熊野関係古籍     熊野古道

熊 野 懐 紙  

 

 那智叢書第十一巻として熊野那智大社代表宮司 篠原四郎氏が昭和四十二年に「熊野懐紙とは何か」という事をなるべく分かりやすく編したものである。

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  熊 野 懐 紙 熊野那智大社代表宮司 篠原四郎

   熊 野 懐 紙
 熊野懐紙の解説には色々の項目に分けて書くのが便で
ありますが、最初にその概要をつかむために、「紀伊国
名所図会」の「熊野懐紙之事」というところの全文をあ
げてみます。
 熊野懐紙は、後鳥羽上皇御譲位後屡々熊野に御幸あり
 就中正治二年十二月及び建仁元年十月の両度に渉る御
 幸に際しては、供奉の公卿殿上人と倶に、藤代、切目
 滝尻などの御宿所に於て、御題を陽はり御旅中の御つ
 れづれを慰められんため御歌会を催されし時の懐紙を
 指すものにして、是れぞ懐紙に和歌をしるす嚆矢なり
 と伝へられる。
 そもそも後鳥羽院は高倉天皇の第四皇子にましまし、
 養和元年御歳四歳にして御即位あらせられ、建久九年
 宝算十九歳の御時御譲位遊ばされて後は、承久三年隠
 岐御遷幸に至るまで、建仁二年を除き毎歳かならず諸
 王子の社を御拝あらせられ、陪従の諸卿と共に和歌御
 会あり、正治二年十二月六日には、日高郡切目王子に
 ての御題として遠山落葉、海辺眺望、また同年同月六
 日の牟婁郡滝尻王子にては山河水鳥、旅宿埋火、翌建
 仁万年十月九日には、藤代王子にて深山紅葉、海辺冬
 月、同年同月十四日滝尻王子にては峰月照松、浜月似
 雪とあり。斯くて上皇は和歌の道のみならず、時には
 御親ら刀劔をも作らせ給ひ、書畫とも御湛能に在らせ
 られし事、史上に明らかなるのみならず、熊野御幸の
 御時には宝算わずかに御歳二十一二歳の御壮齢におは
 しまされし由。
 と記して熊野懐紙の模写数枚、和歌数首があげてあり
ます。そこで、右の文の中より出てくる疑問が幾つかあ
りますが、此の際は次の項目をあげて、逐次それによっ
て解説してゆきたいと思います。
「懐紙〜熊野懐紙」、「熊野御幸」、「熊野御幸をされた
 方々」、「九十九王子と宿所」、「熊野懐紙の価値」、
 熊野懐紙の和歌と其書蹟」等であります。

