熊 野 巡 覧 記
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熊野巡覧記 巻之三
泉溟 武内玄龍惇[こう] 著
田邊よ里本宮道「是を中邊地と云 又順礼道と云」
田 邊「茶屋有 泊り吉」 上三栖へ二里
田邊城
慶長八年浅野紀伊守幸長上ノ山ノ城を洲埼へ移ス 同十年熊野巳八月大浪にて洲埼
の城破却す(慶長九年の事取書に見えたり)同十一年午の秋湊城を築き 長臣浅野左衛
門佐居スレ之元和五年よ里當主安藤氏居レ之 知行ト云三万石
太平記曰 暦應三年四月脇屋刑部卿義助欲レ赴トニ四國ニ一到ニ田邊ノ宿一待ツニ渡海順
風一新宮別當湛誉湯浅入道定佛山本判官東四郎西四郎其外熊野武士調ニ兵船三百餘
艘ヲ一護ニ送スト淡路ノ武島ヘ一云云
亦曰 延文五年七月湯川荘司爲ニ將軍方一陣スニ鹿瀬蕪坂一攻ニ阿瀬川入道定佛ガ城一
山本判官田邊別當率ヒニ二千餘来テ破レ之斬レ首三百梟スニ于田邊宿一云云
江川橋 長五十間幅六間
此川岸より左の方昔海道にて有し由 是より古町と云所へ出る也
宗祇屋敷 西ノ谷邑之内上野山の麓ニあり 此所を俗呼に古町と云 天正年中上野山ニ
城有 其時の町也とぞ 宗祇屋舗の内ニ古井有 髭濯井と号ス 文明の比宗祇法
師此所に暫庵を結びし跡也とぞ
世を旅に宿を苅田の邊かな 宗祇法師
橋より半里餘り行て
下秋津村 安井ノ王子御座「御幸記ニ秋津王子と云」
御幸記云十三日天晴前陣参ルニ秋津王子ニ云云
秋津野 秋津野村ニ有「是田邊領城下より半里 計川奥なり」
名 寄 定 圓
みな月の比とも見へぬ艸葉を 秋津の里の道の露けさ
續千載哀傷 後白河法皇御製
人の世のならひを志れと秋津のに 朝いる雲の定めなきかな
岩倉山 秋津野の上に在に小山也
萬 葉 無 名
岩倉のおのより秋津に立ハかれ 雲にしもあれや時をしもまたん
新續拾遺 喜撰法師
いかなれバ小野の秋津にいる雲の なひきもあへず浮名立つらん
紀路哥枕云此哥万葉集にハ山城の岩藏の所ニ載たり 此外にも岩倉に秋津をそへたる歌多し 山城の
岩蔵にも秋津と云所あるや されと右の歌に取ては雲とよミたれバ 紀伊國の秋津野に有岩藏山に有
るへし
入國山 同所ニあり「和州吉野ニも同山あり」
万 葉 無 名
常ならぬ人國山の秋津の杜若 をしゆ免に見るかも
同
見れひと阿かぬ入國山の木の葉をぞ おのか心にな津かしくおもふ
雲 森 秋津野の内に有
夫 木 和家「イニ定 義トモ」
村雨のけさもゆきの雲の森 いく度秋の梢そむらん
松葉集其外の書にも國末知の内に入たり 秋津野にハ雲と詠來たりたれバ 此雲
の森古書にも多よりて捨がたけれバ此處にても可有けれ
己上紀路哥枕の説
是より小山を越て
上万呂村 丸の王子御座
中三栖村 影見の王子御座「御幸記ニ 三栖王子」
是上より右の方へ半町餘り行て三栖山と云あり「三栖より本宮迄ハ皆山路也」
麓に岡村と云 八上王子御座
八上王子 田邊城下より是迄壱里半計 岡村ト云所ニ有 往古の往還也とぞ 三栖村
の近所
山家集に云 熊野ニ参りけるに八上の王子の花面白かりければ 社に書附侍る
西 行
待来つる八上の櫻咲にけり 阿らくおろすなミすの山風
岡村より一里程行きて
岩田村「田邊より一里半計 昔の往還]岩田王子御座「御幸記ニ作 稲葉根王子」
岩田村ハ岩田入道寂昌が舊居也
義経動功記云 弁慶者紀州人岩田入道寂昌が子也云云
私曰(後人の記入ならん)既ニ新宮産屋楠の所ニ見へたり
岩田川
續捨集 花山院
岩田川わたる心のふかけれバ 神もあはれとおもはざら免や
續千載 権大僧都公順
おもひやる袖もぬれける岩田川 わた里馴にし瀬々の白浪
御 集 後鳥羽院
岩田川谷の雲間ニむら消て とヽむる駒のこゑもほのかに
玉葉集 西行法師
松ガ根の岩田の岸の夕涼み 君ガあれなどおもほゆるかな
此川は熊野の垢離場ニて有し由 念佛の渕と云ところ 旅人渕に向ひ念佛を唱ふ
れバ水庭より泡涌出佛名の声に移ると云 不思議の古跡と云傳ふ 志かれ共諸州
に此類多し怪むに足らず
源平盛衰記に曰 三位中將入道ハ日数經ぬれバ 岩田川に至り玉ひて一ノ瀬の垢
離を掻て一度此川を渡る者は無始の罪業悉く減すとなれバ 今愛執煩悩の垢をす
ヽぎぬらんと頼もし思ひ玉ひて
岩田川誓の舟に棹さして 志づむ我身もうかびぬるな那
と詠じ給ひて 父の大臣の三熊野詣での悦の道に兄弟此川の水あび戯れて上り
しに 薄色の絹水に濡れて偏に色のことく見へけるを淨衣脱更へからす 権現に
祈申事御感應有りて 是より重て奉幣有し事思ひ出諸ひてもろきハ落る泪也 其
日は瀧尻に着玉ひて王子の門前に通夜し給ひ 明ぬけハさかしき岩間をよぢ登り
下品下生の鳥井の銘御覧するこそ嬉しけれ 十方淨土中以二西方一爲レ望ト九品蓮第
上雖二下品ト一可レ足志るしおきたる諷誦の文頼もしくこそおほしけれ云云
御幸記ニ曰 渡リ二岩田川一先ツ参ル二一ノ瀬王子ニ一次参ル二鮎賀ノ王子一河間ノ紅
葉浅深ノ影映レ波ハ景気殊勝云云
一ノ瀬村 一ノ瀬王子御座
此所ニ弘誓寺トテ城墟有山本氏代々住セシ墟也 三宝寺ノ城保呂蛇喰城皆山本氏墟也
延元二年後醍醐天皇潜二幸吉野一一族不レ残参二御味方ニ一爲リ二南朝ノ忠臣一和田楠一族
或戦死シ或病死後南朝漸ク衰へ明徳三年南北統一後山本氏降リ二畠山ノ幕下ニ一天正十三
年三月畔キ二豊臣秀吉ニ一一族不残籠城翌年二月和議成山本主膳赴二藤堂佐渡守所レ居
川上峠ノ城二滞留数月七月於二浴室一遭レ害年廿五天本氏亡ブ
南紀古士傳ニ曰 一ノ瀬山本氏清和源氏本国近江矢田判官義清カ後胤也 移二居紀伊
