熊 野 王 子 考
「那智叢書」第二十巻より
文学博士 宮地直一著
昭和12年(1937)頃の著・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
熊野王子考
仏語に鳩摩羅駝(クマラダ)、又究磨羅浮多(クマラウタ)という語あり、翻訳名義集を解きて、是れ彼の八歳己上乃至未至娶者惣名也といひ法華経註に釈論を引きて此「云童子」と見ゆ、我国に用ひられて王子と云ふその起源はここにあるが、早くより大峯山なる蔵王権現には十人王子あり、高野山なる天野明神即丹生都比売神も百二十神とともに十二王子を従ふ是等は何れも随従若は眷属の神意にしてやがて薬師如来か十二神将を率ひ、又不動明王が八大童子弁財天女が十六童子を伴うに等しかるべし、
さて之を我が神祇の上に用ひたるは延喜式の記事を初見とすそは内蔵、式中、大神祭の奉幣を記す条に
日向王子幣料盛筥一合
王列王子幣料盛筥一合
とあり、之を神名帳に照すに、大和城上郡に
神坐日向神社「大月次新嘗」玉列神社
とあり、二社はその祭神を詳にせされども、早くより本宮大神神社の官下にありて本来の慣例によりて表す時は枝属、苗裔もしくは、御子神といふに相当すべし即ちここにいふ王子の義にも一致するなり、次で起れるは、則熊野王子の王子社にしてこは己に和歌の海鶴にもいわれし如く本宮境内なる若一王子といふは、古くより天照大神と伝へたれど、そはいかにもあれ本宮三所即ち夫須見、速玉、気津御子の三神に次きて創められ三山ともに本社に次きて崇敬する社なれば御子神の意を以て、之を王子と称へしにもなるべし、その関係例へば春日に若宮を設け、大神に日向、玉列の二社あるが如し、その若宮といひ、新宮と称し、将今宮といひ、王子と呼ばむ、畢竟するに、同一の事物を指して其名称を異にするに過ざるも、ただ、熊野は人も知る如く、仏教の侵入甚しきが上に弘く世間の信仰を萃めたる神社なれば、仏教に縁あり、其通俗の呼称として応しき王子の号を採用したるのみ、若一王子に次ぎて表れたるが、ここにいはむるするは、沿道の諸王子社にして、これも、仏教に模倣せしものなるべし、王朝の初期より鎌倉時代にかけ、熊野三山に巡歴する風流盛に赴き都人の歩をこの地に運しより頻々たりし中に、その特殊の風習ともいふべきは、王子の社が発生せしことなり、当時京都を発して本宮を経、新宮、那智、に詣づる往来の途次、所々にて本宮の影祀を設立するものあり、之を称して王子社といふ、即世俗にいふ、熊野九十九王所の王子これなり。俗説にその義を説きていふ、熊野権現の座します音無川の水上を一百の数に象り沿道に九十九ヶ所を充したること、やかて浄土往生の義を示すなりと、之も一理なきにあらすと雖もその最初の時代には、数も具なすまた必しも之を経由したるにあらざれば始めよりして、か程の深遠なる意味ありしや否や大に疑はしとすべし、惟ふにもとは往来の要所々々に当り、小祠を設立して巡歴の便に供し併せて遙拝の為めにせんとせしものならんか、されば、中には古くより鎮座せし社にして、地利の便により後に王子社とせしもあるべく又新に設立せしは固より少なからぬこととす。今日現存する社につきその縁起を繹ぬるに中には往々にして之を古代にかけ、又特種の由緒を伝ふるもの少からず、かくの如きは固より悉く之を信憑すべきにあらずと雖、さればとて、その全部が皆虚構の説を語るものとも定むべからざれば、或はこれら諸社の中には、中古王子社に変形せしものであるにやと思はるるなり、
さてかくの如く、沿道に起りしその影祀おも王子社といふは、さきに説明せしが如く、新宮又は今宮と称すると同義にして、やがて若一王子なりといふ王子の意を一層広義に推広せしものなるべし、これも俗説にては、若一王子を遷したれば、もとの名に因りて、しか名付けたりといふ、固より諸王子の中には、同社の分祀も少なからざるべしと雖、その悉くが同神にもあらざれば決してそれとも定め難し、名月記を見るに、王子社を熊野の末社といへることあり、又壬生家古文書の中に、
熊野山末社藤代王子
と記されたるが、即ちここにいふ王子とは末社の義に外ならずして、祭神間に於ける本来の関係を表ずるものにあらざるなり、
即ちこれを傍例に考ふれば、石清水に別宮といふなど大小の差はあれど、之に相当するものならむか、いまこれを典籍の上に微して、その最初に表れしものを求むるに、王朝の季までには、
藤代、塩屋、切目、磐代、滝尻、発心門の七社あり、次いで建仁元年の御幸記に至り、その数漸く具はり、実に六十一社の多きに達す。されど思ふに実に王朝の末に於て略々その形を整へたりしものなるべく、ただ記録の具備せざるが為めに之を微ずることの難きならんか、御幸記を見るに、大鳥居、井口等新王子といひて、新設に係る社の存せるを示すによれば自ら以外の諸社が相当の年代を有ししこと推量せらるべし、
