梁塵秘抄
後白河上皇撰による歌謡集(1169頃)。「熊野へまいるは紀路と伊勢路のどれ近しどれ遠し 広大慈悲の道なれば紀路も伊勢路も遠からず」」の言葉が有名。平安末期の遊女や傀儡子などの女芸人によって歌い広められた流行歌(「今様」と呼ばれた)の集大成。”梁塵”とは中国に故事から、音楽や歌声の美しいのを賞賛する例として用いられたことから付けられたようだ。
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梁塵秘抄 (熊野関係を抜粋)
たれより南に高き山、娑羅の林こと高き山、高き峯、日前国懸の宮,伊太祈曾鳴神とや紀伊三所、
熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず、
熊野へ参るには、何か苦しき修行者に、安松姫松五葉松、千里の浜(以下欠字)
熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山峻し、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜べ若王子、
熊野の権現は、名草の浜にこそ降りたまへ、若の浦にしましませば、年はゆけども若王子、
花の都を振り捨てて、くれくれ参るはおぼろけか、且つは権現御覧ぜよ、青蓮の眼をあざやかに、
大師の住所は何処何処ぞ、伝教慈覚は比叡の山、横河の御廟とか、智証大師は三井寺にな、弘法大師は高野の御山にまだおはします、
聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の、鰐淵や、日の御崎、南は、熊野の、那智とかや、
聖の住所は何処何処ぞ、大峯葛城石の槌、箕面や勝尾よ、播磨なる書写の山、南は熊野の那智新宮、
淡路はあお尊、北には播磨の書写を目守らへて、西には文殊師利、南は南海補陀落の山に対たり、東は難波の天王寺に、舎利まだおはします
熊野の権現は、名草の浜にぞ降り給ふ、海人の小舟に乗りたまひ、慈悲の袖をぞ垂れたまふ、
紀の国や、牟婁の郡におはします、熊野両所は結ぶ速玉、
熊野に出でて切目の山の梛の葉し、万の人の上被(うわき)なりけり、