國ニ一山本判官忠継属シ二楠正行ニ一遭励マス二無ニ忠勤ヲ一一族不残籠城翌年二月和議
成山本主膳赴二藤堂佐渡守所事詳シ
二太平記ニ一四条中納言殿ノ搦
手ノ大將山本判官勤レ之 南帝還御之時山本判官率ヒ二五百餘騎ヲ一先陣 永和四年於
二泉洲土丸城紀州小澤城ニ一与二細川兵部大輔氏一奮戦山本右京ノ亮破テ二京軍一斬レ首五
十級送二献ル吉野ニ一 天文廿三年八月湯川庄司玉置庄司叛二于畠山家ニ一畠山植長命二
市ノ瀬山本掃部ノ助廣信ニ一伐レ之屡戰フ二于切目坂印南原一時愛洲民部林栄仁入道玉置
与四郎爲メニレ之乞フレ和植長許スレ之 於是湯川致二上野城於植長一植長令下廣信守ラシム
上レ之 文書猶存 天正十三年豊臣秀吉伐ニ熊野一田邊ノ米良淡路守安宅左近太夫市ノ
瀬山本主膳真砂兵部庄司小松原湯川庄司等相黨メ迎二戦フ于鹽見峠ニ一山本以下敗績
其家悉滅「熊野山本数家有 一瀬ノ山本家ニ四代ノ系圖并ニ軍功ノ記録阿里」
相賀村 相賀ノ王子御座
嶺 村 瀧尻王子御座
是は奥州秀衡建立の地也 小社数多有 秀衡夫婦熊野ニ詣でし時秀衡の室此所に
て平産ありしかバ悦の餘り藤原家代々の宝劔を同社に奉納せし故に劔宮とも云
傳ふと也 又往古鳥井有て三ッの鳥居の一ッにて有しと也 此所に真砂の庄司の
屋敷有 其子孫今ニ有 庄司ハ熊野八庄司の一人 娘の事古書に詳く道成寺由来
此家より起る
南紀古士傳ニ曰 真砂ノ庄司ハ熊野瀧尻王子の社司 栗栖川ノ庄真砂村ニ代々居住
す 本姓穂積氏熊野三苗の一ツ千翁命の後胤家紋魚綾な里 近郷を領して武威あ
り 天正十三年秀吉熊野攻の時山本主膳等に一味し真砂孫三郎真砂大学真砂右京
兄弟一族六人被官等七十人上方勢を引受討死す 大勇者にして多勢伐破り湯川光
春と同道して深山へ分入越前に赴き越前家に仕ふ 又真砂左京子孫芝村ニあり真
砂八助と云 此枝葉繁栄して三栖秋津にも真砂氏あり
石不利川 瀧尻の王子ノ社邊へ脇より流れ入ル小河也 一本ニ石伏川と云は誤也
里の名に書時は石舟と書て石ふりとよむとぞ
田邊城下より三里余 真砂の近所也 昔の海道
夫木集 忠 盛
ミくまのやいしふ里川乃はやくよ里 ねかひをみ津の社也けり
御幸記云 昇テニ崔嵬嶮岨ヲ一一入ニ瀧尻ノ宿所ニ一入レ夜給フレ題ヲ即チ詠レ之持参如
例披講之間参入読上ケ了テ退出参
リニ此王子一帰ルトニ宿所一云云
河邊落葉 旅宿冬月
染めし秋をくれぬと誰か岩田川 また波こゆる山姫の袖
瀧川のひヾきハいそく旅の庵 を志つかに過る冬の月かげ
一寝の後乘輿著ニ山中宿一此所又不思議奇異の小屋也 寒風甚堪レ難云云
昔ハ瀧尻の王子より高原へ出し由 山中と云ふは高原の事か可レ尋レ之
昔海道終
今の順道ハ前に記す江河の橋を渡りて 右の方片町の内に弁慶の産湯の井と
て清水有 弁慶ハ此所の産也と云傳ふ
今按ニ弁慶ハ新宮の人 産屋の楠新宮ニ有 此説と執カ是なる事を志らす
長町より右の方へ五六町寄て
闘鷄権現宮 称ニ新熊野一本社北向界内有ニ松原佳景也 初冬より至ニ仲春一多ク産ニ松
覃ヲ一
兵家聞書ニ曰 元暦年中源ノ頼朝使ニ範頼義經ヲ一討ニ平氏ヲ一田邊別
當湛増ノ母ハ者六条判官爲義ノ之女也 湛増久蒙ルニ平家ノ恩寵一不レ忍レ背ニ平
氏一於レ是集メテニ赤白鷄ヲ一闘ニ于祀前一白皆勝テリ鷄於レ是催ニ蒙艟二百余艘ヲ
一赴ニ八島一属スニ源ノ義経一有レ功頼朝褒レ之賜テレ書曰
讃洲八嶋合戦之刻催シニ兵舩一加勢ニ趣義経ノ状到来神妙也 且又金剛童子之御旗を被レ持御
方勝利之段感入所也 向後武運永ク祈念尤候謹云
元暦二年八月 頼朝 判
湛増坊宿所
熊野別當湛増舊蹟 田邊に有 湛増本姓藤原其父教神始て熊野三山別當職ニ補せらる
湛増相續く別當職と成ル 本宮田邊ニ館を構え源爲義が婿と成て威勢有「新宮にも
又湛増宅地有」
「今其あとを當屋敷と云」別平治元年十二月大宰大貳平清盛同道にて熊野詣有 切目ノ
宿迄来りける所都にハ藤原ノ信頼謀反を起し早馬到来す 清盛重盛が異見る從ひ
急ニ都へ引返されけるに湛増別當田邊に在けるが騎馬二十騎を奉る事古書に見へ
たり文治元年闘鷄の宮の神慮に任せて八嶋に趣き源氏に加勢する事平家物語盛衰
記に見へたり 此時河野の一族と共に先陣を承る
米良淡路守ハ別當湛増の嫡流累世田邊城主に有 天正十三年豊太閤紀洲攻あり根
来寺を焼き太田雑賀の諸城を攻落し熊野へハ仙石権兵衛秀久蜂須賀彦右衛門正勝
藤堂与右衛門高虎等を大將として三千餘騎を遣はさる時に田邊の米良安宅の安宅
左近大夫市ノ瀬の山本主膳真砂兵部庄司小松原の湯川庄司光春等一味同心し潮見
峠ニて防戦ふ 米良山本或ハ討れ或ハ敗れて此時米良氏断絶せり
下長町を出離れて半里餘り所に滑と云所茶屋有
中三栖村 影見の王子御座「御幸記三栖王子」
順道より右の方ニ窟の観音洞の中ニ二体有 寺を知法寺と号す 少し東ニ愛洲民
部大輔の墟有 岩山にて高く景よし 昔は是より岩田川へ出しよし 昔海道の所
に悉し
古士傳曰 愛洲民部大輔此家代々熊野山の軍使ををつとむるにや 諸家に吉野殿
より被下綸旨此家にて書と傳ふ 龍神三栖等も愛洲一族也 関原以後愛洲家も領
地に放れ南部に蟄居あり
左の側に
淨格山善光寺 本尊信州の写し
同方ニ蟇山と云見ゆ麓をいさい田村と云 大岩小岩とも其形蟇の如し景山也 亦
遙に衣笠山見ゆる 右の側に五郎地蔵とて辻堂有 此地蔵菩薩に色々の説有 所
の人に可尋 是より先に小川有歩渉也
上三栖村「茶屋有泊り吉」芝村へ弐里半
是より三山の間皆山道也長尾坂十六町登りて茶や有 夫より山の腰を通る 峠迄
一里
潮見峠 茶屋二軒有泊りも吉
是より新宮迄海を見る事那し 依之名残の潮見共初潮見共云ふ 西ニ向へば滄海
