本宮大社〜那智大社

 本宮からは川舟ならぬ車でR168で川をながめながら新宮に向けて下るのは迷うことはない。新宮市内の道は狭く、那智にかけてのR42号線は曜日や時間帯により以外と車が多い。 

和歌山の街道マップ  http://kanko.wiwi.co.jp/walk/index.html


   速玉大社〜佐野王子  佐野王子〜浜の宮王子  浜の宮王子〜那智大社 

   大雲取越  小雲取越   赤木越   大日越



 ○熊野川                                    

 千数百年ここ大斎原に鎮座していた本宮大社は、明治22年未曾有の大水害で流されてしまった。これは天災ではなく明治に入って木材伐採が原因の土石流と云われている。
 もと熊野本宮大社が鎮座していた音無川と熊野川にはさまれた場所は、現在は音無川は水が無くなり、熊野川は普段は川床が浅く水量も少ない。往古は水量も豊かで清らかな水が流れていたとされる。熊野詣の人々は、本宮へたどり着いたその足で、この川を渡って宝前にぬかずき、夜になってあらためて参拝するのが作法であったと云う。最初の参拝を、濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂、自然の禊をして社殿に額ずいたようだ。
 次の速玉大社へは本宮大社から9里8丁(約36km)の熊野川を4,5人乗りの舟で下り、半日で速玉大社横の川原に着いたといわれている。現在では熊野川沿いに国道168号線が走り、車なら40分ほどで熊野速玉大社に着く。
 新聞によると05年夏から「川の熊野古道」と銘打ち川舟による観光川下りが行われている。道の駅「瀞峡街道熊野川」から「速玉大社裏」まで16km、1時間30分、3900円、予約制

熊野川の川原
南紀の光に眩しい白い川原 狭くなったり広くなったりする熊野川 熊野川

*熊野川でなぜ禊ぎをしなかったか
 熊野参詣途中の川や浜では何度も水垢離がされている。本宮大社の横の小さな音無川には橋もなく(江戸時代には架橋されているが)川を渡ってそのまま社殿に詣でている。なのに清らかな堂々とした熊野川でなぜか禊ぎの記録が見当たらない。
 昭和初期に書かれた宮本常一著「吉野西奥民俗採訪記」に十津川で古老から聞いた話が出てるという(06.12.23産経新聞)。「(十津川筋の)辻堂あたりではずっと以前は死体を川原へ持って出て、砂礫の中に埋め上に小石を沢山のせておいた」と書かれている。また南北朝時代、南朝の長慶天皇は北朝側の攻勢を受け、天ノ川(十津川上流)にて落命、遺体は川に流されたが下流の十津川村河津(谷瀬の吊り橋付近)で郷民がその御首を川底から拾い国王神社の傍らの南帝陵として葬ったという伝説もある。十津川村史の記述に「河原で拾った白い石は家に持ってきてはならない」等々から、十津川には古い時代に水葬の習慣があった事がうかがえる。平安時代にこういう事がされていたと考えれば、極端に穢れを嫌った熊野詣のこと、たとえ埋めてあったとしても、時には増水で死体が上流より流れてくるような川での水垢離は到底できなかったのではなかろうか。

 

 

  熊野速玉大社                                      速玉大社
  目標物=
  駐車場=鳥居の前を右に行

 R168号線からR42号線を左折し熊野川近くの左側。標識があるので迷うことはない。
神倉山の元宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになった。長寛元年(1163)頃に編纂され、熊野に関する最も古いとされる『熊野権現垂迹縁起』は、遷座を行った時を景行天皇58年(128年)としている。『延喜式』神名帳では、本宮は熊野坐神社、新宮は熊野速玉神社と記載されているが、那智神社は式内社として認知されていない。。平安時代までは、熊野速玉神社は熊野坐神社よりも上に見られていて、9世紀半ばから諸国の神々に朝廷から位階が授けられるようになり、神階でも速玉神のほうが、熊野坐神よりも上だった。格差がなくなるのは、天慶3年(940)以降のことだと云う。後鳥羽上皇は本宮へは34回の熊野御幸を行れているが、新宮と那智は15回。新宮と那智を略して本宮だけで熊野御幸を済ませているのを見れば、12世紀中頃には熊野三山の中心は本宮だったことが想像できる。

速玉大社 ナギの木
熊野速玉大社 ナギの木(天然記念物)