次に御幸記を基として、その道程並に分布の状況を記さむに、王子の社は先ず難波の地に起る。
はじめ京都を発するや陸路鳥羽に至り、ここより船に乗じて淀川を下り川尻なる窪津といふに着す、即窪津(久保津)王子ここにありて之を熊野第一王子とす。その地復た八軒屋に当り、王子の旧跡は座摩神社の御旅所となる、これより今の大阪の地を横断して、天王寺西門の前に出で、阿倍野街道を南行し、住吉を経、和泉と紀伊との国境なる山脈を越え、紀の川の下流に着す、この後今の和歌山市の東部を進み、和歌浦の入江を南へ廻りて、藤代坂に着す、麓に五体王子社あり、藤代王子といふ、社の西藤代坂を登り、山続き峯をつたひて在田川の沿岸に下り、湯浅付近の平野を横切って山麓に達す、尋いで山を越え御坊町の東を経て日高郡の海岸に沿ひ田辺に入る、この間切目峠を回れば、第二の五躰王子なる切目社あり。
さて京都よりここに至る間に多少の山脈を越ゆと雖、多く海岸沿の平野にして道はさしての難路にあらず、されどこれより先は全く海を絶縁して山岳重畳の中に別け入り、暫しの苦痛を忍ばざるべからず、かくて田辺より北行、三栖川を越えて岩田川に沿ひ進むこと里余、両川相会する所、山の鼻に当りて滝尻王子あり、五躰王子の第三とす、滝尻より暫くして道は漸く急に栗栖川よりは全く山系に入る、このあたりに鳥居あり、これを下品下生の鳥居とす、この後山を越え谷を渡ること幾何なるかを知るべからず。
その末山勢の漸く平らならんとする所に臨み発心門王子あり、これを五躰王子の第四にして、上品上生の鳥居ここにあり、ここに至りて限界漸く開くるも猶本宮の地は山背に隠れて之を窺ふべからず、ただ僅に北方に当りて展望の開くるのみ、されど険坂難路は己に尽き果てて、目的の地は将に二里の間に迫り来れるなり、これよりは真の峯つたひ次第に道を下りて伏拝に至る。
ここは全く山と離るる境、将に神域に入らんとする地、所謂本宮を直下に見下して遙拝の誠意を表すべき所にして誠にその一角に立ちて眼を南方に放てば東西に相抱擁せる山脈の中を縫いて一条の清流あり、その末の将に山の端と触れむとする所に当り、左に一群の叢林を見る、川は音無川森は本宮の鎮座地にして這般の光気は将に一望の中に 至る、伏拝より坂を下ること殆ど一里、川を渡りて本宮に着すなり、此間の道程大凡八十里、京都より十日の日子を要すべく今日にありても優に三日は費ぬべし、されば名月記に記して過山千里遂奉拝宝前感涙難禁。と云へるる徒辞ならざるを覚ゆるなり。
御幸記の外道路井に小路次の有様を記したるものは古く為房卿記に永保元年の記行文なり、本書によるにその道程日次左の如し、
九月十六日権陰陽博士有行より熊野詣勘文を送来るその日次十七日精進始二十一ひ出京十月五日奉幣御燈とあり、
同十七日南隣の小屋に精進を始む
同二十一日鶏鳴の頃出京桂河の辺に至り解除山崎より乗船石清水八幡宮に参詣の後摂津国三島郡三嶋江に留る
同廿二日天王寺に参詣住吉に奉幣和泉堺泊す
同廿三日和泉の国府に着す
同廿四日日根野王子の傍に着し王子に奉幣
同廿五日紀伊国名草群雄山口に着す
同廿六日日前国懸宮に奉幣の後藤代に至る
同廿七日在田郡勧学院
同廿八日在田と日高郡との堺鹿背山々中に着す
同廿九日日高郡塩屋に着す
十月一日乗船太万浦に着し牟婁郡三栖に留る
同二日同郡滝尻宿に至る
同四日湯川に留る
同五日この日本宮に着す先つ音無川に解除の後修
理別当勢深房に着し申刻三所の御前に奉幣了って
社前に於て御明を供し又経供養を行ふ
同六日帰途につく
同十三日京着稲荷社の奉幣を了へたる後宿所に帰る
この間日を閲すること二十有八日これ前後の時代を通して普通に行はれし日次なるべし又御幸記の後には宴曲抄に収めたる熊野参詣の曲よくその実況を描出せり、この書正安三年八月の項之を録すとあれば之によりて鎌倉時代の有様を窺ふに足るべし、今その文を見るに全編四段に分れ京都より本宮を経那智に至る間の道行きを叙したるが文章流麗にして雅趣に富み文学的作文として相当の価値あるをみとめらる、さて文中至る所に王子ありてその繁栄せる状を記せる中にも窪津王を子を九品津と書し又毎段の末尾の初めに
王子二三の馴子舞法施の声ぞ尊
と打出したる等は仏教の趣味と時代の風習と交へたる信仰の基に王子にこの社か行者達に渇仰せられたりし有様を知るに足るべく殊にその末を結ぶに
南無日本一第一大霊験熊野参詣
の一句を以てしたるは当時の修験者が道中口誦せしをそのまま用ゐしなるべけれどかの南無遍照金剛の句など思出されて当代の繁昌今現前にある心地す。
又近時和田英松氏によりて世に紹介せられたる梁塵秘抄の中にもこの信仰を窺ふに足るものあり例へば