漫々として碧浪浸レ天三方を顧れ 嶮山峨々として羊腸の道廻れり 近くて遠き
もの鞍馬乃九折と清少納言が云しかもかヽる所にや 亦風莫の浦白良濱眼下に見
へて絶景なり
潮観峠の戦場ハ天正十三年豊太閤紀州を征伐の節 三月廿六日先根来寺を火き紀
の川を引て大田の城を攻落とし 又雜賀城を囲んで佐竹伊賀守雜賀孫市降参す
夫より仙石秀久蜂須賀正勝等三千餘騎を以て熊野を攻させられる 此時熊野武士
田邊の米良淡路守安宅の安宅左近大夫市瀬の山本主膳真砂の真砂兵部庄司小松原
の湯川庄司光春等一味同心して此潮見峠にて防戦しけるが 米良山本等悉打負て
或ハ討れ或ハ滅亡す
是より遠見の部
磯間浦付神島 倶ニ宿浦と云所ニ在 田邊城下の海邊也「日高郡南部に在ハ鹿嶋と云へ共名所
にあらず」
後拾遺集ニ 行 能
煙だにおもふ計ハ志るべせよ 磯間の浦の海士の藻塩火
定 家
梓弓磯間の浦にひく綱の めにかけなから阿はぬ君かな
新續古今恋二 尊圓親王
うき事をかけて祈らん神島や 磯間の浦の浪の白ゆふ
津守國冬
冬の夜ハ汐風寒く神嶌の 磯間の浦に千鳥啼那里
建保百首 順徳院
神嶋や磯間の浦にあま乃かるもに すむ虫の爪を恨津ヽ
風莫ノ浦 田邊と瀬戸との間ニ在「是田邊城下海邊より見渡したる海にて領分ハ和哥山御領分な
梨」 此海を土人綱志らすと云山陰の入江にて難風の時も此浦へ漕入るれハ碇を
もおろさず綱に乃ハす此故に名付と云 右磯間の浦も此綱志らすの江の内なり
兼葉集 長忌寸意吉麿
風莫乃濱乃白浪徒於斯依来見人無尓
白良濱 湯崎銀山浦と瀬戸との間ニ在「是山瀬戸浦の内にて全く和哥山御領なり」
此濱の砂極て白し 故に名付と見ゆ 此濱を掘るに温泉涌き出す
山家集 西 行
浪よする白良の濱の烏貝 拾ひやすくもおもほゆる可那
家 集 平 兼盛
君か代の数ともとらん紀の國の 白良の濱に詰る真砂を
建仁元十月御幸 右馬助源朝臣家長
冬来てもまた降初ぬ雲の色に おなし白良の濱の月影
堀川百首 仲 実
真白良の濱の奔り湯浦さびて 今は御幸の影をうつらす
右白良ハ瀬戸村の内にて湯崎の近所也 湯崎温泉を走り湯と云
遠見の部終り
坂を下りて麓に板橋有鍛冶川橋と云 谷川のいはほたくましく景却て新なる事
他に勝れたり 俗に東の川端に自然石極楽の体相有と云傳ふ 故に往来の旅人
のぞき見る故に覗の橋ともいふと也 橋の上より木の葉なと落せバ水上にて無
事愛宕山にて土器投しに百倍セリ 川下ハ岩田河 夫より富田浦へ流れい津る
也
芝 村「 茶屋有泊り吉」高原へ廿四町
在はずれに河有 芝川と云水有時ハ舟渡し也 是より三山の間郭公多し
高原村「茶屋有 泊り吉」近露へ二里十二町
芝川より直に山へ懸ル其中腹ニ九ヶ村有 村の中程に
高原乃王子御座「御幸記になし」
御幸記ニ云 十四日天晴レ天明ヲ出ニ山中ノ宿ヲ一参ルニ重黙ノ王子一云云 愚考ルニ
御幸記山中と有ハ此高原可 瀧尻より高原迄の間ニ里無し 亦重黙ノ王子とハ
高原ノ王子なるや大門ノ王子なりや此二王子御幸記ニなし 猶可レ尋レ之
建仁元十月 後鳥羽院法皇熊野御幸の時近露にて和哥の御會
嶺月照枩 因幡守通方
高原や嶺よりい津る月影ハ 千歳の枩をてらす成りけり
坂を登りて左の方ニ大門ノ王子御座「御幸記になし」
是より近露迄ハ峯つヾき十丈峠といふ 茶屋も少々有て宿をも借す 然れとも
悪しきのみ 嶮しき山にハあらねども高山の絶頂を行こと長けれバ風雨ハ中々
凌ぎがたし 若大雨と見れハ志ハらく登るまじき山也 合坂峠と云所茶屋有り
夫れ過て亦尾傳ニ茶屋有 箸峠を下りて
大坂本の王子御座「是より小谷をこえて」
近露村 「茶屋有泊り吉」野中へ廿九町
入口に川有大石多く渡るに便ならざる川也 大水にハ舟渡し有
川を越て 近露王子御座
御幸記云 参ニ大坂本王子ニ一次ニ超へ
レ山入ニ近露宿所一「于時日ノ出後也」自ニ瀧尻一
此所崔嵬目眩轉レ魂恍々タリ 云云「御所ト宿所ト
隔ニ近露川一」
午ノ終時ニ御幸歩訖即給
ヲレ題
峯月照枩 濱月似雪
さしのほる君を千年と深山より 枩をぞ月の色に出ける
雲きゆる千里の濱の月影ハ そらに志られてふらぬ白雪
乘燭以後参上講ノ際阿闍梨依テレ召ニ蔀ノ外ニ参候ス讀経良久有レ召参ニ御前一又讀
上了退出「于時亥」
乘輿出レ道渡レ川即参リニ近露王子一云云
此近露村に横矢六郎と云者有て代々貫スニ近露ヲ一家系令旨等所持す 是は野長瀬
六郎が後胤なり
太平記ニ曰 大塔宮ニ品尊雲親王ハ竹原入道の館を出御有 熊野へ落玉ひ小原峠
に懸り玉ふ 十津川小原邊を僅三十二人にて御通り有しに 玉置庄司五百餘騎を
引卒しよせ来る 楯を雌羽より津き志ぶりて打物の鞘をはづして相懸りに近津く
宮既に危難に臨ミ玉ふ所に北の嶺に赤旗三流松風に翻て次第に近づくまヽ三手に
わかれて閧をあけて玉置庄司に相向ふ 真先にすヽんたる武者名乘て曰 紀伊國
住人野長瀬六郎同七郎其勢三千餘騎にて大塔宮ノ御迎に参る 処に恭くも此君
に向ひ弓を彎楯を津らぬるハ誰ぞ 玉置庄司殿と見るハ僻目か 唯今滅すべき武
家の逆命に随て即時に運を開かせ給ふへき親王に敵たひ申てハ一天下の間いつれ
の所にか身を置ん天罰遠からず これを志つめん事我らが一戦の中にあり 阿ま
すなもらすなとお免きはげんで懸りたれハ 五百騎楯を捨旗を巻皆々四角八方へ
遁散ぬ 其後野長瀬兄弟冑を脱弓を脇に挾みて畏る 宮御前近くめされ山中のて
いたらく大義の計畧叶かたかるへき間 大和河内乃方へ打出て勢をつけんために
進發せしむるの処に 玉置が只今の振舞當手の兵万死の中の一生も得かたきと覚
ゆるに不慮の助けにあふ事天運にたのミあり 抑此事何として存したりければ此
