京都・出立の地 

  熊野九十九王子としては、大阪天満の窪津王子からだが熊野詣としては、やはり精進をする城南宮からであろう。それに平成の横着者には便利な高速の京都南ICから目と鼻の先にあるところだ、ここから走り出さなければね意味ないよネ。 ジャー出発〜〜ツ (^O^)/~

 *各王子の場所が分かりやすくするため、それぞれにmapfanにリンクした地図を付けています。中心点がその場所で、1/12500にしてるので縮尺で見やすくして見て下さい
 *文は
熊野に向かって右左を表現しています。
 *道路脇は駐車禁止で停車しか出来ないところが多い、なるべく2人で廻られる事をお勧めします。

  ○城南宮
     京都市伏見区鳥羽離宮町7                          城南宮の地図   
  目標物=京都南IC
  駐車=境内に駐車場あり 

 R1号線の京都南ICから南に初めての信号を過ぎ、左側の森が城南宮だ。
 熊野御幸は陰陽師のト占(ぼくせん)により御精進、御進発の日が定められる。まず5日から1週間程の御精進は上皇はじめ随従する人々が魚、肉、葱、韮などを絶ってこもる。鳥羽の離宮で院政を執っていたので、ここの御殿を精進屋に当てここから出発した。この離宮の南殿が名神高速京都南IC近くの城南宮、東殿が白河、鳥羽、近衛の御陵付近、本殿の御堂は安楽寿院の地であるらしい。 
 数日間の精進潔斎の様子は「為房卿記」を見ると、奈良二月堂、お水取りの総別火のしきたりを彷彿とさせる。
 「総別火(そうべっか)」とは修二会に先立ち地上の土を踏むことや私語が禁じられる。本行に備え戒壇院別火坊での起居、入浴して身を清め紙衣(かみこ)に着替え、部屋の入り口にしめ縄を張って結界する。練行衆は大広間を出る際にもぞうりを着用するなど、徹底して身を清めた状態を保って本行の準備を進める。熊野詣でに先立ち厳しい精進潔斎がこの様に行われていたのではなかろうか。
 もしこの間に穢れに触れるようなことがあれば熊野詣では思い留まねばならなかった。中右記の藤原宗忠はこの熊野精進の間に、精進屋に”犬死穢”を引き入れた者があったり、また叔父の死去で喪に服する事になったりで2度も中止している。

城南宮 本殿 熊野詣出立の地

 *「熊野詣出立の地」看板文面
 白川上皇の熊野御幸
 平安時代寛治元年(1086)京の都鴨川水郷の此の地に鳥羽(城南)離宮を造営し院政を執られた 白川上皇は、寛治四年正月を初度として遙か南の熊野三所権現(熊野本宮、速玉大社、那智大社へ参詣せられた。中でも天治二年(1125)十一月の熊野詣では、鳥羽上皇中宮待賢門院御同列の旅で三院御幸といわれた。
 鳥羽離宮の精進屋出立
 白川、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇の熊野御幸はあわせて九十余度を数えるが屡々鳥羽離宮の御殿を精進屋に充て七日程の精進(斎戒)を勤め祓い儀式を修めて出立された。上皇の旅装は立烏帽子、浄衣、白指貫袴、手甲脚絆に草鞋をはき金剛杖を手にされた。
 難行苦行の熊野詣
 鳥羽離宮に程近い鳥羽の湊から舟に乗り淀川を下って難波津(天満橋付近)により陸路、四天王寺を経て泉州、海南を南行、田辺より中辺路を越えて熊野本宮に到達した。往復750キロ凡そ1ヶ月の信仰の旅であり、道中九十九王子社の奉兵幣、川原で祓、海辺で潮垢離、数多くの峠、険阻な峯々を徒歩く難行苦行の道を求められた。三所のお社に参籠経供養を行い神宝を奉納、時には白拍子の舞、歌会を催された。帰りは一路道を急ぎ、先ず鳥羽の精進屋に還幸された。
 蟻の熊野詣
 上皇は圓城寺等の高僧を先達に任じ陰陽師を伴ない側近の公卿、殿上人等の供にし、北面の武士達を従えて参詣せられた。やがて公卿、女房武士にとどまらず庶民に至るまで男女を問わぬ熊野詣が流行し、「蟻の熊野詣」といわれる程に盛んになったのである。      城南宮