くまのへまゐらむとおもへともかちよりまいれはみ
ちとをしすくれてやまきひしむまにてまゐれはく行
ならすそらよりまゐらはねたべ若王子
とあるが如きは路次の険阻と困難とを想見せしむるものといふべく又
くまのにまいるには、きぢといせぢとどれちかしど
れとをし広大慈悲のみちなれば、きぢもいせぢもと
をからず
とあるは参詣の路に紀伊路と伊勢路の二つあるを教ふるものなり。按ずるにこの両大路中常に歴史に見えたるは東の方紀伊路よりするものにして代々の御幸皆之により伊勢路は後世伊勢参宮の道者が之をとりし外終に見はるることなかりき、隨ってこの方面には初めより沿道に王子の発生せしことなくたた新宮に近つき岩屋の王子等一二の社を起ししに過きざりき
さてかく本社の隆盛を致し王子にこの信仰を増せし傍に於て注意すべきは早くもその中に衰徴の兆を節し来りしことなり、鎌倉の中期即四条天皇の嘉偵中に至り幕府より令して沿道の諸王子を修造せしめしことあり紀伊國名所図絵所為崎山氏文章に曰く
熊野道王子寺社破壊事依宿願可被修造也日時勘文遣
之其内紀伊国湯浅庄久米崎王子社破壊無跡云々然者
為地頭之所役如本丁寧可被造営之状仰執達如件
嘉禎二年七月二十四日 武 蔵 守判
修理権太夫判
湯浅太郎殿
とこれ在田郡湯浅庄の地頭として世々地方に勢力ありし湯浅氏に宛てたる文章にして本文によればかの建仁度に奉幣をうけたる久米崎王子社にして跡方なきまでの衰微に陥りたるを知る固より藤代切目の如き五躰王子中要所に位せしものは一方に少からぬ信仰の力を有したれば平の王子社と同日に論じべからずと雖己にこの頃にしてかくの如き窮状を呈したるものありとすれば爾後の変遷亦思半に過るものあらん。
御幸は弘安四年亀山上皇と女院の行啓は嘉元元年玄輝門院を限りとして復行はれずこの後応永、永享の頃に至り再び縉神家女房達の参詣復興せられしと雖も王子社の修営は如何なりけむ知るに由なし、降つて近代に至りここに留意する所ありてその再興に心を用ゐられしは実に紀州候徳川氏なり、今この頃の状況を見るに久米崎比曽原小広猪鼻水飲伏拝等の如く社殿は全く退転したるものあり。
或は久保津、川辺、内畑、岩内、津井等の如くその社地を移せるものもあり、或は社地は往昔に異ならずと雖も平尾、切目、発心門等の如くいたく廃頽に帰したるも少なからず又甚しきに至りてはその社地の決し難かりしもの少なからざりきといふ、ここに於てか南竜公は領内の諸王子社に対し或いは発心門の如く之を再興し或は久米崎の如く小祠を建立し或は碑を立てて之をはす等改旧の施設に勉めらるる所あり、尋いで同藩にては紀伊国続風土記の編修ありこの時諸学者をしてその考証に勉め又所在の究明に最も力を尽さしめられきといふ為に和歌山領内の神社に就きては神社の保存所在の講究二つながら始めて全きを得何れも甚しき衰頽に至らしむる事なかりき、されど摂津、和泉の方面には嘗つてかかる保全の計画ありしを聞かず、さればにや第一王子たる窪津は全く旧の位置を離れ第二第三の小坂郡戸は共にその跡を失う等所在の煙滅に帰せしめしものさへ少からず、又その残れるものに、就きても保存の方法の充分ならざりしは勿論文献上の講究に至りても摂津志、和泉志等一般地誌類の外新に専門的の著述を生むに至らざりき。
大様上に述ぶるが如き変遷を経て王子社は今日に来れりされど今は御幸行啓はもとより道俗の参詣も漸く絶々に三山の信仰は曩日に比すべくもあらず、衰へ果てたり如之道路は変更し交通機関は益々整頓の域に向はんとす、さなきだに動もすれば衰徴に傾かんとせし王子の諸社は将来何によってか生命を維持し又如何なる方面に発達せんとするものぞ、
終りに臨みその社格建築二三の項を附記し以てその盛観を偲ふへき便とせんとす
一、その社格 古く末社と称せられ別宮と同一の性質に属すべきなりと雖本宮に対し被官の関係を有ししにはあらざるが如し
即ちさきの嘉禎の文にも見えたる如く至る所地頭等の保護を蒙り彼等の治下に独立を維持をなししものなるべし、随つて各王子社間にも相互の関係はなかりしものか今その中の重立たる社にのこれる文書又記録に見ゆる記事等に微してもその独立せし趣を知らるるなり但中につき三山付近に存せる社、例へば本宮の湯峯、新宮の浜王子、那智の多富気、市野々、佐野王子等はいつの頃よりか夫々本社の治下に属し末社として待遇を受けたりき、今日の状況はいふまでもなく各社独立の計をなして郷村社等の社格を有し被官の関係を有せず。
二、その神職 日根王子に神主ありて、求めに応じ燈明を供せしこと古く大府記に見ゆ、さればこの外の諸王子社にても夫々神職の附属せしものなるべしと雖悉くの神社に亘りて如何なりしや覺束なしといふべし、
近代に至りては他社の神職より之を兼帯せしもの甚だ多く専務のものにては藤代切目等其の中の数社に止まりたりき、されど中につき盛大なる神社に至りては別当寺を置き供僧の住せしものありき、