戦場に罷合て逆徒を靡かすぞと御尋有ければ 畏て申けるハ昨日昼の程年十四五
バかりの童名を老枩といへりと名乘て 大塔宮明日十津川を御出有て小原へ御通
りあらんに 一定道にて難に逢給ふぞ 志を存る人ハ急ぎ御迎に参れと觸まハり
候間御使ぞと心得参り候と申に 御思案之有て只事にあらずとて年比御身を放さ
れさりし肌の御守を御覧ずに其口少し開きたり いよく不測に思召則開き見玉
へバ北野の御神体を金銅に鑄たるが御身汗出と御是に土付たるぞ不測也 扨ハ佳
運神慮ニ叶へり逆徒退治何の疑ひ有へきとて それよ里宮ハ槇野の上野坊聖賢が
館に入玉ふ 其後相模入道を亡し御運を開き玉ふべし
横谷家傳曰 大塔宮高雲親王玉置が難に逢玉ふ時に野長瀬六郎同七郎兄弟横矢を射て宮を救ひ奉
りしかバ御感悦の餘本名野長瀬を改横矢六郎と被下しと也 綸旨等にハ近露六郎ともあり後胤横矢
左近烝と云て武勇の誉有 天正十三年己酉春三月日高郡小松原ノ城主湯川兵部少輔直春勢熾にして
奥牟婁郡を近露近邊を掠む 横矢六郎怒て湯川の大勢と数度合戦に及ふといへ共勝負なし 六月の
末に至て湯川横矢と和睦す 同年七月羽柴秀吉公紀州せめの時湯川直春秀吉に從ハす奥牟婁の要害
嶮岨并ニ熊野武士を頼みにして秀吉公へ敵對す 湯川に加担する熊野武士は近露村ノ横矢六郎周参
見の周参見主馬大夫安宅の庄安宅左近太夫脇田の真砂兵部ノ庄司古座の小山助之烝隆重高川原攝津
守貞盛市ノ瀬の山本主膳田邊の米良淡路守等な里 其外本宮の社司少々是に与す 秀吉公雜賀迄
馬を出され熊野表へは藤堂与右衛門高虎杉若越後守を大將として攻させらる 藤堂杉若先潮見峠に
於て合戦し湯川米良山本を攻亡し奥熊野迄攻なひかす 真砂兵部庄司其子孫三郎同大学同右京等兄
弟一族六人被官七十人一所に討死す 横矢六郎盛春嫡子左近烝盛秀ハ北山迄上方勢を防ぎ父子共に
討死す 二男新四郎三男弥七郎は近露村に残り居けるが是も上方勢押寄て打取る 四男岩松ハ高野
邊へ落行遂に生捕られ道にて死せり 新四郎の子息越前へ逃行横矢喜左衛門とて千石知行す 後に
近露に帰れり 此子孫今近露村ニ有
南紀古士傳ニ曰 太平記ニ野長瀬六郎兄弟大塔宮を救奉る事詳か也 六郎が子野
長瀬淡路守専ら吉野の皇居を守護し奉て無二の忠戦を尽す 南朝大平記に委し
楠正儀病死以後代々隣郷を領知す 此家所持する綸旨ニ曰
備前國岩部ノ郷被ルニ宛行ハ一所也 住セニ先例ニ一知行可レ仕者依天機一一執達如レ件
左少辨光高奉
正平十九年九月
近露六郎館へ
吉野朝廷衰廢楠家武威衰てより野長瀬熊野山中ニ蟄す 以後軍功の事諸書に不見
和州十津川に野長瀬村と云所有 此所に野長瀬の名称有 可尋 横矢左近烝と云
者ハ野長瀬の末裔也 天正十三年豊臣家の使節藤堂瘤瘡F野深山迄焼付し時湯川
直春横矢左近等を語合潮見峠篠ノ鼻にて坊戦す 同年八月熊野ノ者降参し北山の
赤木へ礼に出し處藤堂与右衛門右の憎を以て横矢一族を悉成敗す 奥東川打越堤
下川本宮の社司尾崎氏まで尾呂志風傳野と云所にて都合百五十人を殺す 今近露
村ニ横矢六郎と云者有 左近烝より三代に當る
楠山坂「上下十九丁」 比曾原の王子御座
野中村「 茶屋有泊り吉」伏拜へ三里半
長き在所なり 此所野長瀬七郎が屋敷跡有 庄司屋敷ともいふ 中程過て奥州秀
衡の植玉ひしとて継櫻と云名木有 此所継櫻王子御座
右の方に野中の清水又紅葉の瀧とて御道有
哥林良林ニ曰
いにしへの野中の清水ぬるけれど もとの心を志るひとぞくむ
能因が哥枕に野中野清水とハもとの妻をいへり共云云
村を出はなれて少し登り坂を枩の木峠と云 廣津野と云所を過ぎて熊瀬河土橋有
此所にも里有
中ノ川王子御座
小廣峠 茶屋二軒有小き坂なり
石の坂を下りて直に女夫坂へかヽる 西の坂を草鞋峠と云 東を岩神峠と云
石神王子御座
二ツの坂合て壱里半程の間也 昔より蛭降峠百八丁とやらん云は此坂の事也とぞ
誠に今も樹木生繁り日の光さへ稀也 道ハ常に湿りて足を搬にものうし 西の坂
を下るやいなやまた東の坂にのぼる 朝の霧ハ谷を埋てハ樵夫も道を失ひ夕べの
けぶり峯を菴ふてハ旅人の思ひをまし 猿の嘯に腸を断とや 暮に及び朝疾な
とハ越きじき山也 此山に米羊蹄躅多し(躑躅正字也)
湯川村「茶屋有泊り吉」湯河王子御座
入口に谷川土橋有 湯川庄司此所より出る 熊野八庄司の一人也 後日高郡小松
原に在城す 中比湯川兵部少輔直春 天正十三年太閤秀吉公紀州攻めの時 下
知に從ハず故に滅亡す 直春ハ城跡日郡丸山にあり 今同郡小中村にある湯河
平五郎といふハ直春の子孫也といへり
三越付 岩神
家 集 中宮亮仲実熊野へ参りけるに遣しける
俊 頼
雲のゐる三越岩神越ん日も そふる心をかヽれとぞ思ふ
三越峠 茶屋有
峠より少下りて右の方細道有 湯ノ峯へ行道也赤木越と云 順道有 山坂を下り
て小キ谷河を渡りて左の山間へ入ル 此間に
猪鼻ノ王子御座
是より先ハ痰フ大木おほし 右に一株より三本立てる杉有
發心門の三本痰ニ云此峠則
發心門「今ハ里の名とす」發心門王子御座
家もまばらに有泊りにハ悪し 又發心門北星門と云有て 往古ハ本宮の惣門にて
有りし由多クの礎有 又辻堂有
熊野歩行記ニ曰 此所いにしへ四門あり南は修行門西は菩提門北ハ涅槃門東は発
心門と云云
發心門
千載集神祇 権中納言經房
うれしくも神の誓を志るべにて 心を發す門に入りぬる
熊野御幸記ニ曰 午ノ時計リ着スニ発心門ニ
一宿スニ尼南無房宅ニ
一云云
發心門一句一首
慧日光前懺ニ罪根ヲ一大慈道上發心門
南山月下結縁ノ 力西刹雲中弔スニ旅魂ヲ一