  城南宮の珍しい御紋章
 城南宮のご神紋は三光の紋といい、非常に珍しい形をしている。神功皇后の御旗に描かれた紋にちなんで、日(太陽)と月と星を組み合わせた紋章とか。昼と夜を照らす太陽と月、方位の導きとなる星と、方除(ほうよけ)のご神徳を象徴するご神紋と言われている。

  熊野参詣道はいつ開通
 大化の改新後、大化5年(649年)初めて熊野の参詣道を作ったことが記されているようだが,これは京都からではなく大和から紀ノ川を下り熊野の入り口に当たる「牟漏の湯」への道で、和歌山市からは後の熊野参詣道に重なる。

 水無瀬神社                  水無瀬map
  目標物=R171「島本大道」交差点を右折、踏切を渡り右折れ(案内標識あり)
  駐車場=鳥居横にあり

 城南宮よりR1号線を1km余り南進、「大手筋」交差点を左折、府道13号を5kmほどで京滋バイパスをくぐると御幸橋に達する。この付近が加茂川、宇治川、木津川が合流し、昔の川原を偲ばせてくれる広い茂みが見られる。御幸橋手前の京滋バイパスに並行した天王山大橋を渡り、大山崎ICの所から左折。この付近は高速、新幹線、JR、私鉄が絡まるように通って今も交通の要所。R171号線を3km弱で島本大通り交差点、右折れガードを潜りすぐ右折れ(小さい標識がある)100mのT字路を左折れ、100mで右折れすぐで水無瀬宮。
  水無瀬神社の祭神は後鳥羽上皇。承久の乱で敗れた上皇を弔うため、上皇が愛された水無瀬離宮の跡に水無瀬信成が建てた御影堂が始まりと言われている。

水無瀬神社 宮前橋より下流を望む   淀川浸水区域

 左端の「淀川浸水域」の地図は宮前橋の堤防で見つけました。これを見ると、かつての湿地帯が想像できます。(クリックすると大きくなります) 

 

 

大阪市内の王子 

 熊野街道は上町台地の北端から大阪市内を南下していく。堺市と大阪市の間を流れる大和川は300年前の河川付け替えまでは柏原市から北に向かって流れ、大阪平野の東半分は湿地帯で京都からだと窪津王子は上町台地が半島状になった先端にあったのだ。


 
   


 窪津王子
   東区石町                       八軒家船着場跡   坐摩神社行宮の地図
 目標物=八軒家船着き場跡は永田昆布店(土佐堀通)、
 駐車=ナシ、停車しかできません。

 上皇達は数日間の禊ぎをすました後出立式を執り行い、鴨川・桂川の合流付近「鳥羽の湊」から約半日かけて大坂天満まで舟で下った。
 京阪天満橋駅の道を挟んだ前、永田屋昆布店の店先に江戸時代の八軒屋船着き場跡の碑がる。御幸時代もこの付近で船を下りたらしい。ここから西100mほどの御祓筋の交差点に熊野街道の碑がある。王子の旧址はその西側100m程の所、神功皇后鎮座石のある坐摩(いかすり)神社行宮(あんぐう)がそうだとする説もある

熊野街道の出発点 店先の船着場跡(標柱)
 

  熊野かいどう 碑の文面
 『熊野街道はこのあたり(渡辺津・窪津)を起点にして、熊野三山に至る道である。京から淀川を船で下り、この地で上陸、上町台地の西側、脊梁にあたる御祓筋(おはらいすじ)を通行したものと考えられ、平安時代中期から鎌倉時代にかけては、「蟻の熊野詣」と云われる情景が続いた。又、江戸時代には、京・大阪間を結ぶ三十石船で賑い、八軒の船宿があったことから「八軒家」の地名が生まれたという。
                            平成2年  大阪市 』                                                

京阪天満橋駅(中央)を天神橋から望む 坐摩(いかすり)神社行宮   頑丈に囲われた神功皇后鎮座石

 この熊野かいどう顕彰碑を南に曲がると、唐楓の並木が続くだらだらと本町台地に登っていく。これが熊野街道の出発点、御祓筋と呼ばれる道である。ここから熊野街道を車で走ろうとすれば途中から谷町筋に出て・天王寺・あべの筋、堺市に入って府道30号線、泉佐野から府道64号で和泉砂川に南下し高速道路沿いに雄山峠を越え和歌山に向かっていくことになる。



