熊野関係古籍   熊野古道


           上田秋成著
 江戸時代中期、上田秋成により明和五年(1768年)に成り、安永五年(1776年)に刊行された怪異小説の傑作。「白峰」「菊花の約(ちぎり)」「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」「仏法僧」「吉備津の釜」「蛇性の婬」「青頭巾」「貧福論」9編を収めている。ここでは道成寺に縁の蛇性の婬をアップした。

  蛇性の婬(じやせいのいん)

 いつの時代(ときよ)なりけん。紀の國三輪が崎に。大宅の竹助といふ人在けり。此人海の幸ありて。海郎(あま)どもあまた養ひ。鰭(はた)の廣(ひろ)物狭(さ)き物を尽してすなどり。家豐に暮しける。男子(をのこゞ)二人。女子(むすめ)一人をもてり。太郎は質朴(すなほ)にてよく生産(なりはひ)を治む。二郎の女子は大和の人の嬬(つまどひ)に迎られて。彼所(かしこ)にゆく。三郎の豐雄なるものあり。生長(ひとゝなり)優しく。常に都風(みやび)たる事をのみ好て。過活(わたらひ)心なかりけり。父是を憂つゝ思ふは。家財(たから)をわかちたりとも即(やがて)人の物となさん。さりとて他の家を嗣(つが)しめんもはたうたてき事聞らんが病(やま)しき。只なすまゝに生し立て。博士にもなれかし。法師にもなれかし。命の極(かぎり)は太郎が覊(ほたし)物にてあらせんとて。強て掟をもせざりけり。此豐雄。新宮の神奴(かんづこ)安倍の弓麿を師として行通ひける。
 九月下旬。けふはことになごりなく和(なぎ)たる海の。暴(にはか)に東南(たつみ)の雲を生(おこ)して。小雨そぼふり來る。師が許にて本かりて歸るに。飛鳥の神秀倉(かんほぐら)見やらるゝ邊(ほとり)より。雨もやゝ頻(しきり)なれば。其所(そこ)なる海郎が屋に立よる。あるじの老はひ出て。こは大人(うし)の弟子(をとご)の君にてます。かく賎しき所に入せ玉ふぞいと恐(かしこ)まりたる事。是敷て奉らんとて。圓座(わらうだ)の汚なげなるを清めてまゐらす。霎時(しばし)息る(やむ)ほどは何か厭ふべき。なあはたゝしくせそとて休らひぬ。外の方に麗しき聲して。此軒しばし惠ませ玉へといひつゝ入來るを。奇しと見るに。年は廿(はたち)にたらぬ女の。顏容(かほかたち)髪のかゝりいと艶(にほ)ひやかに。遠山ずりの色よき衣着て。了鬟(わらは)の十四五ばかりの清げなるに。包し物もたせ。しとゞに濡てわびしげなるが。豐雄を見て。面さと打赤めて恥かしげなる形の貴(あて)やかなるに。不慮(すゞろ)に心動きて。且思ふは。此邊にかうよろしき人の住らんを今まで聞えぬ事はあらじを。此は都人の三つ山詣せし次に。海愛(めづ)らしくこゝに遊ぶらん。さりとて男だつ者もつれざるぞいとはしたなる事かなと思ひつゝ。すこし身退きて。こゝに入せ玉へ。雨もやがてぞ休なんといふ。女。しばし宥させ玉へとて。ほどなき住ゐなればつひ並ぶやうに居るを。見るに近まさりして。此世の人とも思はれぬばかり美しきに。心も空にかへる思ひして。女にむかひ。貴なるわたりの御方とは見奉るが。三山詣やし玉ふらん。峯の温泉(ゆ)にや出立玉ふらん。かうすざましき荒磯(ありそ)を何の見所ありて狩くらし玉ふ。こゝなんいにしへの人の
 くるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに
とよめるは。まことけふのあはれなりける。此家賎しけれどおのれが親の目かくる男なり。心ゆりて雨休(やめ)玉へ。そもいづ地旅の御宿りとはし玉ふ。御見送りせんも却(かへり)て無礼(なめげ)なれば。此傘もて出玉へといふ。女。いと喜しき御心を聞え玉ふ。其御思ひに乾(ほし)てまいりなん。都のものにてもあらず。此近き所に年來(としごろ)住こし侍るが。けふなんよき日とて那智に詣侍るを。暴なる雨の恐しさに。やどらせ玉ふともしらでわりなくも立よりて侍る。こゝより遠からねば。此小休(をやみ)に出侍らんといふを。強(あながち)に此傘もていき玉へ。何(いつ)の便(たより)にも求なん。雨は更に休たりともなきを。