入りかたき御法の門ハけふすぎぬ 今より六の道にかへすな
此ノ王子ノ宝前殊発ニ信心一紅葉飜リレ風ニ寶殿ノ上四五尺木無クレ隙生ス多是レ紅葉也
社ノ後ニ有リニ此ノ尼南無房堂一云云
是よ里少行左側ニ 水飲ノ王子御座
伏拜村 本宮へ壱里
祓殿の王子御座
此邊深山津ヽじ多し 殊に其色他よりハ見事也 村端に和泉式部の建しと云印の
石有 是は式部熊野詣の志有て七度迄参りしか共 此所に至りぬれバ必月の障
にさえぎられ終に一度も奉幣かなハさりけるを嘆きて逆修の石塔を建つ
晴屋らぬ身乃うき雲のたなびきて 月の障と成ぞ悲しき
とよみてゐ祢たりける夜の夢ニ権現老翁と現し玉ひて
和泉式部に告させ給ひける御哥
風雅集神祇
もとよ里も塵に交る神なれば 月のさわりのなにかくるしき
是より本宮迄ハ左右並木の枩有 亦石階有 元和の比水野氏道筋を改られ夫より
ふレ絶造之由にて掃除奇麗也 半里程行て茶屋有
三軒茶屋と云 此所高野山道有是より本宮近し 少し行て鳥井有
本宮町 南北拾町
國々の坊有て町家にハ泊る事なし 其上九里八町舩皆坊より指圖にて町家よりハ
舩に乘る事不自由也 坊着吉 下向にハふ苦 舟賃は十二銭目外ニ鳥目百銭定り
也といへ共御祭礼の節は高値也 町の中程より左の方板橋有「長拾三間 幅三間」
俗に
是を耳語橋といふ 古哥に
熊野成音無河をわたさばや 耳語の橋志のびくに
一説ニ密語橋伯耆國府中にあり 奥州にも又同名あり
熊野成音無河にわたさば さヽやきの橋しのびくに
此哥によれバ熊野に耳語橋有べきやうなり 俗説にわたらばやといふハ誤なるべし
是を渡りて御本社へ参る 此川を音無川と云ふ
音無川 付 里瀧
音無里は本宮の内ちの名也 川は此里之後より流れ出て御本社の西を流れて南の
方熊野川へ入る 瀧ハ音無里乃北の方に山有 雄山「今 俗おほ山とよぶ」と云より小き
瀧落つ是を音無瀧と云
能因法師
都人きかぬはなきを音なしの 瀧とハ誰が名づけ初めけん
いかにしていかに寄らん雄の山の 上より落るおとなしの瀧
續古今恋二 爲 家
音なし乃瀧の水上人とはヾ 忍びに志ぼるヽ袖や見せまし
夫木集 後鳥羽院
はるくとさかしき峯を分過て 音無川をけふ見つるらん
源 盛清
卯の花を音無河の浪かとて ねたくも折らで過にけるか那
能因法師
音無の里の秋風夜と寒み 忍びに人や衣うつらん
本宮大権現 宮殿者人皇十代崇神天皇六十五年始テ建ツニ熊野本宮ヲ一云云 後合セ二祭ル
速玉男事解男ヲ一見ニ
諸神系圖ニ一本宮新宮那智是ヲ謂フ二三山ト一「三山正殿共ニ向レ巽」
十二所宮祠
本宮社家者説ニ曰
西ノ御前 「正殿名二證誠殿ト一神前有二金幣一」伊弉冊尊
中ノ御前 「号二速玉ノ宮ト一」速玉男命
東ノ御前 「号二結ノ宮ト一」
事解男宮
熊野若宮「号二若一王子ノ宮ト一」天照大神 國常立尊
以上四宮是也
聖ノ宮天忍穂耳ノ尊
襌師ノ宮 天津彦火瓊々杵尊
兒 宮 彦火々出見尊
子守ノ宮 彦波瀲武?鴉草葺不合尊
壱萬宮 熊野櫞樟日ノ命
以上五社神 是ヲ謂ニ五体皇社ト一
十萬宮 軻遇突智命
勧請十五所 埴安姫命
飛行夜叉社 罔象女命
米持金剛社 稚産霊命
以上四所明神社是也
満山護法神祠 八百萬神拜處殿
祓 所 天兒屋根命
地主ノ神祠「在リニ正殿ノ後ニ一」「高倉下ノ命穂屋女命」二座
先代舊事本紀ニ曰 天照國彦天火明櫛玉饒速日命兒天香語山命「天降リ玉フ名ハ手栗
彦命亦ノ名高倉下ノ命」此命ハ随テニ御祖天孫尊一自リレ天降坐ス於紀伊國熊野邑云云 磐
余彦尊遠爲待臣異妹穂屋姫ノ命爲妻生一男曰天村雲ノ命ト一云云
大禮殿「九尺間而九間十三間各以ニ太丸柱一作レ之柱数百二十九本也」
殿内安ニ釋迦文珠普賢木像ヲ一「大和大納言秀長寄附」
巽ノ門「前有ニ大釜一銘ニ曰ク建久四年 今湛フニ清淨水一」
北 門 左右ニ有ニ役ノ小角大黒天木像
音無天神 少彦名命 在リニ北門ノ処一
音無梅 在同所
夫 木 家 隆
たれか又越ても祈らん三熊野の 神乃いかきに匂ふ梅が也
巻絹と云謡ふ
音なしにかわ咲そむる梅の花 にをハざりせバたれか志るべき
沙石集ニ曰 後嵯峨法皇御熊野詣有たる時伊勢の國の夫乃中に 本宮の音無河と
いふ所に梅の花の盛成を見て讀ける
音なしに咲きそめにける梅の花 にほはざりせばいかで知らまし
夫が哥にいミじき秀歌なるべし 此事を御下向のとき道にて自然に聞し召して北
面の下揩ノ仰て召されたり 馬にてあちこち打めく里て本宮にて哥よミたりける
夫はいつれそと問に是こそ件の夫にて候へとそばにて人申けれバ仰な里参るへし
と云けれバ返事に
花ならハお里てぞ人の問へきに なりさが里たる身にて津らけれ
さて返事にも及ばずおめくと馬よ里お里てぐして参りぬ 事の子細きこし召れ
て何事にても所望申セと仰下さる いひがひなき身にて候へは何事の所望か候べ
きと申上けれバ なと分に志たがふ所望なかるへきと仰けれバ母にて候ものを養
ふ程の御恩こそ望とこ路に候へと申けれバ 百姓な里けるを彼所帯公事一向御免
有て永代を限りて子孫迄違乱阿るまじき由乃御下文を玉ふてぞ下りけるわりなき
勧賞にこそ
今按に嵯峨法皇熊野御幸は建長七年三月なり 此時三山検校覚仁法親王先達
也 親王先達は是より切れり
此所に白河法皇の供養石又和泉式部の逆修の石塔と云有 何れも苔むして其字
不見
舞 台 在大礼殿前
御祭礼四月十五日若雨天なれば十六七日迄も相延る也 五歳以前の小児神前に
て田植の真似ひ有 其後御神楽有て神輿を渡し奉る也 已の刻より能始る 大
かた社家より勤る也 太夫は吉野天川より来る古例也とぞ
御供所 庵主と云在巽門外 此外此堂内に神輿を納置なり 是別当の筋目なる由
