熊野関係古籍     熊野古道

牟漏温泉行幸・御幸  

*昭和17年に発行された「和歌山縣聖蹟調査資料全」第二篇 より

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「和歌山縣聖蹟調査資料全牟漏温泉行幸・御幸 

 斉明天皇
斉明天皇四年
〔日本書紀〕
冬十月庚戌朔申子、幸紀温湯
〔万葉集〕巻一
  後崗本宮御宇天皇代幸子紀温泉之時額田王作歌
莫囂圓隣之 大相七只爪謁氣 吾瀬子之
(ワガセコガ 射立爲兼(イタタシケム) 五可新何本(イツカシカモト)〔九〕

 持統天皇
大寶元年
〔續日本紀〕
十八
九月丁亥(十八)、天皇幸紀伊。
冬十月、丁未(八)、車駕至武漏温泉。戊申(九)従官併國郡司等。進階併賜衣衾。及國内高年給稻各有差。勿収當年租調併正税利。唯武漏郡本利並免。曲赦罪人。戊午、車駕自紀至。
〔萬葉集〕
  大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸子紀伊時歌
 巨勢山乃 列々椿 都良都良爾 見乍思 巨勢乃春野乎
(コセヤマノ ツラツラツバキ ツラツラニ ミツゝオモフナ コセノハルヌオ)〔五四〕

 文武天皇
大寶元年九月
〔萬葉集〕
  大寶元年辛丑冬十月、太上天皇太行天皇幸紀伊國時歌十三首
 爲妹 我玉求 於伎邊有 白玉依り來 於岐都白浪
(イモガタメ ワレタワモトム オキベナル シラタマヨセコ オキツシラナミ)〔一六六七〕
 白崎者 幸在待 大船爾 眞梶繁貫 又將願(シラガキハ サキクアリマテ オオフナニ マカジシジヌキ マタカエリミヌ)〔一六六八〕
 三名部乃浦 鹽莫滿 鹿島在 釣爲海人乎 見變將來六(ミナベノウラ シオナミチソネ カシマナル ツリスルアマヲ ミテカエリコム)〔一六六九〕
 朝開 榜出而我者 湯羅前 釣爲海人乎 見變將來(アサビラキ コギイデテワレハ ユラノサキ ツリスルアマヲ ミテカエリコム)〔一六七〇〕
 湯羅乃前 鹽乾爾祁良志 白神之 磯浦箕乎 敢而榜動(ユラノサキ シホヒニケラシ シラカミノ イソノウラミヲ アヘテコギトヨム)〔一六七一〕
 黒牛方 鹽干乃浦乎 紅 玉裙須蘇延 往者誰妻(クロウシガタ シホヒノウラヲ クレナヰノ タマモスソビキ ユクハタガツマ)〔一六七二〕
 風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無(カゼナシノ ハマノシラナミ イタヅラニ ココニヨリクル ミルヒトナシニ)〔一六七三〕
 我背兒我 使將來歟跡 出立之 此松原乎 今日香過南(ワガセコガ ツカヒコムカト イデタチノ コノマツバラヲ ケフカスギナム)〔一六七四〕
 藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣手者 所沽香裳腰(フジシロノ ミサカヲコユト シロタヘノ ワガコロモデハ ヌレニケルカモ)〔一六七五〕
 勢能山爾 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者今日散濫(セノヤマニ モミヂトコシク カミヲカノ ヤマノモミヂハ ケフカチルラム)〔一六七六〕
 山跡庭 聞往歟 大我野之 竹葉苅敷 廬爲有跡者(ヤマトニハ キコエモユクカ オホガヌノ タケバカリシキ イホリセリトハ)〔一六七七〕
 木國之 昔弓雄之 響矢用 鹿取靡 坂上爾曾安留(キノクニノ ムカシユミオノ ナリヤモテ カトリナビケシ サカノヘニゾアル)〔一六七八〕
 城國爾 不止將往來 妻社 妻依來西尼 妻常言長柄(キノクニニ ヤマズカヨハム ツマノモリ ツマヨシコセネ ツマトイヒナガラ)〔一六七九〕
   後人歌二首
 朝裳吉 木方往君我 信土山 越濫今日曾 爾莫零根(アサモヨシ キヘユクキミガ マツチヤマ コユラムケフゾ アメナフリソネ)〔一六八〇〕
 後居而 我戀居者 白雲 棚引山乎 今日香越濫(オクレヰテ ワガコヒオレバ シラクモノ タナビクヤマヲ ケフカコユラム)〔一六八一〕

   有馬皇子
〔日本書記〕齋明天皇三年
九月、有馬皇子。「○中略」往牟婁温泉「○中略」讃國體勢日。纔觀彼地。病目□[u+蜀]消云々、天皇聞悦。思欲往觀。

   中皇女命
〔万葉集〕
   中皇女命往于紀伊温泉之時御歌
君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去來結手名
〔一〇〕