さて御住ゐはいづ方(べ)ぞ。是より使奉らんといへば。新宮の邊にて縣(あがた)の眞女兒(まなご)が家はと尋玉はれ。日も暮なん。御惠のほどを指戴(さしいたゞき)て歸りなんとて。傘とりて出るを。見送りつも。あるじが簑笠かりて家に歸りしかど。猶俤(おもかげ)の露忘れがたく。しばしまどろむ曉の夢に。かの眞女兒が家に尋いきて見れば。門も家もいと大きに造りなし。蔀(しとみ)おろし簾埀(すだれたれ)こめて。ゆかしげに住なしたり。眞女子(まなご)出迎ひて。御情わすれがたく待戀奉る。此方に入せ玉へとて奧の方にいざなひ。酒菓子(くだもの)種々(さまざま)と管待(もてな)しつゝ。喜(うれ)しき醉(ゑひ)ごゝちに。つひに枕をともにしてかたるとおもへば。夜明て夢さめぬ。現(うつゝならましかばと思ふ心のいそがしきに朝食(あさげ)も打忘れてうかれ出ぬ。
 新宮の郷に來て縣の眞女子が家はと尋るに。更にしりたる人なし。午時(ひる)かたふくまで尋勞(わづら)ひたるに。かの了鬟東の方よりあゆみ來る。豐雄見るより大に喜び。娘子(をとめ)の家はいづくぞ。傘もとむとて尋來るといふ。了鬟打ゑみて。よくも來ませり。こなたに歩み玉へとて。前に立てゆくゆく。幾ほどもなく。こゝぞと聞ゆる所を見るに。門高く造りなし。家も大きなり。蔀おろし簾たれこめしまで。夢の裏に見しと露違はぬを。奇しと思ふ思ふ門に入。了鬟走り入て。おほがさの主詣玉ふを誘(いざな)ひ奉るといへば。いづ方にますぞ。こち迎へませといひつゝ立出るは眞女子なり。豐雄。こゝに安倍の大人とまうすは。年來物斈(まな)ぶ師にてます。彼所に詣る便に傘とりて歸るとて推て參りぬ。御住居見おきて侍れば又こそ詣來んといふを。眞女子強にとゞめて。まろや努(ゆめ)出し奉るなといへば。了鬟立ふたがりておほがさ強て惠ませ玉ふならずや。其がむくひに強てとゞめまいらすとて。腰を押て南面の所に迎へける。板敷の間に床疊(とこだゝみ)を設けて。几帳。御厨子(みづし)の餝(かざり)。壁代の繪なども。皆古代のよき物にて。倫(なみ)の人の住居ならず。眞女子立出て。故ありて人なき家とはなりぬれば。実(まめ)やかなる御饗(みあへ)もえし奉らず。只薄酒一杯(うすきさけひとつぎ)すゝめ奉らんとて。高杯平杯(たかつきひらつき)の清らなるに。海の物山の物盛ならべて。瓶子土器フ(へいじかはらけさゝ)げて。まろや酌まゐる。豐雄また夢心してさむるやと思へど。正に現なるを却て奇しみゐたる。客も主もともに醉ごゝちなるとき。眞女子杯をあげて。豐雄にむかひ。花精妙(はなぐはし)櫻が枝の水にうつろひなす面に。春吹風をあやなし。梢たちぐゝ鶯の艶ひある聲していひ出るは。面(おも)なきことのいはで病なんも。いづれの神になき名負(おふ)すらんかし。努徒なる言にな聞玉ひそ。故(もと)は都の生(うまれ)なるが。父にも母にもはやう離れまいらせて。乳母の許に成長しを。此國の受領の下司(したづかさ)縣の何某に迎へられて伴なひ下りしははやく三とせになりぬ。夫は任はてぬ此春。かりそめの病に死玉ひしかば。便なき身とはなり侍る。都の乳母も尼になりて。行方なき修行に出しと聞ば。彼方も又しらぬ國とはなりぬるをあはれみ玉へ。きのふの雨のやどりの御惠みに。信ある御方にこそとおもふ物から。今より後の齡をもて御宮仕へし奉らばやと願ふを。汚なき物に拾玉はずば。此一杯に千とせの契をはじめなんといふ。豐雄。もとよりかゝるをこそと乱心なる思ひ妻なれば。塒(ねぐら)の鳥の飛立ばかりには思へど。おのが世ならぬ身を顧れば。親兄弟のゆるしなき事をと。かつ喜(うれ)しみ。且恐れみて。頓(とみ)に答ふべき詞なきを。眞女兒わびしがりて。女の淺き心より。嗚呼(をこ)なる事をいひ出て。歸るべき道なきこそ面なけれ。かう淺ましき身を海にも沒(いら)で。人の御心を煩はし奉るは罪深きこと。今の詞は徒ならねども。只醉ごゝちの狂言(まがこと)におぼしとりて。こゝの海にすて玉へかしといふ。豐雄。はじめより都人の貴なる御方とは見奉るこそ賢かりき。鯨よる濱に生立し身の。かく喜(うれ)しきこといつかは聞ゆべき。即(やがて)の御答へもせぬは。