其外廻廊の跡鐘楼堂の跡五重の塔の跡礎計残れり
兵家茶話に云 熊野別当湛増中将藤原実方之後胤也 実方子長快別当其子湛快
別当其子湛増別当其子湛全別当
一説に実方の子泰救父の卿と同しく奥州名取郡岩村郷へ配流せらる 実方卒し
玉ひて帰京し
?内父の写本には脱 紀南文化財研究会編『熊野巡覧紀』より写す(章博)
紀伊熊野本宮神宮三山別当と成 其子教眞別當六条廷尉爲義の女を娶て四子を生
す 本宮新宮岩田田邊と四家に分ると云云
別當の外ニ三山の檢校職も有し事古書に見ゆ 然共今ハ此事断絶也 されば中古
は代々天子熊野御幸度々にして中にも後白河の法皇ハ熊野御幸三十三度に及ばれ
玉ひし由 今國史雜録熊野に与るを載て畧記也
日本書記第一神ト代紀曰 古天地末レ別陰陽不レ分渾沌如ニ奚隹鷄子ノ一溟A而含レ
牙及其清陽ハ者薄靡而爲レ天重濁者ハ淹滞而爲レ地精妙之合ル搏易重ク濁レルカ之凝竭
難故天先成而地後ニ定ル 然後神霊生ニ其ノ中ニ一焉故曰開闢之初洲壌標浮譬ヘバ猶三
游ヘル魚ノ之浮ニ水上一也 于レ時天地之中生ニ一物一状如ニ葦牙一便化メ爲ル宗神ト号ニ
國常立尊一次國狭槌尊次豊斟渟ノ尊凡ヘテ三神矣乾路道獨化所三以成ニ此純男次有神
泥土煮尊沙土煮尊次有神大戸之道尊大苫辺尊次ニ有レ神面足尊惶根尊次ニ有レ神伊弉
諾尊伊弉冊尊凡八神矣乾坤之道参イリテ而化ナル所三以成ニ此男女一自ニ國常立尊一迄ニ
伊弉諾尊伊弉冊尊一是謂ニ神世七代一者矣伊弉諾尊伊弉冊尊立ニ於天ノ浮橋ノ之上ニ一
共計テ曰ハク底下ニ豈無レ國歟迺以天之瓊矛指下而探之是獲ニ滄溟一其矛鉾滴瀝之潮凝
成ルニ一ノ島ト一名之曰ニ殷駁盧島一ニ神於レ是降ニ居彼島一國ニ共爲夫婦産ニ生洲國一云
云 又曰 伊弉冊尊生ニ火神ヲ一時被レ灼而神退去矣故葬ニ於紀伊國熊野之有馬村一焉
土俗祭ニ此神之魂一者華ノ時亦以レ華祭又用ニ鼓吹幡旗一歌舞而祭ル矣
古今皇代圖ニ曰 崇神天皇六十五年始テ建熊野本宮ヲ
朝鮮申叔舟東諸国記曰 崇神天皇開下第二子在位六十八年壽百二十 是時熊野権
現神始現
本朝神考曰 熊野御幸者平城天皇花山法皇白河法皇「三山五回」堀河院「三山一回」鳥羽法
皇「三山八回」
王代一覽曰 醍醐天皇「六十代」延喜七年十月紀ъF野神授ニ從一位ヲ一 宇多太上皇御ニ
幸熊野一云云
東鑑ニ曰ク 鳥羽院「七十四代」元永元年九月供ニ養ス一切経ヲ于熊野山ニ 白河法皇有ニ御
幸一云云
王代一覽曰 崇徳院「七十五代」天治二年五月三井寺ノ行尊任シニ大僧正一許サルニ牛馬ヲ一
此人始テ爲ニ熊野正山檢校ト一掌ルニ山伏修驗道ノ事云云
東鑑曰 保延(鳥羽院年号)
二年三月度スニ熊野山本宮五重塔一白河太上皇有ニ御幸一云云
平家談曰 治承二年夏内府小松重盛詣ニ熊野一於ニ證誠殿一祈テ曰 子孫繁昌永事朝
廷則父入道相國懲艾身悛神若シ不納ニ我言則過死無レ及乱神之賜也末レ幾果薨
後鳥羽法皇熊野御幸記ニ曰「藤原定家着」建仁元年十二月十六日天晴拂暁出ツニ発心門王子ヲ
一又二王子御坐水飲王子祓殿ノ王子自リニ祓殿歩メ詣ニ参ス御前ニ一過ニ山川千里ヲ一奉レ拜ニ
宝前ノ一感涙難レ禁自レ是入ニ宿所一云云 已ノ時許リ御幸御供ノ参ルニ宝前ニ一即入ニ御御所
ニ一云云 数刻後出御御奉幣在中辨取ニ金銀御幣一進云云 先證誠殿次ニ両所「御幣二本前後
両殿御拜如ニ一社之儀一」次若宮殿「御幣五」次一萬十万御前「御幣四御拜皆同前御所御拜ハ御幣ノ
頭右ニ令レ持」給云云 即入ニ御御経供養
御所太礼殿一云云 公卿ハ在ニ西殿一上人ハ在テレ東御誦經經俊朝臣親兼朝臣取ニ布施一
以ニ公胤法印ヲ御經供養了公卿ハ被物殿上人取ニ衣施了退キ下ル此間舞相撲御加持引
物等云云
王代一覽ニ云 建暦元年二月平政子入落参詣云云 熊野ニ平ノ時房從レ之云云
東鑑ニ云 建暦二年十二月二日伊賀ノ守朝光爲ニ御奉幣ノ御使ト一進ニ発ス熊野山ニ一於テニ
彼ノ山一可ニ越年一云云
王代一覽ニ云 後深草院「八十八代」建長七年三月後嵯峨上皇御ニ幸 熊野ニ一三山檢校覚仁
法親王爲リニ先達一是爲リレ始云云
一遍上人傳曰 僧智真ハ世呼ブニ一遍上人ト一豫州河野七郎通廣二男也 小字松壽丸
生年十五薙染初遊ニ天台山ニ一博渉ニ群書一性慈忍年十八到ニ西山善惠上人會下ニ一学ニ
淨土ノ法流一凡十一年 後宇多ノ院御宇建治元年三月二十五日詣デニ熊野山一宿ヲニ本宮
證誠殿前ニ一一七日起ニ大道心一祈ルレ度ニ群生一第七日ノ暁夢神殿ノ扉ヲ自開ケ白髪ノ異人
告曰 六字名號一遍法十界依正一遍体万行離念一遍証人中上々妙香花是往生之記
別也 覚而記之從レ是経ニ暦闔國ヲ一小紙記ニ神語ヲ一普與ニ人民所レ望民群リ來拜受焉遂
次之自成スニ一家ヲ一称曰ニ時宗一
右の外法皇の熊野御幸亦は高家高僧の熊野参詣事繁けれバ畧レ之
毎歳四月十五日本宮祭日也 俳優雜伎をなす 俗に是を法楽能と云う 新宮は九
月十五日祭礼也 又毎歳正月二日社官土人本宮の拝殿に相會して連歌百韻有 俗
傳に発句は神作乃よし
此の山の主は花の木陰か那
脇句は尾崎氏奉ルレ屬云云
尾崎氏 本宮の社家也 本姓和田此家に右大將源頼朝公の御教書一通 梶原景時
添書曽我祐信の書札等あ里
坂本氏 本宮社家也 本性玉置畠山重忠書札洞院左衛門督実世書札畠山義就の書
礼有 其外方々より書礼数通あり
川向に 當て七越の峯見ゆ 役行者大峰を踏分けし時諸神へ供物を捧げし所也と
ぞ
七越峯 本宮権現の山の内な里 土人七がしらの峯と云
山家集ニ曰 熊野へ参りけるに七越の峯の月を見て
西 行
立のぼる月乃阿た里に雲消て 光かさなる七こしの峯
是より吉野迄の間を七十五靡の峯と云 聖護院三宝院大峯より是へ懸て出玉ふ