速玉神社に神像が七体伝えられている。速玉大神座像、夫須美大神座像、家津御子大神座像、国常立命座像の四体は、紳像の姿が完成した平安前期の作。夫須美大神座像と伊邪那美神座像の二体は、神像として明治30年日本で初めて「国宝」に指定され、残りの五体も明治32年に指定された。
 七体のうち、口髭や顎鬢をたくわえ堂々として家父長的雄偉さを備えた速玉神、麗しく清らかで豊満な体型の夫須美神、髭も生やさず若々しい国常立命の三神は、主神、女神、若宮の構成をなしている。九世紀中頃で時代は離れているが秦氏を租霊紳とした松尾大社の紳像も同じ三神像の構成である。ここに残る速玉大社の三神も、当初はおそらく地域の豪族の租霊紳として作られたものであろうと云われている。 

 


 ○神倉神社                                          神倉神社入り口

 目標物=小学校運動場
 駐車場=入り口の太鼓橋前道路脇に

 R168とR42号線との交差点から確か2つ目の信号を左折、道は思いの外狭く途中で変にくねくねとしている。間違ったところを入っても千穂小学校の運動場を探せばよい。
 古代人が作ったのではと思えるような感動的な石段、それもすごく急だから上るときよりも下る方が辛い。鎌倉積みの石段は538段あるというが、元から在る自然の岩をそのまま階段に利用しているから人により数え方はまちまちと思えるのだが?
 神倉神社は熊野信仰の原点であると云い、熊野三山に祀られている神々は、まず初めにこの場所に降臨したとされている。そのためゴトビキ岩は神々のご神体として長らく齋き祀られてきた。熊野速玉大社の創建は、この巨岩崇拝に起源を有するという。後の景行天皇の時代に、社殿を今の場所に築いて神々を遷した為、速玉大社は「新宮」と呼ばれるようになった。
 毎年2月6日夜行われる御燈祭は、白装束に荒縄を締め、御神火のたいまつを手に男たちが、神倉山から急な石段をかけ下る。若い時に一度参加したことがあるが、後ろの方だからぞろぞろと歩いて降りた。玉垣に閉じこめられてそれぞれの長い鉋屑を付けた松明に火を付けるのだから一面の火の海となり それは参加した者でないと味わえない感動である。

神倉神社 石段 ごとびき岩
石段登り口 これでも階段です ごとびき岩



  阿須賀王子                                        阿須賀神社
  目標物=こんもりした山、阿須賀神社
  駐車場=境内

速玉大社の前の道をR42を横切ってまっ直ぐ進むと途中に丹鶴城の登り口が有り熊野地保育所に突き当たる。ここを回り込むように進むと阿須賀神社。
後ろの山は蓬莱山と言い除福がたどり着いたところと云うだけあって石の「除福の宮」が祀られている。
 除福がたどり着いたと云う伝説からして、熊野と海でつながっている沖縄県の神社のほとんどが熊野神社だというのも何か納得できるような気がしてくる。

阿須賀神社 復元の縦穴住居 丹鶴城
阿須賀神社 j境内の復元した縦穴式住居 丹鶴城天守付近   駐車場

 *中右記
  寅刻出宿所、参阿須賀王子奉幣、廿町許行出海浜、西行廿町許地有翠松列、南見白浪、畳遙見雲水茫々、是日域之南極也、望南面全無別島、 

 


  浜王子                                           浜王子の地図
   新宮市熊野地5158-2
 目標物=
 駐車場=道路脇駐車可

 国道42号線と168号線の合流点信号を海に向かい、大浜海岸に沿ったバス停大浜海岸の近くにあるのだが、阿須賀神社からだと説明がしにくい。古道としての特定のルートは残っていないと云うから、地図で阿須賀神社と浜王子を結んでそれに近い道路が古道らしい。全く無責任(^O^)(^O^)。
 今は面影はないが往年このあたりは松原が広がっていたという。古来から海の神を祀る海浜の宮であったと思われるが、熊野信仰の発展とともに、熊野神の御子を祀る王子社となった。文明五年(1474年)の「九十九王子記」には浜王子と記されているのが初見であるから、海神を祀る古社であった所に熊野信仰が盛んになるとともに若一王子が勧請され、熊野の御子神を祀る九十九王子の一つに加えられたと説明板にあった。
 社殿も当時の王子社としての形をとどめており、王子権現として地元の人は守っている。

浜王子 社殿 広角の一里塚跡(庚申が祀ってある)

