熊野関係古籍     熊野古道

熊野詣に関する一考察  

 

 昭和十二年三月「紀州文化研究」第一巻、三号・四号連載より昭和三十年六月十九日、清水長一郎氏が写せしもの

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     熊野詣に関する一考察(一)                               

       ――中右記の記事を所縁として――
                             松本保千代

  一、緒言
 物に倦み易い私はこの夏久し振りに、史料大成の中右記を見通すことが出来ました。こうして得た感激を郷土史史料研究と結んで何とかならないものかと、いくつかの夢を描いて見ました。
 中右記を所縁に私の求めんとするものは、熊野信仰の発達を簡明にしょうとすることであります。それも今の所全く夢の様に描いた輪郭しか持って居りません。本稿はその研究の一隅にふれ觸れようとする一つの貧しい営であります。
 若し私の夢に描く理想が、完成できたとしたら、之によって紀州文化史の大半は明確になろうし、我が紀ノ国の皇室との関係もその遠く且つ深いものであるという認識が換び覚まされ、私共が今携はっている歴史教育の上に些かなりとも貢献できるとの自負が、此の研究への動機になっています。
 実に万葉の歌枕に知られた紀州所々の風物も、平安朝から中世へかけて作為せたれたと思はれる説話や、社寺の縁起の中に見る民間伝承の数々の中に、御熊野詣の所産であると指摘し得るものは相当多く見出されます。とまれ熊野詣の最高潮期は、院の御幸の繁かった院政時代であります。
 中右記は即ちこの頃の文献―中御門右大臣宗忠の日記―で堀河天皇の御代の始、即ち白河上皇院政の年宗忠二十六才の時に筆を起し、崇徳天皇の末年に近い保延四年、宗忠喜寿を加へ出家するの日に筆を擱しています。此に見ますと院政前半の活気に充ちた於て、幼少の頃から宮仕し、格勤六拾年に及ぶ練達の公家宗忠の筆になったもので、当時の史料として貴い価値は疑うべくもありません。此の五十二年間の目標には、問々関逸が免れないけれど、現存の部分のみをもってしても、歴代記録の中稀に浩瀚なもので、纔かに九条兼実の玉葉が対比せられるの外、類例のないものであります。
 中右記には寛治四年、白河上皇初度の熊野御幸記録されたのを初め、院・女院の御幸等殆ど遺す所なく載録されて居り、殊に天仁二年十月の宗忠自身の熊野詣の項は、その道中など詳かに叙述されていて熊野、参詣路の歴史地理研究の上に好資料を提供しています。この種の文献として有名な、京極定家の後鳥羽院熊野御幸記成立の建仁元年に先行する九十三年、被我対照して院政時代参詣路考定に更に進展を興へるものと進じてます。本稿は主としてこの二文献の対照に長秋記・三長記・吉記・小右記等・当時の公家記録を参照して成したものですが、蒼惶の裡に執筆したので関係知識者の御示教に俟つて、他日是正の機を得たいとねがって居ります。
只此の断片的な記述の中に歴史教育・郷土史研究に採るべき個所を見出し、補正して御活用下さるなら私の最も幸甚とする所でございます。
  二、熊野詣の意義
 熊野詣は単なる近郷の物見遊山気分の物語ではなかった。八十里を過ぎる路程には甚だ嶮阻にして身力己に盡く峻坂もあれば、日高川の水大いに出で行路を妨ぐ依って東の細路に入つた途中の出水に不案内の間道を行く不安にもおびえた。
 今夜終夜雷電、大雨折木、宿舎漏、衣裳湿損(長秋記)    
に見る、都離れてさらに旅愁を催す。長袖者流の肝を寒からしむるものはありました。燭を乗って山路の夕闇を分け求め得た憩の宿も
 今日前途遼遠、人馬共疲、今夜進発、定其苦多歟(長秋記)
と夜半を過ぎてまどろむ暇もなくて、憂き旅路に立たねばならない日が続いた。
 去夜寒風吹枕、咳病忽発、心神甚悩、此宿所又以荒、又塩垢離、昨今之間一度可有之由、先達命之、但今猶遂此事(後鳥羽院熊野御幸記)
風邪に冒されつヽも、尚冬拾月の潮に浴した苦しみ、それに
 樹陰甚繁、雲葉重捲、仍行路不見、取続松原中十町許 減火原中八十町、林中大蝦蟇、此間風吹雨下頗以電電云々(中右記)
などの恐ろしさ悩しさが一再ではなかったと推察できます。その中には千里の浜に生れて初めて波の音をきヽつヽ旅の臥床に入る快さも味はされ、新宮から三輪崎に出てひろ/\とした太洋の壮快さに我を忘れる歓びがあつたにしても、此の物語は決して単調なる都の生活において気紛れに求めた刺激とは考へられません。
 これはなま優しい修業でない事は道路の改修されて、自動車さへ通ずるやうになった今日でさへ、これを歩行することを想像すれば、ほヾ了解出来ることでせう。兎に角日吉や春日詣とは余程趣を異にしていました。
 交通不便のそのかみ山川幾千里の路次の難行苦行を遂げて、本宮の宝前に額いた時、感涙に咽せた宗忠の感懷は
 予往年「生年廿之冬也」詣熊野仍始精進、三・四日間清原信季引入、犬死穢俄以留了、仍又重爲参詣向日野精進之処、依三井寺襌師君非常事「 大宮右大臣殿御子也」 服出来又留了。二ヶ度留之後此廿八年不本意也。今日遂参詣之大望、参證誠殿御前、落涙難抑、随意感悦、如此之事定有宿縁歟、三種大願暗知成熟
                      (中右記 天仁二・十・廿六裏書)
にうかヾはれ、更に
抑□数日間遠出洛陽、登幽嶺深谷、踏巖畔海浜、難行苦行、若亡若存、誠是渉生死之嶮路、至菩提之彼岸者歟
                      (同 上)
と悟って、苦難□惱の追憶もやがて歡喜に変って行き、心ゆくまでに法悦に浸ることができました。
長途の旅を終へて、懷しの都の己の邸に落ちついて、
 凌万里之波涛爲悦之外無也     (勘中記 弘安五・十・十六)