 坂口王子
   東区神崎町                       坂口王子跡の地図  坂口王子伝承地   
 目標物=南大江公園の南西角
 駐車=道に停車

 御祓筋を南下すると中大江公園を過ぎ南大江公園の東側に至る。公園の西南角に朝日神明社跡(坂口王子伝承地)の碑と説明板があるが、坂口王子は道の南側のキリスト教会のある場所らしい。タヌキ坂も元はこのキリスト教会とビルのあいだを通っていたという。写真右の道は松屋町につながる道で、歩道は階段になっているほどの急坂だ。

坂口王子伝承地の碑 左が石碑、右の鳥居は狸坂明神 キリスト教会付近が旧社地

 御祓筋をそのまま南進していくと間もなく道をふさぐように祀っている「エノキさん」で道は階段になって車は行き止まり。熊野街道は手前の小さな交差点を東に折れる安堂寺通りだが車は一方通で東進できないので、少し戻って南大江公園の南東角から東進し少しクネクネとして長堀通に出て谷町5丁目交差点に出なければならない。

御祓筋はエノキさんで車は行き止まり 地図 大阪人の心のこもった?標識  



 コウト(郡戸)王子
   南区高津町1番地                高津宮の地図
 目標物=
 駐車=ナシ、裏門付近に停車

 ここは王子社趾ではないし、仁徳天皇が民の竈の煙を眺めた場所でもない
 本殿左側の小祠が地主の神である比売許曽社が郡戸王子であると云うが合祀されたものだ。標高から云ってもこの付近は少し下がっているから、おおかたの説はここより300mほど東、近松門左衛門の墓近くにあったと云う。
 仁徳天皇を祀る高津宮は元は大阪城の場所にあったが築城で移転してきたもの。ちなみに先の窪津はこの高津に対しての呼び名と云う。

高津宮裏口 高津宮




生玉神社
目標物=                         生玉神社の地図
 駐車=正面参道駐車余裕あり
 高津宮の正面から生玉神社は歩けばすぐだが、車は谷町筋に出て「生玉南」交差点を右折し、昼間から呼び込み盛んなホテル街を回らなければならない。

生玉神社 境内からホテルの看板が

 生玉神社本殿の右を裏側に回れば急な崖状になっていて、ここが上町台地と云うことがよくわかる。



 上野王子
   天王寺区上之宮町6-1               上之宮ハイツの地図
 目標物=上之宮ハイツ
 駐車=ナシ、停車
1.四天王寺の東、国分町熊野神社の址地に3m余りの碑があるというが見つけられなかった.
2.上之宮町上之宮ハイツ(上之宮町4)の玄関にある碑は、西側町角付近の池の側にあったもの。おおかたはこちらを王子址としている。
 上野王子が合祀されている大江神社は谷町筋に面した大阪星光学園の北側の道を入る、この付近に藤原家隆が嘉禎2年(1236)に夕陽庵(せきようあん)をもうけたところから夕陽丘と呼ばれるようになり大江神社に碑が建てられている。今は木々で見通しはきかないが、西側は海食崖を物語る急崖で、かつてはここから眺める夕陽は見事なものだったことが容易に想像できる。ここは高津神社や生国魂神社と並んで、高台にある見晴らしの良い場所、大坂の海を見渡せる三大眺望ポイントの一つだったが、其の後海岸が遠ざかり崖下付近は近世に吹きだまり状態の街になった頃もあったと云う。
 ついでだから横の勝鬘院(しょうまんいん)愛染堂は車が止められるので文禄3年(1594)に建立の多宝塔(重文)を見ておこう

上之宮ハイツ 上之宮ハイツ玄関前の碑 愛染堂の多宝塔




四天王寺
                           南大門の遥拝石地図
 目標物=谷町筋左側
駐車=南門駐車場(有料)

 間違って四天王寺の北門?から入ってしまった。境内にはお墓参りや工事関係の車が多かったが、境内は広く止めることができた。帰りに気が付いたのだが、どうもこの辺は関係者が駐車するところだったらしい。お賽銭をちょっぴりフンパツしておいたので無料で止めた事、佛罰を当てないでね〜(^O^)(^O^)。
 谷町筋の四天王寺前交差点を左折すると西門、一方通行をそのまま塀沿いに進めば余り広くはないが南門前駐車場がある。
 窪津王子から天王寺に至る熊野古道の経路は諸説がある。明治末年頃まで阿部野橋北側に八軒屋から一里の地点で一里塚があったことからして、上記の上野王子址は江戸時代の官道谷町筋から東にずれている。御幸時代の古道は少し東にカーブしていたのだろう。
 仁王門と南大門のあいだに熊野遙拝石がある。これは戦災の整理の時たまたま見つかったものという。鳥居のある西の門は日想観(じっそうかん)の適地として平安・鎌倉の昔から難波の海に沈む夕日を拝み、西方極楽を思慕したのに対し、いつの時代からか南の門は熊野に通じているとしたのだろうか。
 593年推古天皇の時代、聖徳太子により建てられたもので、堂塔の位置は創建当時と、ほとんど変わり戦後再建されている。西門石造鳥居は、永仁(えいにん)二年(1294)建立の寺内最古のもので、ほかに本坊方丈・六時堂など元和(げんな)九年(1623)の建立のものが残っている。


