巻之一へ    巻之三へ    熊野関係古籍

 熊 野 巡 覧 記              
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熊野巡覧記 巻之四
                        泉溟 武内玄龍惇[こう] 著

大辺路 浜の宮より田辺迄海辺通を大辺地と云。
 浜の宮より 天満村へ廿弐里
   浜の宮は渚の宮ともいふ。古歌あり前に見へたり。
 天満村より 湯川村へ廿六町
 天満村は浜の宮より南にあたり町有。村の中程に天満天神在す。菅神を奉祀す。
   天満川有。那智の瀧の下流也。是を経て海へ入る。此近処に紙を漉くを業とす。
   唐紙に似たり。往古徐福の教けると也。
 天満城蹟 実方院の築所也。八幡山と称し連年清水揩フ坊と領地を争たる戦場也とぞ。
   順道より東に勝浦と云湊有。日本第一の湊也。是を室の湊とも云。又松音寺と云
   有。是は白河院勅願寺なり。 
 湯川村より 川関へ九町
   湯川寺本尊薬師、弘法作、禅宗也。是より廿四五町程南の浜に夏山と云有。其峯
   に弁財天祠有。夫より半町餘り西道の側に、弘法大師石碑彌陀の名号有。又浜の
   方に光明方の窟とて大成穴洞有。里人の案内にて彼窟を一見せしに南に向て口の
   上下左右とも八九尺許、内は十坪餘も有べきか、口に七五三を引たり。窟の内東
   の方に一入窪き所に一層高き所有。此処に竹三本生て昔より増減なし。故に窟の
   三本竹と名付けしに如何成事にや、近年枯たりと、又西の方に円き穴有。俗に此
   穴は那智山に通りたりと云ふ。しかし其深奥は幾許有にや。里民恐れて古今此内
   に入者なしと語りき。又是より少前磯に庵室の跡有。専阿彌房住所の跡也と云。
 川関村より 二河へ九丁
 二河村より 市屋へ一里
   此浜に温湯有。二河の湯と云「又湯川の湯とも云」
   伝云昔此処に病人あり。弘法大師此処を通り玉ひ彼病人に向ての玉はく、汝何を
   か病める。病人の曰、我此難病を受湯治せんと思へども歩行かなはず、いかんと
   もすべからず。空海教て曰く。我此杖を投ずべし。落る処を掘るべし。必湯ある
   べしと。病人其言葉にしたがひ此処をほりければ石仏薬師の像いで、湯わく。依
   て此湯に浴し病いへたり。夫より諸人多く湯治す。湯気湯の峯より温和にして善
   諸瘡を治す。摂津有馬同様の湯也とぞ。
 市屋村より 和田へ十二町
   是より太田の庄なり。是より脇道の名所也。太田に高九十三石にして一面の田有。
   十三ヶ村より相共に作る。故に太田の地名有とぞ。
   太田の奥に八咫野村と云有。日本紀にある頭八咫烏神武帝の軍を導く時此処にて
   暫く憩より名づくとぞ。
 筑紫村 太田の庄にあり。寿永年中小松三位中将維盛八島を出て熊野へ詣で 勝浦の
   沖成る山成金しまにて入水と披露し 密に御手洗の太刀落より太地身濯の浦に至
   り 太田の庄を通り此筑紫村を通り藤綱の要害に隠れ 一生無事に源氏の害をま
   ぬがれ玉ふ。太田を通り玉ひし時に爰はいかなる所ぞと御尋有ければ、或田夫有
   て筑紫と答ければ、維盛卿不思議也一門の人々皆筑紫にあり、我又筑紫に来りけ
   るよと有ければ田夫御痛はしく思ひ奉り、己が茅屋に具し参り様々饗応ければ維
   盛卿悦玉ふ、汝に氏有やと尋玉ひければ、主元来田夫也と答奉る。維盛卿我父家
   を小松といへば小松を許すとて、太刀一振そへて給ひける。今に至て家名小松庄
   右衛門と呼て太田中ノ川にあり。希代の面目也。此太刀子細有て元文年中大泰寺
   に奉納す「今は此太刀此寺になしぞ」  
   大泰寺 太田庄に在。本尊薬師如来伝教大師一刀三礼の作。古今秘仏也。
 尾捨山 大泰寺の後の山を云。名望也。
       萬葉集 七           柿本人麿
     安太部去小為手乃山之県木葉毛久不見者蘿生爾家里
   此歌を以て考るに安太は在田の古名なれば有田郡に出べし。又牟婁郡にも別にを
   すて山と云ありや不審。安太一作阿堤
     年つもる尾捨の山の槇の葉も 久しく見ねは苔生にけり
       集末考             在原業平朝臣
     年積る尾すての山の月影に 乱れてみかく槇のしたつゆ
   此歌続後拾遺秋下に出たり藤原基任とあり五文字をは白玉のと有。年つもるに非
   す 私曰歌の体業平の詞に不似。
       続後拾遺冬           源 有長(有家?)