  三、熊野詣の精進
 熊野詣の苦行は、既に進発に先だつ精進屋の潔齋に始まります。此の詣事が思立たれると、然るべき先達の僧が請ぜられ、自ら居宅を出て鳥羽辺に適當な人の宿所を選び、精進屋が定められ家族と別れて精進の生活を営んだ。その精進屋入の日とか、位置や方角などについても、時代思想の制縛が加へられ、いろくの縁起が担がれました。
 精進屋の日数は寛仁四年白河上皇初度の御幸の折は正月十六日に入御、廿二日御進発(中右記)、康治二年両院御幸の節も二月廿八日鳥羽法皇は鳥羽の民部卿顕頼の直盧に、崇徳上皇は同参議清隆卿直盧に設けられた精進屋に入らせられ、閏二月五日御乗船遊ばされています(本朝世記)。正治二年十一月後鳥羽上皇御斗数の場合も廿二日上皇入熊野御精進屋廿八日同御出発(百練抄)、と七日間の例は多いが、健保四年八月の後鳥羽上皇、修明門院御同列の御幸(百練抄)建仁元年の御幸記の場合など、五日間の例も少くないのであります。院の御幸でない場合の例に見ましても、承安四年八月の藤原為房の熊野詣(吉記)、弘安五年九月の王月女の斗数(三長記)の時を見ると前者は七日、後者は五日となっている。時には進発の日は、凶日であるというので特に避けるといふ意味で延引して(三長記)進発した事もあったようで、結局一定した期間はなかつたと見られます。當面の中右記天仁二年の場合は全く記事を缺いています。
 未明洗髪、雖家中 日来別家宿、亦門立犬拒是為雑穢、以土器食仕、未刻着浮衣(中略)予精進所清隆朝臣宿所也、自院召給先達良実、下官給刑部家基宿所之処、女院廳召定云々。  (両院熊野御幸記 天承二・二・三)
 先建慈修房 阿闍梨定宗也、着浮衣之 次浴水、次出庭、次取幣両段再拝、次千達取幣申祝、次解除、引注連、立犬防 次礼拝廿一度 (吉記承安四九十六)
 精進屋用勘解由小路経持宿所(中略)門々立犬防屋 引注連 入夜遙拝如例、先達円達円密房 阿闍梨 (下略) (勘中記弘安五・九・廿一)
 精進屋の構造、その中の行といった片鱗は此処に引用した諸記事にうかがへます。犬妨といったものも当時の思想―陰陽道の流行、物の怪を圧つた―の一面を物語っているもので前述宗忠の述懐に見る廿歳の冬の精進は犬死穢に妨げられ、中絶しなければならなかった事情と併せ考へると明瞭になります。かうして鳥羽の精進屋には矢来は回らされ、所謂犬拒として不慮の障碍に備へたものと見えます。注連は古来の風習の上から浮域を保つために引かれたものであることは申すまでもありません。この中にあつて洗髪し、水浴し、浄衣に、更へ土器に食餌を盛つて摂るつたといふのですから勤行の眞劔さがしのばれます。礼拝禊祓、奉幣等厳粛に先達の老僧の指示に従って営まれた姿が髣髴と想はれます。
 近親の死穢を避け神霊への遠慮と云った上代人の信仰は、尚この詣の行事の中に生きています。忌服者の精進はこの意味で許されません。宗忠の二度目の障は矢張これで叔父三井寺の禅師君の長逝でありました。忌服者の事は院政時代以前は寧ろ難しく考へていなかったようです。 
 白河上皇の御幸の砌。重服者は御供に加へないことにして、参詣を差停められた事実があります。けれども経服者が精進屋に入った事は当時にもあったことでその頃の公候者達の日記に散見する。白河鳥羽両上皇の頻りに御参ある頃になって、経服者も遠慮した事実もあり(小右記)参詣の途中に近親の訃報を受けて、三山詣を中止したものもあった(中右記)。後白河上皇は今熊野に御参詣の折、重服にあつた左衛門慰親盛が御供を許され人々は事の意外に驚いた。
 又安房守定経は叔父義範入道の死に遭い未だ忌服中、院の御幸の御供が許され、前例を破って熊野精進屋に入ったのを矢張り「尤不審事也」といぶかつた。
 先達定宗云、忌除服以前者、都可忌服者歟、敢不憚、於道可除服云々、雖恐、定宗之命尤足指南、近代以彼為先達之棟梁之故也  (吉記承安四 九十五)
 齢七十九、徳行を積む多年の老先達であり、その指南に信頼して此の新例が行われたのであります。途中石清水参詣の節は定経一人経服の為参詣せず、廿二日阿倍野に至り、定宗先達の修被によつて除服されていおます。吉記の筆者はよ程気になったらしく、
 其例不審、雖恐、一向修信慈修之命、不他事也、 (吉記承安四・九・廿二)
と前言を繰り返しています。