    懐紙〜熊野懐紙
 懐紙と申しましても此所では茶席等に持って出る料紙
の事ではなくして、衣冠、束帯などの正服着用の時懐中
にする料紙の事でありまして、現今でも大高檀紙と申し
ます楮の料紙で49.5cm×36.5cmのものが用いられており
ます。是は懐中の桧扇、笏などを整頓するの外、必要に
よって控などを書付けて置くものとされています。
 御歌会の席へ出る者は立烏帽子に服装を改め、懐紙を
懐中にして出席しています。熊野懐紙の現今伝えられて
いるものは47.4cm×30cm或は44.4cm×31. 2cmと種々あり
ます。
 懐紙の起原はよくわかりませんが、ふところ紙の事で
是を入れる箱を懐紙箱と云ったという文献が平安時代の
ものにあります。それに料紙の大きさも古くは天皇の場
合はた42cm親王大臣は39cm納言、参議36cm地下は32cmと
きめられていたということであります。大高壇紙や杉原
紙の全紙が用いられていました。此の懐紙をタテに八等
分した細長い紙片が短冊になっています。之を古くは短
籍(日本書紀斉明紀)短策(続日本紀)短尺(西宮記)
短冊(延喜式、三代実録)と出ています。これは初めの
頃は「うらない」や「くじ」に用いられたといいますか
ら何となく昔の生活ぶりがうかがわれます。
 懐紙に詩歌を書く風は、最も古いものとして藤原佐理
の詩懐紙があげられています。以後その書風が型となっ
て永く伝っています。その書は今に伝っていまず。暮春
同賦隔水花光合応教一首絶句為体倭漢任意右近権少将佐
理と端作にあります。自作の七言絶句を三行五字に書い
ている見事なものでありまず。その次の時代のものが伝
行成筆の詩懐紙、七言重陽後朝眺望と題したものであり
ます。続いて大江匡範の詩懐紙で、その端作に三月尽日
言志詩、勤とあって七言八句が認めてあるものでありま
す。是等に続いてあげてよいと思はれるものが那智大社
に伝える後鳥羽上皇の詠冬日詣那智一首の詩懐紙47cm×
31cmでありましよう。その後詩と和歌とを書いたものが
現はれています。行海の経裏歌詩懐紙といわれるもので
あります。和歌だけのものとしては西行の一品経裏懐紙
がありますし、藤原頼輔外十数名の公卿のものが現存し
ています。辻の頃懐紙に自由に認める風が生れていたも
のと思はれます。熊野懐紙も同時代のものでありますか
らまづ古いものに属します。然し熊野懐紙は一風をなし
た型を作っておりますから、時代的に相等進んだものと
いえましよう。
 熊野懐紙の現存のものは後鳥羽上皇の熊野御幸の際の
和歌懐紙に限られています。正治二年十二月三日切目王
子御歌会歌題「遠山落葉、海辺晩望」、尚年十二月六日
滝尻王子御歌会歌題「山河水鳥、旅宿煙火」、建久元年
十月九日藤代王子御歌会歌題「深山紅葉、海辺冬月」の
三度の分、それは何れも京都に伝存せられたものであり
ます。熊野御幸記によりますと切部(目)の王子で催さ
れた歌会の歌題「羇中間波、野径月明」が出て、定家は
召されて読み上げたとあります。これが伝えによります
と此の時の懐紙は神殿に納められたということでありま
す。恐らく時によっては歌会のあった王子に納められた
こともあったろうと想像しますが、それが地方に伝存し
たということを聞きません。上皇がお持ちになったか、
講師がお預りしたかよくわかりませんが、京都には伝存
の物語が二三あります。
 伝存の物語の一つは三条西実隆の実隆公記にあるもの
で、明応五年に、後柏原天皇におなりになった親王御方
の邸で、拝見した一巻の巻物に十一人の自筆懐紙があっ
たというお話であります。是の中の三葉が現存している
事になっています。それは後鳥羽上皇、藤原定家、源通
光のものであります。その後五十年ほどした正保四年鳳
杯承章という方の日記に「梶井宮慈胤法親王邸の茶の湯
の掛物に後鳥羽上皇宸翰懐紙歌題関路暁月、」を見たと
いう話であります。又仙洞(後水尾上皇)の御茶の湯で
掛物三幅対の二組を見た、その一組は御鳥羽上皇、右中
弁藤原長房、散位源家長のものであり、今一組は西園寺
公経外二名(その名は出ていません)のもので歌題「花
有歓色」で共に懐紙であったという事であります。
 現存の熊野懐紙の最も有名で世に知られているものは
京都西本願の所蔵十一枚でありまして、この伝来はわか
りませんが、巻子装となっている唯一の品であります。
歌題は「遠山落葉、海辺晩望」でありまして後鳥羽上皇
右近衛大将通親、参議左近衛中将公経、春宮亮藤原範光
五位下上総介藤原朝臣家隆、侍従藤原雅経、沙弥寂蓮、
能登守源具親、散位藤原隆実、散位源家長、右衛門少尉
源季景の十一葉でありまして、是には巻末に「切目王子
歌会正治二年十二月三日」と後烏羽上皇宸翰の付札が添
えられています。
文久二年に「山河水鳥、旅宿埋火」の歌題の熊野懐紙が
版本として公にされました。これは酒井家旧蔵の十一葉
でありまして、後鳥羽上皇、右近衛大将通親、春宮亮藤
原範光、左近衛権中将公経、能登守源具親、右中弁長房
散位藤原隆実、散位源家長、右衛門尉源季景、侍従藤原
雅経、沙弥寂蓮で正治二年十二月六日、滝尻王子和歌会
の時の懐紙であります。この中の節季景の懐紙の紙背に

