熊野古道     熊野古道関係の古籍

 

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 藤原宗忠の日記の中、天仁2年(1109)10月18日〜11月10日までの熊野詣の箇所を抜粋。
熊野詣の中では残念ながら18日以前(京都から有田川の間)は失われている。
 

宮内省図書寮の編纂、美術書院により昭和20年12月30日タブロイド判にて発行されたものを芝口常楠氏が昭和25年9月25日筆写、これを清水長一郎氏が昭和25年12月7日が借り筆写したものである。他の資料と比べあきらかに誤写とおぼしき所は修正し、読みやすいように句読点を付けました。



  宮内省図書寮 本叢刊之二

   中右記
            
株式会社 美術書院 刊

 中右記解説
本書は中御門右大臣宗忠公の日記たる中右記の一部にして熊野詣の別録なり、宗忠は藤原道長の裔にし承保元年始めて、叙爵せられ、承暦二年侍従に任ぜらる、順次辨官、藏人頭、参議、納言等に累進し遂に従一位右大臣に陞り保延四年二月出家、同七年四月八十歳の高寿を全うして薨去せり。人と為り格勤精勵白河、堀河、鳥羽、崇徳の四天皇に歴仕し在官六十年朝章に通暁し政務に練達し兼て侍賦を能くし作文大體、韻菜集、白律韻等の著書は世の推す所なり其日常の記録は之を中右記と称す。中御門右大臣記の略なり。別に愚林と題する傳本あり、愚林は蓋し原名なるべし。寛治元年二月より保延四年二月廿六日出家の日に至るまで実に五十二年の久しきに亘り巻を積むこと蓋て二百軸を超えしなるべし、現に其殊存せるものにして内閣の聚成せるもの一百九冊に及ぶ其他数種の傳本あり其録する所は歴史の缺を補ひ朝儀の参考となるべき事項頗る多し。
今回印行する所のものは天仁二年十月宗忠自ら熊野に参詣せる目録にして、文章雅暢字躰温潤世間流布の中右記には未だ載せざる所なり。十月十七日以前京都發足紀州に下る往路の記事は缺けたれども十九日早暁紀州有田河を渡り日高を経て熊野に入り廿六日那智證誠殿に着し参籠勤行を了へて宿昔の素願を遂げ十一月十日歸洛に至る。道中は完全にして闕落する所なし、當時熊野信仰の隆盛参詣者往返の有様宿泊の状況道路の険夷通過里落の名称山水の風光途中遭遇の事躰等は歴史地理の参考に資する所すくなからず。
此の原本巻軸は蹊史愚抄の著者たる柳原紀光の秘蔵せし古抄本にして紀光は之を宗忠自筆と審定せり、果して宗忠自筆たるや否やは、尚精査を要すべし。然れども假令其自筆に疑ありとするも宗忠自筆の原本より直寫せるものたるべきは首肯せらるべし紀光は之を門外不出極秘書として深く筐底に保藏せるを以て久しく世に顕はれざりしものなるが、昭和二年十二月二十八日柳原家の蔵書を擧げて宮中に献上するに及び此書も亦従って図書寮の収蔵に歸し今四幸に充されて其巻軸の全影を世に傳ふるを得たり。
右巻子本の柳原家に在りし間は巻表紙、巻軸、虫喰の断簡にて之を紀光が自筆を以て「中右記宗忠公自筆書付八枚極秘天仁二年十月端欠」と題し「柳原庫」白字開房朱印と「紀光」白字方朱印とを捺したる一葉の白紙に包みたりしが、現在の状態は薄紙を以て裏打を施し紫檀軸緞子表紙を装し包紙の紀光自筆題字の部分を巻頭に添へ稍々體裁を整へたり。巻子本文縦長九寸七分、幅十二尺三寸楮料紙八枚(前後一枚づつ半枚切断)島絲欄上二條下一條行界無し欄高八寸七分料紙一張三十三行毎行二十五字前後字體行書廿六日の裏にも記事一節あり複製本は日下の世状に於ても勉めて現状を損ぜざらん事に注意したり。                                   