  四、熊 野 王 子
 路次の勤行も亦容易なもののみではなかった。鳥羽から窪津までは大抵船が用ひられ、長い紀州路は多く馬も輿も車も利用されてはいるが、今歩いて見ても推察出来るように峻坂が重畳し、曲折した浦曲は単調につながつていて遙かです。御幸記にしても中右記にしても一日の行程は決して長いものではありませんが、一月に近く旅をつゞけるとすればその苦しさの程は想像出来ませう。
 熊野参詣路に数多い王子社、所謂九十九王子があります。九十九は果して実数を表したものか、単に多数を意味しているのかの問題は小野翁熊野史に『和歌の浦鶴』、紀伊続風土記 及び宮地博士の併「熊野王子考」を引いて、唯数多きなりと見たのが、妥當だと考へます。併し「熊野王考」の『王朝の季まで藤代、塩屋、切部、岩代、滝尻、近露、発心門の七社なり』と見られているのは、少くともこの中右記を見のがしていると思はれます。誠に中右記の天仁二年の条を見て王子名を拾つて見ますと。
 送(逆?)河。弘。大(高?)家。連同持。塩屋。鵤。切部。石代。南部。早。田之倍。新。伊奈波禰。滝尻。近津湯。仲野川。石上多介。内湯。発心門。水飲。阿須賀。濱之宮。
の二十三社が数へられる。更に宮原以北の闕文の中にも数社は想像されます。前出吉記には渡辺、積川、藤代の名が明かに出ています。勿論御幸記にあらはれた程の数が備つていなかったでせうが、『七社なり』は否定し得ると思はれます。王子社は熊野詣の途中、権現の遙拝所として生れたもので禊や祓、又は塩垢離などを行したヶ所とか、休憩所といふ意味を持つた所に祀られ、路次の行者はこれに奉幣し、納経し、時には里神楽を奏し、相撲などを奉納し院の御幸などの節は歌會などを催して、旅の徒然を慰めたような場合もあったようです。
 王子社の調査研究などについては、縣の史蹟調査報告や熊野史に詳述されていますからここでは贅言をこれ以上省して戴きます。