   御幸芝
〔熊野巡覧記〕
雙丘ト云處に御所芝ト云有是ハ古しゑ齋明天皇此湯に御幸したまひし時行宮の古跡なりと云傳ふ。


   牟漏温泉
〔續日本記〕
大寶三年五月(辛卯朔)、己亥(九)、紀伊國奈我、名草二郡停布調獻絲。但阿堤、飯高、牟婁三郡獻銀也。
〔倭名類聚抄〕
牟婁郡   岡田   牟婁「無婁」   栗栖   三前   神戸

〔舊事記〕
志賀空穂朝御世饒速日命五世孫大阿計足尼定賜熊野國造。

〔續日本記〕天平勝寶五年
十二(丁卯朔)月癸丑(十七)、大宰府奏。入唐副使従四位上吉備朝臣眞備船。以去十二月七日。來看u久嶋、自是之後、自u久嶋。進發。漂蕩看紀伊國牟漏崎。
〔万葉集〕
十三
紀伊國之(キノクニノ)室之江邊爾(ムロノヘノベニ)千年爾(チトセニ)障事無(ツゝムコトナク)萬世爾(ヨロヅヨニ)如是將有登(カクシモアラムト)大船乃(オホフナノ)思恃而(オモヒタノミテ)出立之(イデタチノ)清瀲爾(キヨキナギサニ)朝名寸二(アサナギニ)來依深海松(キヨルフカミル)夕難伎爾(ユフナギニ)來依縄法(キヨルナハノリ)深海松之(フカミルノ)深目思子等遠(フカメシコラヲ)縄法之(ナハノリノ)引者絶登夜ヒカバタエトヤ)散度人之(サトビトノ)行之屯爾(ユキノツドヒニ)鳴兒成(ナクコナス)行取左具利(ユキトリサクリ)梓弓(アツサユミ)弓腹振起(ユハラフリコシ)志之岐羽矣(シシキハヲ)二手挾(フタツタバサミ)離兼(ハナチケム)人斯悔(ヒトシハヤシモ)戀思者(コフラクオモヘバ)〔三三〇二〕
〔熊野歩行記〕
   湯峰「本宮村西廿五丁 謂眞熊野也」    俊頼朝臣
眞熊野野ノユコリノマロヲサスサオノ拾行ランカクチイトナシ
▲熊野路ヤ雪ノ中ニモワキカヘル湯峰ニカスム冬ノ山風

〔紀路歌枕抄〕
眞熊野湯
   右本宮の西温泉あり湯の峰と云、但し歌の心不慥故此所とも難聞載之
                                  俊頼
堀河百首
 三熊野のゆこりのまろをさす棹もひろひ行くらしいかてとなしに

〔夫木和歌抄〕
ましらゝのうらの走湯うらさめていまはみゆきの影もうつらす
〔紀州名勝志〕白良濱
在瀬戸庄湯崎村濱海、白沙如雪月、延哀十町許題詠頗多。
〔藤原仲寛永久四年百首〕
いく夜寐ぬしら玉よするましらゝの濱松かねに松葉折しき
〔天禄二年五月資子内親王家歌合〕
心あたにしらゝの濱にひらふ石のいはほとならんよをしうくまで
〔寶治三年八月八條宮扇歌合〕
かもめゐるしらゝの濱の水底にその玉みゆる秋の夜の月

   妻 杜
〔日本書記〕
素盞鳴尊帥其子五十猛神。振到於新羅國。「○中略」初五十猛神天降之時。多將樹種而下。然不殖韓地。盡以持歸。遂始自筑紫。凡大八洲國之内。莫不播殖而成青山焉、所以稱五十猛爲有功之神、即紀伊國所座大神是也。

〔日本書記〕
于時素盞鳴尊々日五十猛命、妹大屋津姫命、次抓津姫命、凡此三神、亦能分布木種、即奉渡於紀伊國也。
〔續日本記〕
大寶二年二月二日、己末、是日分還伊太杵會、大屋津姫、都麻津姫三神社。
〔和名抄〕
名草郡  妻神戸
〔伊太杵會三神考〕
さて抓津姫社、吉禮村にあらざるよしは、吉禮村の條にいへるが如し、然らば何れならむ、もしは平尾村の妻御前社是ならんか、今も妻の森といひ、妻の御前、妻の宮ともいふ、又田の字にも妻のまへ、妻のわきなどいへる所もあり、和名抄都麻神戸も是か、然らば万葉集に、
 記の國にやますかよはむ妻のもりつまよしこせねつまといひながらかくよめるも此所なるべくおぼゆ、定家卿の熊野御幸記に、平緒王子見えたれば、平尾といへる名も平けれども、之の以前は都麻といひけるより、田の字にも残れる成べし。妻村は大和街道にて上古御幸道なり。

   大我野
〔紀伊國名所圖絵〕
相賀床二十六箇村の内、市脇・東家・寺脇三ヶ村にお田地の字に相賀臺といふ曠野あり、これ右の大賀野なるべし。相賀と記せるは音近きを以つて謝れるなるべし。
〔灌頂雑筆〕「第五奥書」
文明元已丑十二月五日、於紀州相賀庄生地之城護摩所寫之了
                    入寺廣譽深房三十六歳
〔万葉集古義〕
大我野は本居(宣長)氏は家の誤なるべしと云り、和名抄に紀伊國名草郡大屋とある、その野をいふならむ。