三、その建築 王子社の社殿はもと本宮に模擬して作られしものの如く各所共通の式を有ししに有らざりしかと思はるるなり。
今その現状を見るに大様二種の別あり、即その東西牟婁日高等南紀の方面に存せるは多く春日造又は入母屋造(妻入)など妻入の式に従へるもこれより以北和泉路にかけては平入の式に従う流造がその大部を占めたるが如しこれ何れによりて然るか、
そもそも熊野の社殿には古来一宮の式あり、今本宮に就いていはむにその本殿なる誠證殿は入母屋造(妻入)の屋根に千木勝男木を戴き桁行四間三尺梁間二間の広さを有せり、然るに古図により考ふればこの建物は己に春日造の変形したるものの如く現にその古殿を譲受けたる神社にも今も猶この春日造の式を見ることありといふ、諸王子の社殿は即この本宮の様式を襲へるものなるべく即ち各地に於て諸末社の社殿のその本社の風に擬すると同一の現象なるべし、然るに紀伊の北部より和泉にかけては一般地方的の現象をうけたる結果いつしかその風頽れ遂に流造を用ゐるに至りしものならん。
四、その分布 王子社の数はさきにいへる如く時代の変遷なり又その廃滅に帰したるも少からずと雖今建仁の御幸記を基とし大様室町時代以前の文籍に見えたる限りを順次列記すれば左の如し
久保津王子第一王子 坂口王子
郡戸王子 阿倍野王子第二王子
以上四社摂津国
境 王子 大鳥居王子
篠田王子 平松王子
井口新王子 池田王子又積川王子とも
浅宇阿王子 鞍持王子
胡木新王子 鶴原王子
佐野王子 籾井王子
厩戸王子 信達王子
一之瀬王子 長岡王子
地蔵堂王子 馬目王子
以上十八社和泉国
中山王子 出口王子 (三橋王子)
川辺王子 中村王子
吐前王子 和佐王子
平緒王子 奈久口王子
柏原王子 松阪王子
松代王子 菩提房王子
祓戸王子 藤代王子(五躰王子)
塔下王子藤代 橘本王子
所阪王子 一壺王子
塔下王子阪 山口王子
糸我王子 逆様王子
久米崎王子 井関王子
川ノ瀬王子一本ツノセ王子 馬留王子
沓掛王子 内畑王子
高家王子 田藤王子
愛徳山王子 久海士王子
岩内王子 塩屋王子
上野王子 津木王子
斑鳩王子 切部王子 五躰王子切目トモ
中山王子 磐代王子 岩代又石供
千里王子 三鍋王子
芳養王子 出立王子
秋津王子 丸本王子
三栖王子 八上王子
稲葉根王子五体王子稲持王子トモ一之瀬王子
鮎河王子 滝尻王子五体王子
大門王子 金昭王子
大阪本王子 近露王子
比曽原王子 継桜王子
中之河王子 小広王子
岩神王子 湯河王子
猪鼻王子 発心門
水飲王子 祓殿王子
伏拝王子 湯峯王子
浜 王子 佐野王子
市野々王子 多家富気王子
以上七二社紀
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
紀伊国王子社略記
中山王子
名草郡滝畑村ニアリ
コノ所ヲ王子ヶ原トイフ定家卿御幸記ニ見エタリ
山口王子
仝 湯屋谷村ニアリ
御幸記ニアリ一ニハ三橋王子トイフトイヘリ
川辺王子
仝 上野村
寛永記ニ八王子社嵯峨天皇弘仁年中建立ニシテ川辺楠本、島、神波、上野、別所、落合七ヶ村ノ氏神ナリ古ハ神地十五町アリシニ豊太閤ノ時没収セラレ古文書ノ類天正ノ乱ニ紛失ストアリ、当社ハ熊野御幸記ニ載レル所ノ川辺王子ニシテ心敬かささめことノ自跂ニアル八王子社ノ社コレナリ後世[元上野村ニアリ]コノ地ニ迂坐シ給フニ因リテ古ノ形トハ異ナル処アリ寛永ノ後モ猶事変シテ今ハ川辺、楠本、島、神波四ヵ村の氏神トナレリ
中村王子
仝 楠本村ニアリ、今楠大明神社トイフ、本国神名朝
ニ出タル従四位上楠本大神スハハチコレナリ
吐前王子
那賀郡吐前村ニアリ
土人王子権現ト呼フ、森ヲ御幸道トイフ古ノ熊野御幸ノ道次ナリ古ハ森大ナリシニ漸々農民ニ掠メラレテ小サクナリ且中ヲ絶レテ森二トナリタリ
川端王子
名草郡布施村ニアリ
今和佐王子ト称ス寛文記ニ云和佐王子二社一ハ坂本ニアリ一ハ川端ニアリトイフハ即チコレナリ森古松多シ
坂本王子
仝祢宜村ニアリ小栗街道字坂本ト云フニアリヨリテ阪本王子ト称ス社ンシ碑ヲ建テ和佐王子ノ四字ヲ彫ル寛文年中ニ建ル所トイフ古ハ別所観音寺トイヘルアリテ王子ノ別当職ナリシ事和佐氏所蔵応安建徳コロノ文書ニアラハルソノ盛ナリシ事知ルヘシ今大子ノ東ニ別所谷トイフアリソノ地古観音寺アリシ所ナラン、
御幸記ニ吐前王子ノ次ニ両王子トアリテソノ名ヲ載セス上ノ両祠ノ事ナルベシ
平緒王子
仝 平尾村ニアリ
村中小栗街道ノ西側ニアリ熊野御幸記建仁元年十月八日ノ条ニ平緒王子非道次小間不参先達許奉幣トアリ旧ハ社モ五尺許拝殿モアリ社領モ五段アリシオ農太閤南征ノ後衰退ストイヘリ
那口王子
仝 楽勝寺村ニアリ