     夕されば緒捨山の苔のうへに 槇の葉しのぎつもるしら雪
       新後撰恋六           前参議 敦有
     ぬきとめぬをすての山の苔のうへに みだるヽ玉は雹なりけり
 泰地浦 勝浦より一里。此処海鰌を漁する事を業とす。
   海鰌 雄を鯨と云雌を鯢と云 異物志に見へたり。或は是を海鰍と云。一名は鯤、
   荘子に見へたり。国俗住古より久知良といひ又勇魚と云。泰地古座浦三輪崎皆是
   を漁す。是を擒の方はまづ遠く網を下し軽艇を以ておいつき、?を以て是を刺す。
   一人高きにありて幟を以て是を麾き本艇をして其指麾を見て一に約束に従はしむ
   とぞ。萬葉集に勇魚捕といへる玉津島明神の歌を載る時は其由来久しき事也。
   此魚死せんとする時かならず痛吟の声あり。又一異也。
 濯見浦 泰地にあり俗伝に平維盛那智沖にて入水のまねし、海底を潜り此処に上り、
   身を濯ぎ給ふ故に名づけたり。土人今水か浦とよぶ。此処太地隠岐守頼虎屋敷の
   跡あり。伝曰 太地は和田蔵人太地隠岐守両人して押領す。太地家に頼の字を名
   乗に用るは右大将頼朝卿より許さるとぞ。中古堀内安房守に随ひ堀内没落の時両
   家も浪々し、方々に奉公し三百石五百石八百石取もあり。又怪しき奉公に世を渡
   るもあり、処に留る者皆百姓となる中に太地修理と云者秀吉公によく奉公を致し
   けるにや、熊野三ヶ庄の家に増田石田の書札に載たり。
   南紀古士伝曰 東鑑巻之五和田軍の巻に朝比奈三郎義秀御所の門を押破り行方不
   知と云々。其後高麗へ渡るとあり。室崎の太地の系図に朝比奈三郎義秀鎌倉の乱
   を避け、紀伊国熊野浦に来り室崎に三年を過し一人の男子生る。郷民漁人是を守
   立て主人として泰地の家祖とす。若名を上野殿と云、後那智山の社僧となる善智
   阿間梨と号す。泰地隠岐守頼重は善智阿間梨より五代の孫也。子息修理亮は畠山
   義就植長父子に随ひ、河州飯盛紀州高野麓にて軍功あり。又畠山家の使節として
   軍勢催促の事あり、五郎左衛門頼虎は修理亮より三代の孫と見へたり。但し太地
   和田の家号太田庄潮崎庄本宮処々に有之。
      但室崎の和田は泰地の家号有。系図一流にして和田泰地とわかる
      本宮は河州楠の一族にして室崎の和田とは格別なり 猶可尋之
     脇道の部終     
 和田村より 荘村へ十一町
 庄村より  浦神へ一里
 浦神より  下田原へ一里
   左の方に粉白浦と云有。玉の浦離れ小島此浦の内に在。亦大床島鍋島と云有。俗
   伝に西行法師此浦辺にて石を集め鍋を居へ食事せられし旧跡なりとぞ。岩井の松
   とて名木有。
   岩井の坂岩井の浜岩井の松并に古歌有よし末考。
   王子の祠有。是迄新宮領地。
 玉浦 離小島 風景絶美也。古へは此浦より玉を産すと云。
   今に玉石とて丸くうつくしき石を出す。色くろし。
       玉計集             平 忠度
     小夜更て月影清み玉の浦の はなれ小島に千鳥なく也
       千五百番歌会          衣笠内大臣
     玉の浦はなれ小島の潮の間に 夕求食する田鶴は鳴なり
       集末考             藤原為家
     玉の浦名にたつものは秋の夜の 月に磨ける光なりけり
       同               西行法師
     濡てほす沖の鴎の毛布に また打かくる玉の浦なみ
 下田原より 津河村へ一里
 津荷村より 古座浦へ一里に近し
   此辺皆浜辺を通る。酢貝多し。古座の入口に青原寺と云洞宗の禅寺有。山号古城
   山と云。此山上に墟有。是は高河原摂津守居城の跡也。摂津守は三位維盛の末孫
   也。秀吉公の時は熊野七人侍の一人也。
   南紀古士伝曰 高河原帯刀の釆地千石熊野七人侍の一人也。正三位平維盛の遺孫
   にして代々塩崎の庄に居住す。中古高河原摂津守貞盛伊勢国司北畠具教へ奉公し
   長島の中ノ坊并ニ九鬼等国司の下知に随はず。依て高河原貞盛方々手遺の先駈高
   名有。堀内安房守太田庄を押領し第一の被官椎橋権左衛門を佐目城に入置、口室
   を責取べき方便を廻し漸く攻寄るに付高瓦父子小山新左衛門等口室の領主安宅小
   山「三箇所」山本「市ノ瀬」目良「田辺」脇田「芳養」等へ加勢を請、佐目ヶ城田原村
   にて合戦あり。
   城将椎橋権左衛門は堀内家にて武功者故口室の者共を打立射立中々城の近辺へ近
   寄付ず。爰に目良一族下芳養善五郎三箇の小山一族与十郎同四郎左衛門無理無障
   に乗入粉骨を尽す。城兵稠敷防ぎける故三人共深手にて寄手敗北に及ぶへき所に、
   高瓦の一族浅利平六「古座の人」生年廿一勝れたる鉄炮の上手なれば其間三町餘を
   隔て、城将椎橋身方に声をかけ、櫓に上り下知をなして采配打振り、事もなげに
   立ける所を六匁玉を以て打倒す。其儘櫓より下に落ける。是に力を得て前駈三人
   取てかへし佐目の城の一番乗して敵の首を二つ宛提出る。口室の者共惣寄に乱れ
   入り籠る所の男女共三百餘人切殺し、堀内方へ塩をつけ直に太田庄の仕置を改め
   下里川より南は高河原支配す。川より東は那智山領となる。浜の宮より東堀内領
   前のごとし。是を太田佐目合戦といふ。其時分名高き合戦也。椎橋権左衛門の塚
   有。今佐目村に此時の城跡有て城の腰と云。芳養善五郎も討死也。此合戦元亀年
   中と見へたり。  
   高河原摂津守貞盛織田信長公の家臣滝川伊豫守に属し、五畿内にて軍功あり。貞
   盛嫡子帯刀家盛若名小平太十八の時秀吉公へ御礼御朱印頂戴古座の中湊に住居
   す。関ヶ原乱後に領地に放れ暫の内浪人家盛嫡子小平太喬盛父祖の家業を継ぎ武
   辺能きに付浅野左京太夫幸長主に奉公す。大阪夏陣に亀田大隅手に属し泉州樫井
                      但し難波戦記に高瓦小平太家来上野
   村にて淡輪六郎兵衛重政の首をとりて無比類高名也