親兄に仕ふる身の。おのが物とては爪髪の外なし。何を録に迎へまゐらせん便もなければ身の徳なきをくゆるばかりなり。何事をもおぼし耐(たへ)玉はゞ。いかにもいかにも後見(うしろみ)し奉らん。孔子(くし)さへ倒るゝ戀の山には。孝をも身をも忘れてといへば。いと喜(うれ)しき御心を聞まいらするうへは。貧しくとも時々(をりをり)こゝに住せ玉へ。こゝに前の夫の二つなき寶にめで玉ふ帶あり。これ常に帶(はか)せ玉へとてあたふるを見れば。金銀を餝りたる太刀の。あやしきまで鍛ふたる古代の物なりける。物のはじめに辞(いなみ)なんは祥(さが)あしければとてとりて納む。今夜はこゝに明させ玉へとて。あながちにとどむれど。まだ赦(ゆるし)なき旅寢は親の罪し玉はん。明の夜よく僞りて詣なんとて出ぬ。其夜も寢(いね)がてに明ゆく。
 大郎は網子(あご)とゝのほるとて。晨(つとめ)て起出て。豐雄が閨房(ねや)の戸の間(ひま)をふと見入たるに。消(きえ)殘りたる灯火(ともしび)の影に。輝々(きらきら)しき太刀を枕に置て臥たり。あやし。いづちより求ぬらんとおぼつかなくて。戸をあらゝかに明る音に目さめぬ。太郎があるを見て。召玉ふかといへば。輝々しき物を枕に置しは何ぞ。價貴(あたひたか)き物は海人(あま)の家にふさはしからず。父の見玉はゞいかに罪し玉はんといふ。豐雄。財を費して買たるにもあらず。きのふ人の得させしをこゝに置しなり。太郎。いかでさる寶をくるゝ人此邊にあるべき。あなむつかしの唐言(からこと)書たる物を買たむるさへ。世の費(ついえ)なりと思へど。父の默りておはすれば今までもいはざるなり。其太刀帶(おび)て大宮の祭をねるやらん。いかに物に狂ふぞといふ聲の高きに。父聞つけて徒者(いたづらもの)が何事をか仕出つる。こゝにつれ來よ太郎と呼に。いづちにて求ぬらん。軍將等(いくさぎみたち)の佩(はき)玉ふべき輝々しき物を買たるはよからぬ事。御目(ま)のあたりに召て問あきらめ玉へ。おのれは網子どもの怠るらんと云拾て出ぬ。母豐雄を召て。さる物何の料(れう)に買つるぞ。米も錢も太郎が物なり。吾主(わぬし)が物とて何をか持たる。日來(ひごろ)は爲まゝにおきつるを。かくて太郎に惡(にく)まれなば。天地(あめつち)の中に何國(いづく)に住らん。賢き事をも斈(まな)びたる者が。など是ほどの事わいためぬぞといふ。豐雄。実(まこと)に買たる物にあらず。さる由縁(ゆゑ)有て人の得させしを。兄の見咎てかくの玉ふなり。父。何の譽(ほまれ)ありてさる寶をば人のくれたるぞ。更におぼつかなき事。只今所縁(いはれ)かたり出よと罵る。豐雄。此事只今は面俯(おもてぶせ)なり。人傳(づて)に申出侍らんといへば。親兄にいはぬ事を誰にかいふぞと聲あらゝかなるを。太郎の嫁の刀自(とじ)傍(かたへ)にありて。此事愚なりとも聞侍らん。入せ玉へと宥(なだ)むるに。つひ立ていりぬ。豐雄刀自にむかひて兄の見咎め玉はずとも。密に姉君をかたらひてんと思ひ設つるに。速く責なまるゝ事よ。かうかうの人の女のはかなくてあるが。後身(うしろみ)してよとて賜へるなり。己が世しらぬ身の。御赦(ゆるし)さへなき事は重き勘當(かんどう)なるべければ。今さら悔るばかりなるを。姉君よく憐み玉へといふ。刀自打笑て。男子のひとり寢し玉ふが。兼ていとをしかりつるに。いとよき事ぞ。愚也ともよくいひとり侍らんとて。其夜太郎に。かうかうの事なるは幸におぼさずや。父君の前をもよきにいひなし玉へといふ。太郎眉を顰(ひそ)めて。あやし。此國の守の下司に縣の何某と云人を聞ず。我家保正(をさ)なればさる人の亡なり玉ひしを聞えぬ事あらじを。まづ太刀こゝにとりて來よといふに。刀自やがて携へ來るを。よくよく見をはりて。長嘘(ためいき)をつぎつゝもいふはこゝに恐しき事あり。近來(ちかごろ)都の大臣殿(おおいどの)の御願(ごぐはん)の事みたしめ玉ひて。權現におほくの寶を奉り玉ふ。さるに此神寶(かんだから)ども。御寶藏(みたからぐら)の中にて頓(とみ)に失(うせ)しとて。大宮司より國の守に訴出玉ふ。守此賊(ぬすびと)を探り捕ふために。助の君文室(ふんや)の廣之。大宮司の舘に來て。今専に此事をはかり玉ふよしを聞ぬ。此太刀いかさまにも下司などの帶(はく)べき物にあらず。猶父に見せ奉らんとて。御前に持いきて。かうかうの恐しき事のあなるは。いかゞ計らひ申さんといふ。父面(おもて)を青くして。こは淺ましき事の出きつるかな。日來は一毛をもぬかざるが。何の報(むくひ)にてかう良らぬ心や出きぬらん。他よりあらはれなば此家をも絶されん。祖(みおや)の爲子孫(のち)の爲には。不孝の子一人惜からじ。明(あす)は訴へ出よといふ。