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 割書が入っている所は「  」で、傍書きは(  )で、又古い字でPCにない字は?で書いています
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  天仁二年
十月(端缺)

  今日行程百九十町許云々
十八日、鶏鳴之後出宿、残月之前漸行路、先渡有田河、借橋、此間天明、次登伊止賀坂、次下坂、於送河王子許奉幣、次於其河辺祓「小川也」、登保津々坂、次過由和佐里、次於弘王子社奉幣、於同弘河原昼養「午剋」、暫休息之後出此処、於白原王子社奉幣「件王子近代初出来、有其験名」、次登鹿瀬山、登坂之間十八町、其路甚険阻、身力巳盡、林鹿遠報、峡猿近叫、觸物之感自然動情、漸下坂之間日巳暮「凡七町許云々」、下人取續松来迎、其後二三町許下従坂、於馬留下占宿(大木下成假屋)、
 今朝天陰頗小雨然而則漢左高晴、行程百廿町許云々、

十九日、天陰暁立宿所、樹陰甚繁、雲集重掩、仍行路不見、取續松過原中十町許滅火、原中八十町、林中見大蝦蟇、此間風吹雨下頗以電電(晝養所真如院大家庄司高大夫狩屋也)、参大家王子社奉幣(送物)、其南晝養、「午剋」、次参連同持王子許奉幣、「王子之名也」、過道場寺前渡日高川「河水大出」、下向女房両三人居河岸、不知誰人、仍遣馬渡、又送菓子等、宿日高郡氏院庄司石内庄司宅、「申剋、庄司有儲」
 今日大雨大風、行路之間難行苦行、大家庄司五位送物也、晝養所ニ雖送命運此宿所也、重方来見参「此里住人也、進菓子」
 今日行程百廿町許云々、

廿日、雲気快晴、雨脚巳止、鶏鳴之後出宿所、残月之前漸以微行、日高川水大出妨行路云々、仍頗入東細道、小山上往道廿町許、至塩屋王子社奉幣、於上野坂上祓、次晝養、「巳剋」次過伊南里、次鵤王子社奉幣、次至切部、水辺祓、次参王子社奉幣、「世号兮陪支王子」日入間宿切部庄司下人小屋、
 今日或行海浜或歴野径、眺望無極、遊興多端也、
 行程百卅町許、

廿一日、天時々陰風頗吹、遅明出宿所、渡切陪川、登同山、出了祓、石代王子奉幣、石代過了、於千里濱晝養之、次浴海水、「号塩古利」、越南陪山、於王子社奉幣、「未申刻」、南陪庄内亥乃野村人宅ニ宿、「国司目代儲、又久澄進物」今日多過海濱野山、今日行程八十町許歟、
 目代内記大夫知邦私又送物、
 久澄使申云、居所四ケ日許行程也、仍遙送進者此所為躯、里在林中、宅占海濱、浪響鼓動、松聲混同、嶺嵐大報、終夜警耳、京都之人未聞如此事、

廿二日、天晴、半夜出宿所、依今日行程遠也、閑興残月行、遥望浮雲走、過南陪野山、出早海濱、超河参早王子社欲奉幣処、御幣持已遅参、仍陪心経巻数、「日者五巻、今十巻」留下人於此處、慥可奉幣押心経供御明之由仰置了過之、次行田之陪、於王子社又奉幣、於此処天懺漸明、行程五十町許、(自此以後海不見、)於萩生山口晝養、「是右衛門督庄住人宅云々、已刻」、次越其山、於新王子社奉幣、於大岳坂上祓、下従坂、参伊奈波禰王子社奉幣、渡小河、留氏院庄櫟原石田上座清円房、「干時申刻、件清円齢及、八十、此庄司送物」
 今日行程百八十町云々、本支度二ヶ日行程也、
而一日之中来着、誠権現之冥加也、