 高野坂(古名は荒坂)
次の佐野王子への古道は大浜海岸を歩いたらしいが、車は浜の広い道を進むと跨線橋を渡り少し行き右にENEOSガソリンスタンドの交差点を左折、尾根付近を通っている道を進み小さな交差点を左折して50m程で右に広角(ひろつの)一里塚、そのまま進むと広い道に出る。これを横切り一間道(180cm)を200m程急坂を下るとJR線路そばの駐車場まで行けるがすごく狭いので広い道に車を置いておく方が無難。ここからが高野坂だ。
 山岳コースがほとんどの古道の中で、熊野灘が一望できるポイントとして人気がある。

大浜海岸  地図 自然林の中を行く高野坂
金光神社(おながめ堂址) 石畳

 高野坂は自然林の中を進む道、近年まで使われていたらしく2m程の幅の広い道である。約1.5kmで20分ほどだから歩くことをお勧めしたい道だ。

 *09年11月16日の読売新聞によると、10月8日の台風18号により100本ほどの杉、桧、椎などが倒壊、特に御手洗海岸の上に被害が集中し一時は通行止めになった。うっそうとしていた古道はすっかり明るくなり、元の景観が戻るまで数十年かかるらしい。



 佐野王子                                          佐野王子 
   那智勝浦町佐野字秋津野641
 目標物=ケーズ電気駐車場
 駐車場=王子橋の横にも置けるが、ケーズ電気店の駐車場の方が国道に出やすい。 

 国道から離れて三輪崎の町中を抜ける。所により小さい標識があるのだがここも説明しにくい。ガソリンスタンドのところで再度国道に出て南進、国道の王子橋から東40m程の山側に神武天皇聖跡碑、少し離れて王子址の碑がある。神域一帯は以前は若一王子の森と呼ばれていた。
説明板には「佐野松原の西端、祓川(王子川)の近くにある熊野九十九王子社の一つ」。

佐野王子址 佐野一里塚   地図

  *修明門院熊野御幸記(1472年)
     「次有佐野昼御養事 次参王子」


 浜の宮王子                                          浜の宮王子 
   那智勝浦町浜宮字宮本350
  目標物=補陀洛山寺
  駐車=補陀洛山寺駐車場

 那智駅前のR42から那智の方に入って直ぐ右側。浜の宮王子と補陀洛山寺は並んで建っている。この社殿は拝殿がなく直接社殿前で拝むことが出来る建て方で珍しい。「熊野御幸記に名前は出てこないが、平家物語巻十「惟盛入水」や「源平盛衰記」にその名が見えるので、「此道又王子多御座」と書かれている中の王子に入るとみて間違いがないと和歌山縣聖蹟に書かれている。今では、浜までの間に国道や紀勢線が走っているが、江戸時代には波打ち際まで社地で鳥居は遙か浜辺に立っていた。またここは岩代王子と同様に連書(熊野御幸に随行した人々が、官位・姓名・参拝回数を板に書き社殿に打ち付ける)の風習があった。
 社殿の右に石作りの祠があるのは熊野巡覧記によると、日本書紀に神武天皇に誅たれたとされる丹敷戸畔である。
 補陀洛山寺の住職は年を取ると生きたまま小さな舟に詰められ補陀洛渡海と称し、海に流される捨身行を行った。その数、貞観十年(868)から享保七年(1722)までの九百年近く20数回にわたり行われたと「熊野年代記」に記されている。屋根を取り付けた渡海船が復元され境内に展示している。前後左右を4つの鳥居が囲んでいるのは修験道の葬送作法とか。
 駐車場の南西隅に大辺路・中辺路・伊勢路の分岐の振分石が今も残っている。

浜の宮王子 補陀洛山寺 復元した補陀洛渡海の舟 振分石



 市野々王子                                        市野々王子
   那智勝浦町市野々字遠具地1993
 目標物=森?が見える
 駐車場=直ぐ横にあるが契約駐車場だ

 県道の那智高原への分岐から200m程上手で旧道を右手に入り小学校の手前。
 ここは本来の王子跡ではないようだ。、王子神社横の石垣は、「郷倉」と言い土地の人々が共同で使用した米倉の跡だと説明があるが飢饉のための義倉、社倉の類であろうか。柱を使わず石のみで築いているのは全国的に見ても珍しいらしいとも書かれている。この付近から那智山にかけては田圃や家の周りに石垣が目立つ、チョットした石垣の里。
那智詣の人をあてこんだ市が立ったことから市野々とよばれ、この地区は八咫烏の子孫が住むというから何ともロマンティック。

