    那智の宝物を奪取岩洞の中ニかくし置けり 狩場刑部左衛門と云射藝の達人有て是を射殺す 今其 
     所を胴の平と云 烏帽子岩とて穴有ル岩有リ 是一ツだヽら寶物をかくしたる岩とぞ 又雲鳥に大 
     なる蜘蛛すんで往來を悩ます 刑部左衛門是をも退治せり 故ニ名づけて蜘蛛取坂と云とぞ 按
 
     ニ酉陽雜爼に深山に有
大如車輪蜘蛛能レ人物を食ふと載たれバかやうのためしなきにあらず
     され共怪談にちかき事ハ論じて益なし 或人曰一ツだたらと云フ者有や 答て曰是恐らくハ深山不 
     正の気の生ズル所にして無といふべからず

  神異經曰 西方深山人長丈余裸身捕蝦蟹人火山操
  名自呼人犯之則発寒熱盖鬼魅耳惟畏爆竹永嘉記云 安国縣有山鬼
  形如人而一脚僅長一尺許好木人石蟹人不敢犯之能令
  人病及焚居也 玄中記ニ云山ノ精如人一足長三四尺食山蟹夜出晝伏
  歳蟾蜍能食之文字指帰 旱魃山鬼也 所居之處天不雨女魃入人家能竊
  物以出男魃入人家能竊物以帰 此等皆精恠鬼魅の類也 一ツだヽらモ又ケ
  様ノ者可
  是より段々山中へ入さのミけはしき山ニも非ず 路もよく作りなして歩ミかたき
  と云ふニハあらねとも 段々登りにて只高山にや方々の山々ハ遙ニ下ニ見ゆる也
  絶頂より下りて小坂ニ越て其次の登りに茶屋有 貝餅茶屋と
貝餅茶屋 舩見茶屋より凡そ弐十四丁 
            
  是より又坂一ツ越て茶屋有 石塔茶屋と云 雲鳥山の路作り初メの行者圓利「一本
   ニ厭離ト有リ」
と云し路心者の石塔有 其外石仏多し 其次に小坂有 石倉嶺と云 又十
  餘丁過て小坂有 赤土坂と云い嶺より少し下りて

越前茶屋「小口村ヱ一里」 是より小口村迄ハ下りにて胴切坂と云 石階甚ダ急ニして雲鳥山第
  一の難所なり 此難所を過て
楠の窪村 越前茶屋ヱ半里家まばら成小村也 宿も二三軒有悪し 此村の中程右の例
  に大石有ワラウダ石と云 梵字三有 其外種々の旧跡有 近所に小家有此所にて
  可尋


小口村「茶屋有泊り吉 那智山より四里」筌川へ三里 是大雲鳥と小雲鳥の境也 村の中に川あり 
  九里
八丁の川へ流れ出るなり
         
[?]雲鳥 紫金山「又云志古山ト」 小口川原
  紀路歌枕云 本宮より那智山へ越る山中雲鳥越とて極て難所也 此雲鳥越の内に志
  古山小口とて何れも里有 小口ハ川の邊也故小口川原と云

      山家集             西 行
    雲鳥や志古の山路ハさておきつ 小口の川原さびしかりぬる
  村はづれに小坂有 堂の坂と云 坂下に小阿瀬川と云有 舟渡し也 夫より登里
  坂を小雲鳥坂と云 小雲鳥を志古山といふよし 亦或人云志古山小口ハ九里八丁
  の川端に有と 此事一決しかたし 猶可尋 此坂より色川村 香畑村目の下に見
  ゆ 香畑村は平の維盛住玉ひし所也 又色川村東に鳴瀧といふ有 但し海道より
  ハ不
見 
鳴 瀧 山城に同名有
      新古今神祇
    おもふ事身にあまるまで嶋瀧の 志ばしよとむを何歎くらん
  此哥身の志づめる事を歎ひて東の方へまからんと思ひける人熊野権現の御前に通
  夜し侍りける夢に見ヱけるとぞ