                      金右衛門と云者六郎兵衛か首取と有
   是より浅野家に奉公して幸長芸州へ国替の節は千五百石の身上にて次男五郎左衛
   門貞盛を召れ美々敷御供致す。又喬盛嫡子小左衛門唯盛古座上の山の城跡に居住
   致候所、慶長五年より地士に仰出され子々孫々迄熊野七人侍の一人也。唯盛四代
   兵右衛門貞時鉛山奉行に召出され御奉公相勤候。今古座町に兵右衛門貞寛あり貞
   時四代の孫也。貞寛近年迄古座村役を勤む。近き比死して其一子平八とてあり。
   誰か取たつるものもなし。起らぬ家を何にたとへんふ便の事也。
 阿彌陀寺 
   古座町に有。山号長栄山と云。古事因縁集此寺の事有
 善照寺 同所に有仏光山と号す。天正年中山本善内と云者大坂本願寺顕如上人に帰依
   し僧と成て立之。初は善内寺と云。顕如上人与ふる所の彌陀の仏号并に恵心画像
   の彌陀あり。顕如上人の裏書あり。
   山本主膳正義実と云は清和源氏源頼義朝臣の三男新羅三郎義光の後胤也。義光の
   長子義業是佐竹柏木早水山本等の祖也。義業の子山本左衛門尉義定近江国山本の
   庄に住す。其子山本九郎義経近江国柏井に在て源頼朝と一同し平家を伐んと義兵
   をあぐ事源平盛衰記に見ゆ。其四代の孫山本判官義弘後後醍醐帝につかへ、大塔
   宮護良親王征夷大将軍に任じて和州御志賀山より上洛の時は、山本判官五百餘騎
   にて先陣を勤む。是より累代朝廷につかへ、楠正成公の旗下に属し諸々の軍に比
   類なき高名有。紀州牟婁郡富田庄を賜り市ノ瀬弘撰寺城に居住す。富田近郷を領
   知す。又保呂の蛇喰城三宝寺の城皆山本家の筑所也。南朝の後判官代子孫山本主
   膳正市瀬に住して畠山植長に仕へて軍功有。太閤秀吉公紀州御退治の節山本主膳
   正湯川直春真砂庄司と一手に成、鹿瀬小松原に砦を構へ、一戦用意の処小松原の
   先手真砂庄司敵方へ心替の由注進有之、主膳は鹿瀬より和州東家と云所迄落延、
   夫より天正年中に田並浦居住す。此子孫孫四郎とて今に在。此家より古座浦へ分
   れ住せる者今の古座町山本源七近年名字帯刀を許さる。系図由緒書今に所持す。
   古座浦は家数多し。下町は漁師の家なり。古座川舟渡し也。町中札の辻より直町
   は中湊村高瓦村清水村池の口等村々有。川をわたれば西向浦古田村等有。川上佐
   井ヶ谷と云所温泉有、此川は本宮の後大洞の森と云処より流れ出る。西北より流
   れ出て東南し古座浦へ流れて海に入る。此川上は五里の流れ也。山深くして村里
   所々にあり。川奥船の行留る所をまなご村と云。此川奥の人常に材木を伐り筏を
   なして古座へ出しうる也。諸国の廻船古座浦へ入津して売買常に賑はし。当浦も
   又泰地三輪崎と同く浦人鯨鯢を漁し、夏は諸魚を網し事業繋き津湊也。
   近世僧鉄関古座浦八の境地を賦す。予も又是に做て詩歌有。
   今并に載て一覧に備ふ。
   古座浦八景   僧鉄関
       古座晴嵐
     小市斜聯江渚畔  嵐来古座興猶新
     南山畳翠晴偏好  艇舶参差競入湊
       住吉秋月
     幽鳥怪巌対社丘  可中光景最宜秋
     金波萬頃月明夜  一曲棹歌発釣船
       古寺晩鐘
     鬱密寺桜煙樹浦  鯨音高吼訴斜陽
     推蓬回首客船月  晩色凄涼頻憶郷
       笠山暮雪
     弧峯窃窕雪晴後  素笠青衫眉暮天
     飲興無端臨檻外  酒旗遠舞夕陽辺
       古田落雁
     雁群整々列秋天  旧処不忘落古田
     憩萬里衡陽倦□  涵躯碧水就蘆眠
       大島帰帆
     煙簑笠釣寄軽舟  漁父生涯事々幽
     幾度風帆過大島  帰来日暮酌春洲
       橋杭夕照   
     神仙向海筑橋杭  当是擒竜登九垠
     雨霽長汀窮目処  石梁日落帯霞新
       姫浦夜雨
     江山黯淡暮雲張  十里松濤起野塘
     今夜孤舟姫浦泊  如何禁得雨滂々
   古座浦八景并歌倣僧鉄関体 霞塘釣叟武内玄竜
       古座晴嵐
     海旁一郭漁樵雑  民落軽烟雨後新
     日霽錬光臨檻着  賈帆下碇入江津
      松高き峯の嵐に霧はれて 湊によする遠のとも船
       住吉秋月
     慄烈商声満社丘  喬松畳翠幾千秋
     金波捧月南溟畔  乗興宛宜発軽舟
      処から月も雲井に住吉の 玉かき深く秋を鎖して
       古寺晩鐘
     煙樹蒼々旋梵閣  南山積翠対斜陽
     昏鯨響処迷寒鴉  行客寂寥頻憶郷
      里はまた夕日ながらに暮にけり 霧より伝ふ山寺のかね
       笠山暮雪
     重畳山頭雪霽後  巉巌危石暮更奇
     凍雪深処鎖寒月  莫怪溪辺梅蘂遅
      山寺に梢も見へずふる雪の 晴てぞ後の夕暮のそら
       古田落雁
     斜々雁陣横秋天  延帯夕陽落古田
     南去北東無定住  廬華深更憩□遅
      雁落る古田の里は露しげみ 芦の葉そよぐ秋の夕ぐれ
       大嶋帰帆
     衆舶掛帆帰大島  群鴎泛浪過春洲
     巌辺漁父無心釣  晩収魚檻著小舟
      夕なぎに島より帰る釣舟は 片帆に月をそむきてどみる
       橋杭夕照
     秦帝作橋東海浜  神人鞭石築岩恨
     千年旧跡今猶在  返照入江吟興新
      昔たれかけて残せる岩くきや 夕日をわたす橋杭の浦
       姫浦夜雨
     江天雨暗暮雲張  一夜孤舟寄海塘
     歌枕沾襟蓬裏客  遙思身是泊瀟湘
      梶まくら蓬よりもるヽしづくにて おもひ露そふ姫浦の雨
 黎島 古座浦の海中に有。南竜院殿御巡国の時此島を九竜島と呼玉へり。上に弁財天
   の社有。風景蓬壺に似たり。鼎のごとく三足の足有とぞ。
     是より脇道の部 
 佐本氏 古座川奥七川の末佐本郷にあり。