滝尻王子和歌会正治二年十二月六日と付札が貼られてい
ます。これも十一枚順序の通り巻物仕立に収められてい
ます
 又「深山紅葉、海辺冬月」という歌題が藤代王子和歌
会に出た事が熊野御幸記に出ています。この歌題の懐紙
の三葉が現存しています。後鳥羽上皇、源通光、藤原定
家のものでありまして、藤代王子和歌会建仁元年十月九
日当座と後鳥羽上皇宸翰の付札があります。
 熊野御幸記にあります歌会の行はれた所と歌題は
 十月六日住吉「寄社祝、初冬霜、暮松風」
 同 七日厩戸王子「暁初雪、山路月」
 同 九日藤代王子「深山紅葉、海辺冬月」
 同十一日切部(目)王子「羇中聞波、野径月明」
 同十三日滝尻王子「河辺落葉、旅宿冬月」
 同十四日近露王子「峯月照松、浜月似雪」
 同十六日発心門王子「遠近落葉、暮聞河波」
この様に七度のものがあげられています、然しこの中
で残っている懐紙は三葉だけであります。藤代王子和歌
会のもので後鳥羽上皇、通光、定家の三葉。この外に十
月十四日の近露王子のときの定家のものを近衛信尹が臨
与したというものが一枚あります。
 次に「山路眺望、暮里神楽」の歌題の懐紙が三葉現存
しています。後鳥羽上皇、源通親、藤原雅経のものであ
ります。これは正治二年の懐紙であろうと言はれていま
す。
 次に「谿古冬月、寒夜待春」の歌題の懐紙が二葉陽明
文庫に蔵されています。藤原家隆、寂蓮の二人のもので
ありまして、是も正治二年のものであると言ふ事であり
ます。
 次に「行路水、暮炭竈」の歌題の懐紙が四葉、後鳥羽
上皇、寂蓮、藤原雅経、藤原実隆のものでありまして、
是も正治二年という事になっています。陽明文庫に藤原
家隆の一葉が近衛家煕によって臨写されたものが蔵され
ています。
 次に「深山風、寺落葉」の歌題の懐紙模写があります
これは熊野参詣の時那智で詠まれた懐紙でありまして、
藤原定家の筆
 冬夜侍那智山詠日二首応 製和歌
  正四位下行左近衛少将兼安芸権守藤原定家上
   深山風
 松風もなへてのいろにふかはこそ
 みやまいてゝのかたみにもせめ
   寺落葉
 てらふかき紅葉の色にあとたえて
 からくれなひをはらふこからし
 是は建仁元年の熊野御幸の時のものであります。その
端作りにも冬那智山で詠んだとありますし、此の和歌の
一つ「寺落葉」というのが定家の「拾遺愚草」にものっ
ています。熊野御幸記の建仁元年の十月十九日の段に
 未時に那智に参着、先づ滝殿を拝す。嶮岨の遠路は暁
 より不食にて無力、極めて術なし、次に御前を拝して
 宿所に入る。小時御幸ありと云々、日入る程に宝前に
 まいる。奉幣御拝の間也又祝師の禄を取りおわり、次
 に神供を供えしめたまう。別当これを取り儲く、公卿
 次第に取り継ぐ、一万十万等御前、殿上人猶次第にこ
 れを取次ぐ、予同じくこれを取る。次に御経供養所に
 入御、例の布施を取り次に験クラヘと云々、此間に私
 の奉幣、宿所に退下、深更、御所に参り例の和歌、終
 って退下窮屈病気の間、毎事夢の如し。
 ここには那智和歌会の歌題が出ていませんが、それは
  「深山風、寺落葉」でありました。
 次に「峯月照松、浜月似雪」の歌題は建仁元年十月十
四日の滝尻王子和歌会のときのものでありまして、この
時の懐紙で定家のものを近衛信尹が模写したというもの
が一葉残存しています。
 以上が熊野懐紙の全部でありますが、此の外に熊野御
幸の途次の和歌会のものとして年代、場所等を確実に出
来ないもので、熊野懐紙と全く同類のものが沢山ありま
す。それを假に「熊野類懐紙」ということになっていま
す。
 切に「花有歓色」のいう歌題の懐紙であります。これ
は熊野御幸の時のものでなくして、京都御所での和歌会
当座の懐紙といわれています。井上世外旧蔵六葉であり
まして、後鳥羽上皇、散位源家長、参議左近衛権中将藤
原朝臣公経、兵庫頭藤原庸季、皇太后宮進藤原信綱、右
中弁藤原長房のものであります。
 次に「暁紅葉」の歌題のもの五葉があります。侍従藤
原雅経、春宮亮藤原範光、皇太后宮進藤原信綱、右中弁
長房、右馬権助源仲家のものであります。
 次に「関路睦月」の歌題のものが三葉、右馬権助源仲
家、掃部権助源仲隆、散位源家長のもので、以上の三種
類は共に正治二年頃のものであるといわれています。
 次に「初秋月」の歌題のもの一葉、春宮亮藤原範光の
ものであります。
 次に「餞遊女」の懐紙四葉、安芸守藤原重輔、皇太后
宮少進藤原信綱。散位源家長、散位平家重のものであり
ます。遊女五人に贈られたこの懐紙は異色のものであり
ます。
 此の外に十二葉あります。
 「旅宿時雨、故郷睦月」丹後守藤原朝臣範宗(北村謹
 次郎蔵)
 「暁郭公 夢中恨」後鳥羽上皇
 「海辺霧」藤原範光、源家長(小出家旧蔵)
 「雨後草花」源家長
 「霧隔出」源家長
 「五月雨、夏草」源家長
 「十二月」寂蓮
 「六月被 山家風涼」源通具(山口孫一蔵)藤原秀能
 「月、鹿、述懐」源通具
 「海辺霧」藤旅信綱
等であります。