廿三日、「申午」天晴、「此暁不浴水、」未明出宿所、渡石田川十九度、「此間号賀茂里、」已一点来(初入御山内)着滝尻之前川上一許町、欲晝養之間、新中将、備中守、侍従兄弟三人被下向、「去二日精進始、七日出門、廿日参着被下向也、」差内舎人季信相過之由被示、又成祐来、為彼共人返報之後過了(於此川浴水、)晝養了、於向岸上祓、次参王子許奉幣如先、先攀登滝上坂、十五町許踏巌畔漸行登、(見三百町蘇屠婆)已如立手、誠身力尽了、次牟婆女坂、次高原、「申刻、」次宿水飲仮屋、
  今日行程百卅町許歟、

廿四日 天晴之後出宿所、陰陽(衍)雲四合、雨脚殊甚、「此暁不浴水」過重點、「所名、」過柚多和大坂、此暁(行)坂中有大樹蛇形懸、傳昔女人化成云々、有由来谷、越小山出野、渡近津湯之川祓、参近津湯之川祓、参近津湯王子奉幣、行一許町晝養、此間雨脚甚盛、早出此處過蘇波々多、渡仲野川、出野渡、大臥木為橋、道左邊有續櫻樹、「本檜木也、誠希者也」又渡仲野川数度、西刻留仲野川仮屋、晩頭天頗晴、雨又止、今日行程百余町云々、

廿五日「丙申」夜半出宿所、則仲野川王子社奉幣、小平緒、次大平緒、次都千乃谷、次石上之多介、参王子許、「社邊有盲者、従田合参御山者、聞食絶由給食」此間天漸晴、残星隠林頂、微月過嶺頭、道路漸見、下従件谷、過入寺谷、内湯参王子奉幣、一町許晝養、「辰剋、」超三輿之多介、次下于谷、渡谷川数度、過亥之鼻、次入発心門、「先於其前祓、是大鳥居也、参詣之人必入此門之中、遥見遺、心甚恐、」次参王子奉幣、次参内飲王子奉幣、「新王子」出野路、住僧四五人、或取續松、或進菓子、是依饗應先達也、此間入夜、出野路祓、戌剋着宿所、「修理正寺主房也、今夕依衰日、「本支度参詣明日也」但少将又明日衰日、仍今夕少将許参御前奉幣、

廿六日「丁酉」 鶏鳴之後浴寒水解除、参御前、先参證誠殿、「一捧」次参両所権現御前、「一所二捧」次参若宮王子御前、「便五所王子幣五捧進、残四王子一所」次参一万眷属十万金剛童子勧進十五所飛行夜叉朱持金剛童子惣社(礼殿ハ両所御前之大屋也)、「一所横夾幣四棒、無之天」於礼殿経供養、「題名僧俄六人参入、仍加布施」(経供養間用高座)、帰参證誠殿御前、俄請僧、「号恩許房、」令讀願書、「三種大願也、自書之」讀上之間不覚涙落、則開證誠殿納件願書、次行礼拝、讀婆波品阿弥陀経八名経、是相宛三種願也、次帰来礼殿受加持、「僧八口聊追送如革」次欲引僧供遅到来、是櫟原庄年供之中借右中弁也、日巳午ニ成、仍先借舟七艘馳参新宮、「毎舟纔四五人乗也、下人廿人計留本宮」棹流競下、申刻来着新宮師房、「号鳥居、在廰」秉燭之間参御前、先於證誠殿前奉幣、「一捧」次参両所御前、「二社各別也、然而二捧一度奉之」次参若宮一王子社奉幣、「二捧、并横夾四棒一度取合、拝了奉之、其前雖有眷属別社一度奉也」次帰礼殿経供養、了暫礼拝、「此時堂安置千手観音」亥剋帰宿房
  願書可納寳殿之由語付寺僧了(経供養間用高座)、
  御幣新宮九棒、「此中横夾四」