熊野古道ノ向ヒ山ノ麓ニアリ御幸記ニ見エタルナクチノ王子別当社ナリ
松阪王子
仝 且来村ニアリ今廃跡ナリ
村中熊野街道ノ西ニアリ道ノ東ヲ王子前トイフ寛文記ニ八幡ノ末社ノ内ニ王子社退転トアリ
松代王子
仝 中村ニアリ
春日山ノ裾ニアリ社廃ス公命アリテ石ヲ立テ表彰ス熊野御幸記云十月八日参松坂王子次参松代王子ト見エタリ寛文記ニ井田村松代橋トイフアリソノ辺ニ王子屋敷トイフアリト有リ
菩提坊王子
鳥居村界熊野古道ニホタイトイフアリソノ廃絶ノ跡ナルベシ
祓戸王子
仝 鳥居浦ニアリ
今鳥居王子トイフ聖護院三宝院両門跡入峰ノ時拝セラルル社ナリ後鳥羽院熊野御幸記ニ見エタル祓戸王子トアルコレナリ
藤代王子
村里熊野街道ニアリ後鳥羽院熊野御幸記ニ於王子御前有御経供養等トアル即是社ナリ当社勧請ノ由来詳ナラス相伝ヘテ熊野一鳥居ト称スオモフニ熊野ノ盛ナリシ時此地ニ大鳥居ヲ建テ熊野一ノ鳥居トシ遂ニ熊野神ヲ迂シ祭リシナラン大鳥居天文十八年ニ損失スト寛文記ニ見エタリ、鳥居ノ跡今ノ鳥居村コレナリ社伝ニ云フ当社ハ景行天皇五年ノ鎮座ニシテ斉明天皇牟婁郡ノ温泉ニ浴シ給ヒシ時神祠創建シタルヲ聖武天皇弱浦行幸ノ時皇后ノ命ヲ以テ行基僧正コノ地ヨリ熊野神ヲ遙拝ス孝謙天皇玉津島行幸ノ時熊野広浜供奉ス請ニヨリテ官旨ヲ奉シテ三山を此地に迂し奉リ末代后妃夫人熊野遙拝ノ使トス此等ノ由緒ニ因リテ熊野一ノ鳥居ト称ス古境内ノ入口ニ楼門あり勅額ノ銘ニ日日本第一大霊験根本熊野三所権現トアリトイフ、然レドモイツレモ古記ニ考拠慥ナラネハ今サライカネトモ明弁シカタシ、御歌塚トイフアリ後鳥羽院建仁元年十月九日御幸ノ時当社ニテ和歌御会アリソノ時ノ御歌塚ナリト云ふ右御会和歌深山紅葉海辺冬月ヲ題トス
塔下王子
海部郡ニ属シ藤代峠ニアリ御幸記ニアリ土人若王子トイフ慶安四年境内禁令札ヲ賜ハルコノ社地ハ地蔵宝寺ノ境内ナレドモ別ニ社地アリテ寺アツカラス
橘本神社
同 桂本村ニアリ
土人本ノ字ヲ略シテ橘ノ王子トイフ、御幸記ニ橘下王子トアルコレナリ土人伝テ云白河法皇御幸ノ時当社ニ通夜シタマヒテ
橘の本に一夜の旅寝して
入佐の山の月を見るかな
ト云フ御製アリシトド
所坂王子
同村ニアリ
御幸記ニところ坂王子トアル是ナリコノ地革蘇ノ多ク生ヒタリシ故ニコノ名アリ社頭ニ松ノ古木アリ
一壺王子
市坪村ニアリ
御幸記ニ一壺王子トアル是ナリ鐘銘ニハ山路王子ト刻メリ
蕪坂塔下王子
在田郡畑村ニアリ
カブラ坂ノ上ニアリ御幸記ニカフラサカ塔下王子トアルコレナリ
今本塔字字ヲ脱ス塔下ハ峠ノ借字ナリ
道間記ニ拠ルニ蕪坂王子塔下王子ノ二社アリ今当社ノミ存ス寛文記ニ鏑鎚王子麓ニアリト書スハ道間記ノ蕪坂王子ノ事見ユレドモ今は癈す。
山口王子
同 道村ニアリ
カブラ坂ノ麓ニアリ御幸記ニ見ユ
糸我王子
同中番村今癈ス
御幸記ニイトカハ王子トアリ
ハノ字はノノ字ノ誤ナルヘシ
逆川王子
同 吉川村ニアリ
熊野街道中尾トイフ所ニアリ一村ノ氏神ナリ社辺ニ逆川アリ故ニ逆川王子トイフ、御幸記昇いとう山下」山之後参さろさま王子トアルコレナリ昔ハ王子免地蔵免トイフ田地五反アリシト云フ
久米崎王子
仝 別所村ニアリ
村ノ南道ヨリ一町許東ニアリ
後鳥羽院熊野御幸記ニ払暁凌雨赴道無程王子御坐云云m依道遠向路頭樹拝云云くめさき云云トアル即当社ナリコノ地ノ字ヲ今久毛崎トイフハ久米崎ノ訛ナリ嘉禎年中社破壌ニ因リテ修造スヘキ由ノ御教書アリ
ソノ写田殿荘崎山氏蔵セリ下ニ載す
按スルニ参議雅経卿集ニ健保四年九月廿日熊野路にて湯浅のみやにて御会ありける云云トアル湯浅の宮今詳ナラス此社地旧湯浅村ノ領ナレハ久米崎トモ湯浅ノ宮トモイヘルナルヘシ後世又破壌シテ築地ノミナリシオ元和年中又小社ヲ建サセ給ヘリ
熊野道王子社等破壌事依御宿願可被修造也日時勘文遣之其内紀伊国湯浅荘久米崎王子社破壌無跡云云然者為地頭ノ所役如本丁寧可被造営之状依仰執達如件
嘉禎二年七月廿四日 武 蔵 守 判
修里権太夫 判
湯川太郎殿
井関王子
仝 井関村ニアリ
御幸記ニ井関ノ王子トアル是ナリ今津兼王子トイフ津兼ハ地ノ字ナリ
川瀬王子
仝 河瀬村ニアリ
村ノ北ノ端往還ニアリ御幸記ニ川のせの王子トアリ即コレナリ
今御幸記ノ川瀬ノ川ノ字ヲ假名ノつノ字ニ訓アヤマリ角瀬王子トイフハアヤマリナリ
馬留王子
仝村小名鹿ヶ瀬ニアリ
コノ辺ヨリ坂道嶮岨ニシテ馬上ニテハ行カタン御幸ノ時コノトコロニテ馬ヲ留ラレシトイフ故ニ馬留ノ名アリ或ハ当社ヲ沓カケ王子ニ配シタルハ誤ナリ
右御幸記ニ見エズ
沓掛王子
日高郡原谷村ニアリ
御幸記ニ越シヽノセノ山参沓掛王子トアルハコノ社ノ事ナリ今鍵掛王子トモ云フ
内畑王子
仝 萩原村ニアリ
内ノ畑ト云フニアルヲ以テシカ呼ヘリ
御幸記ニ十月十日暫休息山中小食於此所上下伐木随分造付之云云トアルコレナリ
高家王子
仝村ニアリ