    熊 野 御 幸
 熊野御幸という事はどうして起つたか、御幸のあるよ
うな深い熊野信仰は何であるかと云う事は「熊野懐紙」
を知る上に於て重要な事項であります。
 熊野三山の起源は神代に起り、古い建国時代につなが
り、有史時代にも幾多の伝説を残して居りまして、伊勢
出雲に続く古社であります。伊弉諾、伊弉冊、素盞鳴の
三神をまつり、熊野高倉下の子孫が長く奉仕して、此の
熊野一国を築いて来たものであります。奈良時代に及ん
で仏教渡来により神仏習合の信仰を作り、早くより権現
の霊験を宣布しておりまず。あたかも新興宗教の様に平
安末期から鎌倉時代には一言を風靡しました。当時の熊
野詣は嶮岨な山河を踏み越え、山伏の様な難行西行をし
て、始めて功徳が得られるとして参詣をしたものであり
ます。一般世風の影響を受けて、公卿殿上人まで熊野詣
をするようになり、ついに上皇、法皇、女院方の御幸を
みるようになったのであります。
 熊野御幸は宇多上皇に始っていますが、此の頃は大遍
路街辿と云って海岸線、今の国鉄紀勢線沿いの道があり
ましたが危険な為、中遍路街道と云って、山間を縫って
熊野へ入る道が開かれました。宇多上皇の時は道中船に
乗られた所もあったようでありますが、どなたも皆船は
熊野川を本宮から新宮へ渡る時にのみ用いられただけで
ありました。
熊野川を本宮から新宮へ渡る時にのみ用いられただけで
ありました。
 熊野への道は伊勢路といって海岸を船や徒歩で参る道
もありましたが是は非常に困難な道でありましたから餘
り多く用いられませんでした。熊野から果然山系を通っ
て高野山への近道、或は吉野へ出る北山道などもありま
すが、何れも危険な道で余り多く利用されませんでした
大阪、和歌山の古道、一名御幸道、能野街道が一般に利
用されました。
 巡礼、六部、修験者などの往来は勿論苦行であります
から道中の宿泊、休憩、慰安などの設備は問題ではあり
ませんが、「蟻の熊野詣」とまでいわれた一般大衆の往
来にもそうした設備は出来まセんでした。それは、他の
物詣でと異なり「熊野詣」は特に精進が重んぜられたか
らてあります。
 「精進潔斎」は当時の風習として少し遠い所へ詣りに
行くような事がありますとすぐ精進をしたものでありま
すが、特に熊野詣の時はやかましくて「熊野精進」とい
う言葉さえ出来たほどでありました。元永元年の白河上
皇熊野御幸の時は、御精進中精進所の小屋が焼けて不吉
でありましこので、特赦が行はれました。臨時囚人九十
余人の特赦放免の事は当時でも前代未聞といわれました
が縁起を重んじた風習によるものであけこます。
 白河上皇精進御籠の時は鳥羽の御精進所に本院、女院
新院など同行の方々を始め大納言経実以下達部八入、殿
上人三余人、三院の供奉四十人、僧綱三人、外郎従雑人
等の人々でありました。又同上皇元永元年の御幸の時は
北面下搴辮l、庁官八人具外北面武士、院の御所警衛の
武士が沢山お伴をしています。それに法楽の芸八等が加
はつて何百人という道中となつたのであります。
 斯うした方々の御旅装も大変でありました。京都若王
子神社に伝える熊野御幸の絵図にも見られまTが、白装
束の山伏姿でありました。法皇白市街浄衣、同頭巾、細
小袈裟、藁履、御杖を持たせられ、上皇は生絹浄袈(狩
衣、袴)脛巾、藁履、御杖、女院方毛皆山伏姿の装束で
ありました。従って従者も山伏姿でありました。然し和
歌会、大社神前の奉仕等には改服して出られています。
 道中は苦行をっむため徒歩でありましたが、大昔は船
を使った時もあり、時と場合によっては乗物も用いられ
たようであります。「熊野御幸記」によりますと、熊野
まで十六日もかかっておりながら、帰りは六日間で京都
までおこしになっています。吾妻鏡に文治三年美濃権守
親能が御幸の事を聞いて貢馬十疋を奉って居ります。ま又
源頼朝は後白河法皇の熊野御幸について御馬を献じてい
ます。昆陽は乗用ばかりでなく物資運搬にも用いられま
した。仁安四年後白河法皇の時は一行八百十四人の大勢
で、粮料十六石二斗八升、伝馬百八十五疋と記録されて
います。是等の費用は所の国司の負担が重でありました
が、幕府からの献金、又法皇上皇公達女院等の荘園もこ
の道中にありましてそれぞれの負担をしております。女
院の方の荘園のあった例を見るべきものに応徳三年内侍
尚侍藤原女が自分の荘園在(有)田の荘園の一部を那智
権現に寄進した古文書が伝えられています。
 「熊野御幸 に先達となって案内した者が 別当 に
任せられ階位なども昇進していますが、各大社に対して
は奉幣布施等の外三重塔献納とか、荘園を社頭に寄進す
るなどの事もありました。