 大郎夜の明るを待て。大宮司の舘に來り。しかしかのよしを申出て。此太刀を見せ奉るに。大宮司驚きて。是なん大臣殿の獻(たてまつ)り物なりといふに。助聞玉ひて。猶失し物問あきらめん。召捕(めしとれ)とて。武士ら十人ばかり。大郎を前にたてゝゆく。豐雄。かゝる事をもしらで書(ふみ)見ゐたるを武士ら押かゝりて捕ふ。こは何の罪ぞといふをも聞入ず縛(から)めぬ。父母太郎夫婦も今は淺ましと歎まどふばかりなり。公廳(おほやけ)より召玉ふ疾(とく)あゆめとて。中にとりこめて舘に追もてゆく。助。豐雄をにらまへて。なんぢ神寶を盗とりしは例(ためし)なき國津罪(くにつつみ)なり。猶種々(くさぐさ)の財(たから)はいづ地に隱したる。明らかにまうせといふ。豐雄漸(やゝ)此事を覺り。涙を流して。おのれ更に盗をなさず。かうかうの事にて縣の何某の女(め)が。前(さき)の夫(つま)の帶たるなりとて得させしなり。今にもかの女召て。おのれが罪なき事を覺(さと)らせ玉へ。助いよゝ怒りて。我下司に縣の姓を名のる者ある事なし。かく僞るは刑(つみ)ますます大なり。豐雄。かく捕はれていつまで僞るべき。あはれかの女召て問せ玉へ。助。武士らに向ひて。縣の眞女子が家はいづくなるぞ。渠を押て捕へ來れといふ。
 武士らかしこまりて。又豐雄を押たてゝ彼所(かしこ)に行て見るに。嚴めしく造りなせし門の柱も朽くさり。軒の瓦も大かたは碎(くだけ)おちて。草しのぶ生(おひ)さがり。人住とは見えず。豐雄是を見て只あきれにあきれゐたる。武士らかけ廻(めぐ)りて。ちかきとなりを召あつむ。木伐老(ききるをぢ)。米かつ男ら。恐れ惑ひて跪(うすゞま)る。武士他(かれ)らにむかひて。此家何者が住しぞ。縣の何某が女のこゝにあるはまことかといふに。鍛冶の翁はひ出て。さる人の名はかけてもうけ玉はらず。此家三とせばかり前までは。村主(すぐり)の何某といふ人の。賑はしくて住侍るが。筑紫に商(あき)物積てくだりし。其船行方なくなりて後は。家に殘る人も散々になりぬるより。絶て人の住ことなきを。此男のきのふこゝに入て。漸(やゝ)して歸りしを奇しとて。此漆師(ぬし)の老がまうされしといふに。さもあれ。よく見極て殿に申さんとて。門押ひらきて入る。家は外よりも荒まさりけり。なほ奧の方に進みゆく。前栽廣く造りなしたり。池は水あせて水草(みくさ)も皆枯。野ら薮生かたふきたる中に。大きなる松の吹倒れたるぞ物すざまし。客殿の格子戸をひらけば。腥(なまぐさ)き風のさと吹おくりきたるに恐れまどひて。人々後にしりぞく。豐雄只聲を呑て歎きゐる。武士の中に巨勢(こせ)の熊梼(くまがし)なる者膽(きも)ふとき男にて。人々我後(あと)に從(つき)て來れとて。板敷をあららかに踏て進みゆく。塵は一寸ばかり積りたり。鼠の糞ひりちらしたる中に。古き帳を立て。花の如くなる女ひとりぞ座る。熊梼女にむかひて。國の守の召つるぞ。急ぎまゐれといへど。答へもせであるを。近く進みて捕ふとせしに。忽(たちまち)地も裂(さく)るばかりの霹靂鳴響(はたゝがみなりひゞ)くに。許多(あまた)の人迯(にぐ)る間もなくてそこに倒る。然(さて)見るに。女はいづち行けん見えずなりにけり。此床(とこ)の上に輝々しき物あり。人々恐る恐るいきて見るに、狛錦(こまにしき)、呉の綾、倭文(しづり)、かとり、楯、槍(ほこ)、靭(ゆき)、くはの類、此失(うせ)つる神寶なりき。武士らこれをとりもたせて。怪しかりつる事どもを詳に訴ふ。助も大宮司も妖怪(ものゝけ)のなせる事をさとりて。豐雄を責(さいな)む事をゆるくす。されど當罪(おもてつみ)免れず。守の舘にわたされて牢裏に繋がる。大宅の父子多くの物を賄(まひ)して罪を贖(かふ)によりて。百日がほどに赦さるゝ事を得たり。かくて世にたち接(まじは)らんも面俯(おもてぶせ)なり。姉の大和におはすを訪らひて。しばし彼所に住(すま)んといふ。げにかう憂め見つる後は重き病をも得るものなり。ゆきて月ごろを過せとて。人を添て出たゝす。