高家王子若一王子又東光寺王子トイフ萩原高家池田荊木原谷五ヶ村ノ産神ナリ源平盛衰記日権亮維盛ハ蕪坂ヲ打下リ鹿瀬山ヲ越過て高家の王子ヲ伏拝み日数へて漸く経る程に千里の浜も近付
田藤次王子
仝 下富安村ニアリ
今善童子王子権現トイフ荘中四ヶ村ノ氏神ナリ土人出王子或ハ出童子ト称ス御幸記ニ此辺高家云云次参王子田藤王子云云次又愛徳山王子トアル田藤次は善童子ト称近ク道路ノ順ニモカナヘバ此社ナラン古ハ大社ニシテ湯川家ヨリ社領一町六段神主ノ領一町三段九畝余ヲ寄附セシニ豊太閤南征以後没収ストイフ
愛徳山王子
仝 吉田村ニアリ
御幸記ニアリ
九海士王子
仝村ニアリ
コノ所ハ古ノ熊野街道ナリ御幸記ニクマハ王子ト見エタリ九海士ノ義詳ナラス桑間ナトノ義ニシテ土地ノ小名ナルヘシ世人或ハ九ヲ略シテ海士王子ト云フヨリ道成寺ノ本尊ヲカツキ上シ海郎ヲ祭リシナリト云フ附会ノ説神ヲ誣トイフヘシ
岩内王子
仝 岩内村ニアリ
今世久志波王子トイフ
岩内王子御幸記ニ見エタリ
塩屋王子
仝 北塩屋村ニアリ
御幸記ニ参塩屋王子此辺又勝地有祓トアル即コノ社ナリ今境内ニ御所ノ芝ト云所アリ後鳥羽院ノ行在所ノ跡トイフ大塔宮熊野ニ潜行シ給ヒシ時此所ニテ一宿シ給フトイフ今碑石ヲ建ツ碑文下ニ録ス
千載集
白河法皇熊野へまいらせ給ひたる御供して塩屋の王子の
御前にて人々歌よみ侍りたるに
後二条大臣
思ふことくみてかなふる神なれは
塩屋に願をたつるなりけり
新古今集
白河院熊野にまうて給へりけるに御供の人々塩屋
の王子にて歌よみ侍りけるに
後徳大寺左大臣
立ちのほる塩屋のけふり浦つせに
なひくを神の心ともかな
塩屋王子祠記
塩屋村在日高川之海口昔時煮塩為業焉因名今村南北其在北者山岡東來西北臨日高川山岡登絶数十磴上平垣而樹木鬱蒼神廟在焉称古無所見不知其所祠在山岡可以遠眺望放聖駕幸於熊野毎為駐之処白河法皇之幸使公卿賦和歌於祠前建仁元年後鳥羽帝之幸御幸記所謂此処亦勝地是也自後至弘安四年駕於茲者数帝御幸記所矣元弘之乱大塔宮避雉遁干熊野亦投宿干此盖聖駕駐騨之後屋宇猶存也今也屋宇皆癈而草樹蒙密之中遺跡独存焉故土人呼日御所之芝謂結縷也地形東連山戀西海臨畔淡阿諸山隠々乎蒼波杳渺之中其北則象嶺回擁如半環蒼翠浚虚麗?西走其間一大海湾若開鏡面此古之地形也数百年之久砂土填海川流亦移海湾変而沃野数里村落鱗集出疇区分開廓遠大?曖於雲烟之中翠松一黛弥漫於海畔数里之間山容水態四時極其濃媚花晨月夕千歳同其奇観誠可謂一郡絶境矣嗟乎人之居世老幼異思貴賤分趣観物之情固不能同登茲此岡也数帝一王遊予跼蹐之蹤依然猶存焉則豈得無意哉将迫聖駕欣賞之跡縦其心自魂飛神怡朗誦微吟楽而忘帰則将弔帝子於遺跡欽其英風気烈流梯歔欷猶有余概即又将達観古今一視萬類滄桑之変不入於心悲歓之跡不?於?子子焉洋々焉以遊思於物表耶樹碑勒文後之観者其有所択焉
天保四年癸己九月
上野王子
仝 上野村ニアリ
御幸記ニ上野王子野径也トアルコレナリ今ノ社地ハ海ニ面シテ野径ニアラス今ノ往還ノ東北畑中ニ道アルヲ小栗街道トイフ道ノ側ニ仏井戸トイフアリコレ王子ノ旧地ニテ野径トイフニ当レリソノ社中世回禄ニカカリテ廃絶セルヨシ寛文記ニ記セリソノノチ更ニコノ地ニ祭レルナリ
津井王子
仝中村ニアリ
今叶王子ト呼フ御幸記ニツイの王子トアルコノ社ナリ津井村古老ノ伝ニ当社旧津井領ニアリ後印南ニ移シタリト云フ
斑鳩王子
仝 光川村ニアリ
今富王子トイフ
御幸記ニいかるの王子トアルコレナリ
古歌ニ斑鳩や富の小川のトイヘル富イカルカ共ニ大和国ノ地名ナリコノ王子モ富トイヒイカルカト云フハ聖徳太子ナトニヨシアル事カ
切目王子
仝 西野地村ニアリ
熊野御幸記ニ切部王子トアルコレナリ平家物語ニ平維盛熊野ヘ落ル時コノ社前ニテ湯浅宗光ニ逢シ事見タリ今五体王子ト云フソノ称ハ神ノ御像五ツアルヲ以テ云フ或ハ地神五代ナルヲ以テ五代王子トイフ代体、音近キヲ以テ転スルナリトイフイツレカ是ナル事ヲ知ラス
祝家ノ伝ヘニ神号ハ覆天天雨宮何ノ義ナルカ知ス
後鳥羽院熊野御幸記ノ御時当社ニテ歌ノ御会アリ其時御懐紙ヲ神前ニ納メ給フト天正十三年ノ兵火ニカカリテ社殿神宝コトコトク焼亡ス後禁廷ニ願ヒ奉リテソノ写ヲ給ヘリトテ今社殿ニオサメテ重宝トス天正兵火ノ後尼アリテ七ヵ月ノ間ニ社殿ヲ再興ストイフ今ノ妙法山尼屋敷トイフハ
今社地ノ前街道ヲヘタテテ小高キ所コレナリ
其比丘尼ノ居リシ所ナチト云フ
或ハ神道者来リテ七ヶ月ノ間ニ再興シ造営終リテ往ク所ヲ知ラスト云フ