   南紀古士伝曰 正平十九年吉野殿の綸旨至徳二年同綸旨有。
   祖先の姓古書に見へず可尋。
 坊 氏 古座奥七川の内西川村にあり。信濃源氏村上の裔と云。今坊氏源左衛門とて
   家に旗、系図を所持す。西川祭の時四ヶ村より正月五日弓始に客人と申て、七度
   半の使をやる事例年也。弓鉄炮などにて出るとぞ。
   南紀古士伝に曰 七川口坊氏本姓村上源氏永和三年五月の書記旗五流所持す并に
   金の麾有系図には信濃源氏村上判官代某承久の乱に熊野に落来ると有。今西川に
   平右衛門と云は此子孫也。
 大洞森 古座川奥松根村の奥に大塔の森とて五里四方の深林有。此所に大塔の宮暫く
   住玉ふ。今森の内に屋敷跡とてたいらあまた有。此森より四十八川へ落る。日高
   川新宮川古座川日置川などの水上也とぞ。
   今按るに古座川本名秡川といふよし。川口に神口明神ありて秡明神と云。三宝院
   御門主熊野詣の時は此処にて秡を修せらるとぞ。川口に大成森有て鳥居社檀あり。
   此川奥よりも田辺に出る道あり。
     脇道の部終
 古座浦より 神の川へ十一町
   古座札の辻より古座川を渡りて西向浦北の墟あり。
   是は小山助之丞と云者居住せし由。是七人侍の内、子孫綸旨数通所持して西向の
   上地と云所にあり。古座の小山と云は是なり。今此子孫小山段右衛門とて地士也。
   南紀古士伝に曰 小山助之丞隆重采地八百石先祖小山新左衛門尉隆実入道法眼淨
   円は鎮守府将軍藤原秀郷の遠縁にして、本国下野の国代々東国にて高家也。東鑑
   武家評林等に詳か也。鎌倉将軍の時北条家の下知に依て一族十三人雑兵三百餘人
   にて南海の海賊を可謐奉行として紀伊国熊野に下り古座に滞留す。元弘年中の事
   也。六波羅滅亡の節より官軍に属し吉野の皇居を守護し専ら忠節を励み武名を顕
   す。吉野殿よりの綸旨口宜宮家の領旨等数通あり。就中其一曰く。
      佐々木信胤備前国於小豆島揚義兵云々早南山衆徒催合力可也天下御大事此時也者天機如斯仍執達
    如件
          延元二年九月十八日              左少将 忠雄奉
              小山一族中
              塩崎一族中
   太平記曰 佐々木飽浦三郎左衛門信胤備前国にて旗揚し事有。此時の事なるべし。
   又
     御方参合戦可致云々於戦功忠賞望可任状如件
           延元二年九月十八日              刑部卿書判
               小山一族中
「私曰刑部卿とは新田義貞の弟脇谷義助也」
     田辺口合戦刻敵勢追崩甲首二ツ入上覧畢委曲使者口上申上候以上
         九月三日                   小山新左衛門実隆判
             御奉行所
   右体の書札を以て考る時は専吉野殿へ奉公の忠臣と見ゆ。此家若名を代々新左衛
   門と号す。実隆より七代小山加賀守隆友織田家へ奉公し、北は古座奥七川迄、東
   は古座川を限り西は東雨高浜迄、代々領知す。一族繁栄して二部大島沖小川等有。
   被官山本奥和田橋爪等有。秀吉公の時隆友子助之丞隆重御礼に罷出、先祖代々領
   地安堵す。高麗陣の時人数割付書藤堂佐渡守下知の書簡有。此時人数百八十人諸
   道具は分限に可応とあり。小田原の役に北条家臣甘糟上野介備へに駈入、高名の
   事大谷刑部少輔より書札に見へたり。関ヶ原の時石田に与し勢州桑名にて危き節、
   松本因幡守扶助に依て故郷に帰る。大坂の節は引籠もり不出。依て彌十郎隆保南
   竜院君より十人扶持被下。新左衛門入道淨円より今の段右衛門隆倫迄嫡々十五代
   相続す。
  六勝寺 古田村牝鹿谷に有。旧名鹿生寺、嵯峨天皇勅願空海開基今改て禅寺とす。
   弘仁二年の草創と云。
 神川より 伊串へ十六町
  重山 高山也。一名笠山。古田村奥にあり。寺有重畳山神王寺。高野山に先たつ事
   七年空海の創立也。大師所鑿の閼伽井有。四時水涸れず。本尊彌陀薬師観音空海
   作。是を三体飛滝権現と云。堂の後に一丈に近き大石有。俗説に金の瓦千枚埋有
   といへり。
 伊串より 姫村へ十町
   左の海中に黒島よく見ゆ。
 姫村より 鬮の川へ二十町
   姫松原と云有。此所に姫黒と云碁石あり。那智の石に減らず。是より潮の御崎へ
   行には順道より左の方橋杭村へ出る。是順道の外なり。往来四里餘の廻り也。御
   崎大島櫛本姫伊串等海畔は倶に塩崎浦と云潮崎の荘也。
     脇道の部
 橋杭村 是湊なり。大入江なり。陸より海へ凡三十町程杭の如くなる岩海中へ続きた
   る故号とす。元是岩浪にされて刀を以て削り成がごとし。各長五六間或二三間の
   岩切立たるごとくつらなれり。他州に於ては珍らし。風景いはん方なし。是より
   大島へ一里船渡し。
 大 島 大島は離れ島也。熊野第一の大なる島也。櫛本の向ひに当れり。大島須江樫
   野と云。須江は南面也。東の海辺を樫野と云。廻り三里の島なり。常に漁を業と
   す。御崎と相対し南海の鼻に有。日本の南の端は此所也。貞享四年卯初秋の比当
   島の内冥加島と云処へ。呂宗国の船流寄る人三人有。勿論言語通ぜざれば何国の
   船とも不知。同年九月長崎へ送り遣はさる。初此舟人人員十一人、八人は海上に
   て死し、僅か三人残れり。紅毛船に附して帰らしむ。長崎夜話にも此事見へたり。
   大島は南陲なれば異国船往々漂流す。近年寛政元年の冬南京船朱心如が船人員七 
   十七人津荷浦大はいと云所へ漂着す。大島へ漕入れ、翌年土州船に附して送り帰
   さるヽ事普く人の知るところなり。
 橿野神祠 大島の内樫野に在。雷明神と称す。五十猛命を祭れり。
   日本紀神武巻曰 素盞鳴尊之子号五十猛命妹大屋津姫命次抓津姫命凡此三神亦能
   分布木種即奉渡於紀伊国也然後素盞鳴尊居熊成峯而遂入於根国者矣
   又曰 初五十猛命天降之時多将樹種而下然不種韓地尽以帰遂始自筑紫凡大八洲国