      
石堂茶屋「小口村より一里半」 請河へ壱里
  是より半里行て松膚の茶屋 都て雲鳥の茶屋ハ何れも出茶屋にて 時に寄りて無
  人 行暮たる時は宿をも借よし 然れ共悪し
     
筌川村「茶屋有泊り吉」 本宮へ半里
  是九里八丁の川際也 小川を渡り山岨を通て本宮近き所より 左方細路を山へ登
  る 是より湯の峯へ一里

湯峯付温泉 本宮よりハ弐十五丁有 此間に小坂有 此温泉當國第一の温せん 近
  國にも又稀なるべし古き湯なり

  日本記曰  齋明天皇四年冬十月庚戌朔甲子幸紀伊温湯
        「三十八代 」
  續日本記曰 文武天皇大寶元年冬十月丁末車駕至武漏温泉「今按齋明文武ノ行
        幸有シハ田邊ナリ湯峯ニアラズ」
         「四十二代 」
藥王山東光寺 本尊藥師如来 南向
  此本尊ハ長八尺湯の花にて自然に漏出し玉ふと云不思議の霊像なり 御胸に穴有
  往古ハ湯此穴より涌出しとなり 今も雨中にハ煙出ル由 脇侍ハ日光月光なり
  側に本宮勧請の社有 又多寶塔あり 本尊多寶塔如来文殊普賢定朝の作 近所に
  小栗塚と云て石塔有 碑の銘見へず 此邊の山に四季に実のる栗有 但し冬ハ花
  斗也 是を湯の峯の三度栗とて諸國へ土産

  湯ハ藥師堂より南に有 俗に此温泉を藥師方便の湯といへり 湯脈ハ海中より来
  るとて湯壺三個所 西ハ男湯中ハ女湯末ハ留湯なり 此湯硫黄泉の第一ニして諸
  國の湯よりハ其力列し

    按ルニ我日本温泉諸сj是有多クハ硫黄泉ナリ 能疥癬一切瘡毒痔漏脱肛打傷金瘡痿躄等気血有
     ニシテ不順血熱或ハ湿症ニよろし 若又気血虚弱内傷不足労症等ハよろしかラズ 能々病症ヲ洞 
     見シテ入ベシ 本州湯峯ナラビニ龍神湯崎ニ河等皆硫泉ナレドモ湯性ニ善悪アリ 病ニ應不應アリ
     能心見テ入ベシ 朱砂泉有硫黄泉有鹹泉有湯性弁ヱナクンバ有ベカラズ 故ニ病ノ虚實ハカラザ 
     ル可ンヤ

  湯の峯の入口に大石有鐫四句
    六字名号一遍法  十界依正一遍休
    満行離念一遍證  人中上々妙好花
  是ハ時宗の開山相模國藤澤寺遊行一遍上人熊野権現より授かる所の四句也と云傳
  たふ
  俗傳に昔鎌倉管領持氏の時小栗判官兼氏と云者有 一族横山前司と仇あり前司鎌
  倉扇ヶ谷にて兼氏を毒殺す 家来十三人とともに死骸を相藤澤道場に葬る 兼
  氏の妻照手是を悲しミ密に夫の骸を堀出し車に乘せて本宮の湯に入て兼氏本服す
  横山前司を滅して家を興す 小栗入し湯ハ即ち留湯也 今に相藤澤寺に小栗主
  従の墓碑有 照手熊野迄来りし路に一里塚とて標の枩有 是を車街道と云とぞ
  本宮湯峯ニ車捨坂有 小栗ノ車を捨たる所なりと云傳たり 此事正史実録ニ見へ
  ざれば正説と云がたし

  鎌倉大草子曰 称光帝應永三十年常陸國有小栗孫五郎平満重云者叛于常陸
  一管領源持氏陣結城之先陣色左近將監木戸内匠助二陣吉見伊豫守上
  瘤l
郎尽術攻撃満重防禦不アラズ城不行後潜如参州其子小治
  郎又奔
後竊赴相州寓権現堂村亭長与盗賊相議曰令遊女設酒宴
  酒
小栗主從ント其資射也時遊女照女姫者爲小栗所幸風聞
  告
諸ヲ小栗既而酒行小栗及照姫陽飲蜜出見セリ林中鹿毛馬「此馬又盗資
   取甚駿健難レ御故棄
之林中小栗素善藤澤道場倚頼
  