時當所長床坊其外枩明を点して御迎に出る由 後鬼前鬼も是迄御供なり
長床坊 本宮にあり熊野本宮別當長官三山座主大僧正長床坊と称す
家殿ニ曰 抑熊野三山大権現ハ天神七代地神五代の神霊を祭る所也 神武天皇戊
午年天神地神の神霊を十五柱祝奉り給ふ 是其始の故に日本第一の宗廟と申奉る
ハ熊野也 牟婁一郡都て熊野と號す 奥熊野本宮を上熊野と云 口熊野新宮を中
熊野 那智山を下熊野と云也 扨又長床坊家は熊野山大権現の正嫡饒速日命の長
男高倉下命より傳れり 高倉下命ハ本宮地主権現也 長床坊は代々三山の長職座
主別當の家也 高倉下命熊野に住し玉ふハ神代の時 父饒速日命同しく天ノ降リ
熊野の此神天磐盾ニ住玉ふ 神武天皇日本を平均し玉わんた免 筑紫より軍を
起して熊野ニ入玉ふに 山中嶮しく道志ろし召さず 依を天神地祇に祈里玉ふ
其夜が夢に天照大神告ての玉く 八咫烏を遣て導べしと 果して八咫烏あって
東北を指て飛けれハ烏の跡を尋て軍を進め遂大和國菟田の下縣に至リ玉ふ 時
に高倉下命八咫烏の神霊を写して天皇に捧らる是牛王宝印初也 高倉下命穂屋
女命を娶て天ノ雲村命を生玉へり 今に本宮地主神として高倉下命穂屋女命を相
殿に是を祭る 是長床家の先祖也 代々八咫烏の秘法相傳す 毎年正月七日二月
三日夜天地開闢の行を勤め印文を調べ日天へ捧奉る 夫より一山の衆徒三十六坊
禰宜十二人へ印文牛王を授与す 高倉下命廿八代河瀬麿の時五流に分る 文武天
皇御宇大和國葛城郡茅原村人加茂姓役公小角紀ъヒ摩が嶋に来り名草郡の河宗
山に籠り熊野権現の御告文に依って熊野詣本宮河瀬麿に随ひ八咫烏の秘法を傳へ
烏形の頭斤を授る 今の烏頭布是也 小角ふ斜悦て大和國へ帰りて大峯を開き役
行者と成る 是より行者の流れをくむもの必ズ大峯より来りて其職をうく 長床
五家の紋菊桐藤巴等を許す故に長床家は修験道の元祖也 後白河法皇熊野御幸の
時宇井鈴木ニ命して熊野山別當職の事御尋なされらる 未だ其儀なしと申す 其
時に教真に始て別當職を賜り永々重代か致旨勅諚にて即但馬ノ國ヲ賜リ教真湛増定
遍三代別當相續す 定遍に至て中絶 其後後花園院の御宇再ひ三山別當長官紫場
庵常住院大僧正長床坊と勅定有て永代綸旨頂戴す 是寛政三年の事也 聖護院門
主代々入峯の時ハ八咫烏の秘法を奉授儀式有 毎歳正月七日二月三日夜神前に於
て宝印を押と 近来ハ我儘ニ外ニ牛王の判を拵へ押者多し 今ニ至て長床領の田
地へ罷出候節ハ百姓諸人ニ至る迄高倉下へ行と申候
吹越 竪嶋 飯盛山 袋谷 大黒谷
皆此邊の舊跡也 土人弘法大師の哥とて申傳ふ
大こくのうしろにかヽる袋谷 まへにそなふる飯盛の山
本宮より 湯の峯へ廿五町
道二筋有 一筋を車道と云札の辻より右へ行 並木の松有 小坂の右の方に車塚
と云あり 小栗毒酒の爲に癩病を受てくるしむ 其妻照手土車にのせ真熊野の温
泉をたのミ来て湯治の間毎日本宮に詣遂に本復して帰りしと俗説に云傳ふ 夫よ
り車道と云傳ふ由 是旅人往来の道也 又一筋ハ大日越と云 常ハ往来なし 正
月六日七日卯月十四日廿五日社司神主地下人湯垢離を掻く時此道を往来す 不淨
を禁するた免也 赤井の薬師堂毘沙門堂大日堂有 小坂を越へて鼻欠地蔵有
巴ヶ淵 九里八町の舟乘場也
大峯川 熊野川 音無川 三ッの落合故號す 此所より艮の方に玉置山を見ゆ
玉置山三所権現 役行者草劍の霊地也 山の麓伐畑村より登り三里古松老瘤}を垂て
青岩白岩露鮮に見臣也 山を通して智明ヶ嶽亦は大毘盧舎那嶽と号し 或ハ宝冠
の峯亦中臺の峯ともいへり所を玉置の宿亦大日の宿と称する也
三所権現「子守藏王勝手」八大金剛童子「八大童子ハ今童子の総名也第五を除悪童子と云又障乱諸魔降伏童
子ともいふ」
今按ルニ玉置山ハ大和國十津川庄に属す 手帆負命を祭る祠也 此命神武帝大和
國畝傍橿原の宮を建玉いし時彦狹智命と同しく忌部を率て内裡を立てる事旧事本
紀に明か也 後世是を佛場とするハ役小角より始る也 此社官を玉置氏と云 往
昔奥熊野牟婁郡八十五町の地頭職となる 後に日高郡小室の庄を知行して和佐村
に居す 日郡の所に出す 見合すべし 是ハ庄司の一人也
大峯より是迄峯中八ヶ所の其一也
白山権現 三狐神「社地狐天狐人狐」三所 如意宝珠大日堂「一体役行者作一体弘法大師作」
月見巖
屋「大峯より是迄峯中六ヶの岩屋の其一也 」
熊野川 本宮より新宮迄九里八町の流れ也 一名音無川
玉葉神祇 熊野権現御歌
待ちわびぬいつかは此所に記の國や むろの郡ははるかなれども
同 神祇 後白河院
わするなよ雲は都をへだつとも 馴てひさしき三熊野の月
同 御返し 熊野権現御詫宜
志バしまもいかヾ忘れん君を守る 心曇らず見くまのヽ月
新古今神祇 太上天皇
熊野川下す早瀬のみなれ棹 さすが見なれぬ浪のかよひじ
扨巴ヶ渕より乘出し左右皆絶景也 霞島大母ヶ森岩殊に名有 半里下りて右の方
に答川村左の方ハ高山村 前に屏風嶋有 其次右に網代か渕 此所に見上岩有
其下左に撞木山より権現宮の鐘の撞木伐出す由 其の下に烏帽子巖 次に衣巻石
有 右手の川端岩山にある大石也川端へ臨めり 次に屏風岩折疊める形切石より
も勝れり 次に味噌豆石左の方楊枝村
常楽寺 本尊薬師如来 世人楊枝薬師と云
皇都卅三間堂の棟木此前より出し由
按るに京都蓮華王院一名得長壽院世に三十三間堂と呼ぶ 堂の長サ六十六間一尺
八寸餘「二間を一間とす」崇徳院長承壬子元年三月鳥羽法皇の建立し玉へる 千手観音
一千体を安置す 備前守平ノ忠盛其事を監せ里 土木功成りて忠盛刑部卿に任じ
昇殿を許され但馬國を賜里ぬ 其労を賞せらし由