   之内莫不播殖而成青山焉所以称五十猛命為有功之神即紀伊国所坐大神是也。
   此国を紀伊国と申も五十猛命木を多く樹給ふに依て名くる者也。旧木国と書り。
   元明天皇の時に今の文字に改むとぞ。熊成峯は熊野の谷なり。素盞鳴尊五十猛命
   の社有。伊太邪曾とよぶ。名草の名も亦五十猛命より始れり。本郡三木八木九鬼
   の名も亦考合すべし。
   又橋杭村より長き浜路を経て串本村に至る十四町也。
 串本村
  熊野三所権現宮 社領八石
   本の宮と云。我日本御免許の地なり。此より御崎へ壱里上野村有。上野と云人居
   住の跡あり。
「高瓦小平太家来上野金右衛門と云者是か」上野の原という広野有。
 潮御崎 潮崎庄にあり熊野第一の大なる御崎にて海中へ長く張出る事三里餘、海深く
   浪荒し。甚嶮しき迫門御霊の住居にして不思議の水崎なり。総て此辺を潮崎の庄
   と云は、是に因れり。此御崎の潮他所に替れり。海中の水潮汐に抱らず片潮也。
   二三十年にて泝泅泝游、潮泝泅時は漁少く浦々衰微す。潮泝游時は漁事多くして
   浦々賑へり。不思議なる潮也故に殊に名けて潮御崎と云。
   熊野参詣記に曰 此御崎の潮片潮にして極て速し。上り潮下り汐とて或は年を経
   て上り、年を経て下り、世上の瀬の満千にかヽはらず其程計りがたし。潮の張り
   落る事滝のごとし。常に荒浪立て往来の廻船順風にも舟を乗る事不自由也。依是
   上野村出雲村の漁船出て漕通すと也。南方海路第一の難所也。常夜燈の御番所有。
   雨風の夜は燈常より大にして諸廻船の眼的とすと云々
   日本紀曰 少彦名命行熊野之御碕
「是潮の御崎の事なり。御崎といふは少彦名命此所に坐を
    以て尊みたる詞也とも云」

   日本書紀曰 仁徳天皇三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀国到熊野岬即取其所之
   御綱葉而還
「葉此云箇始婆」
     按国史所載三角柏延喜式所載三綱葉与日本紀御綱葉三名一物也
   続日本紀曰 天平勝宝六年正月入唐副使従四位上吉備朝臣真備船標蕩着紀伊国牟
   漏崎
   今按るに凡そ海水泝泅時は漁なく、泝游時は漁多き理は魚は水に逆ふて上る者な
   れば也。五雑俎に曰 凡魚之遊皆逆水而上雖至細之鱗遇大水亦槍而上鳥之飛亦多
   逆風蓋逆則其鱗羽順順則返逆矣魚人之生於困苦而死於安楽亦猶是也云々鳴呼此海
   荒瀾浩蕩□□御崎大島の外雲水天と一色復国ある事なし。蓋日本の南捶にして亦
   四海の東極也。海舶もし一たび風候を失へば俄頃の間東溟に流る。舟人最諱避所
   也と云。
 御崎明神 在潮崎庄称御崎神社。少彦名命を鎮坐す。櫛本浦より勧請すと云。住吉神
   とするは非也。社司を塩崎内記と云。
   日本紀神世紀曰 大己貴命与少彦名命戮力一心経営天下復為顕見蒼生及畜産則定
   共療病之方又為攘鳥獣昆虫之災異則定禁厭之法是以百姓至今咸蒙恩頼大己貴命嘗
   謂少彦名命曰吾等所造之国豈謂善成之乎少彦名命対曰或有所成或有不成是談也盖
   有幽深之致焉其後少彦名命行熊野之御崎遂適於常世郷矣
   神世紀標注曰 神武紀云三毛入野命蹈浪秀而往乎常世郷垂仁紀云神風伊勢国則常
   世之浪重浪帰国也又曰常世国則仙之秘区非俗所臻
   雄略紀云 浦島子入海致蓬莱釈曰蓬莱此訓曰常世訳曰常世郷者不滅常住之謂也身
   心不穢一塵則現身可虚空而不滅常住也云々
   貝原篤信曰 昔神農氏始嘗百草教民医薬而医術興焉後世之医方皆本乎此非啻為中
   華之医祖雖諸外国咸無不率由旦考之 
   皇朝神代少彦名命為蒼生及畜産定其療病之方又欲攘鳥獣昆虫之災異則復定其禁厭
   之法今其方薬及禁厭之法雖不昭伝千世然我邦始制医薬攘災異之祖神又豈可不為宗
   乎此皆医家所当奉祀也
   予按熊野者霊異之仙郷也故神世則素盞鳴尊五十猛命少彦名命倶住熊野而少彦名命
   有神聖不測之徳百姓至今咸蒙恩頼且熊野蓬莱神山奇異仙境前史称焉則秦人徐福来
   止不還者不復宜哉至今少彦神霊長鎮御崎五十猛命在橿野神異数多土俗不解其事為
   天狗魔魅之為不亦誤哉必莫与愚者談恐有認夢疑氷之膠矣
   又按るに少彦名命は高皇産霊尊の御子本朝医の祖神也。名草郡蚊田粟島大神又此
   神を祭れり。世俗に粟島神を女神とするは誤也。京都五条の天神社亦少彦名命也。
   今に至て節分の夜人々参詣して白木餅等を請て疫を徐く備とするも医の祖神なれ
   ば也。
 潮崎浦 室の郡汐の御崎是也
   此名所諸書に不見。西行が歌に寄て爰にのす
     小鯛引網のうけ繩より 遼乱うきしわざある塩崎の浦
 静 窟 潮崎の庄にあり。今其地を定かにせず。さだかならざるをや仙区とせん。
   神代のむかし大己貴命と少彦名命と海辺を治め玉ふ。少彦名命遂に此塩崎にて神
   上り給ふといふ。其跡を拝奉らんと思ひ茅野原を尋ねけれ共静が岩屋の所定かな
   らず。
                       西行法師
     おほなむち少彦名の居ましけん 静の岩屋はいづこ成らん
   予按るに播磨国印南郡生石村有靜窟祀大己貴命少彦名命神官二口廟号生石子大神
   神殿曰石宝殿天女用石造之高二丈六尺経営奇古而非人力之所致者矣峯相記云天女
   為二神造祠黎明不能造畢上天去即今石宝殿是也生石村主歌曰
     大己貴少彦名之御坐静窟者幾代経奴覧
   是予西行歌相似未知執是
     道順の外路 
 鬮 川  二色へ半里
   小坂小川有
 二色浦  二部へ十町
   錦の袋といふ湊有。風雨にも舟懸りよし。
                                    
   日本紀曰 神武天皇戊午年夏六月天皇独与皇子手研耳命帥軍而進至熊野荒坂津
「亦名

   
丹敷之浦」因誅丹敷戸畔者時神吐毒気人物咸瘁由是皇軍不能復振云々
      今按荒坂山在三輪崎錦浦在浜宮今以二色浦当之者未審姑備一説耳
 二部浦より 在田へ廿八町