王子神社 市野々王子 郷倉(ごうくら)



  市野々王子                                        市野々王子
    那智勝浦町市野々字文明岡1869
 目標物=森が見える
 駐車場=なし
 王子神社から100mほどの先の宝泉寺の手前右手に石垣で囲まれた空き地が王子神社のお旅所であり、「お杉屋」とよばれる。右奥に天照大神影向石(ようごういし、神の降臨した岩石の意)がある。和歌山県聖蹟その他の諸書も御幸時代の旧址としているから、どうやらこの地が市野々(いちのの)王子社であったようだ。
 古書に「九月七日、市野々椙屋にて、天照大神の仮殿を杉の葉を以造之、祝の式あり。九日には同所御杉屋御仮殿にて天照大神祭祀あり、玄酒を献す云々。奈良春日大社の御旅所「黒木の松のご殿」の例もあるのではじめから御旅所であったのかもしれぬ。

市野々王子



  多富気王子                                         多富気王子
   那智勝浦町市野々字北多富気438
 目標物=大門坂
 駐車場=県道から大門坂に少し入ったところにある。7〜8台

 市野々王子から約500m県道に出る手前に那智川にかかる橋を二ノ瀬橋、熊野マンダラに描かれている旧跡で御幸時の祓所のあったところ。広い県道に出れば直ぐ左に「大門坂」の碑がある。
 大門坂は江戸時代の石畳ながら大きな杉並木の参道、京洛の地より山川八十里、往古の熊野詣を偲ぶのにこの大門坂くらいは駐車場に車を置き歩いて登りたい。この場合帰りは大門坂までバスを利用してもよい。 
 多富気王子は熊野九十九王子の最終の王子社。県道の大門坂入り口から少し登っていった鳥居の前に、熊楠が宿にしていた遍路宿の大阪屋跡がある。そこから石作りの小さな太鼓橋を渡り進むと道の両側に8m余りの夫婦杉があり、それより50mほどの右側に多富気(たふけ)王子址がある。
 那智山の僧潮崎多富気が設けたことから命名されたとか、今は林の中で見えないが、那智の大滝が拝める(両手を向けてあわせる王子)「手向け王子」から転じて多富気王子と言われるようになったとか。 確かにここから4,5町登った右にある那智の七石の一つ「唐戸石」から大滝が眺められる。
 昔は浜の宮王子から三箇所の関所があり木戸銭を取っていて、この王子社の鳥居前こ三番目の関所があった。一番目の関所は飛鳥神社の鎮座する川関、二番目は青彦神社の鎮座する井関にあった。
 

多富気王子址 瀧を眺める 大門坂の石畳 熊楠が滞在した大阪屋跡

 大門坂の入り口、振が瀬橋手前に「熊楠が3年間滞在した大阪屋跡」と標識がある。この標識のせいか近頃、熊楠が3年間宿泊したと書いているものがたびたび見かけるようになった。那智、勝浦に滞在したのは明治34年10月から明治37年10月までだが、此の間に和歌山に帰ったり田辺に半年間逗留したりしている。又最初勝浦に宿泊していたので、大阪屋に滞在したのは2年間である。
 熊楠は那智時代を回願して「さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ず」と書いている。日記にも幻とうつつの出現の違いを論じたり、自分の首が体を離れ室外を書き留めたりしている。また夢に見たその場所に行ってみると珍しい植物を発見したりする事もあった。


  熊野那智大社                                        那智大社 
 目標物=
 駐車場=滝の入口車道横に10台ほど。更に300m進み古道と交差する直前左側の土産物屋さんは無料で止めさしてくれる。
 
 熊野那智大社の社殿が現在の地に創建されたのは仁徳天皇の御世(317年)といわれている。その後、平重盛が装いを改め、織田信長の焼討、豊臣秀吉の再興、将軍吉宗の大改修を経て現在本殿は国の重要文化財に指定されている。境内に神武天皇東征の道案内をした八咫烏が石に姿を変えたという烏石があり秘祀を行っているといふが、一般には見ることができない。紀州名所図絵には若宮殿の前にあり、長さ一間幅三尺と書かれている。
 「源平盛衰記」の”法皇熊野山那智山御参詣事”の項によると、花山法皇が瀧壺に放った蚫を、後に白河上皇が海女を入れ調べさしたところ、唐傘ほどになっていた。つまり飛龍の水に身にふれれば長寿なると伝えられていると書かれている。
 那智大社・滝を一周するおすすめコースは 車道〜熊野那智大社〜西岸渡寺〜三重塔前〜杉林の中の鎌倉積みの石段〜飛龍神社(滝)〜車道