(裏書)
 予往年、「往年、之冬也]、欲参詣熊野,仍始精進、二、三日間清原信季引入犬死穢俄以留了、仍又重為参詣、行向日野欲始精進之処、依三井寺禅師君非常時、「大宮右大(○臣脱カ)殿君子也」服出来又留了、二ケ度留之後此廿八年不遂本意也、今日幸遂参詣之大望、参證誠殿御前、落涙難抑、随喜感悦、如此之事定有宿縁歟、三種大願暗知成熟、
 抑数日之間遠出洛陽、登幽嶺臨深谷、踏巌畔過海濱、難行苦行、若存若亡、誠是渉生死之嶮路、至菩提之彼岸者歟、
日者之間或有手足不叶、或又有不浄夢想、如此之時早以祓、仍強不記置也、凡信頗懈怠之時必有其懲、仍弥守心性致清潔也、

廿七日 寅刻出宿所、参阿須賀王子奉幣、廿町許行出海濱、西行廿町許地有翠松列、南見白浪、・(・重カ)畳遙見雲水茫々、是日域之南極也、望南面全無別島、超左野山、超宇久井山、原中晝養、「巳刻」過小野山、(見昔南蛮住所別島)超大久之并小久之山、行補陀濱浜、白砂之平不似他所、参濱宮王子、「此所向南海、地形勝絶」過那智鳥居政所、渡小川数度、参一野王子社奉幣、行十餘町入那智発心門鳥居、登坂数十町入大門、「有二王、」入夜之後着宿所、「寂定房、」暫休息之後亥時許参御前、先参證誠殿奉幣、「一捧、於礼殿有此事」次参両所御前奉幣、「二捧」次参若宮王子并諸眷属御前奉幣、「一社三捧、此中横夾二、一度奉也」次参礼殿経供養、導師用礼盤、御明誦経同修了、此堂如意輪験所也、暫行礼拝、小念誦了帰房、「此如意輪大験佛也、其根源住僧所談也」

廿八日 早旦参滝殿、奉幣一棒、「供御明進心経一巻如王子」次参千手堂、瀧傍堂也、次又帰参證誠殿、申下向之由、辰刻帰宿房、則下向及巳刻、「今日用馬」未刻晝養、「宇久比里下人宅」秉燭之間来着新宮本宿坊、暫休息之後又参新宮御前、申下向由了帰宿坊着寝、
 那智新宮僧供料、雖語付紀伊守、已不見来、仍且付解文於寺家了、

廿九日 天陰、卯刻乗船、泝流漸行之間、雲膚覆路雨脚間下、然而猶指上乃處、及辰巳刻雨脚甚盛、着簑笠踞舟中、水大湛舟、衣装甚湿、凡辛苦悩乱非可堪忍、仍繋舟於岸脚、留下人小屋、「午刻」此里号御妹(ミモト)云々、是熊野御領所者、向居火邊令早衣裳、手足甚亀、漸以休息、人々之舟或後或先、自然来集、依甚雨俄宿此處、晩頭雨頗宜、

十一月
一日「辛丑」 卯刻出宿所乗舟、河霧立渡、迅瀬難見、然而依舟指下人等申、棹流上、舟差等指棹、伏舟揚音大呼、指舟之躰、誠以絶妙也、流水逆流、行舟有恐、雖然早々指上五十町許之後、宿霧初消、朝陽甚明、巳刻来着本宮宿房晝養、暫休息、未刻行向湯峯、「御前西山也」坂行程十餘町也、於湯屋浴之、谷底温湯寒水竝出、誠希有之事也、非神験者豈有如此事哉、浴此湯人万病消除者、酉時許帰本房、次行向引僧供之所、御所之前河原也、先入僧供於舟上、分小許令持先達、参礼殿、入金鉢 「三口」自持之、一揖了供之、僧打磬、申上了又行向本河原、客僧等数十人自出来請之、随喜見了、入夜参御前、申明旦下向之由了帰宿房、
 只今従南京下僧、参詣之次談云、維摩会之間小僧覚晴堅義優妙之由、寺中感歎者、不審之處悦聞也、
 聖人浄明只今来云、於此寺家為供養一切経所相分万人也、予論十五巻可書奉之由請了、