   後 編  (二)
 中右記天仁二年十月は端が闕けて、十八日の条から読まれます。前夜は宮原の宿に泊つたらしく、前々夜は前日の残缺「今日行程九十町許云々」より推して藤代の辺かとも考へられます。
 熊野詣の朝は一つの行として早かつたらしく、『鶏鳴之後立宿』は此日だけでなく中右記には勿論、御幸記其の他の記録は珍らしくなく『暁』『遅明』『夜半』『寅尅』(午前四時頃)『早旦』『未明』宿を出立する記事は多く、寧ろ天明之後などは異例のやうに書かれています。残月を踏んで、静寂の中を行く神々しい姿は矢張り熊野詣の信仰に相応しいものでありました。
      世をいとふこころばかりは有田川
        岩にくだけてすみぞゆつらふ
              (拾遺集 慈鎮和尚)
 宮原の渡とおぼしい所には今近代的な頑丈な橋が架せられています。此橋が架せられる前(昭和八年頃迄)今も有田川の所々に残っている様な冊板などで作った假橋があって、出水の時には賃渡船の厄介になつて川の南北は繋がれていました。続風土記にも吉田氏地名辞にも名所図絵にも橋のことは記されていず、謂宮原渡の事が述べられています。天仁の昔『先渡有田河借橋』あるのは如何なものか、まさか渡船は借橋ちはいはなかったでせうから昭和初年の姿の完全さ?はなかったとしても假橋が架せられていた事は想像出来ます。
 有田川を渡る頃漸く空は明けて、糸我の里には朝餉の煙がたなびいてゐたものと想像されます。『次登伊止賀坂』は平忠盛がむかごを院に献じた源平盛衰記に見える糸我坂であり、そのかみ奈良人士が、
  あですぎて絲鹿の山のさくら花
    散らずもあらなんかへりくるまで
と詠んだ万葉の歌枕であります。糸鹿と熊野との関係は天福年間吾妻鏡の記事に玉置氏についての所領に就て一寸見えています。
 この坂を下れば田栖川村の吉川です。吉川は逆川の字を忌みて吉川に作つたものといわれ。『於送河王子許奉幣』送河は逆川の誤記であることは明瞭、逆川の名は、
 郡中の川皆東より西にながるるに、此川獨西より東に向へりとて、川を逆川と名け、村を逆村と呼びたりしも、後其称を忌みて吉川と改められたりといふ、かわの流福僅かに一間半、深さ一二尺に過ぎず 云々(有田郡誌)
と解するのは当然の事で、御幸記にも割註して『水逆流河有之此名云々』と解いています。熊野詣に於ては此王子の辺で禊祓が行はれ一名禊川とも呼ばれました。
  糸鹿山を下ればここなん御禊川といふよし、手をそゝぎ未久につかふまつらんことをのみ申して
     手をむすぶ糸鹿の山の尾祓川
       つはらぬ世々にわたるべき身ぞ
               (宇井田忠卿)
中右記には『次其河辺禊』と見ゆ
『登保津々坂』方寸(ほうず)坂の訛記であらう。郡誌に『昔の御幸路は逆川の流に沿いて此山の東を通過せしも、後徳川時代の官道は此の峠を越え明治十八年頃新に熊野街道改修の工事を起すや復山の東方を通過することとなれり』と舒し、続風土記には『此山今往還なれども、古は此山の東の麓を往還とせしなるべし』と考定し相応じていますが、これは御幸記に逆王子から湯浅の宿までに坂を越すの記事がないのから導かれたのでないだろうか。記されていない事は抹殺の資料にはならないものであることは申すまでもなく此処に中右記には明記され『次過由和佐里』と地理の上にも首尾が整つていて、方寸坂は院政時代既に開かれていたと推定出来ます。
 『次於弘王子社奉幣』湯浅に就ては御幸記は宿所に関するいきさつ(死穢に関するもの)祓、塩垢離等多くの記述が見えその風景を叙して『此湯浅入江辺、松原之勝景奇特也』と称へて更に定家自詠の
    曇りなき濱の真砂に君が代の
      数さへ見ゆる冬の月かげ
と海辺冬月と題する和歌一首を添えています。中右記は唯此弘王子奉幣の記事しか残っていません。