那智大社 瀧への石段 那智の滝 西岸渡寺裏から大雲取りへ

延喜式神明帳に那智大社の名前がない
 22年を費やして編纂され延長五年(927)に完成した「延喜式神明帳」には朝廷から認識されていた官舎一覧(2861社)が書かれている。ここに記載された神社がいわゆる「式内社」で、平安時代(10世紀)にすでに官社として認定されていた神社であり由緒ある神社だ。延喜式神名帳に記載されていない式外社(しきげしゃ)は、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社、また神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。那智大社は独自の勢力を持っていたのであろうか。

「那智参詣宮曼荼羅」
 庶民に熊野信仰を広めるのに熊野比丘尼の存在は大きい。比丘尼は日本全国を旅し、絵解き図「那智参詣宮曼荼羅」が使われた。日輪、滝、社殿、渡海船などが幻想的に画かれている一方、巡礼の男女、関所破りの男や役人、案内している巫女、龍に乗った童子僧はては食事をしている男が入り乱れて画かれている。まさに性別、貴賤、浄不浄、を問わず何でも受け入れる熊野があるように思われる。


大雲取り (那智側)                                            越前峠   
 目標物=地蔵堂
 駐車場=

 西岸渡寺の裏より一気に登る大雲取、小雲取りのコースは、定家の「熊野御幸記」の中に、輿に乗っての大雲取越はおりからの大雨で、”輿の中海のごとし」とか険しい難所越えの末に、「前後不覚」の文字が見え、当時の人にとってもいかに酷いところであったかが想像できる。熊野御幸初期の頃は熊野川を4,5人乗りの舟で上下していたが、後期になると帰り道として山越えルートが整備され、以後西国参りの道として近年まで使われ続けた。
 車は那智から大雲取りには越前峠のすぐ近くまで行ける。ただ、那智山からだと那智山スカイライン有料道路(800円)から妙法山阿弥陀寺〜那智高原。那智山を通らないコースとして、井関のENEOSガソリンスタンドから県道43を上る、少し遠回りになるが那智高原に直接行ける。
 那智高原からは落石が多い林道約10kmで地蔵茶屋跡、さらに石倉峠と越前峠の中間点まで続いている。ここから越前峠へは歩いて10分強。さらに胴切坂を下れば2時間で小雲取りとの中間点小口に出るが、車は那智〜R42〜新宮〜R168〜神丸小口を60kmをぐるりと回るか、走りにくいが那智勝浦町小坂で右折県道43−−田垣内で右折県道45−−熊野川町樫原で右折県道44−−小口のコースでは47km。

 注意: この付近は携帯はつながりません。

「八丁の掘割」付近 地蔵堂 霧の中の阿弥陀寺

おもしろい話
*ここの有料道路は不思議、那智高原から下ってくる時、料金所の人が居らず「アレッ、無料になったのかな」と出ておみやげ屋さんで聞くと登りの入り口は、駐車場と一緒になっているので500円で入りそのまま駐車場の奥に進めば500円で走れることになる。帰りも駐車場と出口が一緒なので、料金所の人が居らない事が多いので気がつかず僕のように「不払い突破」になることが有るそうです。

*これは皆様に信用してもらえないが、数年前息子が亡くなった翌年、夜中歩くイベントがあり参加した時、受付と班編制で息子の名前で3度も別々の人に呼ばれた。名簿を見せてもらうと間違いなく私の名前がかかれている。それぞれの人が偶然に読み間違えたと言ってしまえばそれまでだが、熊野の山には何かがあるような気がする。

大雲取り (小口側)                                      小口小学校跡 
 目標物= 旧道の橋
 駐車場= 小学校跡の運動場(入り口は狭い)

 写真によく出てくる「円座石」は、小口部落の登り口から標高差があるが越前峠に向かい歩いて20分強。熊野の神様がここに座り、談笑したりお茶を飲んだりしたという言い伝えがあり、熊野三山の阿弥陀仏、薬師仏、観音仏を表す梵字(ぼんじ)が彫られています。読み方は「えんざいし」でも「わろうざいし」でもありません。広辞苑によると藁などで作った円形の座布団を「わろうだ」藁蓋とも書き、古語の「わらふだ」とか「わらうだ」のことばからきているそうだ。紀州方言の”ざ”と”だ”混同して「わろうざいし」が「わろうだいし」となったのでもないようです。
 円座石への往復は夏だと汗でボトボト、タオルを忘れないように。また小学校の運動場に駐車すると、戻ってきたとき学校のトイレ、水道が使えるので着替えには便利。