 二郎の姉が家は石榴市(つばいち)といふ所に。田邊の金忠(かねたゞ)といふ商人(あきびと)なりける。豐雄が訪(とむ)らひ來るを喜(よろこ)び。かつ月ごろの事どもをいとほしがりて。いついつまでもこゝに住めとて。念比に勞(いたは)りけり。年かはりて二月になりぬ。此石榴市といふは。泊瀬(はつせ)の寺ちかき所なりき。佛の御中には泊瀬なんあらたなる事を。唐土(もろこし)までも聞えたるとて。都より邊鄙(いなか)より詣づる人の。春はことに多かりけり。詣づる人は必こゝに宿れば。軒を並べて旅人をとゞめける。田邊が家は御明燈心(みあかしとうしん)の類を商ひぬれば。所せく人の入たちける中に。都の人の忍びの詣と見えて。いとよろしき女一人。了鬟一人。薫(たき)物もとむとてこゝに立よる。此了鬟豐雄を見て。吾(わが)君のこゝにいますはといふに。驚きて見れば。かの眞女子まろやなり。あな恐しとて内に隱るゝ。金忠夫婦こは何ぞといへば。かの鬼こゝに逐(おひ)來る。あれに近寄玉ふなと隱れ惑ふを。人々そはいづくにと立騷ぐ。眞女子入來りて。人々あやしみ玉ひそ。吾夫(わがせ)の君な恐れ玉ひそ。おのが心より罪に墮(おと)し奉る事の悲しさに。御有家(ありか)もとめて。事の由縁をもかたり。御心放(みこゝろやり)せさせ奉らんとて。御住家尋まいらせしに。かひありてあひ見奉る事の喜(うれ)しさよ。あるじの君よく聞わけて玉へ。我もし怪しき物ならば。此人繁きわたりさへあるに。かうのどかなる昼をいかにせん。衣に縫目あり。日にむかへば影あり。此正しきことわりを思しわけて。御疑ひを解せ玉へ。豐雄漸(やゝ)人ごゝちして。なんぢ正しく人ならぬは。我捕はれて。武士らとともにいきて見れば。きのふにも似ず淺ましく荒果て。まことに鬼の住べき宿に一人居るを。人々ら捕へんとすれば。忽青天霹靂(はたゝがみ)を震ふて。跡なくかき消ぬるをまのあたり見つるに。又逐來て何をかなす。すみやかに去れといふ。眞女子涙を流して。まことにさこそおぼさんはことわりなれど。妾(しやう)が言(こと)をもしばし聞せ玉へ。君公廳に召れ玉ふと聞しより。かねて憐をかけつる隣の翁をかたらひ。頓(とみ)に野らなる宿のさまをこしらへし。我を捕(とら)んずときに鳴神響かせしはまろやが計較(たばかり)つるなり。其後船もとめて難波の方に遁れしかど。御消息(せうそこ)しらまほしく。こゝの御佛にたのみを懸つるに。二本(ふたもと)の杉のしるしありて。喜(うれ)しき瀬にながれあふことは。ひとへに大悲(ひ)の御徳かふむりたてまつりしぞかし。種々の神寶は何とて女の盗み出すべき。前の夫の良らぬ心にてこそあれ。よくよくおぼしわけて。思ふ心の露ばかりをもうけさせ玉へとてさめざめと泣。豐雄或は疑ひ。或は憐みて。かさねていふべき詞もなし。金忠夫婦。眞女子がことわりの明らかなるに。此女しきふるまひを見て。努疑ふ心もなく。豐雄のもの語りにては世に恐しき事よと思ひしに。さる例あるべき世にもあらずかし。はるばると尋まどひ玉ふ御心ねのいとはしきに。豐雄肯(うけがは)ずとも我々とゞめまいらせんとて。一間なる所に迎へける。こゝに一日二日を過すまゝに。金忠夫婦が心をとりて。ひたすら歎きたのみける。其志の篤きに愛て。豐雄をすゝめてつひに婚儀(ことぶき)をとりむすぶ。豐雄も日々に心とけて。もとより容姿(かたち)のよろしきを愛よろこび。千とせをかけて契るには。葛城(かづらき)や高間(たかま)の山に夜々(よひよひ)ごとにたつ雲も。初瀬の寺の曉の鐘に雨収まりて。只あひあふ事の遲きをなん恨みける。