 弘王子は果して何処であったかに就いても考ふべき問題であります。御幸記に見ても湯浅近くの王子といへば別所の久米崎王子だけで十月十日に
   払暁凌雨赴道、無程王子御座云々、但依路遠 向路頭樹拝云々、クメサキ云々 
とあって海浜から稍距つて次の井関へ行く道から離れていたように見えます。此弘王子は現今の広村、即ち広川を南に渡っていない事は、次の記事に、『於同弘河原昼養午剋暫休之後出此処』と王子奉幣の後河原に出て昼養が催されているのでもわかります。
 私は唯とかくこの弘王子を、この久米崎王子に此定したいので今確かな證憑を持たないのですが、かう推測いたしておきます。
『於白(川?)原王子社奉幣』御幸記には広瀬に到る間に井関王子、ツノ瀬王子の名が見えていますが、白井王子が見當りません。白井王子は前記の二王子の中の何れかであらうか、又中右記割註に『件王子近代初出来、有其験者』とあるより忽ち見えて忽ち消えて御幸記の頃癈せられたかゞ考えられます。王子は時を経て数を増していき、その所在も時に変改せられた事は推察出来るしそれを証する史料もありますが、この院政の盛時に廃滅した事は想定出来ません。恐らくは河瀬王子の事で白井原辺にあつたのではなからうか。
 『次登鹿瀬山』熊野詣の途で、始めて山らしい山は鹿瀬であります。宗忠は、
 登坂之間十八町、其路甚嶮岨、身力己晝、林鹿遠報、峡猿近叫、觸物之感自然動情    (中右記)
と嘆息したのも
 崔嵬嶮岨、巖石異昨日、超此山
と面くらつたのもこの山であります。登攀二十一町許山深く元亨釈書の
 『釈円遊熊野鹿背山而卒、其後有沙門壹叡者宿於山中云々』
とて骸骨が法華経を誦した怪奇的な説話を生んだ程幽晦の気の漂つた山で旅人の恐怖を誘った山でありました。日高郡誌に見ますと上代の御幸道は此処ではなく唯今汽車の通じている由良坂の線で、中古熊野御幸道の開発と共に井関より越す、即ち鹿脊の坂が開かれたのだとの事、現時県道熊野街道の改修によって険の程も緩かにはなつてゐるが、往時を回想するに足る面影はこの古道には今も残っています。
 熊野の道で日が暮れて、さきを見ればおとろし、あと見りやおとろし・・・の俚謡は先づこの峠に見出されます。吉野朝の昔、増基法師が『いほぬし』に、しゝのを山にねたる夜、鹿のなくを聞きて、
   うかれけむ妻のゆかりにせの山の
     名をたづねてや鹿もなくらむ
とあるは如何にも大胆な法師よとあきれる位、長澤伴雄が天保十一年、湯峯に入湯せんとして、正月廿四日春浅い雪気の風をうけながら、井関からこの山にさしかゝり増基法師のかの歌を思ってか知らでか、
   雉子こそ春は恋へ秋さらば
     鹿なかん山ぞ鹿ヶ背の山
と口詠んでゐます。(絡石の落葉)又、万延の頃齋藤拙堂が南遊の道すがら此山を越えて、
 二十日早踰鹿背嶺、嶮甚、地己屬日高郡、橘林晝而桂林来、桂之多以谷量、不有田郡之橘、採為薬材 送於京阪、亦山中経済也、歴原谷吉田  (南遊志)
と険路になやみながらも。その林相と理財を探った感覚はいかにも近代的で面白い。御幸記の『樹陰磁路甚狹』の見方と思ひ合せて感なきを得ない。とに角熊野御幸の頃から南遊志に至る鹿ヶ背の坂は多少の変改があったにしても、大体に於て大差のないさみしい山であった事は窺へます。馬留の名を両麓に求められる程急峻な難所であったことも推定出来ます。『於馬留下宿』馬留の名は続風土記によると、鹿ヵ瀬の北と南の両麓にあります。坂道険阻にして馬上にては行難し、御幸の時此処にて馬を留められし、(紀伊続風土記)故に此名ありと考えられます。此場合は勿論北の河瀬の馬留ではなく『漸下坂之間日已暮凡七町許云々下人取続松来迎、其後二三町許下坂』とあるのですから、南麓原谷の近くであつた事は明らかであります。宮原を立つて百二十余町、何と云っても今日の骨場は鹿ヶ瀬であった。廣川原で昼食をすまして馬留の宿についたのは、日は已暮れ果てて松明の案内が必要になってゐた頃でした。