稗説に載 鳥羽上皇常に頭痛の病を患玉へり 百方験なし ト師を召て占志免玉
ふ 奏して曰 陛下の前身ハ修験者たり 嘗て大誓を發して熊野三山三十三度参
詣の願を起す 三十二度に至て遂に空く成玉へり 苦行の徳厚が故に今王者と生
れ玉へり 陛下前身の御骨熊野新宮川上の谷にあり 其髑髏の中より大なる柳ノ
木生ひたり 餘習歇ずして此病を感じ玉ヘリ 願わくは此木を伐て棟材となし一
宇の伽藍を造立し玉ハバ此病悩永く癒玉ハんと申ける 上皇不思議に思召使をし
て見せしめ玉へバ 果して申に違ハず 乃其樹を伐て棟材となし得長壽院を建玉
ヘリ 其柳の長五十丈一木にして事たれり 是によりて頭痛長く癒玉ふ 故に号
して平癒山と云とぞ 此説怪談に似たりと雖も暫く記して考に備ふ 其事の是非
は他日の識者に俟つのみ
南嶺子ニ曰 得長壽院今ハ三十三間堂と呼て大仏殿の南に有 其の棟材一本の柳のよし申傳ふ 其
実否ハいまに於ても知られず 世に是を疑ふ人多しかヽる大木もあるへき事也 日本書記景行天皇
ノ巻に筑紫に長ケ九百七十丈の暦木有たる事を載られたり されハ唐ノ太宗外国に火院布と云者あ
りその説を疑ひ其弁をかヽれしに 後日に是を貢る國有て先の疑を悔い 文集にあやまりを載たる
勅有とかや 我才量の限有を以て天地変化の限なきを論ず 学の進ざる基本ここに在と知るべし
聖護院ことし大峯より三山を修業し玉ふて 熊野川を下り玉ひけるに 風雨お
どろおどろしくて御舟もあやうき計なりけるに所もあるを 御本の明神の辺り
の川岸に御舟つきて侍りけるにおもひつづけける
ゆかりある神のみもとによる舟の 法のしるしをあふくかしこさ
此歌宝暦年間聖護院御山に詣で玉ふ時 奥熊野奉行戸田孫左衛門本宮より御舟
に従来たりし時の詠なり
□内父の写本脱 紀南文化財研究会編『熊野巡覧紀』より写す(章博)
同じ方小船有此の前流れ出る川を北山川といふ 芳野天の川の流れなりと云 此
落合を蛇の和田と云 此の次右の川際に臼を重ねたることき岩ありかい餅岩と云
う 又川中より北ニ寄りて小嶋有津ヽ井岩と云 其下右の方より流れでる小河有
小口村より出る川也 其山間に繁りたる嶺ミゆ是雲取山也 此川内ニ日足村と云
う所に西氏と云者あり 畠山重忠後胤のよし今大庄屋を努む「系圖新羅三郎義光後胤武
田支流西十郎左衛門後家畠山義就書十二通國房書状所持す」
太平記曰 暦應三年四月脇屋刑部卿義助欲起四國到ニ田邊宿一待ニ渡海順風 新宮
別當湛譽湯浅入道定佛山本判官東四郎其外熊野武士調ニ兵舩三百餘艘ヲニ護送淡路
ノ武島一云云
此東と云ハ古座奥坂足村に在て三位中將維盛の末葉也 西四郎と云ハ此日足村西
氏是なり 是に依て是を見れハ南朝の御身方と見へたり
南紀古士傳ニ云 日足の西氏此家世々十津川并三之村を領す 京都義政將軍の時
下ケ紙ニ曰
三管領奉書畠山尾列義就の出札同植長の出札有
又曰新宮城主堀内若狭守行朝石田三成に与し大將行朝同右衛門兵衛一族鵜殿藤介
楠嘉兵衛良清湊百太郎太地五郎左衛門頼虎谷垣將竪長田正政所和田蔵人西岡之助
東太郎左衛門等其勢三百五十人新宮を進発し伊勢に到る所に早関ヶ原一戦石田方
敗北せし 朝八日市場にて一族郎徒に暇を遣しちりぐに成とぞ
左に和氣村 此所本宮新宮の中間也
美毛登明神 祭ルニ菊理姫命一也 在リニ和氣村
後白河院熊野御幸卅三度に及セ玉ひける時美毛登と云処にて権現の告申させ給ひ
ける御哥
風雅神祇
有漏よりも無漏に入ぬる道なれバ なれぞほとけのミもと成べき
此和氣村は代々の天子熊野御幸の節ハ御旅館有之処也 右の方に達磨石面壁の像
に似たり 滑が瀧左ニ在 布引の瀧右に在リ 三重の瀧左葵の瀧右犬もどり猿
すべ里親不レ知子不レ知と云難所 此川際左の方陸路也 火鉢の森 骨石生膾箸石
右の方尾崎に箸のごとくたてる石弐ツ 以前は包丁石も有しと也 亥の年の大地
震ニ折たる由 川際に俎板石とて形方なる平石有 其上に肝石とて壱間餘の丸石
有 其上に釣鐘石とて根を離れけるがごとき大石津津立たる岩壁の上に覆へり
其下の渕を舟るに乘に落なんならむいとあやうし 其次石舟とて舟を仰たる如
き石有 左に田長村 飛雪瀧有
飛雪瀧 前亞相頼宣卿 南龍院君
重疊タル千山萬水圍ム 雨餘ノ秋色有リニ光輝一
一條ノ瀑布落ツニ岩半ヨリ一 亂洙随風氷雪飛
志らいとの瀧 左の方に有 瀧数以上六ツ有
此川岸左右とも升麻有 都て躑躅多し花の時ハくれなゐ水を照し 中ニ火を散す
かと目さまし 名に立るいはほ水の曲流山の容景趣かそへかたし 是より新宮
へ二里に近し
御舟嶋 左の方に寄て川中に有 新宮近し
熊野巡覽記巻之三 終
安政四丁巳二月書始メ
同年 三月五日に是に写しぬ
日数十六日と成る也
此の数五十五枚
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熊野巡覽記巻三の活字化を終わって
残念なことに熊野巡覽記の写本には、父が誰から借り書き写したとかの記載がな
い。推察では古座の中根七郎氏の手写本を宇井縫藏氏が写し、更にそれを芝口常楠
氏が写し、芝口氏の写本を父が昭和三十五年五月に写したものと考えられる。
又巻四が家の蔵書になく、紛失したのか写本しなかったのか不明である。巻四が
あればコメントや原本の出所が判明するのに残念である。
次の巻四は『熊野巡覧記』紀南文化財研究会編(昭和五十一年発行)から写した
平成十七(二〇〇五)年五月二十日
清 水 章 博
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