    熊野御幸をされた方々
 熊野御幸は上皇が御譲位後上皇法皇となられてから行
はれました。最初宇多上皇でありまして、その後年久し
くして花山法皇が再興され以後しきりに行はれました。
 宇多法皇一、花山法皇一、白河上皇二一(一四)、鳥
 羽上皇二三、崇徳上皇一、後白河上皇三三(三四)、
 後鳥羽上皇二九(三一)、後嵯峨上皇二、亀山上皇一
 計一〇三度
女院方の御幸は
 待賢門院(鳥羽中宮)九、美福門院(鳥羽女御)四、建
 春門院(後白河女御)三、八条院(二条准母)三、七条
 院(高倉後宮)四、殷富門院(安徳、後鳥羽准母)一、
 修明門院(後鳥羽後宮)六、承明院(後鳥羽後宮)一、
 陰明門院(中御門中宮)一、大宮院(後嵯峨中宮)一
 東二条院(後深草中宮)一、玄輝門院(後深草後宮)一
 計十二方三五度
公卿方の参詣は御幸供奉の時の外単身参詣も度々行はれ
ましたが、何れも苦行、供養等の深い信仰によったもの
でありまして、納経の経筒、古文書、古鏡、懸仏其他の
奉納物が沢山に伝来されています。
 白河上皇の御幸の時、和歌会が行はれた事が千載集や
新古今に出ています。
 白河法皇熊野へまゐらせ給うける御供にしてしほやの
 王子の御前にて人々の歌読み侍りけるによみ侍りける
               後二条内大臣
 思ふことくみて叶ふる神なれば塩やに跡をたるゝなリ
 けり
               徳人寺左大臣
 立ち昇るしほやの煙うら風に靡くを神のこころともか
 な  (新古今集巻十九)
花山法皇の御幸の時も
 熊野にまゐらせ給ひける時いわた河にてよませ給うけ
 る
    花山院御製
 いはた河渡る心のふかけれは神もあはれと思はさらめ
 や
と残されています。是等の事から見て熊野御幸の道中に
於て早くより和歌会が行はれた事が知られます。然し熊
野懐紙は後鳥羽上皇の御幸の時のもののみをさしており
ます。それも正治二年と建仁元年の両度のものばかりが
残っております。熊野御幸の時いつも行はれたとします
と、献歌の数も懐紙の最も莫大なものであつたと思はれ
ますが、それ等の行衛は知る由もありません。

    九十九王子と宿所
 熊野街道は大体大阪淀川の船付場から大阪、和歌山の
海岸路を経て熊野に至る街道でありまして、御幸のあつ
た当時、大変な悪路でありましたが、往が十六日復りが
六日往復二十二日、時に二十三日という行程でありまし
た。此の道中の村々にある神社を熊野神の「御子神」と
考へて之を「王子」と呼ひ、道中沢山の社がありますの
でそれを総称して九十九王子と申したものであります。
 元来大峰蔵王権現に十八王子、丹生都比売神社に十二
王子、又「日向王子」「玉列王子」などがあり、特に天
照大神の事を一名「若女一王子」などと云つておりまし
たので熊野の所子神も王子と云はれたものと思はれます
 道中九十九王子を詣でながら、時にそこで休憩をした
り、中食の場としたり、所によつては宿泊せられたりし
ました。中でも大きな社を五体王子と呼んで、神楽をあ
げたり、和歌会を催したりせたてましたが、「熊野御幸
記」によりますと、そのような時には奉幣、経供養、相
撲なども催されてゐます。是は一口に道中の御慰安の催
であるとは言い切れません。斯様な催は現今も行はれて
いまして、総て神慮を慰める為の神遊びでありますから
此の賜は神前御奉納の趣意が重であつたと思います。
 熊野街道の往来の盛衰と共に九十九王子にも幾多の変
遷がありました。御幸時代には一応安定した状況にあり
まして、王子社の催事もそれぞれに習慣づけられたもの
がありました。磐代の王子では「御幸の供奉員」の殿上
人、上北面、僧、下北面全員の名を社殿の板に書きつけ
ました。その外色々の催がありましたが特にお止宿とな
りますと特設の屋形が設けられました。信達宿では「厩
戸御所」と称する屋形が設けられて往復とも止宿されて
います。藤代王子では拝殿が御所となり、塩屋王子は前
庭が中食の御所芝。切部王子にも特設屋形。特に田辺に
は 「御所の谷」という所に跡地がありますが、ここの
 御殿 は相当大きく出来ていて、御幸記にも此所は美
麗にして、何に臨み、深淵あり田辺河と云々と出ており
ます。次は滝尻王子の御宿でありまして、社前、川原の
所に跡地がありますが、そこに臨時の屋形が作られまし
た。近露も同じように社前の川原に跡地があります。湯
川は山の中、発心門は尼南無房の宅がありますが御所跡
は別の所となっております。本宮、新宮、那智は何れも
礼殿が御所となっております。