 十九日『暁立宿所』空は曇って如何にも陰惨でありました。朝はまだきに松火を取って発足、樹陰繁茂と雲掩ひ重なるの故に暗く、十町許は辛ふじて続松の火に助けられて、『出此木原。又過野、萩簿遥靡、眺望甚幽』(御幸記)といった長閑さはなかった。單調な原谷は八十町も続き、林叢から大蝦蟇は現はれて一行の魂を消す。騒の最中雷電と風雨が烈しくなって来たといふのは、中右記の大家王子までの叙述であります。御幸記の内ハタ王子は当時まだなかったのか天候に禍せられて奉幣出来なかったのかこの記録には見えていません。
 この峠より原谷の里ゆく程山のそば道の隅などに棕櫚の木いと多く植ゑなめたり。
   鹿ヶ瀬の遠き山路わけくんば
     棕櫚の葉風の音ばかりして   (絡石の落葉)
とあるやうに、原八十町の谷には今も棕櫚の林は紀ノ山らしい特殊の景観をなして繁ってゐます、。又山地向の肉桂の林も南遊志の記事のまゝ今も大分残っています。
『参大家王子奉幣』大家は御幸記の高家で中右記式の当字したものです。今村社王子神社として東内原村萩原にあります。加納諸平の紀伊名所図會には
 高家王子社 源平盛衰記に権克維は蕪坂をうち過ぎ 鹿瀬山を越過ぎて、高家の王子を伏し拝み日数漸く経も程に千里の浜も近づけにけり。
 高家荘五ヶ村(萩原、荊木、原谷、高家、池田)の産土神、高家と萩原の境西川川畔、萩原領にある。
と説明しています。中右記の傍註には、此庄は真如院領であった様で、宗忠はそこの庄司高太夫の饗を受けています。御幸記には聖護院並民部卿の所領であるとしています。続風土記の新宮文書には新宮の社領であった由が見えています。かうした断片的な叙述を総合して行くと朧げながら、當庄の所領関係の推移が考えられそうです。
『次参連同持王子奉幣』レンドウヂは御幸記の田藤次王子の事で湯川村下富安に遺址があり、続風土記には、善童子王子権現と記されていて、當時其の他の人は出王子又は出童子といったそうであります。中右記の筆者は紀州人に多いデをレ・ゼをレと混同して発音した村人にきいて當字したのでありませう。絡石の落ち葉の富安王子は恐らくこれをいったものでありませう。
『過道場寺前渡日高川』道場寺は勿論道成寺で平安時代の頃から安珍清姫の情話で有名であります。この物語も熊野詣に関聯したものでありますが此処では觸れないことにいたします。
 御幸記には日高川を渡るまでに
 次又愛徳山王子、次クリ(ハ?)ハマ王子、次寄小松原御宿御所辺間宿之処已無之 国沙汰人成敗献之、假屋乏之間、無縁者不入甚員 占小宅 立簡之処、内府家人打入宿了、不出之由念怒云々、國沙汰之人、又非我進止之由、後于云々、只依人涯分 偏頗歟、不相論、又非身、此御所有水練便、臨深淵御所、即打過遙尋宿所、渡河參イハウチ王子
と愛徳山、九海士の二王子が見えて、道成寺の辺から川に従って今の御坊町東天田河原の北方を野口村の方に渡ったものか、九海士の王子から南行して小松原に出下吉田辺附近から、岩内に渡ったものと思はれます。
 小松原の頓宮は郡誌によると吉田の万楽寺の辺で河流の変遷によって、今は河岸ではなく、水練便宜はないことになります。中右記は
 下向女房両三人居河岸、不誰人、仍遣馬渡、又送菓子等、宿日高郡氏院庄司石内庄司宅申剋、庄司
とあって寺の前をわたっています。

                                 ―完―

 昭和十二年三月、紀州文化研究 第一巻三号四号連載
 筆者、松本保千代氏は当時簑島家政女学校教諭にして郷土史研究家
                      (昭和三十年六月十九日 清水長一郎寫之)

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