 三月(やよひ)にもなりぬ。金忠豐雄夫婦にむかひて。都わたりには似るべうもあらねど。さすがに紀路(きぢ)にはまさりぬらんかし。名細(なぐはし)の吉野は春はいとよき所なり。三船の山菜摘(なつみ)川常に見るとも飽(あか)ぬを。此頃はいかにおもしろからん。いざ玉へ出立なんといふ。眞女兒うち笑て。よき人のよしと見玉ひし所は。都の人も見ぬを恨みに聞え傳るを。我身稚(をさな)きより。人おほき所。或は道の長手をあゆみては。必気のぼりてくるしき病あれば。從駕(みとも)にえ出立侍らぬぞいと憂たけれ。山土産(づと)必待こひ奉るといふを。そはあゆみなんこそ病も苦しからめ。車こそもたらね。いかにもいかにも土は踏せまいらせじ。留り玉はんは豐雄のいかばかり心もとなかりつらんとて。夫婦すゝめたつに。豐雄もかうたのもしくの玉ふを。道に倒るゝともいかでかはと聞ゆるに。不慮ながら出たちぬ。人々花やぎて出ぬれど。眞女子が麗(あて)なるには似るべうもあらずぞ見えける。何某(なにがし)の院はかねて心よく聞えかはしければこゝに訪らふ。主の僧迎へて。此春は遲く詣玉ふことよ。花もなかばは散過て鴬の聲もやゝ流るめれど。猶よき方にしるべし侍らんとて。夕食(ゆふげ)いと清くして食(くは)せける。明ゆく空いたう霞みたるも。晴ゆくまゝに見わたせば。此院は高き所にて。こゝかしこ僧坊どもあらはに見おろさるゝ。山の鳥どもゝそこはかとなく囀(さえづ)りあひて。木草の花色々に咲まじりたる。同じ山里ながら目さむるこゝちせらる。初詣(うひまうで)には瀧ある方こそ見所はおほかめれとて。彼方(かなた)にしるべの人乞て出たつ。谷を繞(めぐ)りて下りゆく。いにしへ行幸(いでまし)の宮ありし所は。石はしる瀧つせのむせび流るゝに。ちいさき鮎(あゆ)どもの水に逆ふなど。目もあやにおもしろし。檜破子(ひわりご)打散して喰つゝあそぶ。
 岩がねづたひに來る人あり。髪は績麻(うみそ)をわがねたる如くなれど。手足いと健(すこ)やかなる翁なり。此瀧の下にあゆみ來る。人々を見てあやしげにまもりたるに。眞女子もまろやも此人を背に見ぬふりなるを。翁渠(かれ)二人をよくまもりて。あやし。此邪神(あしきかみ)。など人をまどはす。翁がまのあたりをかくても有やとつぶやくを聞て。此二人忽躍りたちて。瀧に飛入と見しが。水は大虚(おほぞら)に湧あがりて見えずなるほどに。雲摺墨をうちこぼしたる如く。雨篠を乱してふり來る。翁人々の慌忙(あはて)惑ふをまつろへて人里にくだる。賎しき軒にかゞまりて生るこゝちもせぬを。翁豐雄にむかひ。熟(つらつら)そこの面(おもて)を見るに。此隱神(かくれがみ)のために腦(なや)まされ玉ふが。吾救はずばつひに命をも失ひつべし。後よく愼み玉へといふ。豐雄地に額着(ぬかづき)て。此事の始よりかたり出て。猶命得させ玉へとて。恐れみ敬(うや)まひて願ふ。翁さればこそ。此邪神(あしきかみ)は年經たる蛇(おろち)なり。かれが性(さが)は婬(みだり)なる物にて。牛と孳(つる)みては麟(りん)を生み。馬とあひては龍馬(りやうめ)を生といへり。此魅(まど)はせつるも。はたそこの秀麗(かほよき)にたはけたると見えたり。かくまで[(しう)ねきをよく愼み玉はずば。おそらくは命を失ひ玉ふべしといふに。人々いよゝ恐れ惑ひつゝ。翁を崇(あが)まへて遠津神(とほつがみ)にこそと拝みあへり。翁打笑て。おのれは神にもあらず。大倭の神社に仕へまつる當麻の酒人(たぎまのきびと)といふ翁なり。道の程見たてゝまいらせん。いざ玉へとて出たてば。人々後につきて歸り來る。明(あけ)の日大倭(やまと)の郷にいきて。翁が惠みを謝し。且美濃絹三疋(みのぎぬみむら)筑紫綿二屯(つくしわたふたつみ)を遺(おく)り來り。猶此妖怪(ものゝけ)の身禊(みそぎ)し玉へとつゝしみて願ふ。翁これを納めて。祝部(はふり)らにわかちあたへ。自は一疋一屯をもとゞめずして。豐雄にむかひ。畜(かれ)なんじが秀麗にたはけてなんぢを纒(まと)ふ。なんぢ又畜(かれ)が假の化(かたち)に魅はされて丈夫(ますらを)心なし。今より雄氣(をとこさび)してよく心を靜まりまさば。此らの邪神を逐(やら)はんに翁が力をもかり玉はじ。ゆめゆめ心を靜まりませとて実(まめ)やかに覺しぬ。豐雄夢のさめたるこゝちに。禮言(いやこと)尽ずして歸り來る。金忠にむかひて。此年月畜(かれ)に魅はされしは己が心の正しからぬなりし。親兄の孝(つかへ)をもなさで。君が家の覊(ほだし)ならんは由縁なし。御惠いとかたじけなけれど。又も參りなんとて。紀の國に歸りける。