    熊野懐紙の価値
 熊野懐紙の特邑でありますが、第一に挙げるべきは此
の歌詠はその時期が明らかである事。次に何れも署名が
ある事、筆者のその時の階位任務が必ず記きれています
次に挙げなければならない事は詠者が身を以て感得した
ものを詠じている事で、眼で確認した景観を詠じている
だけにすぐれた作品が多い事と、それぞれに個性がよく
現はれている事であります。更に尊い事は何れも白筆で
ありますから筆蹟も確実であり、そこにその時代色が見
られ又それぞれの優れたものを見る事が出来るのであり
ます。
 懐紙の書式は宸翰の懐紙は47cm×29.5cmに初に題二首
の事を「詠二首和歌」次の行に初めの「歌題」初めの「
歌三行」次に「歌題」次に「歌三行」となっています。
他の人々の懐紙は、初に「詠二首和歌」次が詠者の「任
官姓名上」とし始めの「歌題」「歌二行半」次に「歌題」
「歌二行半」これを正式としていますが、確実に定めら
れていたものとは思はれません。
 熊野懐紙の特長は後鳥羽上皇を中心とした公卿遠の交
りがよく知られる事と、何れも和歌道に造詣ふかく、書
道に卓異で後学の師とするに足るものが多い事でありま
す。後鳥羽上皇は御製二千六百餘首をお残しになつてゐ
ます。元暦御集は天皇方の歌集としては始めてのものと
いわれています。御筆蹟も見事なものでありまして、こ
れにより当時の風潮をうかがうにたるものがあります。
勿論懐紙の筆者、源季景の雅筆、通親、家長の健筆、定
家の能筆、家隆、雅経の妙筆それぞれに趣があります。
 万葉以来一時衰微した歌道が復興して、「古今集」の
観念的情趣的な風潮に進み、後選集、拾遺和歌集、千載
集などの貴族歌謡時代を経て白河上皇時代には叙情を重
んじ深刻な経験を歌体に現はす風が現はれて来ています
が、書道も同じ様に平安上期の優雅な能筆の風が段々武
家の影響と当時の学風宋文学の感化を受けて勁健な姿を
とるようになり、その一端をまざまざと此の熊野懐紙に
現はして居ります。
 あたかも終戦後の日本が旧来のものを一変せしめて段
々と前衛的なものに向つて進んでいる現在の姿を比較し
て感深きものがあります。

    熊野懐紙の和歌と其書蹟
 熊野懐紙の和歌は既に「熊野懐紙現存一覧」がありま
すからそれを次に掲げます。尚「熊野類懐紙現存一覧」
もありますので是も掲げます。
 次に書蹟は先年NHKが西本願寺のものを撮影されま
したので一部を頂戴しましたし、陽明文庫其他のところ
で拝見して来ました時諸参考書を頂戴しましたのでそれ
等を転載させていただきます。

    熊野懐紙現存一覧
   (書道全集、定本書道全集、
    日本名著全集)
正治二年十二月三日(切目王子和歌会丿
 遠山落葉 海辺眺望(西本願寺蔵)
後鳥羽上皇
 あきのいろはたにのこほりにとゞめをきてこずゑむな
 しきをちのやまもと
 うら風になみのをくまで雲きえてけふみか月のかげぞ
 さびしき
右近衛大将通親
 きりめやまおちのもみぢはちりはててなをいろのこす
 あけのたまがき
 あかねさすしほぢはるかにながむればいりひをあらふ
 うみのいろかな
参議左近衛中将藤原公経
 たつた山ふかきこずゑのいろをだにあらしにみするこ 
 とのはぞなき
 ながめやる心のすゑはくれにけりそらよりおちにうら
 づたひして
春宮亮藤原範光
 みわたせばきゞのこのはもちりはててあきつのやまは
 なのみなりけり
 いわしろのまつのこまよりみわたせばゆふ日のいろを
 あらふしらなみ
上五位下上総介藤原朝臣家隆
 ふるさとはまたしぐるらしまさきちるみやまのあられ
 いろかはるなり
 いさりびのひかりにかはるけぶりかななだのしほやの
 ゆふぐれのそら
侍従藤原雅経
 こがらしのおとはかよわぬながめにもうつればしるし
 みねのもみぢば
 ながめやるこころのはてもはれにけりなみのいくへの
 ゆふなぎのそら