   此間磯道也。東雨村高浜古崎と云所有。此所五石御免許の地也。
  東雨村 二部浦に在り。俗云に空海四国より此所に来り、雨に遭ひ草庵に入て雨を
   避て西より東へ来られし故東雨の名有。至今大師堂一宇有。
 在田より 田並へ廿三町
 田並より 江田へ二十町
   此所石灰を焼業とす。此所寛文年中浦の住人二河某といふ者、沖に出て釣をたれ、
   一奇石を得たり、水主見て無益の物と海中に投入る、暫有て又一物を釣得たり、
   是を見れば件の石也。水主いよく怒て又海中になぐ。如此する事三度。後には 
   其儘船中に置く、其夜彼石二河某に夢に告て曰 若われを尊崇せば永く浦の繁栄 
   守らんと。依て祠を建て劔大明神と崇む。是即蛭子尊也といへり。
 江田より 田子浦へ二十町
   左の沖に双島と云有。弁才天祠有風景無比也。
       題 双島            沙門寒山
     天下無双双島境  始看市遠景光宜
     続溪潮水水声潔  映海春山山色奇
     旅客留行田浦湊  遊人催句白浜陸
     清閑飽愛何緘口  信手染毫漫賦詩
   江田ニ浦氏の者、代々地士にて系図を所持す。
   浦氏系図略曰 六孫王源経基の二男陸奥守満政の子駿河守忠重其子佐渡駿河定家
   永承年中鎮守府将軍源頼義に従て安部貞任を討て功あり。其子佐渡前司重宗其子
   鳥羽院武者所佐渡源太重実其子浦野四郎重遠始て尾張国浦野に住す。其子浦野太
   郎重直尾張河辺ノ庄子に住す。其子小河三郎重房其子小河又次郎義重美濃国より
   紀州に漂泊す。小河浦次郎江田浦に住す。旧跡城地今に存せり。元弘年中大塔宮
   熊野に逃竄し給ふ時令旨を賜て小河浦次郎を召さる。中比小河浦次郎義勝の時大
   和大納言秀長卿より牟婁郡有田田並江田三村五百石を賜はる。其子小河十郎義続
   始て江田組大庄屋役を勤む。義続より六代浦義左衛門義重南竜院殿熊野御巡察の
   時執謁し、白銀衣服を拝す。其子浦義太夫義則左京太夫君御巡察の時新に旅館を
   営みて迎奉る。子孫今猶相続す云々
 田子より 和深へ三十丁
   此沖に村島と云有
 和深より 里ノ浦へ廿四町
 里浦より 江住へ一里
 江住より 見老津へ廿七町
   和深より此間小坂多し。江須崎と云所松樫生繁りたる森有。
   此処に江須明神社在。又撞木山とも云。風景いとおかし。
                       花山院
     見くまのヽ浪の立かふゑす崎は ながめにあかぬ蜑小舟かな
 三老津より 和深川へ一里半
   長井坂有。此峠より西に見る山を和深山と云。此海辺にては高き山也。俗に風折
   山又二子山とも云。
  和深山
       名歌              西行法師
     身のうさを思ふ涙はわぶか山 歎にかヽる時雨なりけり
                       藤原清輔
     わぶか山岩間に根ざす磯馴松 きみなくてのみ老や果なん
                       俊頼朝臣
     和深山世にふる道をふみたがへ 迷つたよふ身をいかにせん
 和深川より 周参見へ一里十町
   転坂難所なり浪越の坂と云を過て周参見に至る。鬮の川より是迄四十八坂有。
 周参見より 安居へ二里
   入口に南京尤廷玉の墓あり。是は近来南京船東国房州へ漂流し長崎へ筑前船にて
   送り帰さる内、尤廷玉と云者病に卒す。国主より石碑を立給ひ、官儒祇園氏に命
   じて銘を撰しめ給ふ也。
   此処町家也。船懸り湊也。十八町沖に稲積山といふ丸山有。弁財天祠有。後の山
   に周参見主馬太夫と云し者居住せし由、墟あり。主馬太夫は熊野七人侍の内也。
   押領の地は周参見郷佐本郷。天正の比太閤秀吉公天下を治め給ふ時下知に従はず、
   依て家滅却す。其子孫田夫となる。
   南紀古士伝曰 周参見主馬太夫采地二千石熊野七人士の一人也。主馬太夫氏長は
   藤原氏なり。此所に居住す。年数しれず諸書に姓名みへず。勿論今家号の者所持
   の文書等、末見之。此周参見村に四姓有。箸井藤原溝川和田と称す。此者共氏長
   を主人として秀吉公より旧領を拝領し、佐本郷并に古座奥等一円に周参見の領地
   なり。今に彼所々に主馬太夫が書簡等所持の者多し。高麗陣に九鬼大隅守嘉隆に
   属し、渡海して所々働有と申伝ふ。関原乱後氏長父子京都に浪人す。其後死生不
   知。氏長弟周参見源左衛門関原乱後に藤堂佐渡守しばらく紀州牟婁郡仕置の時佐
   渡守より五百石合力をうけ浪人分にて此家中に住。大阪冬陣に佐渡守家中を立退、
   行方不知。但し世静て旧里へ帰る。主馬太夫一族山本但馬と云者子孫あり同周参
   見左京と申者子孫あり。正胤は断絶と見へたり。安居に並木和深に和深と云家有。
   倶に周参見の正嫡と申伝。年代重て可尋云々。
   多江間川歩渡り也。水出れば船渡し有、左の方に若一王子祠有。玉川と云谷有。
   此川常に水なし弘法の古事有。火解坂
「又仏坂と云」 難所や峠に桂松有。坂を下りて
   安宅川舟渡し也。是は近露川の末也。是より一里下日置浦へ落る也。
     是より脇道
  安宅庄に安宅庄司と云者あり。代々牟婁郡安宅庄の庄司也。後新庄司頼春其家を押
   領す。是は応永年中の人。甲斐源氏安宅の家を襲ぐ。今此子孫安宅佐左衛門と云。
   天正十三年秀吉公当国に発向有て、三月廿二日先根来山を焼亡し太田の城をば四
   方に堤を築き、吉野川の下流紀の川を堰入れ、水攻に攻落し夫より雑賀を攻玉へ
   ば城将佐竹伊賀守雑賀孫市堪へずして降参す。熊野へは秀吉の代官として仙石権
   兵衛秀久蜂須賀彦左衛正勝尾藤甚右衛門藤堂与右衛門高虎宇野若狭守青木勘兵衛
   杉若越後守其勢三千五百餘騎海陸より攻入所に、口熊野の領主等一味同心して是
   に敵対し、初は市瀬に相戦ひ、次に潮見峠にて数度取合扱に成り湯川山本米良悉
   く亡さる。残る領主等処々に敗北し山林に逃竄る。
   是時安宅玄番允雑賀に赴き、御礼申に付本領安堵す。後又秀頼公に御身方し、大