 父母太郎夫婦。此恐しかりつる事を聞て。いよゝ豐雄が過ならぬを憐み。かつは妖怪(ものゝけ)の[(しう)ねきを恐れける。かくて鰥(やむを)にてあらするにこそ。妻むかへさせんとてはかりける。芝の里に芝の庄司なるものあり。女子一人もてりしを。大内の宋女(うねめ)にまゐらせてありしが。此度いとま申玉はり。此豐雄を聟がねにとて。媒氏(なかだち)をもて大宅が許へいひ納(いる)る。よき事なりて即(やがて)因(ちな)みをなしける。かくて都へも迎(むかひ)の人を登せしかば。此采女富子なるものよろこびて歸り來る。年來の大宮仕へに馴こしかば。萬の行儀(ふるまひ)よりして。姿(かたち)なども花やぎ勝りけり。豐雄こゝに迎へられて見るに。此富子がかたちいとよく萬心に足(たら)ひぬるに。かの蛇(おろち)が懸想せしこともおろおろおもひ出るなるべし。はじめの夜は事なければ書ず。二日の夜。よきほどの醉ごゝちにて。年來の大内住(うちずみ)に。邊鄙の人ははたうるさくまさん。かの御わたりにては。何の中將宰相の君などいふに添(そひ)ぶし玉ふらん。今更にくゝこそおぼゆれなど戲(たはむ)るゝに。富子即面をあげて。古き契を忘れ玉ひて。かくことなる事なき人を時めかし玉ふこそ。こなたよりまして惡くあれといふは。姿こそかはれ。正しく眞女子が聲なり。聞にあさましう。身の毛もたちて恐しく。只あきれまどふを。女打ゑみて。吾君な怪しみ玉ひそ。海に誓ひ山に盟ひし事を速くわすれ玉ふとも。さるべき縁(ゑ)にしのあれば又もあひ見奉るものを。他(あだ)し人のいふことをまことしくおぼして。強に遠ざけ玉はんには。恨み報ひなん。紀路の山々さばかり高くとも。君が血をもて峯より谷に潅ぎくださん。あたら御身をいたづらになし果玉ひそといふに。只わなゝきにわなゝかれて。今やとらるべきこゝちに死入ける。屏風のうしろより。吾君いかにむつかり玉ふ。かうめでたき御契なるはとて出るはまろやなり。見るに又腰(きも)を飛(とば)し。眼(まなこ)を閉(とぢ)て伏向(うつぶさ)に臥す。和(なご)めつ驚しつかはるがはる物うちいへど。只死入たるやうにて夜明ぬ。
 かくて閨房を免れ出て庄司にむかひ。かうかうの恐しき事あなり。これいかにして放(さけ)なん。よく計り玉へといふも。背(うしろ)にや聞らんと聲を小やかにしてかたる。庄司も妻も面を青くして歎きまどひ。こはいかにすべき。こゝに都の鞍馬寺の僧の。年々熊野に詣づるが。きのふより此向岳(むかつを)の蘭若(てら)に宿りたり。いとも驗なる法師にて凡疫病(ゑやみ)妖怪(ものゝけ)蝗(いなむし)などをもよく祈るよしにて。此郷の人は貴(たふと)みあへり。此法師請(むか)へてんとて。あはたゝしく呼つげるに。漸(やゝ)して來りぬ。しかしかのよしを語れば。此法師鼻を高くして。これらの蠱物(まじもの)らを捉(とら)んは何の難き事にもあらじ。必靜まりおはせとやすげにいふに。人々心落ゐぬ。法師まづ雄黄(ゆうわう)をもとめて藥の水を調じ。小瓶に堪へて。かの閨房にむかふ。人々驚隱(おぢかく)るゝを。法師嘲(あざみ)わらひて。老たるも童も必そこにおはせ。此蛇(をろち)只今捉(とり)て見せ奉らんとてすゝみゆく。閨房の戸あくるを遲しと。かの蛇頭をさし出して法師にむかふ。此頭何ばかりの物ぞ。此戸口に充滿(みちみち)て。雪を積たるよりも白く輝々しく。眼は鏡の如く。角は枯木の如。三尺餘りの口を開き。紅の舌を吐(はい)て。只一呑に飮(のむ)らん勢ひをなす。あなやと叫びて。手にすゑし小瓶をもそこに打すてゝ。たつ足もなく。展轉(こいまろ)びはひ倒れて。からうじてのがれ來り。人々にむかひ。あな恐し。祟ります御神にてましますものを。など法師らが祈奉らん。此手足なくば。はた命失なひてんといふいふ絶入ぬ。人々扶け起すれど。