上人上人即衆僧小栗参列從者及照姫尸皆投河水行李皆
  爲
ナリ有照姫元ヨリ飲故抵岸得タリ死後永享年中小栗自参州來
  照姫珍奇数種其深志盗賊
  世俗此事を附會して照姫を照手と盗賊を横山となし小栗が諱を兼氏とするもの
  がたき 照手熊野ニ來るの事諸書に見ヱず 或説に一遍上人湯峯に詣て癩児に逢
  て相伴ふて温泉に至里 此湯ニ入て病平癒す 其所レ憩之地に児塚と名く 世俗
  此事を附會して小栗判官の事とするハ誤な里とぞ
  紀路歌枕 真熊野湯

    本宮の西に温泉有 湯の峯といふ 但し哥の心たしかならず 故に此所とも一決
    しかたし先載
       堀川百首            俊頼
     三熊野の湯こりのまろのさす 棹の捨行らんかヽくていとなん
  此哥の心了簡に及ず 棹と有ば便りていはヾ那智の方に有二河の湯なるべきや
  是は海邊にて舩の棹も有レバ也 書写の誤も可有にや 猶可尋 本宮ハ湯のさま
  所の体も古祠と見えたれバ爰に記し侍りぬ  
                       同
     真熊野や雪の中にも涌かへる 湯の峯かすむ冬の山風
  湯の峯より 湯河へ弐里半
  村より少し上里て大形山の畷を通る 惣名をあばけかねと云 此間かげ橋多し
  少し上り坂も有 危き路なれども今ハ道中駕籠も通る也 三越峠より田邊へ出る
  是を中邊路と云 又順礼道とも云

八鬼山越「伊勢山田より新宮まで路法 是を八鬼山越といふ」
 山田より 田丸へ五十町
  宮川又豊宮川とも云 上下に舟渡し有 下は小畑口と云上ハ田丸口と云也 外宮
  一ノ鳥居より田丸口の渡しまで卅丁有

 田丸より 原へ一里
  城主 久能氏居也
  町筋直に行バ大和初瀬道也 町中より左へ行バ熊野道かのヽ松原有
 原より 大ヶ瀬へ一里
  此間川端村 此所に高野と熊野との分れ道也

   右ハ高野山越那智山迄六十六里 左ハ八鬼山越那智山迄卅八里 あづき峠とて小坂有
 大ヶ瀬より 橡原へ一里半
  柳村入口に川有 大水ニハ舟渡しあり
 橡原より 粟生へ一里半
  此所に上瀬村 下楠村
 粟生より 三瀬へ一里
 三瀬より 野尻へ一里
  三瀬川舟渡し有 次に見勢坂あり
 野尻より 阿蘓へ一里
  此ノ所 瀧ヶ原大師 宮御坐
  次に 長者が野又はぶり坂有
 阿蘓より 柏野へ一里
  此所は路大水ニハ左へ經道あり
 柏野より さきへ半里
  此所川ニ有 大水ニハ經道あり
 さきより こ満へ半里
  此所川有 大水ニハ右へ經ル道有
 こ満より 真弓へ半里
  此所川有 大水ニハ左へ經道有
 真弓より 長嶋へ二里半
       
  大津村「茶屋あり」宮の前小河有梅が谷といふ所有 坂あ里此峠勢州紀州の境なり 是よ
  り熊野路と云 片上の池 次ににがこう村 川有大海へ近し 満潮にハ川上を渡 
  る 大水ニハ舩渡し有