沙 弥 寂 蓮
 よそにみしふもとのいろとなりにけりかさなる山のみ
 ねのもみぢば
 ながめやるおきのこじまにくもきえてなみにちかづく
 みか月のかげ
能登守源具親
 みねとをきあらしもいろにあらはれてしぐれしあとは
 まつのひとむら
 ながめよとおもはでしもやかへるらん月まつなみのあ
 まのつりふね
散位藤原隆実
 やまこゆるあらしもぬさやたむくらむもみぢちりくる
 たまがきのには
 わたのはらなみぢけるかにみか月のかたぶくかたやあ
 はのしまやま
散位源家長
 もみぢちるやまのはちかきやどならばちりくるいろは
 にはにみてまし
 ながめやるおきこのじまのゆふけぶりいかなるあまの
 すまいなるらむ
右衛門少尉源季景
 なをかよふこゝろもさびしかをちやまあらしのゝちは
 こずゑのみかは
 なにかなきながめのほどにそらくれておとのみよする
 よさのうらなみ
正治二年十二月六日 滝尻王子和歌会
 山河水鳥、旅宿埋火(酒井家旧蔵)
後鳥羽上皇
 おもひやるかものうはげのいかならむしもさへわたる
 やま河の水
 たびやかたよものをちばをかきつめてあらしをいとふ
 うづみびのもと
右近衛大将通親
 たにがはのいわまのこけやおしどりのたまものふねの
 とまりなるらん
 うづみ火のあたりのみかはかりいをさすかきねのむめ
 も春しらせけり
春宮亮藤原範光
 やまかはのいはうつをとにをどろかでいかになれたる
 おしのうきねぞ
 うづみびのあたりはふゆのくさまくらもえいづるはる
 のけしきなるかな
参議左近衛権中将藤原朝臣公経
 やまかはやいはまのみづのかげとぢてこほりにうつる
 すがのむらどり
 くさまくらあさたつかぜもをときへてなをうづみびの
 もとはわすれず
能登守源具親
 いはたがはいくせのなみにすみなれてわたれどのこる
 おしのひとこゑ
 ならひきぬあさたつほどになりにけりあたりによはる
 よひのうづみび
右中弁藤原長房
 すみなれぬあぢのむらどりさはぐなりいしふりがはの
 なにやおどろく
 うづみびのあたりはふゆぞわすらるるたびのそらにや
 はるのきぬらん
散位藤原隆実(五島美術館蔵)
 やまかげやをちくるみづのせをはやみよどみにつどふ
 あぢのむらどり
 くさまくらあくればさゆるたびのよにまづたちやらぬ
 うづみびのもと
散位源家長
 いはたがはわたるせごとにたちさはぎうきねさだめぬ
 かものむらどり
 うれしくもけぶりのあとのきえやらであさたついまも
 ねやのともしび
右衛門少尉節季景
 すみかぬるおしのこゑのみひまなくてつらゝによはる
 たにがはのをと
 うづみびのまくらにちかきたびねにははらはぬそでに
 しもぞきえゆく
侍従藤原雅経(酣古帖)
 いはたがはいくせのなみをかづくらんたちぬるおしの
 すゑにおりぬる
 よもすがらまきのしたをれかきつめてあさたちやらぬ
 うづみびのもと
沙 弥 寂 蓮 (三井家蔵)
 いはたがはこほりをくだくすゑまでもあはれともおも
 へをしのひとこえ
 くさまくらあたりもゆきのうづみびはきえのこるらむ
 ほどぞしらるゝ
建仁元年十月九日 藤代王子和歌会
 深山紅葉、海辺冬月
後鳥羽上皇 (陽明文庫)
 うばたまのよるのにしきをたつたひめたれみやまぎと
 一人そめけむ
 うらさむくやそしまかけてよるなみをふきあげの月に
 まつかぜぞふく
右中弁通光 (森田家蔵)
 もみぢばはしぐれのみかはたづねいるひかすのふるに
 いろまさりけり
 をきつかぜふきあげのはまにすむ月はしもかこほりか
 そらのあま人
左近衛権少将藤原定家
 こゑこてぬあらしもふかきこころあれやみやまのもみ
 ぢみゆきまちけり
 くもりなきはまのまさごにきみかぜのかずさへみゆる
 ふゆの月かげ
 山路眺望、暮里神楽
後鳥羽上皇(前田家蔵)
 ふぢしろや山ぢはるかにみわたせばふもとにつゞくわ
 かのうらなみ
たちまはるきねがたもとのゆふかぜやうちなびく神の
 しるしなる覧
右近衛大将通親(藤田家蔵)
 ふぢしろのみさかのそこをながむればなみのはなちる
 ふきあげののはま
 たまがきにきみがみゆきのいろそえてゆふかけてして
 も神のよりいた
侍従藤原雅経
 ながめゆくふぢしろやまのみねつゞきあらしのおとも
 わかのうらまつ
 いくたびの神もあかずやしめのうちにそでふるきねが
 ゆふかくるこゑ
 古谿冬朝、寒夜待春
上総介藤原家隆(陽明文庫)
 しもさえてあくるこずゑのくもまよりそのよもわかぬ
 たにのまつかな
 かすむかはゆきげにくもる月かげになをはるをもふあ
 けがたのそら
沙 弥 寂 蓮
 つまぎこるむかしのあともしぐれけりゆきよりおろす
 たにのきたかぜ
 たびねするやまのはさゆるしらくものはなにこゝろを
 ならしそむらむ
 行路氷、暮炭竈
後鳥羽上皇 (五島美術館)
 あさゆけばひかりまつまのこほりゆゑたえぬにたゆる
 やまかはの水
 冬くればさびしさとしもなけれどもけぶりをたゝぬを
 のゝゆふぐれ
沙 弥 寂 蓮 (平凡社判)
 たび人のあさゆくさわのうすごうりむすびかへけるあ
 とぞしらるゝ
 みねとほくたちすさみたるけぶりかないゑぢやおもふ
 まきのすみやま
侍従藤原雅経(東京博物館蔵)
ふゆされやしげきのさはのあさごほりこまうちわたす
おとのさむけさ
くれぬるかやくすみがまのみねのうえけぶりをくもと
わきやらぬまで
上総介藤原家隆(酒井家蔵)
 ゆくこまのあとにもうとくなりにけりこほりにあづむ
 やまかはのみづ
 やどからむしるべともなきすみがまのけぶりもつらし
 みねのゆふぐれ
 深山風、寺落葉
藤 原 定 家
 松風もなべてのいろにふかばこそみやまいでゝのかた
 みにもせめ
 てらふかき紅葉の色にあとたえてからくれなひをはら
 ふこがらし
 峯月照松、浜月似雪 (陽明文庫)
藤 原 定 家
さしのぼるきみをちとせと見やまより松をぞ月のいろ
にいでける
くもきゆるちさとのはまの月かげはそらにしられてふ
らぬしらゆき