すべて面も肌も黒く赤く染なしたるが如に。熱(あつ)き事焚火に手さすらんにひとし。毒気(あしきいき)にあたりたると見えて。後は只眼のみはたらきて物いひたげなれど。聲さへなさでぞある。水潅ぎなどすれど。つひに死ける。これを見る人いよゝ魂も身に添ぬ思ひして泣惑ふ。豐雄すこし心を収めて。かく驗なる法師だも祈得ず。[(しふ)ねく我を纒(まと)ふものから。天地(あめつち)のあひだにあらんかぎりは探し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは実(まめ)ならず。今は人をもかたらはじ。やすくおぼせとて閨房にゆくを。庄司の人々こは物に狂ひ玉ふかといへど。更に聞ず顏にかしこにゆく。戸を靜に明れば。物の騷がしき音もなくて。此二人ぞむかひゐたる。富子豐雄にむかひて。君何の讐(あた)に我を捉へんとて人をかたらひ玉ふ。此後も仇をもて報ひ玉はゞ。君が御身のみにあらじ。此郷の人々をもすべて苦しきめ見せなん。ひたすら吾貞操(みさほ)をうれしとおぼして。徒(あだ)々しき御心をなおぼしそと。いとけさうじていふぞうたてかりき。豐雄いふは。世の諺にも聞ることあり。人かならず虎を害する心なけれども。虎反(かへ)りて人を傷(やぶ)る意ありとや。なんぢ人ならぬ心より。我を纏ふて幾度かからきめを見するさへあるに。かりそめ言をだにも此恐しき報ひをなんいふは。いとむくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば。こゝにありて人々の歎き玉はんがいたはし。此富子が命ひとつたすけよかし。然我をいづくにも連ゆけといへば。いと喜(うれ)しげに點頭(うなづき)をる。
 又立出て庄司にむかひ。かう淺ましきものゝ添てあれば。こゝにありて人々を苦しめ奉らんはいと心なきことなり。只今暇(いとま)玉はらば。娘子(をとめ)の命も恙(つゝが)なくおはすべしといふを。庄司更に肯ず。我弓の本末をもしりながら。かくいひがひなからんは大宅の人々のおぼす心もはづかし。猶計較(はかり)なん。小松原の道成寺に法海和尚とて貴とき祈の師おはす。今は老て室の外にも出ずと聞ど。我爲にはいかにもいかにも捨玉はじとて。馬にていそぎ出たちぬ。道遥なれば夜なかばかりに蘭若に到る。老和尚眼藏(めんざう)をゐざり出て。此物がたりを聞て。そは淺ましくおぼすべし。今は老朽て驗(げん)あるべくもおぼえ侍らねど。君が家の災(わざは)ひを默(もだ)してやあらん。まづおはせ。法師も即詣なんとて。芥子の香にしみたる袈裟とり出て。庄司にあたへ。畜(かれ)をやすくすかしよせて。これをもて頭に打かづけ。力を出して押ふせ玉へ。手弱(たよは)くあらばおそらくは迯さらん。よく念じてよくなし玉へと実やかに教ふ。庄司よろこぼひつゝ馬を飛してかへりぬ。豐雄を密に招きて。此事よくしてよとて袈裟をあたふ。豐雄これを懐に隱して閨房にいき。庄司今はいとまたびぬ。いぎたまへ出立なんといふ。いと喜(うれ)しげにてあるを。此袈裟とり出てはやく打かづけ。力をきはめて押ふせぬれば。あな苦し。なんじ何とてかく情なきぞ。しばしこゝ放せよかしといへど。猶力にまかせて押ふせぬ。法海和尚の輿やがて入來る。庄司の人々に扶けられてこゝにいたり玉ひ。口のうちつぶつぶと念じ玉ひつゝ。豐雄を退けて。かの袈裟とりて見玉へば。富子は現なく伏たる上に。白き蛇(をろち)の三尺あまりなる蟠(わだかま)りて動(うごき)だもせずてぞある。老和尚これを捉へて。徒弟が捧(さゝげ)たる鉄鉢に納玉ふ。猶念じ玉へば。屏風の背(うしろ)より。尺ばかりの小蛇はひ出るを。是をも捉て鉢に納玉ひ。かの袈裟をもてよく封じ玉ひ。そがまゝに輿に乘せ玉へば。人々掌をあはせ涙を流して敬まひ奉る。蘭若に歸り玉ひて。堂の前を深く堀せて。鉢のまゝに埋させ。永劫があひだ世に出ることを戒しめ玉ふ。今猶蛇が塚ありとかや。庄司が女子(むすめ)はつひに病にそみてむなしくなりぬ。豐雄は命恙なしとなんかたりつたへける

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