二日 鶏鳴之後出宿所、行十餘町減火、内湯上晝養、讃岐守能中并孝仲相逢、凡参詣上下人今日多相逢、秉燭之間宿高波多野續桜邊假屋、今日行程百八十町、行歩不相叶、予用手輿、
 従今朝不沐浴、併不洗手、
 今日於発心門内見鹿二ヶ度、先達云、此道見鹿大吉相也、就中鹿三頭也、三所権現定知有加護、

三日 夜半出宿所四十町許行之後火消、巳時於水飲晝養、申刻着滝尻得傳馬、秉燭前留石田上座清円房、行程二百廿町者、
 今日付参詣人宮内大夫定遠送消息云、此間京都無為也、但院従去十一日四ケ日被行御八講者、維摩会間禅師堅義優妙也、又明年堅義請定清済円云々、

四日、 暁更夢下向之後与少将浴泉水欲参詣賀茂社、夢覚後閑思、件熊野勧請十五所明神中、以賀茂明神為宗也、定吉想歟、天明之後出宿所、於南部未刻晝養、日入之後留伊南藤中納言庄下人宅、行程二百廿町許云々
 今日雨大吹雪頗落浪聲鼓動雲色飛揚、行路之間寒気難堪、

五日、天晴、少将談云、去夜夢想、少将予相共行、野径間有大蛇、當道而先達聖人抜剣斬蛇、行過其道者倩思此夢誠除魔障遂参詣歟、中心所欣悦也、
天明之後出宿所、辰刻留日高重方宅晝養、重方表了寧、仍給小禄、巳時出此所、秉燭之後宿宮原俊平宅、行程三百卅町云々
  今日午刻鹿瀬原林中、院御使師阿闍梨相範被来逢、仍林中留馬下迎了、
  滝尻之後以檪原庄傳馬至、今日重方宅従件所又以傳馬「日高庄馬也」 至宿所「宮原、」
  今夕田殿五郎来進御儲物「田殿庄従此廿町許云々」

六日 天晴、 此暁夢又参天王寺奉見寶蔵舎利、僧出之珠玉廿粒許中、舎利三粒慥出来給、夢覺思之、誠足随喜、又夢中出河原欲祓之處、乗唐車女房又出逢同祓之由所見也、卯刻出宿所超加不良坂後(相合宮原田殿馬也)先達、聖人談云、今日曇葉快晴、浪花不動、早乗舟欲覧和哥浦吹上浜如何、此物詣之次、人々多所御覧也者、予答云、然者尤可有興事也、但兼無舟支度如何、聖人又云、舟事聊欲語相知土人者、仍従橘下王子許前南行五六町許、渡賀茂庄田之中十餘町許、過西小野山行着舟津、先晝養、爰老翁出来進菓子借大舟、件念(翁歟)是賀茂庄下司、号海判官代、奔営東西、表丁寧志、自本非知者、只依聖人語頻表勤節歟、巳時乗舟、「従此下人并馬共可待合由仰了、給祿於件人」老翁之子男又乗小舟相逢、雲水茫々、眼路空疲、渡海上一時許着和歌浦、巌石色色、松樹處々、地形幽趣、風流勝絶、海上間自然過藤代山和左々加山了、未刻馬下人等来合、廻渡海濱也、次乗馬卅町許?行之間来着吹上濱、地形為躰、白砂高積遠成山岳、三四十町許、全無草木、如踏白雲、誠以希有也、此地勝絶、不能筆端、下従馬暫遊覧、申時許信馬漸行之間、従田中乗馬者、有戴白寳冠、大驚問之、是日前国懸之宮与多云々、年来聞名之者自然見之、誠以珍事也、次有大林、群鳥数万飛翔、是林(木カ)三所社者、日前国懸之宮邊也、揚鞭駆過了、行廿町許、日巳暮、前途遥、欲留仲村、今六七十町許者、人馬共屈、心身難達、爰俄宿下人之小屋、而相具雑人、巳前行々向仲村了、仍支度相逢、(違カ)、今夜宿所、万事依違、此處名称多也云々、当國之館、辰巳邊也、雖待天明、夜漏遅転、