    熊野類懐紙現存一覧
 花色欲色 (井上家蔵)
後鳥羽上皇
 えだをだにふくはる風もならさねばあやなくはなもう
 れしとやをもふ
散位源家長
 草木までかぜもならさぬあめのしたにおもひひらくる
 花のいろかな
参議左近衛権中将藤原朝臣公経 (岡谷家蔵)
 ふく風のえだもならさぬ見よなればうれしかるらん花
 のおもかげ
兵庫頭藤原庸李(古筆切)
 いろをしるきみがみよにとさくらばなおもひひらけん
 見えわたるかな
皇大后宮進藤原信綱 (日本名筆全集)
 おきわたすつゆのめぐみのうれしさに花のくちびるゑ
 みにけるかな
右中弁藤原長房(松下家蔵)
 きゞまでもあまねききみのめぐみかなつゆにぞゑめる
 はなのくちびる
 暁紅葉
侍従藤原雅経(古筆辞典)
 かねのおともまくらにちかしあらしやまあけなばよそ
 のあきのいろかは
春宮亮藤原範光 (陽明文庫旧蔵)
 ちゝのあきまつのをやまのしたもみちときはにてらせ
 しのゝめの月
皇大后宮進藤原信綱 (平凡社)
 ありあけのこずゑのいろは秋ながら月のしもをてみね
 のもみぢば
右中弁長房 (書道全集)
 ながむればやましたてらすもみぢかなありあけのつき
 はほのかなれども
右馬権助源仲家(関戸家蔵)
 うすくこきいろこそみえねもみちばやたつこのやまの
 あけくれのそら
 関路暁月
有馬権助源仲家(平凡社)
 このたびのおもいでなりやよもすがら月もながめつす
 まのせきもり
掃部権助源仲隆(名筆)
 すまのせきなみぢはるかにながむればさやけかりけり
 ありあけの月
散位源家長 (生形家蔵)
 ふわのせきわがおもふかたのながめかなみやこのそら
 にありあけの月
 初秋月
春宮亮藤原範光
 あきあさしとおもふにつけてめづらしやとをかのころ
 のまだよひの月
 餞遊女
安芸守藤原重輔(中村家蔵)
 たちいづるなみだのかはにおぶねうけてはるかにくだ
 すたびをしぞおもふ
皇太后宮少輔藤原信綱 (関戸家蔵)
 くれなゐのねやに心をとゞめおきてなみぢにかへるき
 みをしぞおもふ
散位源家長 (同家蔵)
 たをやめがおぶねはなみにゆらるともみやこのかぜや
 まちわたるらむ
散位平家重 (中村家蔵)
 ふねのうちみやこのことやしのぶらんつゞみのをとや
 なみにまがへて



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