梁塵秘抄(りょうじんひしょう)
後白河上皇(1127〜1192)の撰による歌謡集
平安末期の遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人によって歌われ、広められた流行歌(「今様」と呼ばれた)の集大成(1169年ころ成立)。
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梁塵秘抄 (熊野関係を抜粋) 縦書きへ
たれより南に高き山、娑羅の林こと高き山、高き峯、日前国懸の宮,伊太祈曾鳴神とや紀伊三所、
熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず、
熊野へ参るには、何か苦しき修行者に、安松姫松五葉松、千里の浜(以下欠字)
熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山峻し、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜べ若王子、
熊野の権現は、名草の浜にこそ降りたまへ、若の浦にしましませば、年はゆけども若王子、
花の都を振り捨てて、くれくれ参るはおぼろけか、且つは権現御覧ぜよ、青蓮の眼をあざやかに、
大師の住所は何処何処ぞ、伝教慈覚は比叡の山、横河の御廟とか、智証大師は三井寺にな、弘法大師は高野の御山にまだおはします、
聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の、鰐淵や、日の御崎、南は、熊野の、那智とかや、
聖の住所は何処何処ぞ、大峯葛城石の槌、箕面や勝尾よ、播磨なる書写の山、南は熊野の那智新宮、
淡路はあお尊、北には播磨の書写を目守らへて、西には文殊師利、南は南海補陀落の山に対たり、東は難波の天王寺に、舎利まだおはします
熊野の権現は、名草の浜にぞ降り給ふ、海人の小舟に乗りたまひ、慈悲の袖をぞ垂れたまふ、
紀の国や、牟婁の郡におはします、熊野両所は結ぶ速玉、
熊野に出でて切目の山の梛の葉し、万の人の上被(うわき)なりけり、