七日 遅明出宿所、日出之間三四十町許馳行、尋仲村雑人等、又驚出此暁立了、仍催帰路之處、恩山之南野邊有煙立所、若是人之留歟、馳向之處、此雑人等御儲之所也、則留此處有食事、「辰刻」不経程立了、過恩山并原中着信達庄司永季宅、「午刻永季進転(○伝カ)馬、仍留本馬」人々暫以休息、未刻出此處月前?行、戌刻宿和泉館邊下人小屋、「舎人等相儲也」今日行程三百廿町許、
 恩山之中逢右近府生兼久、相具子族舎弟参熊野也、暫立留、問華洛事、此間無為之由所談也、但院御鳥羽者、給菓子過了、公方相逢、問殿下邊事、此間渡御中御門亭了、
日者所相具之馬允定清、今朝請假留了、是為参金峯山之下山者、仍留了、此事頗不得心、先帰京都参詣稲荷後、又始精進可参金峯山也、此精進之次不被甘心事也、但不知先例、

八日「戊申」 天晴、鶏鳴之後出宿所、行廿餘町許過篠田社間、漢天巳明、行路纔見、仍止續松、辰刻許留前河内守宣基宅、暫晝養、「住吉社邊也」午刻出此處、「殿下舎人所進轉馬、并家舎人馬、又宣基馬二疋、法成寺末寺常楽寺庄所進馬合騎用、返信達庄馬」行濱路、過天王寺西海邊、未一刻着窪津、右馬允實達来参進菓子等、宣基又相随従此處乗船、「宣基舟二艘、八幡小別当信賢舟一艘」日者苦行暫以休息、或引綱手或棹迅瀬、心性歓楽、已似遊興、亥刻許行着大羽、着舟於岸脚、宿舟中、天陰月暗
 今日春日祭也、仍先達聖人令乗別船不逢僧、但例幣後日可奉也、旅宿之間依無束帯也、心中祈念此旨。又先日参詣春日御社、申請此物詣由之故也、

九日 従去夜雨脚殊甚、卯刻出舟、終日雨脚滂沱、河水泛溢、只望往来舟遠過東西岸、漸及巳刻、雲気間晴、陽景頗見、早棹流水、更泝迅瀬、申刻行着楠葉御牧岸脚晝養、漢雲晴来、夕陽甚明、子時許宿大舎人頭鳥羽宅、邦宗来談世事、日者不審散了、

十日 天晴之後、先祓出宿所、参稲荷、「於下御社鳥居内西向祓」先参下御社奉幣、「大一捧」次参若宮社「小一捧」次参阿古万千奉幣、「小一捧」次登坂従鳥居下南行、居峯上向八幡方奉幣、「大一捧、不付奈支葉、他皆付之」次参谷中小社、「小一捧」次参中御社、「大二捧」次参上御社、「大一捧、小一捧」廻其後参樹下小社讀心経、「不及奉幣」次施粉於面、無音過鳥居前、於帰坂下先達奉送、日者護法、日者相具、鳥一雙来受施食、頗動心情、於此處食餅、是例事云々、下従山後、参田中明神社奉幣、「小一捧」於法性寺東大門前乗車、午刻帰家、引小僧供菓子、是日者之残物也、
 此先達聖人之所教、毎日早且浴寒水一度、次礼拝念誦可随心也者、如此事先達之教命不同云々、
 帰洛之後初食魚味也、是定事者



同年
十二月

廿四日「甲年金剛山本
 明年重厄卅九也、就中相當三合今年云々?有閏月是厄運之人弥可慎云由陰陽助家栄所於也、仍始小祈以寛智律師、并寛證?斉俊三人従今日明年一ヶ年間毎日北斗咒千遍令祈念
又自行毎日心経三巻轉讀「一巻 大梵王新、一巻 帝釋四天王新、一巻炎魔王及稀眷属新
延命咒百遍 不動咒百遍「巳上明年?念誦也」又法花経書冩始