太平記ニ大塔宮ノ事ヲ載セリ日カクテハ南都辺ノ御カクレ家モ叶カタケレバ則般若寺ヲ御出アリテ熊野ノ方ヘソ落サセ給フ御供ノ衆ニハ光林坊玄尊赤松律師則祐本寺ノ相模岡本三河坊武蔵坊村上彦四郎片岡八郎矢田彦七平賀三郎カレコレ以上九人也宮ヲ始奉リテ御供ノ者マデモ皆柿ノ衣ニ笈ヲ掛けケ頭巾眉半ニ着其中ニ年長セルヲ先達ニ作リ立テ田舎山伏ノ熊野参詣スル体ニソ見セタルケル切目ノ王子ニ着キ給フ其夜ハ叢祠ノ露ニ御袖ヲ片敷キテヨモスカラ祈リ申サセ給ヒケルハ南無帰命頂礼三所権現滿山護法十万ノ眷属八万ノ金剛童子垂迹和光ノ月明カニ分段同居ノ闇ヲ照ラシ迎臣忽ニ亡ヒテ朝廷再耀ク事ヲ得セシメ給ヘ承ル両所権現ハ是伊弉諾伊弉冊ノ応作也我君ソノ苗裔トシテ今朝日忽ニ浮雲ノ為ニ隠サレテ冥闇タリ豈傷マサランヤ玄監空シキニ似タリ神モシ神タラハ君ナンソ君タラサラント五体ヲ地ニ投ケテ一心ニ誠ヲ致シテソ祈リ申サセ給ヒケル丹誠無ニの御感応ナトカアラサラント御慮モ暗ニ計ラレタリ終夜ノ礼拝ニ御窮屈有ケレバ御肱ヲ曲ケテ枕トシテ暫御目睡有ケル御夢ニ髪結ヒタル童子一人来テ熊野三山ノ間ハ尚モ人ノ心不和ニシテ大義成リカタシ是ヨリ十津河ノ方ニ御渡リ候ヒテ時ノ至ランヲ御待チ候ヘカシ両所権現ヨリ案内者ニ附ケ進ラセラレテ候ヘハ御道指南仕ヘルヘクト申スト御覧セラレ御夢ハサメニケリコレ権現ノ御告也ケリトタノモシク思召サレケレハ御未明ニ悦ノ奉幣ヲ捧ケ頓テ十津川ヲ尋ネテソ分ケ入ラセ給ヒケル
其道ノ程三十余里カ間ニハ絶エテ人里モナカリケレハ或ハ高峯ノ雲ニ枕ヲ歌テ苔ノ筵ヲ敷キ或ハ岩漏ル水ニ渇ヲ忍ンテ朽タル橋ニ肝ヲ消ス山路本ヨリ雨ナクシテ空翠常ニ衣ヲ湿ホス向上レハ万仭ノ青壁刀ニ削リ真下ハ千丈ノ碧潭藍ニ染メリ数日ノ間斯ル嶮難ヲ経サセ給ヘハ御身モ草臥ハテテ流ルル汗ハ水ノ如ク御足ハ欠ケ損シテ草鞋皆血ニ染レリ御供ノ人々モ皆其身鉄石ニ非レハ皆飢疲レテハカハカ敷モ歩得サリケリ共御腰を推シ御手ヲ挽キテ路ノ程十三日ニ十津川ヘソ着セ給ヒケルトアリ、親王熊野ノ方ニ往くカセ給ハス此所ヨリ東北ノ方ニ転シテ大和国十津川ニ至ラセ給ヘリ
親王カク霊験ヲ蒙ラセ給ヒシヨリ後人神徳ヲ崇ミ親王ヲ景仰シテ社殿ノ東太鼓屋敷ト唱フル所ニ小祠ヲ造リテ大塔宮社ト祀レリ近年安藤家ヨリ命シテ本社ノ側ニ遷シ新ニ修営アリ且碑ヲ建テ其事蹟ヲ表ス
中山王子
同 島田村ニアリ
御幸記ニ超山切部中山ノ王子トアル是ナリ旧ハ今ノ社地ヨリ八町許東中山ノ内ニアリ今其ノ地ヲ王子ヵ谷トイフ
岩代王子
同 西岩代村ニアリ
御幸記ニ日参中山王子次ニ出浜参磐代王子此所為御小養御所無入御此拝殿板毎度被注御幸人数中略自是又先陣過千里浜此辺一町許参千里王子トアリ此文ニヨレバ磐代王子社ノ側ニ御小養御所アリ其所ヨリ千里浜ヲ過キテ千里王子ニ詣テ給ヒシナリ今千里王子ヲ去ルコト西十町許東岩代村山内村ノ界海ニ臨ミテ御所原トイフ小山アリ此御小養御所ノ跡ナルヘシ然ラハ磐代王子モ旧此辺ニアリシナラン今ノ社地御所原ヲ去ルコト七、八町ニシテ御幸記ト符ハス東岩代ノ浜山内ト接スル所ニ天神社アリ疑フラクハ磐代王子ノ旧地ナランコノ王子ニ参詣シテ板ニ姓名ヲ書付ル例トオホシクテ新古今集ニモコノ事見エタリ
新古今集神祇
熊野へまうて待りしに岩代の王子に人々の見ると書付け
させてしはし待りしに拝殿のなげしにかき付待りし歌
よみ人しらす
岩代の神はしるらむしるへせよ
このむうき世の夢の行末
千里王子
同 山内村にあり
御幸記ニ見エタリ中世頽破ニ及ヒシニ万治中国主ヨリ獅子一対三具足絵馬等寄附アリ寛文四年拝殿建立アリテ社殿備ハレリ
三鍋王子
同北道村ニアリ
今王子権現ト云フ御幸記ニ見エタル三鍋王子ハスナハチコレナリ古道変シテ今ハ熊野往還ニアラス
芳養王子
牟婁郡下村ニアリ
今若一王子ト云フ御幸記ニ芳養王子トアルコレナリ、湯川家領主ノ時寄附ノ田五町余アリシトソ
出立王子
同 下秋津村ニアリ
今若一王子トイフ御幸記ニ出立の王子トアル即当社ナリ
秋津王子
今下秋津村ニアリ
今若一王子トイフ御幸記ニ秋津王子トアルコレナリ当社ハ旧コノ地ヨリ六、七町南柳原ト云フニアリ永正七年寛文九年ノ棟札等ニ秋津荘柳原ト書スコレナリ柳原ハ熊野往還ナリ後洪水アリテ秋津川ノ流南ニ移リシヨリ社ヲ今ノ地ニ移セリトイフ元禄六年ノ棟札ニ当社者本在于柳原村三遷而勧請今之安井村トアリ安井ハ下秋津ノ小名ナリ
丸王子
同 万呂ニアリ
三栖山王子
同 下三栖村ニアリ
今影見王子ト云フ御幸記ニみすの山王子トアルコレナリ土人云フ古御神社辺ノ谷川ニテ影ヲウツシ見給ヒテ此社ニ鎮座ス故ニ影見トイフトソ
八上王子
同 岡村ニアリ
下三栖村ヨリ越エル路傍ニアリ一村ノ産土神ナリ御幸記ニヤカミノ王子トアルコレナリ八上ハ谷上ノ義ナルヘシ僧西行当社ノ桜ヲ見テヨメル歌山家集ニ載ス境内ニ松ノ大樹アリ
稲葉根王子
同 岩田村ニアリ
王子谷ト云フ所ノ川端ニアリコノ地熊野古道ナリ一村ノ産土神ニシテ慶長十一年ノ棟札アリ御幸記ニ稲葉根王子「此王子准五体王子毎時過差云々御幸之義同五体王子云々」トルコレナリ二十二社註式ノ条ニ云或記日嵯峨天皇弘仁十二年夏智証大師参熊野以顕密法還元向之時紀伊国岩田川下稲羽里里之間一人老翁多刈稲荷之二人女而載稲不知行方方矣訖其夜大師夢一人老翁者上宮二人女下中社ナリ云々トアリ稲羽里ハ御幸記ニ稲葉根トカケルニ同シク当所ナルヘシ