円座石(わろうだいし) 小口から円座石への登り


 ○小雲取り                                            小雲取越
 目標物=古道と林道が交差している
 駐車場=峠の請川側に「朝日夕陽百選」の公園


 大雲取から越えてきて小口部落から1km程下り、小和瀬橋で赤木川を渡るのが古道だが、車はさらに4km余り下って谷口皆瀬川林道の入り口からのぼる。4m程の舗装道路なれど急カーブの道を上っていくと頂上部で古道と交差する。ここから古道を歩いて登ること1km弱(約20分)で小雲取り一番の見晴らしという「百間ぐら」。
 ここより林道を下っていくと川湯温泉近くの県道にでる。この林道も落石が転がっているので走行に注意。
 

小雲取 百間ぐら
林道と交差付近(霧の中) 百間ぐら


  湯峰王子                                  湯峰王子
   本宮町湯峰11
 目標物=「壺湯」入り口の横から登る
 駐車場=大きな駐車場とトイレがある

 車で小雲取りから来れば川湯温泉街から温泉トンネルを抜けR311を左折し500mほどで渡瀬トンネル入り口手前を右折し旧国道を湯峯温泉に進む。
 明治35年に湯峰が大火災に遇った。それまでは東光寺の右に並んで間口七尺奥行き四尺七寸の祠があったが、今は旧址裏の山の上にある。
鎌倉時代末の正中三年(1326年)の『熊野縁起』に湯峰童子とある。時代が下り、湯垢離儀礼の成立に伴い湯峰温泉で湯水離を取ってから本宮へ参詣するようになったとか書いている本もあるが、ここを熊野九十九王子の1つと考えるのはいかがなものだろうか。
 湯の峯は「旧事本紀(くじほんぎ)」によると、13代成務天皇の代、大阿斗足尼(おおあとたじのすくね)が発見、現在の東光寺に湯屋を建て、本宮大社の潔斎鳩と本宮大社の四月十三日より十五日に行われる大祭の「湯登神事」は宮司以下神職・氏子総代・神楽人・稚児などの諸役が揃って大日越えで湯峰に行き神を降臨させる、これも何らかの関わりがあるのであろう。

玄峰塔 湯峰王子 壺湯 車塚
東光寺本尊は湯の花で出来ている 湯峰王子社 川底のつぼ湯 小栗判官の車塚
石塔は高僧山本玄峰の自筆の碑 湯の峰から本宮への車道沿い

 ○大日越え                                  大日越
 目標物=湯の峰温泉、湯の峰王子
  目標物=「熊野本宮」バス停

 中右記の11月1日に「湯峯の湯」が出てくるが、これは湯垢離でも休息でもなく岩間から湧く湯を神の力と見てそれに触れるため、わざわざ大日越えを往復しているしているようだ。
 この道はどちらから歩いても鼻欠け地蔵を頂点に結構きつい上り下りになるが、1時間弱で熊野古道の雰囲気を味わえる。 

湯の峰からの登り 月見が岡神社 本宮側下り 本宮側登り口
 

 藤原定家の「熊野御幸記」の日程と距離
 鳥羽5日−48.2km船−天王寺6日−23.3km−平松7日−21.0km−信達8日−34.9km−藤代9日−16.3km−湯浅10日−24.2km−岩内11日−15.5km−切目12日−20.0km−田辺13日−31.1km−山小屋14日−18.5km−湯河15日−5.1km−南無房16日−7.1km−本宮17,18日−40.0km船−新宮19日−22.0km−那智20日−19.2km−本宮21日−24.2km−近露22日−80.7km−岩内23日−22.5km−湯浅24日−51.2km−信達25日−?km−皆瀬26日−?km−帰洛27日


 圏外も楽しからずや
 熊野古道が世界遺産登録がされてから、それまで山間部の古道ではつながりにくかった携帯電話がだんだんと電波状態がよくなってきているのは確かだ。
 どこにいても携帯で監視されている生活から、「圏外」という日常から離れた空間が未だ熊野に残されている。「圏外」も熊野の魅力の一つ、電波の届かない環境も是非楽しんで下さい。