四天王寺 熊野遥拝石



 阿倍野王子
   阿倍野区元町9の4             阿倍野王子の地図
  目標物=
  駐車=ナシ、あべの筋通りに停車するしかない。
  四天王寺の駐車場から、前の道を横切るように南進、2本目の通りは西向きの一方通行で谷町筋「四天王寺南交差点」に出る。交差点を左折して100m程の右側の堀越神社に、窪津王子が末社として祀られていると言う。
 阿倍野王子は街の喧騒が嘘のように静かな境内には大きな楠が3本もある。大阪府下で旧名で平安時代から元の場所にある王子はここだけ、今のあべの筋に面しているのは王子社の東面で境内を抜けた西側に熊野街道の碑もあり正面である。阿倍野清明神社は熊野街道を北に100m程の所にある

阿部野王子神社 熊野街道側が正面

 説明版には九十九王子の第二王子社と書かれているが本来は第四王子である。天王寺公園に隣接する堀越神社に窪津から第一王子が移ってきて合祀されている。これより南の王子には数字が付けられているのは見ない。



住吉大社
                            駐車場(有料)    境内駐車場
 目標物=
 駐車=駐車場(有料)、境内にもあり 

 府道30号線の「播磨町」交差点右折し1.5kmで路面電車の走っている「塚西」交差点を左折し1kmで住吉大社。最初に駐車場の標識があるが、ガードマンが居る時は結婚式などがあり停めることが出来ない。鳥居を通り過ぎ100mほどの所に有料駐車場がある。
 熊野御幸は住吉大社に立ち寄り和歌を捧げる慣わしであったらしい。神宮皇后が海神である底筒男命を祀ったのが創祀とされ、航海安全・和歌の神として崇敬されたからであろうか。
 梁塵秘抄365番「我が子は二十になりぬらん 博打してこそ歩くなれ 国々の博党に さすがに子なれば憎かなし 負いたまふな 王子の住吉 西の宮」 この今様からすれば住吉も王子社?

           住吉大社 太鼓橋

 大阪府下では紀州街道は住吉街道とも呼ばれ、大阪湾岸沿いに秀吉の頃整備された新しい道に対し、山側を通っている熊野古道は小栗街道街道と呼ばれている。和歌山県内では江戸時代に整備された道を熊野街道、古い道と思われる裏道は小栗街道と数十年前まで呼ばれていたが、近頃は後世の江戸時代に整備された道も”熊野古道”と表示されている。



 津守王子
   住吉区墨江東町                 墨江小学校の地図
 目標物=清明学院高校、墨江小学校
 駐車=道路
 目標物=沢ノ町駅 止々呂支比売命神社
 駐車=ナシ 

住吉大社からだと正面鳥居前から住吉大社に沿うように東に行くと熊野古道に合流しR479号線に出るが横切ることが出来ないので、長居公園に向かって東進して南海線の踏切を渡りあべの筋を右折して南下500m余りで右側に止々呂支比売命(とどろきひめのみこと)神社が見えすぐに再び南海線を渡る。100m程の交差点を右折し右側の一方通行の道を北進。この道は熊野街道で途中左側に得生寺の角に説名板をはめ込んだ石碑がある。更に進むと左に清明学園、右に墨江小学校である。王子の標識は見あたらない。

 住吉名所図絵などには津守寺南門外に津守王子(住吉王子)が描かれていて、津守寺は明治元年に廃寺となり旧地は墨江小学校の敷地となったという。津守王子があった場所の字名は古地図では「新宮」になっているようだ。
沢ノ町駅の南150m右側の止々呂支比売命神社を津守王子とする説もあるようだが、いずれも熊野街道に沿っているのでこの付近だ。

得生寺付近の熊野街道 市内には同じ銅版が街道沿いにある    止々呂支比売命神社  地図