里ノ名癈シテ王子ノ名ノコレルナリ
今当社ノ末社ニ稲荷社アルハコノ古事ニヨリテ祭レルナラン
一瀬王子
同 芝村ニアリ
御幸記云昇崔蒐嶮岨入滝尻宿所河難韻忙巌石之中也入夜給題「使者遅来云々」即詠ノ持参如例披講ノ間参入読上退立参此王子帰宿所
河辺落葉
そめし秋をくれぬとたれかいはた川
また波こゆる山姫の袖
旅宿冬月
滝川のひゝきはいそく旅の庵を
しつかに過る冬の月影
十文王子
同 大内川村ニアリ
御幸記に重照王子トアリ
大坂王子
同 近露村
御幸記ニハ大坂本ノ王子トアリ
相坂峠ニアリ今社ナク森アリ碑ヲ建ツ
近露王子
同 近露村ニアリ
同若一王子ト云御幸記ニ近露王子トアルハコレナリ社前ニ芝アリ頓宮ノ跡ト云フ
比曽原王子
同 野中村ニアリ碑ヲ建ツ
御幸記ニアリ
継桜王子
同村ニアリ
今若一王子ト云フ御幸記ニ継桜王子トアルハコレナリ天正年中ノ記文ニ小広峠ノ王子ヲ見明之明神ノ側ニ勧請セント神主氏カタラヒテ社ヲ建テント云フコノ記ニヨレハ此ノ王子古ハ中ノ川王子ヨリ東小広峠ニ在リテ御幸記ニ合ハス古ハコノ地ニアリシオ中此比ニ小広峠ニ移シ又今ノ地ニ迂セルカ社前ニ桜樹アリ秀衡桜トイフ又接桜ト云フ古奥州ノ秀衡夫婦熊野参詣ノ時嶮山ノ窟ニテ出産シ其子ヲソコニ置キテ参詣ス此処ニテ桜ヲ手折リ戯ニ祝シテ云フ吾子恙ナク生育セハコノ桜色香盛ナルヘシトテ下向ノ時見ルニ其桜ヨク生長シ幼キ子モ恙ナカリシソノ桜ヲ接桜、又秀衡桜と云ヒツタヘタリ
中川王子
仝村ニアリ碑石アリ
御幸記ニアリ
小広王子
仝村ニアリ碑石アリ
御幸記ニナシ
岩神王子
仝 道湯川村ニアリ
御幸記ニイハ神ト見エタリ近年マテ社アリシカ今ハ社モ印モナク唯峠ノ北ノ方少シ平ナル処ヲ社ノ旧地ト云フ
猪鼻王子
仝 三越村ニアリ
御幸記ニ見ヘタリ今社ナシ碑ヲ建ツ
発心門王子
仝村ニアリ
御幸記ニ今日王子湯河次猪鼻次発心門此王子宝前殊発信心紅葉飜風宝殿上四五尺木無隙生多此紅葉也ト見エタリ当社古ハ著キ社ナリシニ中世退転セシヲ享保中再建ス
水飲王子
仝村ニアリ今碑ヲ立建ツ
御幸記王子ニ内水飲祓殿ト見ユ又増基法師ノ紀行庵主ニ御山ニツクホト木ノモトコトニ手向ノ神多カレハ水呑ニトマル夜
萬代の神てふ神に手向けしつ
思ひと思ふことはなりなむ
伏拝王子
今伏拝村今碑ヲ建ツ
御幸記ニナシ
多富気王子
仝市野々村ニアリ
御幸記ニナシ
浜宮王子
仝 浜宮村ニアリ
御幸記ニナリ
佐野王子
仝 佐野村ニアリ
御幸記ニナシ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
王 子(御幸記の欠注の部)
中古熊野御幸シハシハアリシ頃ソノ道間ニ王子社トイフカ多クアリ今俗ニ九十九王子ノ社アリシトイフ九十九ハソノ大数ニテ正シク何十社アリシトイフ事詳ナラス御幸記ニ拠るルニ山城国久世郡木津郷ノ辺ヨリ始メテ王子ノ名見エタリ其文ニ申始許着木津先約拝王子人々前後会合良久御船着御ト見エ
約拝ノ二字ハ拝駒ノ誤リニテ上下ニナレルナラン今木津ノ辺ニ下狛村アリソノ地ニ若一王子社アリテソノ神宮寺ヲ若王子トイフソノ社ニ狛アルヨリ狛王子トイヒ同訓ノ駒ノ字ニ借リテ書ルニテ先拝駒王子ト註セルナラン
是ヲハシメトシテ次ニ坂口王子ニコウト王子ソレヨリ天王寺ニ詣テ給ヒ六日阿倍野王子次ニ住吉社次ニ境王子次ニ大鳥居新王子次ニ篠田王子次ニ平松王子七日井口王子次ニ池田王子次ニ浅宇川王子次ニ鞍持王子次ニ胡沐新王子次ニ女野王子次ニ籾井王子次ニ厩戸王子八日信達一之瀬王子次ニ地蔵堂王子次ニ目王子次ニ中山王子
中山ハモシ山中ヲ上下ニアヤマレルカ前ノ駒王子ノアヤマレル例モアリ今モ山中ノ駅アリサレド太平記ニ紀ノ中山トイフ事見エタレハ中山トモイヒシニヤ
次ニ山口王子云云トアリ山口王子以下次ニ注スヘシコノ記王子ノ名スヘテ七十余見エタレトモ他ノ古書ニ見エテ此記ニ洩レタルモ多ク今社アリテコノ記ニナキモ多シ、サテ奉幣御拝等ノサマ厳ナルト疎ナルトアリ詳ニ御幸記ニ見エタリコレハ行幸ノ御時道中ニテ熊野ノ神ヲ遙拝セサセ給ハン為ニ場ヲ設ケラレシナルヘシ、元ヨリ社アルハコレヲ用ヒラレ或新ニ社ヲ建ラレシモアリスヘテ王子ト称シテ地名ヲ配シテ其ノ王子ト呼ヒナセルナリ
按スルニ宇多上皇御幸ノコロハイマダ道間ニ王子アリシマサ見エス、増基ノ庵主ニ御山ニツクホドニ木ノモトコトニタムケノ神多ケレバ水ノミニトマルトアレハコノ頃ハ水飲ノ辺ニ多ク小社アリケンヲ御幸記ニハサルサマニモ見エス今モ水飲王子ノ外ナキヲ思ヘハ以前ハ諸王子社末社多クコノ所ニアリシヲ御幸サカリニナリテ追々ニソノ道路ニウツシ配リテ事ヲ弘クセシナルヘシ、サレガ白河上皇御幸ノコロヨリ専王子ノ説行ハレテ道間ニ多ク建ル事トハナレルナルヘシ