 長嶋より 三浦へ二里
  此所町家也 是より木の本まで十六里海上靜成時は舟に乘るべし 但シ日和見合
  べし 番所湊の墟ハ永禄の比甲州武田信玄の与力湊伊豆守と云者住せし由   
  半里行て坂有 次に古里村たら瀬村三浦坂有
 三浦より 馬背へ一里
  此間はしかミ坂有
 馬背より 粉ノ本へ一里半
  入口に川有 上里村中里村船津むら
 粉の本より 尾鷲へ一里半
  此所町家也 此間川三ツ有 少し左へ廻れは一瀬渡る 悪敷川也 大水ニハ舟渡
  し有 次に馬子瀬坂上下一里岩山にて難所なり
 尾鷲より 三木へ三里

  此所町家也 此間に川二ツ有 大水ニハ舟渡し有 尾鷲に中といふ氏の人有
  南紀古士傳曰 尾鷲中家ハ伊勢之國司北畠中納言顕能之後裔也 顕能卿八代宰相
  中將具教朝臣織田信長ト確執ニ及ビ 瀧川伊豫守丹羽五郎左エ門尉長秀信長之下
  知ヲ承 多勢御所に押寄セ三千余騎を以て五十餘日攻撃す 具教の家臣悉く戦死
  し防禦叶はず開城す 具教卿に三子有 二子ハ父ト倶に京都にトラハレし 三男
  玉若と云一歳の幼児を家老世古主水ト云者介抱して熊野に奔り 長て尾鷲村の中
  といふ者の婿と成 元より武將の家として器量丈夫なりけれバ 段々八鬼山より
  東ヲキリ取志摩國も手を入レ 南ハ曽根弾正正吉と云者を幕下に随へ 長嶋の内
  に砦を構へ近郷ニ威を振ひ 堀内家より数度人数を遣し戦ふといへども事とも 
  せず防キける間 後ハ和睦して水魚の入魂也 若名ヲ中新之烝ト名のり のち中
  周防守ト改ム 是も関ヶ原乱後に領地ニ放れ浅野家當國主の時に 住所尾鷲并ニ
  矢濱二ヶ所を知行す 中三代目の新之烝北山一揆の時 手勢七八十召連れ舩にて
  新宮城ニ馳付 城代戸田六左衛門に力を戮せ北山一揆の者共を追拂ひ高名有 家
  の紋割菱にて武田の紋と同じ 是に依って武田氏と云非なり

       北畠之玄孫也し高家の歴ニ在リ 古書数通有
  次に八鬼山難所なり 上り五十丁下里三十八丁 嶺一丁前に八鬼山日輪寺 本尊
  荒神なり 
  是より空晴たる時は富士見ユるなり 又海邊浦々眼下に有 又三木の崎有 是れ
  楯ガ崎ト云
  三木より海上一里計 昔ハ此所紀州勢州の境にて有しと土人の説あり
 楯ガ崎  庵主集             増基法師

     打浪に満来る汐のたヾかふを たてが崎といふにぞありける
 三木より 曽根へ二里
  三木浦ハ元志摩の國今本州木ノ本庄に属す 是より曽根まて内海な里 一里の舟
  渡しあり 舩に乘てよし 陸地ハ二里の難所なり
 曽根より 錦嶋へ一里八丁
  曽根太郎坂 曽根次郎坂有
  昔日曽根弾正といふ者有レ是此地を領すと云
 錦嶋より 新鹿へ一里 
  此所あい川といふ有 次に狼坂有
 新鹿より 波田須へ一里
  此間坂有 峠に傍示枩有名木也 
 波田須より 大泊へ一里
  此間坂有 波田須ハ古名秦住也 秦人徐福之住たる所也と云 惜かな今其舊蹟を
  失ふ
 大泊より 木ノ本へ壱里
  観音堂大泊村と有 坂上田村麿建之大同二年三月と棟札有 永代秘佛也 田村麿
  鬼神退治之時の守本尊なりといふ 此観音の山内ニ清瀧と云大瀧有
 木ノ本より 有馬へ十八丁
  此所町家也 鬼ヶ城と云窟有て
 有馬より 阿田波へ二里半
 