   阪へ籠城す。落城の後勢州に落行其子佐左衛門元和八年に在所に帰り居住す。其
   子孫代々佐左衛門と呼ぶ。南帝の綸旨御教書等所持すと云う。
   南紀古士伝曰 安宅玄番允采地千五百石熊野八庄司の一人又七人士の内なり。甲
   斐源氏加賀藤次郎頼利の後胤に新庄司頼春と云者有。応永八年辛巳三月阿波国よ
   り紀伊国に来る。先是室郡安宅庄に安宅治部大輔俊継と云者有。代々安宅庄に居
   住す。頼春俊継に縁や有けん。同郷田井村に居置主人の如く饗応す。元より頼春
   武備に長じ其器量勝れたるに依て治部大輔被官共大方頼春に近侍す。俊継怒て田
   井の土井に於て頼春を討殺す。頼春に二子有。田井長門と云者二子を介抱して那
   智山に赴き清水揩フ坊を頼み二人の男子を養育して、成長の後兄は安宅与次郎弟
   は田井与三郎と名乗り、兼て揩フ坊に人数を借り、古座の高瓦小山等を催し応永
   廿三年霜月朔日に安宅の庄に取懸け、同四日に治部大輔俊継を討て親の敵を打て
   り。是より兄弟京都に出仕して先祖の縁を尋ね、細川尾張守政氏に眤近し、兄与
   次郎は備後守成、弟与三郎は田井義人と改名して将軍家に奉公す。是より家を起
   し領地七百貫を知行す。安宅の庄富田庄切目庄南部庄代々安宅の知行所也。細川
   
家の書札等多し。「但吉野元中の公宜同弘和の公宜あり此二通は頼春安宅居住より以前と見へたり可尋
    諸家に此例多し」

   安宅備前守俊春三好実休に与し河州誉田に於て畠山家と合戦す。此時細川右馬助
   感状有。三好滅亡の後は亦畠山政長に属し、所々にて軍功有。中にも畠山義就山
   名宗全河州飯盛攻の時安宅新介父子討死す。
「此事湯川家の巻に見へたり。年数前後あり可尋」
   新庄司四代大炊介俊繁畠山義就尚義父子に従ひ軍功有。父子の感状数通有。略之。
   一族田井備中守軍功状有。永禄五年織田信長公家臣佐久間甚九郎一向宗退治の時
   安宅甚内定俊尼崎城を預る。其勢五百餘騎と云々
「此事信長記に見へたり。紀州の安宅五百
    餘騎の大身に成し事分りかたし。但」

   「し阿波国に同名あり此人ならんか。亦熊野 にも安宅甚内あり後民部大輔といふ」新庄司五代玄番允重俊
   織田家紀州攻の時雑賀表へ出張して上方勢を追崩し武功有。是時鈴木三郎次佐竹
   伊賀より礼書あり。天正十三年豊臣公重て紀州入の時玄番允雑賀に馳付、御礼申
   に付旧領安堵す。高千五百石也。天正十五年に至て御朱印拝領知行故の如し。是
   より大坂御城に伺候す。但し大納言秀長卿の与力也。
   慶長五年極月に至て領地を放たる。玄番允嫡子左近丞大坂冬の陣に籠城、後藤又
   兵衛基次に属し働有。同夏の役には父玄番允次男佐助三男佐左衛門一族家来百八
   十人籠城す。家来野中又兵衛と云者人数を催し重て大坂に入
「安宅玄番允高名大坂方首
    帳写しと云本にあり最難
波戦記等の端に見へたり」
   世静て左近春定佐助信定切腹也。三男佐左衛門勢州より来り名跡相続す。新庄司
   より佐左衛門迄嫡々九代なり「今に此家佐左衛門とて地士にて役義をつとむ」
 日 置 此所に捻樹の観音という有。捻樹と云大木の松有。小枝迄自然とねぢれり。
   日置の上浜通りに市江といふ谷に玉川と云毒水有。およそ玉川と云ふ名処日本に
   六ヶ所あり。中にも紀伊国玉川水上に砒霜あり歌に
     旅人にかたり伝へよ紀の国の 玉川の水結ひはしすな
   亦高野にも江川といへる毒水あり
       風雅集             弘法大師
     忘れても汲やしつらん旅人の 高野の奥の玉川の水
   近年福州陳長理が船
「名ハ真満源」人員廿一人熊野浦へ漂着し、日置浦へ漕入後長崎
   へ送遣さる。滞留の内九月九日官酒を賜りけるに揚天然と云わかき人文才有者に
   て以詩謝之。其詩に曰
         得君王賜三盃――――四句
         歩難行千里外――――三句
    謝    在他郷未得回――――二句
         説誰家好美酒――――一句
 小山氏 日置奥富田郷三箇村にあり。此家綸旨御教書等数通有之。太閤秀吉公三百十
   四石の朱印あるよし。今に地士にて小山助之進と云。
   南紀古士伝曰 小山式部大輔采地千三百十四石熊野七人士の一人也。藤原氏本国
   下野国小山下野判官秀朝鎌倉将軍家より関東高家八家の随一也。武家評林大系図
   等に詳かなり。元弘年中楠正成公河内国金剛山籠城の時、鎌倉の命に依て一族十
   三人其勢三百餘人にて、上洛京都六波羅にて軍勢手分の時、小山判官秀朝舎弟新
   左衛門実隆同八郎経幸南方海辺守護として熊野に下る。実降は奥室郡古座に在、
   経幸は?室郡富田郷に在
「此趣大?太平紀大全五六巻にてわかる」
   阿波国海賊出入所々被聞召及関東御事書并ニ六波羅殿御箇条案文謹而拝見仕候畢
   被仰下之旨随分聞可申触候於領内勝浦新庄小松浦之船者定紋唐梅候畢此条若偽申
   においては日本国大小の神明可蒙御罰之状如件
       元亨二年四月廿七日       肥後守経家請文
         小山石見守殿
   右の証文三箇小山家に有。是を以考ふれば大方太平記に相叶見へたり。経幸嫡子
   八郎氏朝細川相模守氏清に属し所々に軍功有。息男八郎六郎尾張守正氏感状数通
   有。此時富田保呂の蛇喰城を築き、爰に居す。従是東の方三箇の庄久木に家敷を
   構へて居住し永く熊野侍となる。天授年中吉野殿よりの綸旨并に公宜有。四条中
   納言殿書簡一通何れも軍勢催促の文言也。康暦二年和州多武峯に於て畠山阿波守
   国清入道道誓大敵に囲まれ既に自害に可及所小山一族捨身命防戦ひ敵を追崩す。
   此時右の賞として本国印南郷阿州立江の庄を被宛行証文あり。経幸より六代八郎
   左衛門尉迄代々畠山植長尚慶父子に属し所々軍功をあらわす。書札数通并に畠山
   官臣遊佐丹下等の書札数通あり。元亀二年新宮堀内強大に成、口室を押領すべき