   背 山
〔万葉集〕
日本書紀朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸記紀國也。
  越勢能山時阿閉皇女御作家
此也是能 倭爾四手者 我戀流 木路爾有云 名爾負勢能山(コレヤコノ ヤマトニシテハワガコフル キジニアリトフナニオフセノヤマ)〔三五〕

   黒牛潟
〔紀伊國紀行〕
それよりあゆみ行くまゝに、ほどなくはや紀三井寺へまいり、法施禮拜をいたして、下向道におもむき、ゆらり/\とやすらひ行くほどに、黒江濱といふ所へいでにけり。それより船にのりて清水の浦をながめこぎ行きければ、云々。
〔玉かつま〕
黒牛潟は、今黒江といひて、若山の方より、熊野に物する大路にて、黒江、干潟、名高と、つぎ/\にあひつらなりて、三里(ミサト)はずれも町づくりて物うる家しげく立つゞきにぎはゝしき里共なり、昏の海のほとりにて、氣しきよし、黒江などは、山にもかけたるところなり、此わたり昔は、名草ノ郡なりしを、いまは海士ノ郡といへり、此紀の國の或書に、此黒江の磯べに、むかしいと大きにて、いろ黒き石の、牛のかたちしたるが有て、潮みずればかくれ、ひぬれば顕れけるを、いつのころよりか、やうやう/\に土に埋れゆきて、見えずなりぬるを、一とせ里人どもあまたたちて、ほりあらはさむとせしかど、大きにして、ついにえほり出さでやみぬるを、今はそのあたりまで、里つゞきて、かの石は民の家の地の下に有るししるしたり。

   白神磯
〔施無隅寺文書〕
深依奉随喜大願領掌此事畢、爲本堂供養、下向之次添加判申也。
             寛喜三年四月十七日奉供養之、
湯浅庄巣原村施無畏寺、
                    沙門高辨(花押)

   四 至
 山「限東井谷東峰 限南大道」 「限西多坂路 限北白上北大巌根」
右日衣弟子藤原景基所領内湯浅庄巣原村白上山峰者、明恵上人御房御壯年之當初閑居の御遺遺蹟なり、仍此麓建立別所名號施無隅寺、限山海四至永禁断殺生、以此山寺所奉寄進栂尾明恵上人御房也、願以此善根永奉助二新後世乃主自他、同預佛聞法之大u、此事雖爲景基之進止、限永代代爲防殺生之狼藉、申請上人御房併群内一家之連署永所安置寺内如件、
  寛喜三年辛卯四月 日                 藤原景基(花押)
〔明恵上人行状記〕
一、建久ノ此白上ノ修行思ヒ企シ時キ、因明ノ法門イマタ師流ヲウケす、子嶋四相違松記一遍コレヲ談スヘシ、仍林觀房ノ法眼聖詮ニ封シテコレヲ受學ス、然ルニ夢ニ人アリテ告テ曰ク、八方四千諸對治門皆是釋尊所説教文汝來世五百生ノアヒタ、釋迦如來ニ親近シ奉て是ヲ學スヘシ、云々、仍彼私記ワツカニ初科ヲコレヲヤム。
其後白上ノ修行ヲ結構ス、仍同六年秋此高尾ヲ出テ、衆中ヲ辭シテ聖教ヲ、荷ヒ、佛像ヲ負テ紀州ニ下向、湯浅ノ栖原村白上ノ峯ニ一宇ノ草庵ヲ立テ居ラシム、其峯ノ體タラク大盤石ソヒケタテリ、東西ハ長シ二丁ハカリ、南北ハセハシ、、ワツカニ一段余、彼高巌ノ上ニ二間ノ草庵ヲカマヘタリ、前ハ西海ニ向ヘリ、遙海上ニ向テ阿波ノ嶋ヲ望メハ雲ハレ浪シツカナリト雖眠ナヲキハハマリカタシ、南は谷ヲ隔テ横峯ツナラレリ、東ハ白上ノ峯ノ尾ヤウヤク下リテ谷フカシ、北又谷アリ皷谷ト號ス、云々。

   由良崎
〔万葉集〕
爲妹(イモガタメ)玉乎拾跡(タマホヒロフト)木國之(キノクニノ)湯等之三崎二(ユラノミサキニ)此日鞍四通
(コノヒクラシニ)〔一二二〇〕
〔吾妻鏡〕文治二年八月廿六日條
於蓮華王院領紀伊國由良荘、七條細工宋紀太、構謀計致濫防之由、領家範季朝臣折紙、併院宣到來之間、今日命下知給之、云々。
〔内裏名所百首〕
櫻咲く山にも春もなかりけり由良の岬の明ほのゝ空
〔紫金和歌集〕

秋なから木葉隠もなかりけり由良の岬の有明の月
〔新古今和歌集〕
紀國やゆらの湊に拾ふてふたまさかにたに逢ひさみしかな

〔玉葉集〕
きの國や由良の湊に風立ちて月の出汐の雲拂ふなり


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