伊弉冊尊御陵「有馬村ニ有花ノ窟 隠レ窟又ハ産立窟トモ云 土人是ヲ鬼ゲ洞ト云」
 日本紀神代巻曰 伊弉冊尊産火神軻遇之時被灼神退去失故葬於紀伊國熊野之
 有馬村焉土俗祭此神之魂者花時亦以花祭又用鼓吹幡旗歌舞而祭
 日本紀纂疏曰 白河帝詣熊野時見路傍花開和歌曰左伎尓保布花
 氣色乎 見加羅尼神之心曽空尓知留留 是亦以花祭之意乎
 異稱日本傳 今訪之有馬村之人那智三巻書有馬村産田乃伊弉
 冊尊神退之地其東有隠窟亦曰産立テノ亦曰花伊弉冊是也
 暮春以縄作花及幡旗形於窟歌舞祭也 蓋神代遺俗也
 花之窟ハ村の入口東北の濱へ指出たる山端也 岩屋の前に華表有て神祠なし 亦
 瑞籬有 誠に大磐窟にして 尤も殊勝なる所也 俗に是を大磐岩の窟と云 産田
 の宮ハ是ヨリ十町計南西山ノ方ニテ有
 産田宮 華窟

      久安花             藤原ノ能朝臣
    紀の國や有馬の村にいます 神の手向る花はちらずとぞ思ふ
                      同 〃
    心有有馬の浦の浦風は わきて木ノ葉を残す也けり
      夫木集             光 俊
    神祭る花の時にや成ぬらん 有馬の村ニかヽる志らゆふ
      庵 主             増基法師

         花の窟に天人の下りて供養し奉里けるをみて   
    天津人いはほを撫る多もとにや のりの塵をバ打拂ふらん
  有馬武蔵守常利ハ元来熊野武士 世々産田の宮の神官也 常利ニ至て近郷を押領
  し畠山義就に出仕し 和州北山の谷と奥熊野海邊に威を振ひ 新宮堀内家と彊堺
  を爭ひ 尾鷲の中氏并ニ三木浦の三木新八と取合 諸方に砦を構へ 其身ハ有馬
  に居住して有馬殿と称す 常利より三代有馬河内守の時に一族徒党して河内守を
  木の本の鬼ヶ城にて指殺し 新宮堀内阿房守三男楠若を迎へ 有馬の家を継しめ
  有馬主膳と名乘る 是武蔵守より五代に當る 関原乱後より堀内有馬供に潰ぶれ

                              
  一族家来散々りになる 此節は有馬堀内供に安房守支配な里「今木ノ本の橋爪武太夫と
   云者是ハ有馬一族有馬大和守ガ後胤也とぞ」
今有馬の堀内主膳ハ同名主水とて江戸に有しを 昔
  の被官に招寄守たて堀内の名跡を継しむ 此家室一郡にてハ大身元よ里貴族に志て傳
  ふる所の武具等多し 勿論先祖の感状数通あり

  一書曰 有馬村に堀内主膳トいふ地士有 新宮城主堀内若狭守が後胤也 元来此
  所に有馬殿云者 有堀内とハ別の家なり 有馬の一族逆意を企て有馬河内守を殺
  して若狭守が弟を立て有馬の家督とす 是より有馬領悉く若狭守に押領せられし
  と云云

  此有馬村を過て右方本宮へ別れ道有 志原川一木川大水ニは右の方經道有
 阿田波より 新宮ヱ二里
  此間荒き川有大水ニは舟渡し有 井田村鳴神村鳴川村舟渡し有 賃壱人に廿五銭
  宛 湊材木板又華井紙子天狗火打矢の根此所の名物也 川口を水傳之磯と云
 水傳磯 新宮川下ニ有

      萬葉集             舎人王
    水津ての磯の浦邊の岩津つじ 百咲満を又も見んかも
      夫 木             衣笠内大臣
    水津ての磯間のつヽじ咲にけり 海士のいさり火よるとや見る

        曰 此哥前水手洗ニモ出ス ケダシ両説ナリ
 勢ьR田より新宮迄卅四里廿弐丁   

熊野巡覽記巻之貳 終



    昭和参拾五年五月拾四日夜写畢
    此ノ日朝来陰雨ヤマズ
                清 水 長一郎


    熊野巡覧記・巻