   ため、太田庄佐目に城を築き古座の小山高瓦等を攻んとす時、高瓦小山より口室
   の領主へ頼状有湯川家山本家より神文有。但し佐目陣にて小山一族高名の事高河
   原の所に詳也。経幸八代石美守後改式部大輔天正十三年太閤紀州御平均の時、玉
   置を初め安宅周参見等加茂橋本迄罷出、神文を指上げ末代迄御奉公仕るべき旨言
   上に付、皆領地安堵す。其砌式部大輔は御礼に出ざるに依て周参見安宅既に押寄
   て攻潰すべき支度に付、式部大輔泉州堺に至り御朱印頂戴也。高麗の役堀内若狭
   守手に属し朝鮮海口にて高名有。但し一族助之進と云者打死、帰陣の時御紋の御
   肩衣并に鞍鐙拝領す。是は前天正の役也。又文禄の軍立に藤堂佐渡守手に属し帰
   陣の節佐渡守よりの書札并に片桐増田大谷等の書札数十通あり。関ヶ原の節領地
   に放れ浪人と成、大坂冬の陣に籠城真田左衛門佐幸村手に属し泉州堺にて九鬼大
   隅守嘉隆と合戦の時式部弟次郎左衛門討死、夫より式部は在所に引籠り、時節を
   伺居る。八太夫氏辰は式部孫にて先祖石見守経幸より嫡々十代也。今小山八郎左
   衛門とて三箇村にあり。
     脇道の部終
 安宅より 富田庄伊勢谷村へ二里
   在所の中程に王子社御座。此端に銀杏の大木有。囲九尋高三十間。当国に七本の
   大木也といふ。村過て小坂有。小倉坂と云難所也。此坂を下りて三籠谷と云。常
   に水なし。弘法の古事有。富田坂上下壱里六町有。麓を高瀬村と云。左の浜辺に
   中村芝村と云有。
 伊勢谷より 朝来村へ壱里半
   在所の中程に 若一王子御座
   新宮より田辺迄の内に勝れたる大社也。祭礼九月九日すまふを興行す。此所より
   湯崎へ凡二里。
     是順道の外なり
   川を渡りて吉田村堅田村悪川と云へ出る也。鴨井坂人糸坂つつ見山を越て
 湯崎村 亦銀山とも云鉛山あり
   此所に温泉有。一名瀬戸の湯とも云。諸国の人湯治するもの来たりつどひてたへ
   ず。
 温 泉 本名牟婁温湯
   崎の湯館の湯浜の湯旧の湯鉱の湯とて五ヶ所あり。此所諸役御免許の地也。雙丘
   と云所に御所の芝と云有。是は古しへ斉明天皇此湯へ御幸しまします時行宮の古
   跡なりと申伝ふ。近所に太守の御殿あり。
   日本書記曰 斉明天皇三年秋九月有馬皇子性黠而詐有狂疾行牟婁温泉為治病讃国
   風景僅見彼地病自除云々
   四年冬十月庚戌朔甲子天皇幸紀温湯憶皇孫建王愴爾悲泣及口号曰耶麻古曳底于瀰
   倭悒留騰母於母之楼枳伊麻紀能禹知播倭須羅痩麻旨珥
瀰儺度能于之褒能矩娜
   利宇那倶娜梨于之廬母倶例尼飯岐底舸痩舸武于都倶之枳阿餓倭舸枳古弘飯岐
   底舸痩舸武詔秦大蔵造萬里曰伝斯歌勿令忘放世云々
 白良浜
「湯崎と瀬戸との間なりき」
   古歌多き名所也。哥は潮見峠より遠見の部に出す故爰に記せず。
   此浜の砂極て白し。磨粉に諸方へ取行。
 瀬戸村
   此磯崎を牛の鼻と云。牛鼻に似たる岩穴有。四相嶋白崎と云所有。藤九郎盛長の
   社と云有。又は名の宮とも云由。此社に付色々の俗説有。所の人に可尋。此社所
   の氏神也。同所に梶原か津ろといふ所有。梶原景時船を掛追せし所なりといへり。
   浜辺也。但し景時此国へ来りし事諸書に見へず。是恐くは俗説也。
   今按日本紀 神功皇后紀伊国徳勒津宮に幸し給ふ事有。是乃徳勒津行宮の古跡に
   して誤て藤九郎の宮と呼ならん。今は髑髏宮と云
「名草郡日前宮の北にも徳勒津宮と云所有」
   桔梗の平と云所 御番所有
   姥目谷と云所有。此磯に水晶に似たる砂有。盆山の敷石によし。江面と云所烏貝
   多し。名物也。
 風莫の浦 俗に綱しらずと云。
   是又遠見の部に出す故爰に略す。此所より田辺神子の浜へ海路一里、磯間の浦神
   島其外島多し。風景よし。
     順道の外終    
   前に記す伊勢谷村より田辺へ順道。川際を上へ行て千足の渡し。川を越て平村野
   田川原と云を通て岩崎と云所に窟有。石仏の不動明王弘法作
   是山の景地下には大河有て其岩組逞しく上には竹木生繁り甚殊勝なる所也。川向
   に保呂一ノ瀬相賀村里多く見ゆ。
 朝来より 田辺へ一里半
   在中に諏訪大明神御座 景地信州に似たりと云。小坂有。新庄峠と云。ぬか塚丸
   山有。いにしへ長者の住し処也と云。
   塩浜あり。津振山を越て新熊野の宮前へ出る也。
   浜の宮より田辺まで弐拾五里廿八町。但し三十六町一里也。



熊野巡覧記・巻之一 
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  熊野巡覽紀 巻之四活字化終わって  
 巻三の後書きに記した通り父の写本は巻三迄で、巻四は都合で写本しなかったのか、紛失し
たのか不明である。巻四については昭和五十一年刊行紀南文化財研究会編『熊野巡覧記』より
写した。父の書き写した巻三迄は紀南文化財研究会編の巡覧記と多少異なるところがある。
又巡覧記の後書きには写本は四通りもあると記されているので、其の差による物と思われる。
今まで活字化した熊野紀行文と違って、紀南の事を随分と詳しく調べ記されている。寛政年 
間(一七八九〜一八〇一)と言えば今から約二百有餘年前のこと、これだけの事を調査した 
り、文献を集めることが出来たのは著者の玉川玄龍(泉溟武内玄龍惇□)とはどんな人物だ 
ったのだろうか。  
 友人の尾尻宏介氏のHPに載せられ、全国の同好の人々がパソコンで瞬時に閲覧できる平成
の世を、玉川玄龍が知ればどんな思いだろう。
       平成十七(二〇〇四)年五月二十八日
                                清 水 章 博
           使用ワープロソフトJUSTSYSTEM『一太郎2005』WINDOWS ME & 98

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